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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
戦闘教師「ケン」 激闘永田町編  より

上記文抜粋
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日本の鵜飼いと中国の鵜飼い

「働き方改革」を象徴するものとして鵜飼い文化が挙げられる。現代日本では、鵜を用いた漁法は完全に伝統芸と化し、いまや観光者向けのショーとなっているが、中国では現役の漁法で、むしろ「効率が良い」と評価されているらしい。こう言うと、「日本と中国では市場環境が全く違う」という脊髄反射が返ってきそうだが、まずは何が違うのか見てみよう。

日本の場合、鵜使いが10羽ほどの鵜をヒモで繋いで漁をさせ、採れるだけ採らせて鵜が厭きてきて効率が落ちると、漁を止めて帰還し、鵜たちに餌を与える。採るのはアユに限られている。

中国の場合、鵜はヒモで繋がれず、自由に漁をし、鵜使いのところに戻ってきて魚をはき出すと、鵜使いはその場でその鵜に餌を与える。しかも、捕ってきた魚の種類や大きさによって餌の種類や大きさが異なる場合もあるという。つまり、市場価値の高い魚を捕ってくると、鵜がもらえる餌も良いものになる。結果、士気の高い鵜は、もっと餌をもらおうと、より良い魚を求めて潜ってゆく。ところが、この方法の場合、サボる鵜や、一匹持ってきただけで満足してしまう鵜がいるため、鵜使いは棒で鵜を小突いたり、水面を叩いて脅したり、餌を見せたりして、何とか鵜を働かせようとする。面白いのは、鵜の中には魚を捕っていないのに鵜使いに餌をもらおうとするものがおり、鵜使いが誤って餌を与えると、真面目に仕事している鵜が怒って鵜使いをクチバシで突いて抗議するのだという。

蛇足かもしれないが、解説しておこう。
日本の鵜使いは、鵜を管理さえしていれば、鵜が勝手に魚を捕ってきてくれるが、「それだけ」の話で、漁の成果は漁場の質と鵜の素質と気分に左右されてしまう。鵜に対する扱いはみな平等で、漁の成果に関係なく餌を与えられる。非常に社会主義的だ。そして、日本の鵜匠は鵜たちから好かれ忠誠を得ることが求められる。「鵜との信頼関係」「家族的雰囲気」が重視される。

これに対して、中国の鵜使いには、高度なマネジメント能力が求められる。獲物の種類を見て、鵜に評価を下し、適切な報酬を与えなければならない。また、働かない鵜に対しては罰を与えたり、報酬をちらつかせて何とか働かせるように仕向ける必要がある。どこまでも自由主義的というか資本主義的だ。そして、中国の鵜匠は高いマネジメント能力を発揮しないと務まらない。「公正な評価」と「信賞必罰」が重視される。

確かに見た目的には、中国の鵜漁は「非人道的」かもしれないが、果たしてどちらの鵜の方が「幸せ」なのだろうか。少なくとも、日本の鵜漁がビジネスモデルとして絶滅した一方、中国のそれはいまだ現役であり続けていることは、正当に評価されてしかるべきだろう。

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抜粋終わり


>そして、日本の鵜匠は鵜たちから好かれ忠誠を得ることが求められる。「鵜との信頼関係」「家族的雰囲気」が重視される。

ふと思ったのが、絶対的な忠誠心を基礎の割に、首に輪を付けてヒモで管理する日本のやり方は本当はその忠誠心自体を疑っているし、あてにしてない。


過剰に「忠誠心」を要求するやり方・社会主義って、本当は忠誠心など無く、ただ恐怖と洗脳で支配して、挙句効率が悪いだけでないのか?

この鵜飼いの方法・思想と、日本の雇用の方法・思想がそっくり。

全部が全部日本のやり方が悪いわけではないが、あまりに「個の意思や個の欲求・必要性」を無視していて、息苦しく・さらに効率も悪い。


>鵜使いが誤って餌を与えると、真面目に仕事している鵜が怒って鵜使いをクチバシで突いて抗議するのだという。


とんでもない話の飛び方だが

光武帝と建武二十八宿伝 より

上記文抜粋
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あるいは税金を減らすように求めた郷里の老人の態度も興味深い。
 建武十九年(西暦43年)九月、劉秀は父の劉欽が県令を勤めた南頓県に行き宴会を開き、税を一年免除した。すると南頓の長老たちは昔話を始めて、ここは陛下ゆかりの地ですから、税を十年免除して欲しいという。
 劉秀はこれに対して驚き、さらに深刻な顔で、
「天下の重大さにいつも自分では不足ではないかと恐れて一日一日努めているのに、遙かに十年などどうしてできよう」
 といった。これを見た長老たちはすぐに劉秀のわざとらしい演技を見破り、
「陛下は実は惜しんでいるだけでしょう。何を謙遜ぶっているのですか」
 とつっこんだのである。これを聞いた劉秀は大笑いして、一年プラスすることにしたのである。「一年でどうじゃ」「十年ください」「じゃ二年にしよう」と、まるで市場の値切り交渉のような愉快な会話であるが、ここにも劉秀が相手を対等に見てボケて見せたことがわかる。

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抜粋終わり

>これを見た長老たちはすぐに劉秀のわざとらしい演技を見破り、
「陛下は実は惜しんでいるだけでしょう。何を謙遜ぶっているのですか」
 とつっこんだのである。

これの突っ込みと、鵜の鵜飼いへの突っ込みが、なんとなく似ているところがあるように思える。

お互い「対等」の面があるから、管理・マネージメントも難しい面があるが、それだけ鵜も忠誠心ではないが応えてくれる。

日本の社会主義的なやり口は、使う側と使われる側に圧倒的な差がある。

そう神聖天皇制のような・・・・

鵜飼いの命令に絶対だから、鵜は抗議どころか、危険の警告やいい漁場の可否のなにも示さない。



社会主義的でも、鵜と鵜飼いが対等な面が日本式では少ないのであるから、「首輪をつけてひも付きで漁をする」のだ。
で挙句に効率が悪い。


なにか、雇用というかそういう形の人間関係を、日本社会は考え直した方がいいのではないのかな・・・。


お読みくださりありがとうございます。
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