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http://8706.teacup.com/uedam/bbs/12372 より
上記文抜粋
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日本人の知力のピークは三歳
投稿者:ウエダ
投稿日:2013年10月 1日(火)21時49分0秒
こんばんは、皆さん、植田です。
非御用学者さんのツイッターから。https://twitter.com/Fibrodysplasia
傑作なつぶやきがありました。
* 「Fibrodysplasia ?@Fibrodysplasia 3時間
大学生は将来への希望を失っている。実際、客観的に見ても、彼らに希望はない。大半の大学生の学力水準は、進学校の中学生以下。中学卒業程度だ。この労働力の質で、人生をわたっていけるとは思わないし、彼らも学力を伸ばすことを諦めている。頑張っても進学校の中学生に敵わない。長生きに意味はない」
* 「Fibrodysplasia ?@Fibrodysplasia 3時間
続)そう考えると、被曝を避けて人生をエンジョイせよ、というのは強者の理屈なんだろう。今の大学生に被曝を避けよとは言いづらい。将来がある大学生は少数なんだろう。そもそも日本の大学に来ている段階で負け組みだと言えるだろうし。おそらく、3歳くらいが人生の絶頂期だったんだろう。」
素晴らしい認識です。
やっとここまできましたか。
日本の大学に入った時点で、負け組み、と。
その通り!!
やっとわかったか、てなもんです。
いや、そこがわかっただけでも、3.11の効果は絶大でした。
東大の学者たちが、率先してウソをつきまるのを日本人の全員が目撃してきたこの2年半でした。
日本国の若者たちの全員が、その嘘つき学者をこの国の学問の鑑と仰いで、日夜、勉学にいそしんでいます。
したがって、日本の大学に入った時点で、負け組み決定!! と。
今後、この認識が、日本人の共通のコンセンサスになっていくことでしょう。
日本の教育界の崩壊です。
すでに学校給食では、日本人の頭ではなく、若者たちの肉体の将来を消しています。
これが、律令官僚(文科省)に私たちの教育の監督権を委任した結果です。
いや、私には委任した覚えもありませんが、私たちは、生まれたときから、すでに官僚統治の社会にいます。それが、この国に生まれてきたことの宿命です。
で、傑作はここです。
人生のピークは3歳。
「おそらく、3歳くらいが人生の絶頂期だったんだろう。」
あっはっはっは、ですね。
いや、まったく。
その通りです。
律令教育を受けてしまうために、せっかく自然理性に生まれついた、そのキリストの力も、変形されてしまいます。
シュタイナーによれば、生まれたときから3歳までは、すべての子供にキリストの力が働いています。
ハイハイから立ち上がること、歩き始めること、話し始めること、等々。
3歳を過ぎてからは、キリストの力が消えて、人為的な教育が子供を育成します。
日本人の場合は、ここから律令教育がスタートします。
その最初は、二項関係に入らされることです。
自我意識に気がつく前に、日本人は、自分の意識をデカルト流の形で自覚できないように、変形されてしまいます。
その結果、どうなるか?
みうらはいじさんのツイッターがここを見事に説明しています。
https://twitter.com/mimurahaihai
* 「ウム クルトゥム ?@Mydxb 21時間
個としての主体性が無い... 「私は~する」が無いんですよね。「~さん達が~する」「~さんが~と言っている」「~さんの本には~と書いてある」と言う人が多いのと同じですね。「ではあたな自身はどう思うんですか?」に答えない」
* 「Haiji Mimura ?@mimurahaihai 21時間
そう、この日本人の主体性のなさこそが問題です。主体性を持たさない教育をして、社会制度を作って、行き着くところまで行ったのが、他人に無関心な東京の姿だと思います。RT @Mydxb @fortunata23yu 個としての主体性が無い... 「私は~する」が無いんですよね。」
そうなることの原因が、3歳の時点から始まる日本語の一人称教育です。
「二項関係」ワールド。
ここを抜け出さないことには、何も始まりません。
すべての日本語のつぶやきは、愚痴になるだけです。
相手の立場を忖度(そんたく=相手の立場を推し量ること)して、揶揄するだけに終わります。
相手の立場を推し量ること、これが日本人の思考の慣習の中で最も強い思考癖です。
そのように意識が動くように、3才から教育されます。日本社会の全体が、よってたかって、そのように仕向けます。
ここら抜け出すには、どうしたらいいか。
幸い、今では、3.11があります。
日本人は、いかなる人であれ、それぞれに対応を余儀なくされます。
その対応の中から、自然理性に向かっていく少数の人たちも出てくることでしょう。
あきらめたら、そこでお終いです。
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抜粋終わり
森へ行こう より
上記文抜粋
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「命を大切にするとはどういうことか」
真っ白いキャンバスを「自由に描いていいよ」と与えられた時、どうしていいのか分からずそれを苦痛に感じる人と、「やったー」と喜ぶ人です。
前者は、マニュアルを求めたり、他の人の絵を真似するでしょう。でも、それでは「自分の絵」が描けないので、人真似をして一見「上手な絵」が描けても、いつまでも絵を描くことに喜びを感じることが出来ません。自己肯定感も持てません。
ただ辛い作業になるばかりです。
それなら、後者の人なら喜びと自己肯定感を持つことが出来るのかというと、そこに現実的な問題があります。
日本の社会では、「自分らしい絵」を描く人より、「上手な絵」を描く人の方が評価されるからです。
そのため、自分らしい絵を描こうとする人は否定、非難されます。
そして、絵を描くことに自信と喜びを失っていきます。
それでも私は、「上手な絵」を描くことより「自分らしい絵」を描くことを勧めます。なぜなら、それこそが自分が生まれてきた意味であり、生きている証だからです。
そして私はそれが「命を大切にする」ということなのではないかと思っています。
世間一般的に「命を大切にしよう」と言うときには、「死ぬな」「殺すな」というようなことばかりが言われます。
でも、本当の意味で「命を大切にする」ということは、「死ぬな」「殺すな」ではなく、「しっかりと生きろ」「共に生きろ」ということなのではないでしょうか。
私は、教師やマスコミが「しっかりと生きる」とか「共に生きる」という視点を抜きに、「命の大切さ」を説くことに非常に強い違和感を感じるのです。
それは、「中味」よりも「容器」や「ラベル」を大切にする考え方です。
でも、教師もマスコミもそのような視点からしか「命の大切さ」を扱いません。自分たち自身が「命」を大切にしていないことが明らかになったり、話が深入りすることを恐れているからでしょうか。
そのような視点で見ていくと、現代社会は「命を大切にしない社会」です。「しっかりと生きる」とか「共に生きる」ということが大切にされていない社会です。
子ども達は「子どもらしさ」を奪われ、ゲーム機を与えられ去勢されています。生き物たちも「生きる場」としての自然を失い、自分らしく生きることが困難になっています。
だから、本来は山で暮らしている熊が人里に降りてきてトラブルを起こしたり、世界中の生き物たちがどんどん死に絶えているのです。
直接的に殺してはいなくても、生きることが困難な状態に追い込んでいるのなら、それは殺しているのと同じなのに、そこは保護活動を行うなどのきれい事で何とか誤魔化します。
自殺に関しても、子どもや多くの人を自殺に追い込むような学校や社会の状況の方は問題化せずに、「いのちの電話」などを開設したり、「自殺を止めよう」というスローガンだけは積極的に流します。
そこには見栄や体裁ばかりを気にした「きれい事」があるばかりです。
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抜粋終わり
ウエダさんと森の声は、同様なことを言っている。
私は、ウエダさんよりも森の声さんの意見に傾斜してますが、やはり
「素晴らしい認識です。
やっとここまできましたか。
日本の大学に入った時点で、負け組み、と。
その通り!!
やっとわかったか、てなもんです。
いや、そこがわかっただけでも、3.11の効果は絶大でした。
東大の学者たちが、率先してウソをつきまるのを日本人の全員が目撃してきたこの2年半でした。
日本国の若者たちの全員が、その嘘つき学者をこの国の学問の鑑と仰いで、日夜、勉学にいそしんでいます。
したがって、日本の大学に入った時点で、負け組み決定!! と。
今後、この認識が、日本人の共通のコンセンサスになっていくことでしょう。
日本の教育界の崩壊です。
すでに学校給食では、日本人の頭ではなく、若者たちの肉体の将来を消しています。
これが、律令官僚(文科省)に私たちの教育の監督権を委任した結果です。」
には、賛同します。
要するに、「ドロップアウトした人間の方が、正気だ」という私の仮説通りに思う。
日本の既存の教育は、あまりに無理をしないと、人間が壊れる。
無理を通したら、生き物のとして「日本人」として日本では「まっとう」に生きれそうに思えても、実は、天地の道理・世界基準から見たら、「狂人」になるのである。
読んでいただいてありがとうございます。