忍者ブログ
故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/05     04 < 10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  > 06
Admin | Write | Comment
P R
読めないニックネーム より

上記文抜粋
・・・・・・・

ルイ16世(フランス語: Louis XVI、1754年8月23日 - 1793年1月21日)は、ブルボン朝第5代のフランス国王(在位:1774年5月10日 - 1792年8月10日)。ナバラ国王としてはルイス5世(バスク語: Luis V.a)。ルイ15世の孫。王妃は神聖ローマ皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘マリー・アントワネット。

初勅で今後デフォルトしないと宣誓したが、1775年7月に減債基金を停止させた。もっとも、テュルゴーとネッケルは初勅に従い巨額の借換債を発行した[1]。

在位中の1789年にフランス革命が起こり、1792年に王権が停止し、翌年処刑された。フランス最後の絶対君主にしてフランス最初の立憲君主である。1791年憲法に宣誓して以後は、称号は「フランス国王」ではなく「フランス人の王」となる[2]。
在位 1774年5月10日 – 1792年8月10日
戴冠 1775年6月11日
於ランス・ノートルダム大聖堂
別号 アンドラ大公
全名 Louis-Auguste
ルイ=オーギュスト
出生 1754年8月23日
Royal Standard of the King of France.svg フランス王国、ヴェルサイユ、ヴェルサイユ宮殿
死去 1793年1月21日(満38歳没)
Flag of France (1790-1794).svg フランス、パリ、コンコルド広場
埋葬 1815年1月21日
Flag of the Kingdom of France (1814-1830).svg フランス、サン=ドニ、サン=ドニ大聖堂
配偶者 マリー・アントワネット
子女
一覧参照
[表示]
王朝 ブルボン朝
父親 ルイ・フェルディナン・ド・フランス
母親 マリー=ジョゼフ・ド・サクス
宗教 キリスト教カトリック教会誕生

1754年8月23日、父ルイ・フェルディナン王太子、母マリー=ジョゼフ・ド・サクス(ポーランド王(兼ザクセン選帝侯)アウグスト3世の娘)の三男ルイ・オーギュストとして誕生。ベリー公となる。1760年9月8日、ヴォギュヨン公爵が家庭教師となった。1761年の復活祭の日、兄ブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフが結核で死亡し、1765年に父の死によりフランス王太子()となった。
婚姻

長年敵対してきたブルボン家とハプスブルク家の間の和議を結ぶため、オーストリアのマリア・テレジアにより娘マリア・アントーニア[3]とブルゴーニュ公ルイ・ジョゼフとの政略結婚が画策されていたが、1761年のルイ・ジョゼフの死去により1763年5月、ルイ・オーギュストとの結婚の使節としてメルシー伯爵が大使としてフランスに派遣された。結婚の反対者であったルイの父が1765年に死亡した後の1769年6月、ようやくルイ15世からマリア・テレジアへ婚約文書が送られた。1770年5月16日、ヴェルサイユ宮殿にて王太子ルイ・オーギュストとマリア・アントーニアの結婚式が挙行され、王太子妃はマリー・アントワネットとなった。
即位
ルイ16世

1774年5月10日にフランス国王となり、1775年、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行なった。

1775年5月、パリで食糧危機に対する暴動が起き、ヴェルサイユ宮殿にも8千人の群集が押し寄せた。この際、国王はバルコニーに姿を現し、民衆の不満に答えている。

1777年4月、ルイ16世は先天的性不能の治療を受けた。その甲斐あって1778年には長女マリー・テレーズ、1781年長男ルイ・ジョゼフ(夭折)、1785年次男ルイ・シャルル(後のルイ17世)、1786年次女マリー・ソフィー・ベアトリス(夭折)が誕生する。
政治改革

ルイ14世、ルイ15世の積極財政の結果を受け継いだため、即位直後から慢性的な財政難に悩まされ続けた。それにも関わらず、イギリスの勢力拡大に対抗してアメリカ独立戦争に関わり、アメリカを支援するなどしたため、財政はさらに困窮を極めた。海軍力の整備に力を入れ、シェルブールに軍港を建設した。一方でローヌ男爵にして学者ジャック・テュルゴーや銀行家ジャック・ネッケルなど、経済に詳しい者を登用して改革を推進しようとした。また1780年には拷問の廃止を王令で布告するなど、人権思想にも一定の理解を示している。1783年には名士会の開催と三部会招集の布告を行なった。少なくともルイ16世は政治に積極的に関わり、フランスの変革に努力を注いでいたのである。しかし「高等法院なしに国王はない」とのモールパ伯の進言により、ルイ15世が弱体化させた高等法院を1774年に復活させたことにより常にその抵抗に遭い、改革は妥協を強いられ抜本的な変革には至らず、また財政の決定的な建て直しには及ばなかった。保守派貴族は国王の改革案をことごとく潰し、結局改革は挫折した。

なお、アメリカ独立戦争を支援したことから、「アメリカ建国の父」たちにはルイ16世に崇敬の念を抱く者が多かった。
革命
パリへ帰還するルイ16世

貴族層に対抗する窮余の策として招集した三部会は思わぬ展開を見せ、平民層を大きく政治参加へ駆り立てたことで、結果的に1789年7月14日のバスティーユ襲撃に始まるフランス革命を呼び起こした。国王衣装係のリアンクール侯爵から報告を受けたが、日記には「なにもなし」と書いて寝てしまった[4]。国民議会の封建制廃止などの要求に対して、ルイ16世は「余は決して、余の僧侶たちと余の貴族たちを剥ぎ取られることに同意しないだろう」と強硬な姿勢を崩さなかった。10月、20万人の群集によるヴェルサイユ行進に際しては、議会の代表団に際して食糧の放出を裁可している。この後「国王万歳」、「国王をパリへ」の叫び声が上がり、パリに連行されることになる。

ルイ16世は本心では革命の進展を望んでいなかったため、1791年に家族とともにパリ脱出を企てたが、ヴァレンヌで発見され捕らえられた(ヴァレンヌ事件)。ルイ一家はただちにパリへ護送され、以後テュイルリー宮殿に軟禁された。

1792年6月、オーストリアなどによる対仏戦争の最中、デュムーリエは国防大臣を辞任する際、宣誓忌避僧に対する法案に拒否権を行使し続けるルイに対し、「僧たちは虐殺されるでしょう。そしてあなたも…」と語ったが、これに対してルイ16世は「私は死を待っているのだ。さようなら。幸せでいるように」と述べたという。6月20日、群集がテュイルリー宮殿に押し寄せた際、そのリーダーが王に誠意ある態度を求め、幾人かが槍を王に向け振り回した。喧騒の中、彼は「余は憲法と法令が、余に命じていることをしているにすぎない」と冷静に述べ、威厳を示した。その後8月10日事件で王権が停止され、国王一家はテュイルリー宮からタンプル塔に幽閉された。
国王裁判から刑死へ
最後の証言に立つルイ16世
ギロチンで処刑されるルイ16世。左は知己である死刑執行人、シャルル=アンリ・サンソン。(1798年の画)

幽閉されたルイ16世は家族との面会も叶わず、名前も「ルイ・カペー」と呼ばれ、不自由な生活を強いられることになる。その間(1792年後半)、国王の処遇を巡って、国王を断固として擁護するフイヤン派(および王党派)、処刑を求めるジャコバン派、裁判に慎重なジロンド派は対立し[5]、長々と議論が続けられていた。膠着状態の中、11月13日、25歳の青年サン=ジュストが、人民が元々有していた主権を独占した国王は主権簒奪者であり、共和国においては国王というその存在自体が罪として、個人を裁くのではなく、王政そのものが処罰されるべきであると演説[6]し、共和政を求めるものの国王の処遇は穏便に収めることを希望したジロンド派を窮地に陥れた[7]。

1793年1月15日〜1月19日、国民公会はルイ16世の処遇を決定するために四回の投票を行った。投票方法は、指名点呼という方法で行われることが事前に取り決めされており、各議員は登壇して意見を自ら表明する必要があった[8]。第一回投票では、まず「国王は有罪であるか否か」が問われて、各議員(定数は749)は賛成693対反対28(欠席23・棄権5)で有罪を認定した[9]。ジロンド派が公会の判決は人民投票で可否を問われなければならないと主張していたため、第二回投票では、「ルイに対する判決は人民投票によって批准されるべきか否か」が問われ、これは賛成292対反対423(欠席29、棄権5)[10]で、ジロンド派の予想に反して否決された[11]。

そして、第三回投票では、「ルイは如何なる刑を科されるべきか」という刑罰を決める投票が行われ、初めて賛否では決まらない意見表明の投票となった。集計したところ、「無条件の死刑」が387票で最多となり、ただしこのなかにはマイユ条項つき死刑というものが26票含まれていた[12]。次いで「その他の刑」が334名で、内訳は鉄鎖刑2名、禁錮刑かつ追放刑[13]286名、執行猶予付き死刑46名であった[14]。387対334(欠席23・棄権5)で死刑と決まった[9]。第四回投票では、死刑延期の賛否が投票されたが、賛成310対反対380(欠席46・殺害1・棄権12[15])で、これも70票差で否決され、即時の死刑執行が決まったわけである。

死刑に賛成した387人の内26人は執行猶予を求めており、この26名を死刑反対票に加算するとすれば、賛成361対反対360となり、1票の僅差で処刑が確定した[9][16]


という説明がしばしばなされるが、上記のようにこれは間違いである。執行猶予付きを含む死刑に賛成した票の総数は433で、執行猶予を反対票に含めて賛成387対反対334であり、マイユ条項や執行猶予を除いても、単純死刑361と死刑以外288の差は73票もある。またマイユ条項は執行猶予とは異なり、同じに扱うことはできないし、死刑に反対していたととらえることは全くできない[17][15]。マイユ条項支持者のなかで第四回投票で延期に賛成した議員は1人もいなかった。そればかりか第四回投票では(執行猶予付き死刑以外の)その他の刑を支持していた者の中からも22名は延期反対の方に寝返った[14]。王政復古では、この裏切りを含めた455名の国民公会議員が大逆罪と認識され、まだ生存して国内にいたものは追放された。

1793年1月21日午前10時22分、シャルル=アンリ・サンソンの執行により革命広場(現コンコルド広場)でギロチンで斬首刑にされた。これに先立って、革命前に「人道的な処刑具」としてギロチンの導入が検討された際、その刃の角度を「斜めにするように」と改良の助言を行ったのはルイ16世本人だった。

大デュマは処刑当日の様子を次のように記述する。

朝、二重の人垣を作る通りの中を国王を乗せた馬車が進んだ。革命広場を2万人の群集が埋めたが、声を発する者はなかった。10時に王は断頭台の下にたどり着いた。王は自ら上衣を脱ぎ、手を縛られた後、ゆっくり階段を上った。王は群集の方に振り向き叫んだ。「人民よ、私は無実のうちに死ぬ」。太鼓の音がその声を閉ざす。王は傍らの人々にこう言った。「私は私の死を作り出した者を許す。私の血が二度とフランスに落ちることのないように神に祈りたい」。

死後

遺体はまず集団墓地となっていたマドレーヌ墓地[18]に葬られた。後に王政復古が到来すると、新しく国王となったルイ18世は私有地となっていた旧墓地[19]を地権者から購入し、兄夫婦の遺体の捜索を命じた。その際、密かな王党派だった地権者が国王と王妃の遺体が埋葬された場所を植木で囲んでいたのが役に立った[20]。発見されたルイ16世の亡骸は一部であったが掘り起こされ、その22回目の命日である1815年1月21日、歴代のフランス国王が眠るサン=ドニ大聖堂に妻マリー・アントワネットと共に改葬された。
子女及び子孫

ルイ16世には妻マリー・アントワネットとの間に上記の通り、長女マリー・テレーズ、長男ルイ・ジョゼフ(夭折)、次男ルイ・シャルル(後のルイ17世)、次女マリー・ソフィー・ベアトリス(夭折)の4人の子供(2男2女)がいたが、いずれも子供を残さなかったため、直系の子孫は存在しない。
評価
Edit-find-replace.svg この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2012年9月)
Text document with page number icon.svg この節で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。ご存知の方は加筆をお願いします。(2012年9月)
斬首後、革命派によって民衆に示されるルイ16世の首
同じく民衆に示されるルイ16世の首

ルイ16世は「狩猟と錠前造りが趣味で妻マリー・アントワネットに操られる無能な王」、「国民の境遇に心を悩ませる心優しい王」という2つの相反する評価を受ける。とくにシュテファン・ツヴァイクの伝記小説『マリー・アントワネット』においてルイ16世を暗君として描いたイメージが広く知れ渡っている。現代のフランスでもニコラ・サルコジ大統領が「私は宮殿で錠前作りに明け暮れる暗君のようにはならない」とルイ16世を無能な政治家の譬えとして発言している。一方、2008年にジャン=クリスチャン・プティフィスが『ルイ十六世』で彼の政策を膨大な史料を元に紹介したところ、ドミニク・ド・ビルパン元外相(サルコジの政治的ライバル)などフランスの政治家が同書を取り上げ、ルイ16世を高く評価した。

当時のフランス国民(パリ市民)にヴァレンヌ事件までは絶大な人気を得ていた。当時の財政難はルイ14世とルイ15世の放漫財政も一因であり、財政再建のための改革にルイは積極姿勢を示したが、途中で挫折した。

ルイ16世は、国民の良き支配者、理想的な国王を目指した啓蒙専制君主であった。農奴制の廃止、プロテスタントやユダヤ人の同化政策などをすすめ、科学や地理探検にも理解があり、その支援者であった。さらに三部会召集も第三身分をもって第一身分、第二身分の特権を突き崩そうとしたものであった[21]。当時、マリー・アントワネットが数々のスキャンダルで世間を騒がせていたにも拘わらず、国王の威信が地に堕ちるということはなかった。人々は良き王の統治を求め、実際1789年の三部会開催に際し寄せられた数々の意見は、良き王への陳情という形式がとられていた。

「のちに革命への対応に失敗したからといって、さかのぼって無能の烙印を押すことは避けたほうがよい。とくに欠陥のある国王というわけではなかったろう。ただ、変動期に決断をせまられたときに、強力な指導力を発揮できるような人ではなかった。政治感覚がひどく鈍かったわけではないが、ありていにいえば優柔不断だったのである。」(福井憲彦)

後のロシア革命に直面したニコライ2世と同様に、平穏な時代であれば国王としては平凡な人生を送れたかもしれないが、革命という動乱の時代に国王となってしまったことが悲劇であったとも言える。


・・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり

ルイ16世は、太陽王といいながら一種の暴君でもあった14世や、放漫財政を止めれなかった15世の負の遺産を清算しようとしても、為し得なかったのが、敗因。

それで革命をされるのは、真っ当なことだが、処刑に関したら、どうもやり過ぎだったと言い得る。

まあ貴族どもは結構逃げたので貴族の逃げ得ってことで、耶蘇金と一部貴族の利権のためにころされってことかも。



革命が正当とはいえ、処刑が正当とは言い得ない。


とはいえ、それが政治でもある。


貴族・教会を「洗濯」しなければ、国家はもたなかった。

ので、革命というどんでん返しを喰らったが、その報いはおおくの貴族や教会も受けたが、それは自業自得だった。

国民を食わせれない為政者たちは、速やかに退任するか追放か死しかない。


とはいえ、この革命には、不純なモノ・革命を煽った勢力に、いかがわしいモノを感じる。


革命政権の無能と混乱がそれの間接的証拠・・・。


劉邦・光武帝・唐太宗・・てまでいかなくても曹操や劉備に朱全忠もみてもわかるが、革命後に庶民を食わせるのが、革命政権の仕事なので・・・


ルイ16世の追放は、冤罪ではないが、処刑は冤罪だった。処刑は、フランスを混乱させるためだった・・かも。


仮説以前の妄想でしょうけど。



お読みくださりありがとうございます。
PR
Comment
Name
Title
Mail(非公開)
URL
Color
Emoji Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
Comment
Pass   コメント編集用パスワード
 管理人のみ閲覧
『ナポレオン帝国』の露払い
  • from ローレライ :
  • 2016/06/22 (13:44) :
  • Edit :
  • Res
『ナポレオン帝国』の露払いがフランス革命。『スターリン独裁』の露払いがロシア革命。
Re:『ナポレオン帝国』の露払い
2016/06/22 16:12
>『ナポレオン帝国』の露払いがフランス革命。『スターリン独裁』の露払いがロシア革命。

ですよね。


書き込みありがとうございます。
<< BACK  | HOME |   NEXT >>
Copyright ©  -- 渾沌堂主人雑記~日本天皇国滅亡日記 --  All Rights Reserved

Designed by CriCri / Material by White Board / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]