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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
孔子は、「視覚障碍者」を丁寧に扱い大切にした。

あとその人たちが大多数の「音楽家」も、大切に扱った。


のに、今の保守は「音楽は軟派」「文化は贅沢」「障碍者は、社会のお荷物で、福祉を削れ」のようなことをいう。

保守でなく、ただの「銭の亡者」に過ぎない。


読めないニックネーム より

上記文抜粋
・・・・・・・・・


 【本題】
  過去記事で「真言宗はキリスト教ネストリウス派だよ詐欺」について多少、言いやしたが、今回は詳しめに補足しときやす。
 一神教では、絶対に人間は神の領域に至れねえし、神との一体化もダメですぜ。 人を神格化したら神が複数になっちまって一神教じゃなくなっちめぇから、これを破ったら一神教ではありえねえし、仮にあるとしても完全に異端になっちまうんでさァ。
 国家神道や大本教やなんかの和風キリスト教はよお、一神教を完全に維持してやがる正当なキリスト教からすりゃ、完全に異端なんでございやすが、支配されるこちとらにとっちゃ、なんちゃら組に支配されるか、かんちゃら組に支配されるかのに違いでしかねぇんで迷惑な話でさァ。
 
 ヤハウェっていう、セトとバアルとアトンを足して三で割ったような唯一神を信仰するなら、十戒を守らなきゃなんねえ。
特に一つ目は絶対守らなきゃ一神教じゃねえですぜ。

 十戒
①俺のほかに神があってはならねぇ 。
②おめぇの神、主の名をみだりに唱えてはならねぇ 。
③主の日を心にとどめ、これを聖としな。
④おめぇの父母を敬え。
⑤殺してはならねぇ 。
⑥姦淫してはならねぇ 。
⑦盗んではならねぇ 。
⑧ 隣人に関して偽証してはならねぇ 。
⑨隣人の妻を欲してはならねぇ 。
⑩隣人の財産を欲してはならねぇ 。

秦氏も空海も
①一神教の大前提、
③安息日
を守ってねえから一神教なわけねーよな。
道徳にかんする戒なんざ、ほかの宗教でも言ってやがるこっだっからよ 守っていても一神教信者だと特定できねえ。

核心部分が一神教違反なんだっからよ 、絶対に秦氏も空海も一神教信者じゃねーよ。
核心部分を完全にシカトして、本筋の論題や質問には一切答えねえで、細かな矛盾点をべらべら並べ立てやがり、意図的に些末な部分にこだわって威圧しやがるのが、カルト工作員の手口でさァ。
キリスト教神学が得意な詭弁術を使いまくるのが工作員の特徴なんですぜ。

外見や、表面的な、言語や儀式の共通点なんざ探そうと思えばいくらでも探せるんで、詐欺師がよく強調しやす。
単語数はどの言語でも膨大なんで 、どの二つの言語を選んでも似てやがる部分は必ずあるんで、多少似ていてもおかしくねーし。
みなさんは以下のカッコつきのセリフ を肝に銘じてくだせェ。

「同祖論者や秦氏・空海景教徒説の詐欺師は教義の致命的な違いは無視!
一神教では人を神格化して神としてまつることも、神と一体化することも禁止!
表面的一致を大量に(みせかけて)取り上げて数でごり押しするのが工作員の特徴!」

高野山に大秦景教流行中国碑のレプリカを建立したのが、ヴィクトリア女王の元側近(侍女)のE.A.ゴルドン夫人ですぜ。
仏教もキリスト教も元は一つであるっつう 「仏基一元」の考えが夫人の研究テーマだったんですが、仏教のは一神教の中核を完全否定してやがっからよ 、根っこが完全に違いやす。

西洋思想すべて「ゴッドや不滅の霊魂など、永遠の不変の超越的なものが実在する」
仏教「全部、妄想だね」

ってんだっからよ 、同じなわけありやせん。

仏教は空、縁起、無常ですら実体はねぇとしやすからね。
西洋思想の核には「唯一絶対の実体」(それ自体で存在し永遠不変な実在)つう大前提がありやす。
キリスト教では造物主ゴッド、
西洋神秘主義、特に新プラトン主義では「一者」。

・・・・・・・・中略・・・

日ユ同祖論、景教渡来説、スピリチュアル、神智学は仏教ぶっこわしのための兵器の四天王ですぜ。
景教の専門家だった佐伯好郎は日油同祖論者でございやして、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説つう 語呂合わせと詭弁にまみれたことをほざいてやがりやす。
旧約聖書に登場する失われた10支族なんて実在しねえんだっからよ 、末裔なんていやがるわけねーだろってんだぜ。
逆にいやあ、聖書の人物が実在することが大前提の日ユ同祖論(日本人・ユダヤ人同祖論)を主張するのはクリスチャンと神道カルト信者ってこった。
しかもよ、佐伯って景教博士ってか詐欺師は、晩年、弟子の服部之総に同祖論がユダヤ人の大資本を得るための単なる功利的な「企画」であることを語ってやがるぜ。 ゴチャゴチャゆうねぇ、要は 日油同祖論は金目的だったってこった。

・・・・中略・・・・

菊池 ‏@kikuchi_8 1月3日
誠にその通り(笑)引用:統一教会系ネトウヨの反駁の仕方ってすごく耶蘇教神学的でなんかアウグスティヌスっぽい。ネトウヨが話の核心部分ではなくて、細かな矛盾点を指摘して全論をひっくり返そうとする話の持って行き方とかほんとそっくり。
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-112.html

「話の核心部分ではなくて、細かな矛盾点を指摘して全論をひっくり返そうとする話の持って行き方」はまさにカルト工作員が使っている手口。本筋の論題や質問には一切答えず、意図的に些末な部分に拘泥する。耶蘇神学に由来する手口のようだ。云百年の不毛な神学論争が生んだワザということか。

ちなみに。恐らく耶蘇神学は「不変の神が何故創造という変化を起こせるのか」といった根本的質問には答えられないと思う。「創造する」という事は無から有への変化の過程という事であり、全く変化しない実体からは出てこようがない。不変から変化を説明するのが一神教や神秘主義の根本的な誤謬と思う。


・・・・中略・・・・・

王王大栄 ‏@ououdaiei 1月6日
@kikuchi_8 @kitsuchitsuchi 耶蘇の「ゴッド」を神と訳したのは、ある意味ですごい皮肉かも。神は滅びる。それが日本の考え方。唯一の実在・創造主の「ゴッド」は、神という妄想。ってのが仏教とかの考え方とみると然り。

菊池 ‏@kikuchi_8 1月6日
@ououdaiei @kitsuchitsuchi おお、なるほど、面白い解釈だと思います。日本神話を見ても日本の神様は「無常かつ持続する」自然の象徴だったりして生まれたり死んだりと生成変化する「無常」な存在ですからね。「不変・唯一・絶対」というゴッドという観念は「滅びる」と。


・・・・・中略・・・

”①一神教最大のタブーは、人間が神になること。

一神教では、唯一神と人間との間には絶対的な隔たりがあり、絶対に人間は神になれない(唯一神と一体化できない)。
人間が神になれるなら多神教。

景教=ネストリウス派キリスト教は、人と神を特に厳格に区別するので、人と神として祀るなら景教徒ではない。
神社に秦氏の人間が神格化されて祀られているので、秦氏は景教徒ではありえない。

真言宗は神仏と人間が一体化する「即身成仏」思想なので、景教ではありえない。”
http://yomenainickname.blog.fc2.com/blog-entry-110.html
ヤハウェ(エジプト系の雷神)が奈良の大仏(アーリア系の太陽神仏)なわけねーだろ!  真言宗が景教(人の神格化禁止)なわけねーだろ!                  

・・・・・・・中略・・・・・

(日本人は混血民族。単一の固有の民族なんて実在しねーよ。
ナチスのアーリア信仰を日本人に変えただけ。
思考が神道カルトまんまの、聖典が飛騨の口碑のみさきワンちゃん。
「ヤハウェヤハウェが秦氏秦氏が景教景教が以下略」って、うるさい。
大避神社の御祭神は秦河勝。
一神教では人間を神として祀るのは絶対に禁止なので、秦氏は景教ともユダヤ教とも無関係。
致命的な矛盾をひたすら無視する時点で相手にする価値無し)

knznymmmy ‏@knznymmmy 1:12 - 2016年1月16日
君と違って信仰が無いからだよ

(「純血」を信仰するのはカルトの証)

P・グラレム ‏@pinkglalem 2015年12月3日
移民についてかい...?もともと日本人と言うのは、多人種の混血なんですけど...

P・グラレム ‏@pinkglalem
ユダヤ人なんて民族はいねェーョ。架空の、でっち上げられた幻想。日本人にしたって、その遺伝子構成は、多人種の混血。大昔に混血化がすでに進んでいたんだョ。

古代から何世代過ぎてるの?その間中、近親婚を繰り返すワケ...?そーでなかったら、民族の純血なんて守れないョ。純血主義は幻想なんだョ。

人種としての「~人」というのは、すでに存在していない。

どーしてだろう?カルトの信者というのは、宗教のことをスルーするために、民族に拘るね。

民族や言語の分類というのは、18世紀に聖書をもとにして作られたンだョね(シュレーツァー)。だから、コレをもとにあたしに民族について質問されても。答えられません。...予め言っておきます。

だいたい日本人なんて、多民族の混血だし...


・・・・・・・中略・・・・・

子子子子子(ねここねこ) ‏@kitsuchitsuchi 2014年7月5日
@lanekota @wayofthewind 武士道
初出は江戸初期編纂の『甲陽軍鑑』。意味は個人的生存術。
山鹿素行(朱子学批判で赤穂に配流。門弟に大石良雄)の士道論など儒教道徳が影響。
耶蘇だらけの佐賀藩の山本常朝『葉隠』は生きる為のマナー本で禁書。
新渡戸の耶蘇流武士道。


・・・・・・中略・・・・

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月21日
他宗旨や違った意見の集団と殺しあった欧米で「信仰の自由」が生まれるのは、まあそれだけ宗教=耶蘇教の支配・洗脳が深刻だからだろうか。仏教は当然として儒教でも他の宗旨は「実力行使」されない限りに他宗旨を実力排除しなかった。それだけ耶蘇教・一神教は面倒な思想に思う。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月22日
信仰を第一義とする耶蘇教は、信仰が違うことは、致命的な衝撃を受ける。ので簡単に殺しあえる。それが欧米。東洋は「信」も究極的には「行」の範疇に入れてしまえるので、話し合いができると思える。信の果ての「悟り・救い」が目的なので、方法の変えが効く。

(仏教では、信仰や教義に執着するのも「苦=悪」なので、信仰や教義はあくまで悟るための手段です)


菊池 ‏@kikuchi_8 12月20日
個人の信仰を批判する事と、利権・権力団体としての「宗教」を批判する事は全く異なる。社会の不正に目をつぶり黙っている事は「幸福」ではなく、麻薬中毒と変わりがない。薄っぺらい「幸福論」はカルトが批判を封殺する手段たりうる。これではマルクスの「宗教は阿片」の言辞に抗しえないではないか。

この点キリスト教と仏教では全く異なる。仏教は対機説法という対話による説得や、のちに哲学として整備されてからは他学派との論理を極めた熾烈な喧々諤々の論争(龍樹は帰謬法を多用)を繰り広げた。論理的思考と対話による説得を主とし、「宗教を批判するな」という耶蘇的な権威主義的態度とは真逆。

そもそも「個人の信仰」だろうと批判していいのだ。むしろ、東洋ではそれが当たり前。一神教の西洋と違い宗教批判はタブーではない。仏教が出現した時代は様々な自由思想家が論争を繰り広げていた。支那の諸子百家の時代に幾つもの優れた思想が出現した。自由な批判・闘論から優れた思想は生まれる。

王王大栄 ‏@ououdaiei 12月21日
@kikuchi_8 内心の自由を尊重していても、それで他宗旨への攻撃や政治行動となると、当然規制をかける。信長以降の日本{明治までは特に}と中華圏とかインドはそういうのが了解事項に思えます。他宗旨を「邪教」よばわりする耶蘇やカルトが「個人の信仰を犯すな」など烏滸がましいと思う。

菊池 ‏@kikuchi_8 12月21日
@ououdaiei 同感です。日本も最初はキリシタンの信仰の自由を認めて、儒学や仏教と同じように受け入れていました。ですが先方が神社仏閣の破壊などの具体的な攻撃行動を始めたのでやむを得ず排除する事になりました。己の行状を反省する事も無く本当におこがましい物言いだと思います。

櫻薫をる戀ひ淚燈るる ‏@sakurakouyouhen 12月21日
@kikuchi_8 @ououdaiei
オメガオメガさんが以前ツヰートなさってました事ですが…
切支丹全盛期に宣教師と共謀し、大勢の日本人女性を海外に売り飛ばす商売をしてゐたのが、切支丹だったそうですね。學校の歷史の授業では、切支丹排除した豊臣秀吉公が惡者であると習います。

菊池 ‏@kikuchi_8 12月21日
@sakurakouyouhen @ououdaiei その通りです。秀吉が理由なく切支丹弾圧したかのように書きますね。奴隷貿易は徳富蘇峰の「近世日本国民史」に書かれていたそうですが、官憲の命令で削除されたそうです。戦前からキリスト教の暗部への言及は禁圧されていたのが分かります。

菊池 ‏@kikuchi_8 12月20日
自由に相互の思想を批判し合えるからこそ、平和なのである。一切の宗教批判を抑圧する歪な状況の方が、反動で武力による殺し合いに発展する可能性が高い。仏教と「六師外道」の時代や諸子百家の時代は言論の自由が保障されていた。我が江戸時代も同じである。国学、儒学、仏教、蘭学が入り乱れていた。

諸子百家の時代は平和ではなかったが、思想が自由だったからそうなったのではなく、むしろ平和でないからこそ、それを収めるにはどうすればよいか?という課題を背負って多様な思想が出現した。平和ではなかったが、思想は自由であり、古典の中の孔子も孟子も老子も荘子も墨子も其々活き活きしている。

マルクスは「宗教は阿片」と言ったが、共産主義イデオロギーも「阿片」である。硬直化して、更新を許さず、自由な思考を妨げる体系である点で、キリスト教と変わることはない。キリスト教会も共産党独裁政府も対話や討論ではなく、異端審問や粛清という暴力によって異論を抑圧してきた歴史がある。

結論。「異論を暴力的手段で排除するのは自信の無さの表れである」。批判的検討に耐えられないからこそ、対話を忌避するのである。そうでないなら、堂々と反論して返り討ちにすればよい。それをしないという事は非常に脆い思想・信仰という事である。横文字左翼が異論者をブロックするのも同じである。


・・・・・・・・中略・・・・

日猶同祖論や景教渡来説のおかしさ
http://kokuhiken.exblog.jp/24803627/
”〇兵庫県に大避神社という神社がある。御祭神は秦河勝である。この時点で「秦氏=猶太人説」「秦氏=景教徒」という説は崩れるのではないか。猶太教や景教を含む耶蘇教では人を神として祭るのはご法度のはずである。こういう基本的な事柄を無視することからして日猶同祖論や景教渡来説はうさん臭い。

〇日猶同祖論者は日本人と猶太人の宗教観の違いという根本的なところを無視する。どこそこにダビデの星があるとか、この日本語はヘブライ語と響きが似ているとか、その手の後付とかどうとでも解釈できる枝葉の部分ばかり強調する。猶太教徒にとって最も重要な宗教観の部分で日本人と猶太人は相容れない。

〇日本はアニミズムの国であり猶太人が重視する「天地の創造主」という信仰は無い。「猶太教が一神教化する前の多神教徒としてのヘブライ民族が渡来したのだ」と言う者もいるが、それならば道教やヒンドゥー教の神々も仏教の護法神として渡来しているから「猶太」だけ取り立てて言う意味がない。

〇「多神教徒としてのヘブライ民族が渡来した」とまで言って、あくまでも日本と猶太を結び付けようとするのは、何らかの政治的意図があるとしか思えない。道教の神もヒンドゥー教の神も日本に渡来している。例えば金刀比羅宮の御祭神はガンジス川のワニの神である。かと言って日印同祖論は言われない。

〇修験道も日猶同祖論において定番である。小箱の頭巾やほら貝が猶太教で使われる物と似ているといった類である。しかし、修験道と猶太教は根本的に世界観が異なる。修験道は原始アニミズムを色濃く継承し、木石など自然物を崇敬する。超越神を崇拝する猶太教でそれはあり得ないだろう。根幹が違う。

〇とはいえ一神教的な傾向を持つ修験一派が存在するのも事実である。それが丹波や鞍馬山の人脈である。インサイダー筋が大本教の母体として示す大江山の霊媒集団や神智学の影響を受けている鞍馬寺の鞍馬弘教等である。大本一派は一神教的だが元々かかる傾向性を持つサンカの修験一派が母体の可能性。

〇古代のラビと修験者の頭巾やほら貝、服装が似ていたとしても「だから何」という程度の話に過ぎない。そんな事より、明らかに意図的に「天地の創造主」というキリシタン神学由来の概念を導入した平田篤胤の方が問題である。出口王仁三郎もその神観を継承している。同祖論もこの周辺が主に唱える。

〇ネストリウス派=景教は人性と神性を明確に区別する。マリアも「神の母」ではなく「人性としてのキリストの母」という扱い。カトリックより人格と神格が厳格に区別されている。人と神の距離が近く、同一視し、場合によって人が神に命じる関係(例:役小角と一言主神)すらある日本の宗教観と隔絶する。

〇神智学徒のゴルドン夫人が高野山に大秦景教流行中国碑のレプリカを建立した。人性と神性はあくまで区別されるべきだとするのが景教である。一方、真言密教は「即身成仏」つまり、人も仏も構成要素は同じ「六大」だから人と仏はゼロ距離だとする教義である。似ても似つかないどころか真反対である。

〇宗教観を見ると、景教渡来説がいかに胡散臭く、ありえそうにないかが見えてきた。正倉院の宝物と同じで西方の外面的な文物は多数渡来したであろう。法隆寺のエンタシス方式もそうである。しかし、日本人の宗教観は同じ汎神論文化の印度や支那とは親和性があるが、中東以西のそれとは隔絶が大きすぎる。

〇●●渡来説、●●同祖論の類は、枝葉の文物をいくら眺めても「そうかもしれないし、そうでないかもしれない」という程度の「結論」しか得られない。要するに信じたいものを信じるという結果にしかならない。比較的明確な結論を得るには世界観や宗教観など思想の枠組みを比較するのがより確実と思う。

〇日猶同祖論の初期の論者の一人佐伯好郎は同時に景教渡来説の権威。日猶同祖論と景教渡来説は初期からセット。佐伯は英国聖公会のキリスト教徒。聖公会は英国諜報員とメーソンの巣窟と渡部悌治先生述。猶太資本導入推進のために日猶同祖論を唱えたことを服部之総に告白。河豚計画の犬塚惟重の団体顧問。

〇景教渡来説を唱えている人士はキリスト教徒ばかりである。宗教的立場からの願望が投影されている「説」と言える。「いろは歌」まで耶蘇教の思想を歌ったものという者までいて驚いた。仏教の基本的教義を抑えておけば「いろは歌」は「有為=縁起したものの無常と、無明の克服」という趣旨と分かる。

〇猶太人のシンボルと言えばダビデの星=六芒星というイメージだが、六芒星が猶太のシンボルになったのは17世紀からである。六芒星はネパールでもよく使われるシンボルだそうだ。六芒星が伊勢神宮や松尾大社にあっても日猶同祖論の根拠にならない。猶太の古代からの象徴は七枝の燭台=メノラだろう。

〇石上神宮に安置されている七支刀がメノラだ!とかこじつける者もいる(笑)メノラは燭台であって刀ではないであろう。そもそもアニミズムの日本と一神教の猶太という根本的な相違がある。日猶同祖論者はわずかでも共通点があれば針小棒大に取り上げ、違いはどんなに大きいものでも無視する。”


・・・・・・中略・・・・

では、「御坂美琴」から「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった属性をすべて剥ぎ取って素っ裸にしたら(*´Д`)ハァハァ 、そこに何が残るだろうか?
「御坂美琴」の存在の核たる何かが残る。無色透明な「たましい」のような何かが有る、と考えるのがヒンドゥー教である。ヒンドゥー教ではそれをアートマン(ātman,真我)と呼ぶ。アートマンはなにものでもない。「~である」という説明はすべてダルマであって、ダルマをまとう核たるアートマンではありえない。なにものでもなく、なにものにもなりうるのがアートマンである。GHOST IN THE SHELL でいう「ゴースト」である。そして、アートマンはなにものであるかを超えて不滅であり、宇宙の根本原理であるブラフマン(brahman,梵)と一体であると説く。これを梵我一如(ayam ātmā brahma)という。自分の内にある自分の本体は世界そのものの本体に通じていると。まあ、今風に言えば「セカイ系」な思想である。
いっぽう、何も残らないと説くのが仏教である。「御坂美琴」とは「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といった無数の属性の集合体にすぎず、それらを離れたところに「御坂美琴」の本体など無い。これを諸法無我(sarva dharma anātman)という。諸法無我は三法印(trilakṣaṇa)のひとつであり、仏教の基本中の基本である。たとえばブドウ糖C6H12O6が炭素と水素と酸素の化合物であって、ブドウ糖という不滅の実体など無いように、「御坂美琴」も「ツンデレ」や「女子中学生」や「科学サイド」といったダルマの化合物であって、「御坂美琴」という不滅の実体など無い。有ると考えるのは妄想にすぎない。ヒンドゥー教の悟りがアートマンの実在を悟る「自分さがし」であるとするなら、仏教の悟りはアートマンの不在を悟る「自分なくし」である。

そのため、仏教はヒンドゥー教正統派からはしばしば虚無主義(ナースティカ,nāstika)呼ばわりされてきた。ブラフマンとアートマンの不滅を説くヴェーダ(veda)の教えを否定する異端のニヒリストめ、と。しかし、仏教はけっしてニヒリズムではない。そもそも「あるある!」とか「ないない!」とかいう極論をしりぞけるのが仏教のスタンス、中道(madhyamā- pratipad)である。永遠不滅の「御坂美琴」が実在するというのも極論。「御坂美琴」なんてどこにも存在しないというのも極論。さまざまな偶然と必 然からダルマが寄り集まって、「御坂美琴」は一時的な存在として、しかしたしかに存在している。ブドウ糖が炭素と水素と酸素の化合物であって、燃焼したら 水と二酸化炭素になるからといって、いまブドウ糖が存在しないということにはならない。この世の全ては夢まぼろしのように儚いものかもしれないが、われわれにとってその儚い夢まぼろしこそ全てである。
この一見すると否定にみえるけどじつは肯定しているツンデレ論理こそが仏教の真髄だと思う。諸法無我とは「すべての存在に実体は無い」というよりは、
「か、かんちがいしないでよねっ。すべての存在に実体なんて無いんだからっ!」
というニュアンスである。

ところで、このダルマ/ダルミンの議論を見て、西洋哲学かじった人なら気づくと思うけど、古代ギリシアのプラトン、アリストテレスから中世の実念論VS唯名論に続く議論とそっくりである。まったくインド人とヨーロッパ人は親戚。同じ穴のムジナというか、同じユーラシアのインド・ヨーロッパ語族である。しょうじき、日本人の自分にはこんな議論はまったくどうでもいいと思う。(^^;)
”)

魔法使いハンターねこた@限定復帰ちう ‏@lakudagoya 7月5日
本当に狡猾なやつは、罪を全部悪くない人に押し付けて自分は善人ヅラするからなー。あっ、西洋の根本思想のスケープゴートってこれの真髄か。おいらはいつ か、こういう狡猾なやつの思想を間近で観察したいから色々探求してるんだよね。企業が宗教をでっち上げる現場とか見てみたいよ。

仏教国に住んでるヌッポン人には理解できないだろうけどさ、ヌッポンが当たり前に思ってる仏教的な叡智とか、これは欧米では秘儀参入者しか知られてない知 識だったんだよ?今では学術的な研究で知られるようになったけど、19世紀半ばより前は秘密結社が独占する秘教的な叡智そのものだった。

お釈迦さんってのはとんでもない人で、インドの秘儀参入者だけにしか知られてない知識と技術を一般公開した上に、一部の人だけでなく、女性もアウトカース トの人も修行すれば悟れると言ったわけ。ヌッポンを初めとした仏教国というのはな、西洋の感覚ではイルミの教義を国教にしてるという国なんだよ。

だからなぜ、神道カルトの手羽先どもは仏教が嫌いもしくは無視しようとするのか?それはヌッポンに根付いてる仏教的な叡智を心底恐れてるからだよ。スピリチュアル見ればわかるけど、キリスト教支配ってのは反知性主義だから、キリスト教では悪とされる智慧を大事にする仏教は悪魔そのものだとね。

・・・・・・中略・・・

ちきん@迷走中 ‏@hibakukihi 12月16日
考えなさいという宗教と、考えるなという宗教。
同じ「宗教」という括りでいいのか問題。
なんか別の物じゃない?

(「考えなさい」と説き、「論理的思考が大事であるとする姿勢」なら宗教ではなく哲学。
つまり、「無記」の原始仏教や、初期大乗仏教である「空」の中観派などは哲学)

P・グラレム ‏@pinkglalem 12月15日
宗教は社会を不安にさせます。人々が不安になればなるほど、信仰心は加速します。在りもしないしない来世と救済のために自らの人生を浪費する根気を宗教は与えてくれます。死のその瞬間まで人々はその幻想を信じるのです。信心深い人はとても根気強い人です。

あなたの根気強さが、あなた自身を苦しめているのです。

(×根気  ○執着=苦しみの原因)


「いやあ、落語って本当にいいもんですね」



・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


死後の世界の有無は問わない。でも

「生きていることもわからんのに、死のことなどわかるかよ」

と孔子が論語で言っている。

あるいは荘子のように

「そんなのどうでもいいや!死んだ方が楽しいかもしれんし、あるいは死んだら虫の足かもしれない。でもそれでどうなの?」

もいい。
 


これも怖いね・・・

プロの運転手の事故続発って、日本の流通輸送の崩壊の序章でしょう。


お読みくださりありがとうございます。
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