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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
国際秘密力研究 より

上記文抜粋
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欧米の「積極思考」思想と仏教・唯識の違いについての考察及び「魔術」を無効化する最強の心理防御術について。

〇願望を達成しようとする方向性と渇愛を捨棄しようという方向性なのでニューソートや引き寄せの法則と仏教・唯識では方向性が真逆である。マインドフルネスも渇愛や執着の克服は除外する。初期仏教や上座部仏教でも「潜在煩悩」という事を言うのでこれは実質的に唯識の「種子(しゅうじ)」と同じ。

〇「欲望達成に執着するから苦(dukkha)が生じる。よって執着・渇愛を制御すれば苦が軽減する。」が「四諦」であるし、老子は「(天地は)故意に生きようとしないから長生する」という事を言っている。願望達成に執着し過ぎる新約聖書、ニューソート、引き寄せの法則とは発想の根底が全く異なると思う。

〇ニューソート等では「良い考えやイメージを持つ」事を主張するが、仏教では「想(イメージ・表象)」は「受(感受)」と同様に渇愛を引き起こす原因になるので警戒する。仮に良いイメージでも、それによって貪りが生じるなら苦の結果を招くので良いイメージだろうとそれに執着する事を戒めると思う。

〇眼耳鼻舌身意(認識器官)が色声香味触法(認識対象)に接触(触)する事で感受作用(受)又は表象作用・思考作用(想・識)が生じ、そこに「渇愛」や「執著」が生じ「苦」に帰結する。「よい思考」でも「よいイメージ」でも、ましてや「願望達成のイメージ」でも執着する事自体を戒めると思われる。

〇仏教では「良い思考」も「良いイメージ」も「意」が「法」に接触して生じる認識作用として「眼耳鼻舌身・色声香味触」という五感の感受作用と同様の構造として捉え、「渇愛」「執著」が生じる原因と分析するのが特徴である。良い(悪い)思考・イメージもモノと同じく渇愛(貪欲・憎悪)の対象となる。

〇連続リプライになってしまったので、せっかくなので一本のスレッドとしてまとめてみた。憑依型戦術で付会される事がある「ニューソート」や「引き寄せの法則」と仏教や唯識の違いについては前々から言及しようとは思っていたが、きっかけがなかったので、そのきっかけを頂き感謝致しますm(_ _)m

〇考察の続き。「悪いイメージ」は勿論だが「良いイメージ」も故意に持とうとすると思考と妄想が膨れ上がって「貪り」「怒り」「不安」等の感情が制御しきれないくらい増幅する可能性がある。執着し計らいをするから不安や動揺が生じる。執着しなければ不安も動揺もない。有心と無心の違いと言えよう。

〇「積極思考」思想では「良いイメージ」が事を成就させるとするが、「良いイメージ」に執着せずとも事を為す原因と条件を整えれば自ずと結果は生じる。生じなければその時にできる事をすればよい。表象に拘り過ぎると執着や妄想が増大する。宗教的熱狂が厄介なのは膨れ上がった表象の体系だからである。

〇ニューソートや引き寄せ、マインドフルネスに共通するのは功利主義性。西洋近代思想は功利主義や欲望の拡大志向と骨絡みになっているのである。「少欲知足」という発想はない。プロテスタントの「世俗内禁欲」にしても、それによって金を儲けて、それを「救済の証」とし「死後に救済される為」である。

〇思想ツールは「表象や概念で感情を煽る」という単純な仕掛けである。「良いイメージ」で欲望を喚起するか「悪いイメージ」で憎悪を喚起するかである。後者には不安や動揺、恐怖なども含まれる。謂わば「嫌なものを拒絶する感情」である。工作員が絵図を多用するのも効果的に感情を煽れるからだろう。

〇何かを認識すればそこに感情が生じる。感情が生じれば何らかの反応を示す。思想工作者は何かを認識させ意図する感情を生じさせて反応・行動を操作しようとする。よって何かを認識した時にはその認識自体と認識から生じる感情に気を付ける。「怒り」等は客観的に観察しただけで弱まり、消える事もある。

〇「気付いている事」は五感及び表象・思考から侵入してくる情報に対して、その影響を自分に受け入れるか否かをチェックする門番の如きものである。仏教で言う「念(sati)」。眼耳鼻舌身意という六つの門・関所を守る門番である。これが機能していれば感情に飲まれる事も他人から洗脳される事も無い。

〇西洋の「積極思考」思想では「成功や欲望達成のイメージ」を持つと成功や達成を「引き寄せる」とするが、東洋では老子(無為自然・無欲を強調)のように固執したり作為的な計らいをしない方が事は上手くいくという考え方が伝統的に根強い。どちらが理に適っているかは個々人が自ら確かめる他はない。

〇魔術が「五感・表象・思考を通じて他者を支配する技術」だとすると、眼耳鼻舌身意から侵入する情報をチェックする「気づいている事」は最強の魔術防御法だと言える。「魔術師」と言えども標的の五感を通してしか影響を与える事はできないので侵入経路を門番によってガードされていれば何もできない。

〇「魔術師」がハッカーだとすると「気づいている事」は「ファイアーウォール」みたいなものである。それのみならず一端誘導的に生じた「憎悪」などの悪感情を「気づく」事で弱め消してしまうので「ウィルス対策ソフト」の役割も果たす。「魔術・魔法」を防御するには「心術・心法」が有効だと考える。

〇仏教の八正道の中に「正思惟」(正しい思考)というのがある。具体的に言うと出離思惟・無瞋思惟・無害思惟。つまり、貪欲と怒りと害意のない思考である。「悪い思考を持たない事が正しい思考」という引き算的発想である。積極的に「良い思考」を規定しようとする西洋の足し算的発想とは性質が異なる。

〇「慈悲」はまずもって「憎悪や害意を持たない事」と規定される。積極的に慈悲を発揮するにしても憎悪や害意を制する事が前提となる。そういう基礎が無い「愛」は押し付けになりがちで相手から期待した反応が得られないと容易に憎悪に転化する事もある。慈悲は憎悪の制圧が前提なのでそうはならない。

〇「引き算」系と「足し算」系の違いについては以前言及した。参考まで。
「このように東洋思想と西洋神秘主義の発想の違いを判別する指標の一つとして「引き算か、足し算か」がある。グノーシスは「神を知る=認識する」事即ち「神の知識を得る」事が最大の目標である(神秘的主知主義)。仏教の「智慧」は「渇愛を滅する事」である。足し算と引き算の違いが明瞭だと言えよう。」
https://twitter.com/kikuchi_8/status/957667808782856193

〇何故思考や感情に気づき観察すると弱まるのかと言うと心理のメカニズム上2つの事に同時に集中する事はできないからだと思われる。思考や感情の観察に集中すると、思考や感情自体には集中する事が出来ず、弱まったり消えたりするのだろう。この心理のメカニズムは洗脳防御法として応用できると考える。

〇「認識を認識する」作用を唯識では「自証分」と言うようだ。主観(見分)が客観(相分)を認識する事を認識するのが「自証分」で自証分をさらに認識するのが「証自証分」とされる。現代の心理学で言うと認知を認知する「メタ認知」に相当する。己の思考や感情を観察する事もメタ認知の一種だと言える。

〇「自証分」とほぼ同義。対洗脳防御でも重要な能力。引用:メタ認知(メタにんち)とは認知を認知すること。人間が自分自身を認識する場合において、自分の思考や行動そのものを対象として客観的に把握し認識すること。それをおこなう能力をメタ認知能力という。【メタ認知】https://ja.wikipedia.org/wiki/メタ認知

〇千数百年も前に「メタ認知」を「自証分」として取り出していた瑜伽行唯識派の洞察力に驚く。古いからと言って神秘主義などでは全くない。古代の実践的な心理学である。古代的限界もあるが、現代でも十分活用できる学問と言える。あまり知られていない日本の伝統知の一つでもある(法相学と言われる)。

〇原始仏教などで言う「(欲望・感情を)制する」とは単に抑圧する事ではない。それだと反動が来る可能性がある。欲望・感情を抑圧して深層心理に押し込めるのではなく、欲望・感情の対象と欲望・感情そのものを対象的に観察し「執着するに値しない」と洞察し「厭離」「遠離」し「離貪」する事である。

〇だから欲望・感情の制御には「観察」が重要になってくる訳である。これも対洗脳防御法に応用できる考え方・心理的な技術である。五感で感受した情報とそれに伴う表象・思考を客観的に観察し悪影響を遮断する。影響が深層心理に定着するほど除去が困難になるので弱く小さい内に遮断する事が重要である。

〇唯識の「阿頼耶識縁起」のモデルで考えると整理し易いと思う。阿頼耶識縁起とは「表層心理での認識や行為が深層心理に影響し、深層心理に定着した影響力(種子)が機縁を得て表層心理に現れ再び現実の作用を為す」という循環的な相互因果関係の事である。悪影響は深層心理に刷込まれる前に遮断すべき。

〇戦国武士が常在戦場の心構えで油断なく身を守るように、眼耳鼻舌身意・色声香味触法という「六つの門」から悪影響が侵入しないように常に自らの心を守る事が「気づく事」である。戦国武士だった鈴木正三が言ったのはまさにこれだと思われる。洗脳科学などの「魔術」を無効化する技術として活用できる。

〇眼耳鼻舌身意が色声香味触法に接触し認識作用が起ってから妄執や執着が生じる。妄執や執着は主に「貪欲」「憎悪」である。「魔術師」も標的に①何かを認識させ②欲しがらせるか・憎ませるかして③反応・行動を誘発させる。認識作用で止めて妄執や執着が生じないように気を付ければ操作・誘導されない。

〇戦国時代の「伴天連の魔術」とは当時の西欧の科学技術や宣教師が身に着けていた論理学・修辞学・詭弁術などと解釈できる。キリシタン大名は鉄砲の火薬の原料である硝石や貿易の利など「貪欲」を煽る宣教師の「魔術」に篭絡された。宣教師は「異教徒」への「憎悪」を煽り寺社の破壊などの蛮行を唆した。

〇謂わばキリシタン大名は宣教師の心理操作術に篭絡された。イエズス会宣教師やマラーノ商人が運んでくる南蛮の品々に目がくらみ(眼が色と接触し渇愛が生じた)、キリシタンの教義を刷り込まれて日本の伝統への「憎悪」を抱き(意が法(宗教教義も含む)と接触し渇愛が生じた)領内の寺社を破壊した。

〇「眼耳鼻舌身意・色声香味触法を通じて他者に影響を与え支配する技術=魔術」と定義したので、その具体例として戦国時代の宣教師とキリシタン大名を挙げてみた。キリシタン大名が宣教師に洗脳される過程も「六つの門」を通してなのが分かる。具体的には南蛮の品々は眼・色で、基督教義は意・法である。

〇何かを認識させて「欲しい」「憎い」「怖い」「不安だ」等々の感情を生起させて行動を操るのが「魔術」の基本パターンだと分析する。※「欲しい」だけではなく「破壊したい」も「渇愛」なので「渇愛」には「貪欲」も「憎悪」も含まれる。「恐怖」なども憎悪と同じく「嫌な対象を拒絶する感情」である。
〇「悪影響は深層心理に刷込まれる前に遮断すべき」と書いたが、「遮断」とは感覚そのものを遮断する事ではなく(感覚そのものは感覚の対象があって感覚器官が機能していれば意思に関係なく働く)、感覚から生じる「貪り」「憎しみ」「恐怖」などの感情を増大化しないように気を付けるという意味である。

以下は補論。

〇眼耳鼻舌身意・色声香味触法と便宜上分けられているが、眼耳鼻舌身という五感が働いている時は意という思考作用も同時に働いている。意が機能してないと注意が向かないので「見れども見えず」という事になる。また意は五感の対象を概念的に把握する。例えば「丸い赤いそれ」を「りんご」として認識。

〇人間は感覚の対象を大抵概念的に認識している。見たもの聞いたものについて「これは〇〇だ」と概念的に判断している。これを廣松渉という哲学者は「対象の二肢的二重性」と呼んだ。感覚的所与(眼耳鼻舌身の対象)と概念(意の対象)で二肢である。認識対象はこの二肢が不可分の二重構造になっている。

〇以上のように認識対象の面で二肢的二重性があるが、認識主体の面でも二肢的二重性がある。眼耳鼻舌身意の意はそれが置かれた環境の影響を被る。例えば日本人の意と米国人の意では使う言語も文化的環境も違うので、全く同じ働きをする訳ではない。日本語話者と英語話者では当然「意」の働き方が異なる。

〇認識主体の二肢的二重性とはある具体的な個人AがいるとしてAが置かれた環境による影響でその環境特有の自己形成をしているという事である。日本人である太郎が日本語話者として自己形成している場合は「太郎+日本語話者」という二重構造になっている訳である。これが認識主体の二肢的二重性である。

〇認識主体の二肢的二重性と認識対象の二肢的二重性の計四肢による連関構造が「四肢的構造連関」という廣松の認識論である。謂わば主体も二重、客体も二重であり、その各々の項はそれ自体で成り立っているのではなく、あくまで関係の項としてのみ存立できる関数的構造である。関数と縁起は意味が重なる。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/960568569967734784

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抜粋おわり


私は基本的には菊池さんの意見を是とするが、あえて「引き寄せ法則も少しつかわざろうえない」と思う。
あるいは「ニューソート等では「良い考えやイメージを持つ」」の即後に、それを全部洗い流すようにするのが肝心と思う。

今の日本は、あまりに人の尊厳を踏みにじるのを当然な教育なり思想ばかりなのである。

参考 
人格を壊して遊ぶ…日本で「いじめ自殺」がなくならない根深い構造 戦争中の全体主義を超えている…

いきなり「こだわらない」をしても、それでは日本の凶悪な状態では追いつかない。

だが、でもこの「ニューソート等の引き寄せの法則」とかの信奉者が多いセレブ・成功者の日本の今の悲惨な状況を見ると、「成功」したあと、その欲心を掃除せずドンドン邪悪に・傲慢になって、部下を、顧客を、他の日本の人々を、経済的に食い散らし、自らも破滅し、やがて死に至る様を見ると、到底この「引き寄せの法則」をお勧めはできない。

しいていうならば、この手のをして「悪い思い・悪い考え」を「良い考え・良い思い」を重ねてから即それを全部善悪共に破砕する・執着しないようにする。
てのが、無難であろうか。

「良いイメージ」にとらわれることの危なさを、禅宗や王陽明が「金粉は貴重なモノだが、目に入ると、目を病むことになる」と言っているとおりである。

また、王陽明は
「すでに悪念がされば、それは良い状態なのだよ。さらに良い念を浮かべるのは、ちょうど太陽が燦々と輝いている空の下で、蝋燭の火をともす必要があるかね」といっている。

最終的には
あの空虚を見とおす者は、その空虚な心に光明がさしこみ、福善の幸いもその静かな心に集まってくる。」というのだから。


追記

イメージ法なり瞑想法で、「自分の心・中身が、どんどん空になる・・・悪いイメージ・思い込み・洗脳がなくなる」とイメージして、そこの荘子の言う「幸いの光」があふれているのをイメージする。
てのが良いかもしれない。

あまり「幸いの光」てのを意識してもなんだが、優しく暖かい光が自分のココロと体を満たすようにイメージする。

この「光」は、王陽明の辞世の言葉で
「私の心は光明に満たされているので、特に言い残すことはないよ」
という中の「光明」であろうと思う。
空海がよく書いている「大日の恵光」と同じように思える。特にその「光」を意識しなければ。

ニューソート等では、その光のこだわり過ぎる。「一粒の光子」とかいって、過剰に気にする。

それでは、まだ執着が強い。それでは「光と闇」の変な分別が残り我欲・執着に引きずられる。唯識思想でいう「最後に残るのは、意識の光だけ」っていう風にならない。

でも、この私の荘子・王陽明・空海の説を勝手にパクった方法は、結構マシに行けると思う。

誰か検証してくれ~。


お読みくださりありがとうございます。
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