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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
ボンダイ より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
平成式の「東京のお笑い」が、日本人をダメにしている

 関西出身の親友に帰郷直前にこういわれたことがある。
 「東京の人間が冷たいのは、たぶん新喜劇がないからだと思う」
 いわく、関西では「吉本新喜劇」をテレビで見るという常識があるとのことだ。新喜劇は、さざまな芸人同志がただボケやツッコミを繰り広げて笑わせるだけではないという。「情を通わす」特徴があるんだそうだ。さっきまで役柄上喧嘩していた芸人同士でも、同じ新喜劇のメンバーとしての連帯感みたいなものを共有していて、そうした「和」の中に、観客も溶け込んでおり、関西のユーモアの豊かな土壌は出来あがっている。

 それに比べると、関東はどうかというと、確かに冷たい。
 「エンタの神様」では、芸人同志が慣れあう場面は一切ない。それどころか、観客を巻き込んだネタがほとんどなく、画面の向こうの視聴者からすればずいぶん遠い位置の存在に見える。同じ「エンタ芸人」でも共同体みたいなものはない。

 私たち平成初期生まれ世代は、それこそ「エンタ芸人」で育ったような世代である。幼い頃にオンバトを見て、その後は笑金、エンタ、イロモネアと関東式の芸人文化に没頭して青年時期まで至っている。ラッスンゴレライもクマムシのブームもそういう文脈の上に成り立っている。
 ただ、こういう文化が本当にユーモアの質を高めているかというと、私はどうもそうとは思えない。流行りの芸人のネタを真似することが家族、友人、恋人、同級生、同僚など、身内のコミュニケーションツールになるからみんな迎合しているだけで、本気で心の底から笑えたことはほとんどない。レイザーラモンH・Gが爆笑問題の番組でヤンチャを繰り広げていたのがピークだった。

 いま、冷静に考えてみると、平成式の「東京のお笑い」が、日本人をダメにしているようにすら思う。
 理由は簡単。そこには「笑いを通じた豊かなコミュニケーション」がないからだ。
 それが当たり前だと異常に思うことはないのだが、関西の友人に言われて以来、よくよく考えてみると、関東のお笑いには他人を尊重する発想が欠けている。むしろ「他人を貶す」ネタが多くはないか。
 たとえば関西で漫才コンビはツッコミが短い。ボケをさらに引き立てるような一言をぶつける感じの基本系がある。餅つきの際に水をつける係のようなものだ。このテンポのよい掛け合いで笑いと言う餅がうまくできあがるのである。ところが、関東のツッコミはどうかというとやたらと長ったらしい。喋り口がクドクドしていて、貶すような言いぐさが多い。つまり餅をネチョネチョ触りながら杵つきのペースを乱してしまっているように見える。コミュニケーションとしては最低な感じがある。

 典型的なエンタ漫才コンビといえば「サンドウィッチマン」だ。
 ボケが言葉じりを捕らえたような発言をすることに対し、ツッコミ側が半ギレで説教気味なツッコミを入れるという流れがある。これはまさに大阪にはない「平成式の東京のお笑い」ではないか。関西人はみなちょっとやそっとの相手の言葉のアヤについては「かまへんかまへん」と気にしないものであるし、もし気づいて不快に思ったとしても直球で訂正を促すんではなく相手を茶化すような婉曲的なユーモア表現を用いて恥をかかせるという「粋」がある。
 
 平成式の東京のお笑いは、どうも「不正修正欲求」と「貶し欲求」に起因しているように思う。そして、それは相手のことをよく理解できず、まして信頼も持たず、尊重しないで切り捨てる前提で展開されるものだ。「信頼できない他人」が「失敗や過ちを犯すこと」を「嘲う」ことで完成している。新喜劇的共同体が存在していれば、その時点で破綻するという特殊なユーモアなのである。
 タカアンドトシの「欧米か!」もそうだ。ここは日本なのに、欧米みたいな感覚を持ち出すタカの「日本人としての誤り」を哂い、そして「そんなタカに翻弄されて困っているトシの哀れなさま」を哂うという、陰気なユーモアである。

 ピン芸人だってそうだ。
 渡辺直美は、おデブでブスで東洋人丸出しな茨城のヤンキーがビヨンセの本物そっくりのセクシーダンスを踊るというものである。つまり小学生くらいにありがちな「クラスのデブスを哂ってやりたい」という原始的な嘲笑欲求に加え、「デブスの分際でセクシーハリウッドセレブのマネをしている」と言う彼女の「過ち」を糺したいという欲求を喚起するものだ。しかもそのマネが物凄い上手いものだから、「違和感に対する注目」がさらに高まる。結果彼女はヒットした。
 かくして、2000年代後半から数年間続いている「芸人ブーム」は、誰かを貶したり、誰かの誤りを指摘したいという欲求を日本人に扇動し続けたように見える。

 結果どうなったか。
 インターネットを見てほしい。匿名による「ネット原住民」があらん限りに書き連ねる「憎悪」が社会問題になっているではないか。スマイリーキクチ氏事件も、いまのラッスンゴレライ反日陰謀問題も、どちらも「関東式芸人」が標的にされたものであり、そうした芸人の悪意あるデマを生み出したり、拡散したり、無視せずに読んでしまう人の中には悪は許せないという「不正修正欲求」と「そんな不正をする人間は評価されてはいけない」という正義感の腐ったような発想に基づいた「間違った人間は貶されて当然だ」とのバッシングがある。
 
 つい10年前を振り返れば、インターネットの片隅の2ちゃんやはてなにしかなかったような憎悪が、今やネット全体を蝕んでいるし、そして地上波テレビ界全体を蝕んでいるし、書店軒先を牛耳ってさえもいる。マスメディアがだめになると、放送法とか表現の縛りのないネット書き込みはもっと過激になり、さらにマスメディアも劣化する負のスパイラルがある。
 ネットや本・雑誌・夕刊紙のヘイトはオッサン向けのものばかりというのも事実だ。オッサンは有害な生物だからしょうがないというのも正しい見立てだ。
 だが、若い女の子もおかしくなっている。たとえば東海道線の車内で、右手のボックス席に女子大生たちが座っていて、左手の席のオッサンのカツラがズレている様子をチラ見しながらくすくす笑うような光景は何度も見たことあるし、ディズニーランドのレストランでアツアツカップルの会話を盗み聞きしてその彼女の振る舞いについてくさすような陰口に耽っている制服ディズニー女子たちも見たことある。
 本来なら学校校舎のトイレとかで、同級生の中のダメな人間についてこっそりと貶すことに徹していたのが女の子たちである。日本の女の子は「赤の他人を貶す」などというはしたないことはしないことが当たり前だった。だがいまや、恥ずかしげもなく、ディズニーランドの空間でさえも憎悪をぶちまけることができるのだ。私は若い女の子が大好きだが、憎悪感情を持つことやおおっぴらに公開することに無抵抗な女性はたとえ顔立ちはよくても、精神的に腐っているし不細工に見えてしまう。

 私は平成生まれだが昭和の「ドリフ文化」を知っている。
 「8時だョ全員集合」では、ドリフの面々はコントなどで互いの頭を叩きあっても、いつも仲良くオープニングテーマを歌って踊っただろうし、彼らは客や視聴者を平気でなじることはしなかった。そのくせ、客側が「志村!うしろうしろ!」とツッコミを入れるようなインタラクティブ性のあるお笑いだったのである。つまり昭和式の東京のお笑いは、憎悪とは無縁で、それどころか「東の新喜劇」のようなものだったのである。

 私が東京が大嫌いなのは、こういうお笑い文化の存在があまりに大きいことが最大の理由だ。こういうゆがんだユーモアや精神風土に感染した人が多すぎる。そういう「東京の常識」があり、東京の猿真似しかできない地方がみんな「憎悪感染」しているのが今の日本の体たらくだと強く思う。
 東京の影響が日本全体に広がったほうがいいことはいくらでもあるが、お笑いに関してだけは、大阪のお笑いが東京を乗っ取る位が望ましいということは、確実だろう。




・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


人を馬鹿にする笑いは、基本嫌いだ。

島田伸介が調子に乗ったときは、そういう笑いをしていた。

ダウンタウンも発想が貧しくなると、そういういじめ系の笑いをして、少し敬遠するようになった。

今の関西の笑いも、そういう貶し系・いじめ系が目立つので、少し嫌になっている。


弱い立場の人を馬鹿にして笑うのは、みじめなことに思う。

そういう、愚劣で下品な自分の、みじめさ・愚劣さ・阿呆さを笑っているのだろうかね・・。


お読みくださりありがとうございます。
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