日本人の伝統では「知」とは過信するするものでも全否定するものでもない。道理と道義心に基づく「良識」によって統御し、正しく活用すべきものである。これは反知性主義とも知性至上主義とも異なる「中正=中道(道に中る)=適正」な「知」の捉え方だと思う次第である。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月4日
「「禁断の果実を食らうな=知恵をつけるな、愚かなままでいろ」というトーラーの猶太宗教思想」と書いたが、神話では「神」と「人」の関係だが「神」を「主人」「人」を「奴隷」と言い換えると、そのまま「支配」の論理となる。猶太基督教的な論理に縛られた「猶太批判」とはマッチポンプでしかない。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月4日
例えば法律の勉強で、Aさんが憲法を勉強しBさんは民法を勉強しているとして、AさんがBさんに「お前は民法ばかり勉強して憲法を隠蔽している!」と言うとしたら馬鹿げているであろう。憲法も民法もそれぞれ重要である。二択ではない。陰謀追及における「思想」の分析と「権力集団」の分析もこれと同じ。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月4日
某氏が言いたい事は要するに「お前らは小賢しい事は言わんでよい。黙って自分の言説=ドグマを受け入れればよい。」という事である。そして人々を特定の思考の鋳型にはめ込んで思考に限界線を設け囲い込む。後は某氏の掌の上で踊らされる訳である。モノの見事な思想工作の手順ではないか。やはりプロ。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月4日
情報としては某氏の論説も参考にはなるだろう。それは某氏に限らずあらゆる人の論説に言える事である。「論説を丸ごと鵜呑みにせず、参考に出来る部分は参考にする情報のフグ料理人」という考え方は以前示した通り。だが某氏の異常性は他者の言説を曲解した上で自説を丸ごと扶植しようとする事である。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月4日
富永仲基が批判した仏教だが、仏教自体も本来知性的な実践哲学なので後世どんなに宗教的要素が付加されても基督教のように完全な「宗教」になる事はなかった。日本に宗派仏教が定着しても倶舎論や唯識という哲学を学ぶ伝統が残ったのである。日本浄土教の祖とされる源信は一面では倶舎論の学者だった。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月5日
感性的な要素と知性的な要素がバランスを取りつつ継続してきたのが我が国の知の伝統だと思う。我が国の知の伝統が西洋のように反知性主義にも知性至上主義にも偏らずに済んだのはドグマを持たないアニミズムの土壌の上に仏教が定着したのも大きいと考察する。江戸時代以降は儒学の合理主義も広まった。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月5日
自然や人情に感動して歌を詠むような感性的な要素と南都において哲学と論理学を研究し続けるという知性的な要素が相互に否定し合う事無くいい塩梅に共存してきたのが我が国の伝統文化のあり方だと考えている。西洋のように反知性主義と知性至上主義が相互に抗争するような不毛な事にはならなかった。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月5日
「知」を嫌悪する基督教系論者にはこういう考察が衒学的に映り目障りなのだと思われるが、陰謀追及は一面自国の文化をしかと把握する事でもあるので(憑依型戦術による文化改竄工作に対抗する為にも何が本当の伝統かを知る事が必要)、このような考察も重視しているのである。権力集団の分析はまた別。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月5日
「あれか、これか」ではなく「あれも、これも」が日本人的発想だと思う。あれもこれも参考にするが、どれか一つを盲信して偏る事は無い。勿論個人単位ではどれか一つを選ぶ人は多いが、それでも全体としてはバランスが取れており共存している日本の歴史。無理矢理二択を迫る態度はどうも受け付けない。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月5日
西洋人は日本人が神道も仏教も大事にする態度が理解できないとするが、日本人にとってはごく当たり前の事である。この態度が可能なのは例え何かを信じていても、それが一つの世界観モデル(観念モデル)に過ぎない事を自覚しているからだと思う。この構えが根底にあるのでは。https://t.co/foJ99GIAuM
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月5日
「あれも、これも」なら何故「基督教も」とはならなかったのか。それは副作用が激しく「あれも、これも」の枠組み自体を破壊してしまうからだろう。戦国時代にはキリシタンは神社仏閣の完全破壊という前代未聞の事をした。キリシタン神学の影響を受けて教義を作った平田派は明治初頭に廃仏毀釈をした。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月5日
以前の菊地さんのご指摘通り、キリシタン麻生の地位は高いようですね。
↓https://t.co/TwTSwwJGg4
— なのぱぱ (@nananonopapa) 2017年12月5日
仰る通りだと思います。大久保利通・牧野伸顕という薩摩閥・親英派重臣の系譜を引く「サラブレッド」でイエズス会宣教師に洗礼を受けた「現代のキリシタン大名」という立ち位置はかなり「高位」だと見ています。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月5日
言葉=ロゴスは「神」とする基督者的解釈。つまり言葉の「表現」と「意味」の結びつきを絶対視している。実際には言葉の意味は使う者の与える定義や文脈によって変わる。価値中立的な意味で便宜上「陰謀論」と表現する場合もある。しかし「GOY」には明らかに「蔑視」のニュアンスが込められている。 pic.twitter.com/JnRLY7r8NE
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月6日
廃仏棄釈最低だ。日本の建造物や文書等が破壊された。ユダヤは破壊の民族。関わるな。
— NW (@Pi4759AsdlMuM1g) 2017年12月6日
旧約聖書にエリヤという預言者が異教徒を大量虐殺する話が描かれているようです。ヘブライズム(猶太思想)の根底にある排他独善性を示していると思います。この排他独善性は基督教にそっくりそのまま受け継がれています。当然キリシタンにも。その影響を受けたのが廃仏毀釈を行なった平田派です。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2017年12月6日
パレスチナにいる原ユダヤ人でなく、中央アジア出身の白人ユダヤ人はまさに、破壊の魔。危険極まりない・・・
さらにユダヤ教というか旧約聖書そのものが、抹殺皆殺し教。こりゃ~民族の故郷失うよな・・・
菊池先生のツイートお見事。
>例え何かを信じていても、それが一つの世界観モデル(観念モデル)に過ぎない事を自覚しているからだと思う。この構えが根底にあるので
江戸までは、そういう考えも持てた・・・
でも今は、学校・マスコミ・会社等でそれが攻撃され、壊されつつある。
>それが一つの世界観モデル(観念モデル)に過ぎない事を自覚
であることに気が付かないことが、最大の「鳥かご」だったのである。
まだ「天皇制」という死の籠からまで抜け出せず、放射能・日本阿呆帝国に殺されつつある日本人・・・
お読みくださりありがとうございます。
うごいとーと・・・・。
何が うごいとーと? でしょう。
・・・キリシタン麻生の地位は高いようですね。
この際
宗教界・政界も土俵の外で・・・
「のこった、のこった」が見られたら・・・
妄想です。
>
>うごいとーと・・・・。
>何が うごいとーと? でしょう。
>
>・・・キリシタン麻生の地位は高いようですね。
>この際
>宗教界・政界も土俵の外で・・・
>「のこった、のこった」が見られたら・・・
>
>妄想です。
>
どうなるかな・・・・・
悪貨は良貨を駆逐する。とは言いますが、その悪貨を使う社会は、良貨を使う社会よりも早く駆逐される・・・。
アソウさんのバックは、九州財閥と耶蘇のようで、薩摩が半英国植民地だから・・・
面倒くさいですよね・・・
書き込みありがとうございます。
同感。
中国人は、日本人に感化され、日本人も、中国人に感化される。って旨い事いけばいいと思います。
日本人は、戦略や「権威を疑う」ってことが、弱すぎる。
中国人は、「マナー」や「隣人を大事にする」ってことが、まだ弱い。
相互に、いいところを学べば、良いのですけどね・・
書き込みありがとうございます。