忍者ブログ
故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/05     04 < 10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  > 06
Admin | Write | Comment
P R
アバンギャルド精神世界 より

上記文抜粋
・・・・・・・
覚鑁(かくばん)の阿字観


ニルヴァーナへの展開

覚鑁(かくばん)の阿字観では、

「その行の時間は二時間ないしは一時間。この観を始めたらならば、行住坐臥、浄不浄にかかわらず、「アー」、「アー」と唱えなければならない。

このようにして時を惜しんで努力を積めば自ずから成就できる。疑ってはならない。
一心に乱れることなく行ずることを、本より成就するメソッドという。

というのは最初に「アー」と鳴いて生まれ出て以来、悦ばしいことがあれば、そのまま「アー」と笑い、哀しい事があれば、そのままに「アー」と嘆く。惜しい物をも「アー」と惜しみ、欲しい物をも「アーアー」と心を留める。とんでもない悪について「アー」と言わないことはない。

善悪の諸法、器界国土(山河大地などの我等の環境)、山河大地、すべて「アー」から生まれ出たものだからである。

また風が樹林を吹いて、波(浪)が真砂を打つ。鳥がカウカウと鳴き、雀がしゅうしゅうと鳴くように、何でも最初にマントラを唱えないものがあろうか。

このように不思議のマントラ(真言)だから、本(もと)自(よ)り成就していたことだったと、深く確信して(信心を致して)観ずることを本不生と申す」

それでもって初心者への注意があり、『初心者は、しつこくその理由を尋ねてはならない。ただただ一心に「アー」「アー」と唱えなさい。これは自然の道理のサマディ(三摩地)なのだから。』。


要するに何もかもが「アー」である。人間は、「アー」に喜び、「アー」に哀しみ、「アー」に死ぬという世界に生きている。これを疑うことなく一心に唱えて「アー」そのものになれば、本不生という永遠不壊になるということ。

最後の初心者への注意は、日蓮が禅天魔、念仏無間、真言亡国、律国賊などとして他宗派へ浮気することを戒めたのと同じような趣旨だろうと思う。

すべてが『アー(阿)』のマントラ・シッディとは、マントラ・シッディを超えることを覚鑁(かくばん)は確言している。マントラ・シッディのニルヴァーナへの展開の可能性を、ここまで明瞭に述べた人はあまりいないのではないだろうか。




・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり

>最後の初心者への注意は、日蓮が禅天魔、念仏無間、真言亡国、律国賊などとして他宗派へ浮気することを戒めたのと同じような趣旨だろうと思う。


それは正しいけど、
浮気を防ぐために他宗旨の滅亡を目録一神教・キリスト教は、他宗旨を全滅させても、物欲や悪魔を信仰するだろうから、無意味ですよな。

他宗旨のことなど振り向かず信心しないやつが、「異教を滅ぼせ」など、「頭の上のハエを追え」
または「私にはそのような暇はない」のであるけど、まあキリスト教徒とか日蓮宗の一部は、本当に暇ですよね・・・。




おなじく より


上記文抜粋
・・・・・・・・
奥深い心

それは人間の心ではない

ダンテス・ダイジの詩から

「奥深い心」

すでに人間はいない
あらゆるものを構え
その中でとりとめもない
人間の喜びと人間の悲しみとを持つ
そのものはすでにいない

人間の喜びと悲しみとから生れる
あのしみじみとした心の果てには
すでに人間はいない

人間にとってあるというすべてのものは
ことごとく消え果て
ただその奥深い心だけが
何の束縛もなく現前している

それは人間の心ではない
人間の喜びも悲しみも
その心のどこにもないのだから
人の子の悲惨な死も
甘美な恋慕も
その心には見えない

また その心は
石ころと人間とに区別がつかない
めくらで不人情な心だ

だが その非人間的な心の絶対から人間の喜びと悲しみとを
しみじみと眺めあたたかく包む
何ものかが
限りなくあふれ出す

(ダンテス・ダイジの詩集『絶対無の戯れ』/森北出版から引用)

一つの冥想手法として、こういう状態は、マントラ禅(南無阿弥陀仏などのマントラの念唱)によりマントラそのものに成りきるマントラ・シッディにおけるメンタル体におけるアナハタ・チャクラが開く体験だなどと説明することもできる。

クンダリーニ・ヨーガでいえば、個別人間の終わりであるコーザル体を抜けないとこの実感はないだろう。

バクティ型の、自分自身を神の御前にすべてを投げ出すタイプのものでも、これは起こるだろう。

しかし本当の他人のへの思いやり、親切、無私の愛などと言われる、この社会に足りないもののほとんどが、この非人間的な心の絶対を体験することなしには、わかるものではない。

ありがとうを何回も言う運動。漫然と繰り返すだけでは何も起こらない。そのままでは、個人的無意識の感情の部分をやや刺激する程度に終わる。

でも「ありがとう」というマントラに自分自身をすべて投げ出して、「ありがとう」になり切ればきっとそれは開けるだろう。でも使うマントラに制限はなく、「ありがとう」ではなく「エグザイル」でも「マック」でも「スタバ」でも、いつかは行けるところが摩訶不思議。「ありがとう」に成りきる、「エグザイル」に成りきる、「マック」に成りきる、「スタバ」に成りきる、どれも人間の気持という感情のことを言っているのではない。「奥深い心」のことである。


・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり



「ありがとう」と心を籠めてできれば、それも「サトリ」であり「奇跡」で、その時は「覚者」「菩薩」であります。


お読みくださりありがとうございます。
PR
Comment
Name
Title
Mail(非公開)
URL
Color
Emoji Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
Comment
Pass   コメント編集用パスワード
 管理人のみ閲覧
<< BACK  | HOME |   NEXT >>
Copyright ©  -- 渾沌堂主人雑記~日本天皇国滅亡日記 --  All Rights Reserved

Designed by CriCri / Material by White Board / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]