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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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逝きし世の面影  より


上記文抜粋
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米アクシオムスペースが開発した新型宇宙服の試作品。(同社提供・共同)★注、昔懐かしいアメリカ製SFテレビドラマシリーズ「スタートレック」の宇宙服を彷彿させる出来上がり(まったく無駄な胸の三角形の飾りは何のため???いくら何でも不真面目が過ぎる子供騙し)





本物の月面は隕石衝突跡のクレーターだらけ『宇宙空間に星々が輝き、巨大な地球が宇宙飛行士の頭上を覆っていた』意地悪なロシア(スプートニク)のアポロ11号の合成CG画像
半世紀前のアポロ11号の宇宙服と比べ一目瞭然だが、今回のアメリカNASAアルテミス計画の方は月面着陸用の宇宙服では無くて二輪ライダーの使う風よけスーツか戦闘機パイロットの耐Gスーツに限りなく近い不真面目な代物(★注、あの火星ヘリコプターお馬鹿飛翔と同じで人類初めての月面軟着陸アポロ11号の噓八百をとうとう諦めたとの意思表示??)



米、新型宇宙服を公開 月面着陸で飛行士着用


米航空宇宙局(NASA)と米宇宙企業アクシオムスペースは国際月探査「アルテミス計画」で用いる新型宇宙服の試作品を公開した。計画は2025年12月ごろにアポロ17号(1972年)以来となる月面着陸を予定しており、新型宇宙服を着た飛行士が月面へと降り立つことになる。
現在、国際宇宙ステーションの船外活動などで使っている宇宙服は40年以上前のデザインが基本。月の長期探査や地球上空の民間ステーション滞在が始まる新時代の宇宙服が求められていた。NASAは15年ほど前から500億円以上かけて宇宙服の開発を試みていたがうまくいかず、民間企業が開発する宇宙服の利用を選んだ。
3月16日 共同通信





300kmの高度では、地上に比べて重力は約9%少なくなる
地表からいくら遠ざかっても、重力は距離の2乗に反比例して減衰するだけで、遊園地のフリーホールが垂直落下して無重量に近い状態を作り出すのと同じ原理
無重力(zero gravity)ではなく、微小重力(micro gravity)
宇宙ステーション(ISS)が飛行する高度400km付近の宇宙空間でも、僅かなガス(高層大気)が存在し宇宙機は常にその抵抗力を受けて加速度(減速G)が発生します。ほんの小さな加速度(G)ではありますが、これらの影響を受けるため、実験や活動の舞台となるISSは「無重力」ではなく「微小重力」と言われます(JAXA 「微小重力」から抜粋) 
地球生命を守っている地球磁場ヴァン・アレン帯が作り出していたジオスペース
地球周辺の宇宙空間「ジオスペース」には、数百keV(キロ電子ボルト)~数十MeV(メガ電子ボルト)という高いエネルギーを持つ電子が集まる「ヴァン・アレン帯」という領域が、地球を取り囲むように存在している。ヴァン・アレン帯の広がりや高エネルギー電子の密度は、太陽から放出されるプラズマ流(太陽風)の変化に応じて変動している。


太陽風とジオスペース


ヴァン・アレン帯を含む地球近傍の宇宙空間「ジオスペース」では、MeV(メガエレクトロンボルト)を超える高エネルギーの電子(ベータ線)が充満。2016年にはISSで高エネルギーの放射線電子が短時間に大量に降り注ぐ「電子の豪雨現象」(REP現象)」を発見した。常に変化するヴァン・アレン帯の生成消滅のメカニズムは人類の安全な宇宙活動において必須課題だが、これまで十分な観測研究は行われてこなかった。(★注、アメリカNASAは強力な放射能帯であるヴァン・アレン帯を突破できる宇宙服の開発が宇宙旅行では絶対に必要であると強調している。本物の月旅行ではアポロ11号の簡易宇宙服では絶対に無理だったのです)
人工衛星が飛ぶ地上400キロは無重力では無く9割の地球重力があるように、我々人類の母なる地球は強力な磁場ヴァン・アレン帯やプラズマシートなどで何重にも防護されたジオスペースにより守られていた(★注、人工的にヴァン・アレン帯を作って太陽風を防ぐ月面用宇宙服は地上400kmのジオスペース最下面とは大きく違って桁違いの超重装備。重すぎて自由に動けないので月面旅行での宇宙服の製造は今の科学力では無理)アポロ11号の月面着陸どころかアポロ8号の月周回軌道も全部丸ごと世界帝国アメリカの偽装だった


・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり


>アメリカNASAは強力な放射能帯であるヴァン・アレン帯を突破できる宇宙服の開発が宇宙旅行では絶対に必要

>人工的にヴァン・アレン帯を作って太陽風を防ぐ月面用宇宙服は地上400kmのジオスペース最下面とは大きく違って桁違いの超重装備。重すぎて自由に動けないので月面旅行での宇宙服の製造は今の科学力では無理


これでは、最低でも「月面着陸」は、不可能だは。



ていうか、出来るなら、あの「自慢大好き・どこでも資源をかっさらう」アメリカが、何度も月いって、月の石だらけに今の生活がなっているかもしれないし。


なんか変だぞ、科学技術。


いや、少なくとも、医療と宇宙は謎と詐術だらけだろうね。





お読みくださりありがとうございます。



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面白い。



お読みくださりありがとうございます。
櫻井ジャーナル  より

上記文抜粋
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接種者を死亡させ、人類の存続を危うくする薬を世界規模で接種させるのは誰か


「COVID-19(2019年-コロナウイルス感染症)ワクチン」と称する危険な遺伝子操作薬を接種させ、人びとの行動を制限することが世界規模で実行されてきた。かつてファイザー社で副社長を務め、アレルギー・呼吸器部門の主任研究員でもあった​マイケル・イードンは「超国家的作戦」が展開されたと考える​。

 この遺伝子操作薬は病気の原因になるスパイク・タンパク質を人間の細胞に生産させて血管、内臓、神経などにダメージ与え、自己免疫疾患を引き起こして免疫力を低下させてエイズ状態を作り出すほか、LNP(脂質ナノ粒子)やグラフェン誘導体によっても人体に害を及ぼし、最近ではDNAの混入が発覚した。

 これほど危険な薬品を世界規模で接種することを可能にしたのはパンデミック騒動だ。2019年12月に中国の湖北省武漢でSARS(重症急性呼吸器症候群)と似た重症の肺炎患者が見つかり、20年2月4日には横浜港から出港しようとしていたクルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」でも似たような症状の患者が現れたところから騒動は始まる。この時点では症状が重い急性肺炎が流行しているという話はもっともらしく聞こえた。WHO(世界保健機関)は2020年1月30日に緊急事態を宣言、そして3月11日にパンデミックを宣言している。

 しかし、世界的な感染爆発が起こっているとは思えなかった。ダイヤモンド・プリンセスでの出来事以降、重症の肺炎を引き起こす伝染病が広がっているとは言えなかったのだ。

 それにもかかわらずパンデミックを宣言できたのは定義の変更があったからだ。定義が変更されたのは「新型インフルエンザ(豚インフルエンザ)」が流行(2009年1月から10年8月にかけての時期に)する直前のこと。「病気の重大さ」、つまり死者数が多いという条件が削られたのである。この時のパンデミック宣言は間違い、あるいは嘘だと言われている。

 この偽パンデミックの終わり頃、​2010年5月にロックフェラー財団とGBN(グローバル・ビジネス・ネットワーク)は「技術の未来と国際的発展のためのシナリオ」なる報告書​を公表、パンデミックの影響について分析している。

 そのシナリオによると、2012年に新型インフルエンザのパンデミックが起こり、全人口の20%近くが感染、7カ月で800万人が死亡、その多くは健康な若者だとされている。

 このパンデミックで人や物資の国際的な移動が止まり、旅行業のような産業や販売網にダメージを与えるのだが、全ての市民を強制的に隔離した国はダメージが少ないと想定。マスクの着用、公共施設やマーケットの入り口における体温の測定が強制され、そうした管理、監視体制はパンデミックが去った後も続くとされている。

 そうした状態を支配層は権力を強化するために望むが、市民は安全と安定を得るため、自らの主権やプライバシーを放棄、電子技術の基盤が整備されている先進国では、全ての市民に生体認証が義務づけられる。

 WEF(世界経済フォーラム)、ビル・アンド・メリンダ・ゲーツ財団、ウェルカム・トラストを含む組織がCOVID-19騒動で重要な役割を果たしたが、さまざまな指示はWHOから出ている。

 ファイザーやFDA(食品医薬品局)は「mRNAワクチン」に関する文書の情報公開法による公表を75年後まで引き伸ばそうとしていたが、裁判所はその要請を拒否、明らかにされつつある。医薬品業界で研究開発に関わってきたサーシャ・ラティポワによると、そうした文書の分析から、接種計画はオバマ政権の時代にアメリカの国防総省が始めていることが判明したという。

 文書の分析から医薬品会社や監督官庁は薬の危険性を理解した上で、つまり死亡者や深刻な副作用、例えば血栓、自己免疫疾患、サイトカインストームなどが現れることを承知で接種を強行したことがわかってきた。医薬品などを投与したとき、血中に炎症性のサイトカインが放出され、悪寒、倦怠感、発熱、血圧変化などの症状を起こすことがあるという。LNPが特定の臓器、特に卵巣へ蓄積することが2012 年から知られていて、生殖能力への悪影響も懸念されていたようだ。

 また、ロシア軍は昨年2月24日から巡航ミサイルなどでウクライナの軍事基地や生物化学兵器の研究開発施設などを攻撃した際に機密文書を回収しているが、その中に生物化学兵器に関する約2000文書が含まれていた。その分析の結果、アメリカはウクライナで「万能生物兵器」を研究していたことが判明したとされている。

 危険性の高い「COVID-19ワクチン」が日米欧を中心に接種が推進されたのは「医薬品メーカーのカネ儲け」が理由だとする人も少なくないが、それは副次的な問題にすぎない可能性がある。アメリカの国防総省ですら主体ではなく、強大な私的権力が何らかの理由で多くの人間を殺し、不具にしていることも考えられる。

・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり


新型ワクチンおかしいよ。。。

そもそも「イベルメクチン」が、多少新コロに効く。ってネトウヨが狂喜乱舞する記事があったのに、その情報を、保守系メディアが喧伝しない。

まあ、なんかあるよね。

ネトウヨって、絶対に「日本大好き」で「イベルメクチンがあるから、神州不滅」とかいって、ご機嫌になってもいいはずなのに。

でもない。まあネトウヨの資金源が「それはいうな」とストップをかけていたのだろう。

だから、これで「変だは、ネトウヨ。日本を尊んでない」と気が付く人も沢山出てきた。



まあ

先の続きで


米国の戦略に従うだけの日本は「軍事大国」でなく戦闘奴隷にすぎない

のは、正しいは・・・・・


15年前くらいなら、日本の職人の作る絶品が「戦略物資」だったけど、自分で自分の足を食ったのが、天皇国家。

まあ、死滅も順当でしょう。


お読みくださりありがとうございます。
読めないニックネーム(再開版)  より

上記文抜粋
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ミロク信仰を咎める法華経。植木雅俊『梵漢和対照・現代語訳 法華経』 『サンスクリット原典現代語訳 法華経』。マグダラのマリア、ベヨネッタ、ハンター×2、ファイアパンチ
Posted on 2023.05.05 Fri 19:42:13 edit

植木雅俊『梵漢和対照・現代語訳 法華経』 岩波書店(上・下)、2008年
植木雅俊『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(上下)、2015年

梵漢和対照・現代語訳版よりも、サンスクリット原典現代語訳版のほうが読みやすい。
後者は、梵語原典と、鳩摩羅什による漢訳の文語訳が載っていない。現代語訳と少ない註釈と解説ぐらいだ。


植木雅俊『梵漢和対照・現代語訳 法華経』 岩波書店(上・下)
2008年

■上巻

はしがき
翻訳に当たって、これまでの訳の再考を踏まえて以下の四点を自らに課した。

①正確を期す
(岩波文庫の岩本裕(ゆたか)の訳の誤りを指摘している。
具体的には、崇め尊ぶ対象が「経典」である箇所なのに、「如来」を対象にしてしまっている)

②意訳・深読みをしない

日本語としてよほど読みにくくならない限り極力、サンスクリット語の文章の雰囲気を残すようにした。

③掛詞も見落とさないで訳出する

④曖昧さを残さない

nimitta-(有相)(鳩摩羅什「空無相無作」の箇所のサンスクリット原文の検証について)


第1章:序(序品第一)

p.7
偉大な人であるマイトレーヤ(弥勒)菩薩

ブラフマー神群に属する一万二千人の天子たちに従われたサハー(娑婆)世界の主であるブラフマー神(梵天)も伴っていた。
(1万2千強調。サハーは娑婆)


p.57
註釈23
仏典ではブッダのことをしばしばjina-(勝利者)と呼んでいる。勝利者という語は、原始仏教においてもしばしば見られる。ただし、それは他者に対しての勝ち負けを言っているのではなく、自己に勝つこと(克己)として語られている。

『ダンマパダ』には次のようにある。
「実に自己に克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。自己を調えている人の中で常に自己を抑制している修行者――このような人の勝利したことを敗北したことになすようなことは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない」

仏教で最も重視されたことは、「真の自己」に目覚めることであるが、それは自己に勝つことによってなされる。

「真の自己」って表現は誤解されそうなので避けた方が良いのでは?
「本当の私」というアートマンみたいなものを見つける意味にとられかねないじゃん。
欲望を滅し、執着しなくなったことが勝利。これが「真の自己」という意味で使っているのだろうが、それなら、「悟りの境地」でいいじゃん。
)

p.65

未来における成仏の予言(授記)

p.41
アジタ(弥勒)

あの”名声を求めるもの”という名前の菩薩で怠け者であったところの人がいた。アジタよ、まさにあなたこそが、その時、その状況で怠け者であったその”名声を求めるもの”という名前の菩薩であったのだ115。

仏教化したミトラつまり弥勒〔の前世〕は怠け者だったと書いている。弥勒の格を下げて、弥勒信仰を咎めるための記述


註釈p.68から
114
燃燈仏(ねんとうぶつ。ディーパンカラ)は、はるかな過去において、釈尊の前身であった青年に「汝は、将来必ず釈迦牟尼仏となるであろう」と予言(授記)したとされる。この説話は、紀元前3世紀ごろの西北インドに起源するようで、南方仏教にも伝わったが、北方仏教で特に重視された。燃燈仏(ねんとうぶつ。ディーパンカラ)授記をテーマにした浮き彫りが、パキスタン北部からアフガニスタンの一部にかけたガンダーラ美術圏で多数発掘されている。

115
ここでは、マイトレーヤ(弥勒)に対していささか厳しい評価がなされている。マイトレーヤ信仰が強まるのは、クシャーナ王朝になってからと思われる。ガンダーラ仏教美術では釈尊の成道以前(=菩薩)、成道以後(=仏陀)の姿、そしてマイトレーヤの菩薩像が礼拝の対象として彫刻されていた。マイトレーヤ信仰に対するゾロアスター教の影響を指摘する学者もいる。ガンダーラ美術の影響を受けた中インドのマトゥラーやアヒチャトラでも水瓶を持ったガンダーラ式のマイトレーヤ菩薩が見られる。その二例には、「マイトレーヤ像」という文字が刻まれている。マイトレーヤ信仰は、大乗と小乗のいずれにも受け入れられていた。ただし、『雑譬喩経』の冒頭(大正蔵、巻四、499頁中)には、弥勒菩薩に会いたくて死にきれなかった高僧の話が登場する。弟子たちから「弥勒の教えには、六波羅蜜や、四無量心、四恩、四諦の教えと何か異なる点があるのでしょうか」「異なることがないのなら、弥勒の出現を待つ必要などないではありませんか」と諭されて目が覚め、弥勒菩薩を待つことなく阿羅漢に達して往生したという話である。こうした話が記録されているということは、マイトレーヤ信仰に対して仏教徒の中にも疑問を持っていた人たちがいたということであろう。『法華経』も、特にこの序品第一(第1章)や湧出品第十五(第14章)においてマイトレーヤに対していささか皮肉を込めた態度を取っている。
(「お釈迦様の教えと、弥勒の教えが同じなら、お釈迦様の教えを実行すれば良いだけだから、弥勒信仰は不要では?」ってことだ。
バラモン・ヒンドゥー教や、ミトラ教の影響はなかったの?

クシャーナ朝 - 世界史の窓
http://www.y-history.net/appendix/wh0201-051.html
” クシャーナ朝
1世紀頃、イラン系民族が北西インドを支配して建てた王朝。東西貿易ルートを抑え、2世紀ごろ全盛期となった。そのカニシカ王は仏教を保護し、そのもとでガンダーラ美術が栄えた。
〔画像省略。「1~3世紀 クシャーナ朝の統治範囲」。マトゥラーとプルシャプラが含まれている〕
 古代インド(近代前)の紀元1世紀中頃、中央アジアから北インドにかけて支配を及ぼしたイラン系の国家。東西交易の大動脈を抑えて繁栄した。2~3世紀ごろの統治者カニシカ王は、前3世紀のマウリヤ朝のアショーカ王と並んで仏教の保護にあたった王として知られている。
・POINT・ 教科書ではマウリヤ朝とクシャーナ朝は連続して説明され、いずれも仏教を保護したことを中心にとりあげられるので、同じような王朝と思いがちだが、同じインド史上の王朝であっても違いがかなりあることに注意しよう。まずマウリヤ朝は前3世紀にガンジス川流域に興ったインド人の国家であるが、クシャーナ朝は後1世紀ごろバクトリア方面から北インドに入ったイラン系国家(次第にインド化したが)であるこを押さえよう。また、クシャーナ朝の支配は南インドには及ばなかったこともを地図で確認しておくこと。

大月氏国とクシャーナ朝
 クシャーナ朝(クシャーン朝とも表記する)は中央アジアの大月氏国の支配を脱した同じイラン系民族のクシャーナ族が、西北インドに侵入してつくった国家であり、中国の史書(漢書)にも貴霜として現れる。
 月氏ははじめ中国のすぐ西にいたが、前2世紀後半に匈奴に敗れて西方のバクトリア(現在のアフガニスタン)に大移動し、大月氏国を建てた。漢の武帝が同盟しようとして張騫を派遣したあの大月氏国である。大月氏国は国土を有力な5諸侯に分けて統治させていたが、この5諸侯については、大月氏の一族と見る説と、土着のイラン系有力者と見る説とがある。そのうちの一つであるクシャーナ族の首長クジューラ=カドフィセスが1世紀の中ごろ、他の4諸侯を制圧して王を名乗り、西方のパルティアと戦った。続いて北インドのインダス川流域にも進出し、ガンダーラ地方のプルシャプラ(現在のペシャワール)を都として支配した。大月氏はイラン系の遊牧民であったが、ガンジス川流域に支配を及ぼすことによって、次第にインド化し、仏教も取り入れるようになった。<世界各国史(新版)『南アジア史』2004 山川出版社 p.86 などによる>

カニシカ王の仏教保護
 クシャーナ朝の第3代カニシカ王(その即位年は78年、128年、144年の三説があるが、2世紀前半のいずれかであろう)は仏教に帰依し、マウリヤ朝のアショーカ王に続く仏教の保護者となった。またこの時代に、ギリシア・ローマ起源のヘレニズムと、ペルシアのイラン文化、さらに中国と中央アジアの文化が融合し、ガンダーラ美術が開花した。都はガンダーラ地方の中心地のプルシャプラ(現在のペシャワール)であったが、その支配が岩持する川流域に及んだので、今日のデリーの近くのマトゥラーを副都とした。またこの時代に、仏教の革新運動としてナーガールジュナが登場し、大乗仏教が成立した。
カニシカ王の像 マトゥラー近郊の遺跡から、カニシカ王の像と言われるものが出土している(山川詳説世界史教科書 p.57)。これは頭部を欠いているが、中央アジア風の外套を身につけてベルトをしめ、フェルトの長靴を履いており、「遊牧民らしい出で立ち」となっていてクシャーナ朝が本来遊牧国家であったことをよく示している。

クシャーナ朝の支配領域
 クシャーナ朝はインドの王朝といっても、民族系統はイラン系と考えられ、またその支配領域も現在のアフガニスタン、イラン東部からパキスタンのパンジャーブ地方、インドのガンジス川上流から中流にかけてであった。インド全土を支配したのではないことに注意する。その支配は、ガンジス下流やデカン高原以南には及ばず、デカンにはインド亜大陸の先住民族であるドラヴィダ人の国家であるサータヴァーハナ朝が存在し、さらにその南にはチョーラ朝(前期チョーラ朝)とパーンディヤ朝があり、インド洋交易圏で活動していた。
クシャーナ朝のインド化 イラン系民族であるクシャーナ族は、前2世紀末ごろ、バクトリアに侵入して定住し、さらに紀元後1世紀ごろに領土を拡張し、パルティアやインド北部を征服してクシャーナ朝を建てた。彼らはバクトリア語を話し、ギリシア文字を使い、ゾロアスター教の拝火儀式も行っていたが、その本拠をインドに移すに従い、バクトリア語もゾロアスター教の信仰も棄て、プラークリット語(文語であったサンスクリット語に対するインドの俗語)を話し、大乗仏教の熱心な保護者となった。それによって仏教は内陸アジアに広がっていったが、北伝仏教の中の弥勒菩薩信仰は、ゾロアスター教の救世主思想の影響があったと考えられている。<メアリー=ボイス/山本由美子訳『ゾロアスター教』2010 講談社学術文庫 p.168>

クシャーナ朝と東西貿易
 クシャーナ朝時代は地中海をローマ帝国が支配していた時代で、ローマ帝国の支配下のギリシア人商人がペルシア湾からアラビア海に進出し、季節風貿易を展開した。前1~3世紀には、クシャーナ朝だけではなく、デカン高原のサータヴァーハナ朝やインド南端のチョーラ朝も、インド洋交易圏の季節風貿易を利用したローマとの交易を行っていた。インドからは胡椒などの香辛料、宝石、真珠、象牙、綿布などが輸出され、ローマからはぶどう酒やオリーブ油がもたらされたが、常にインド側の輸出超過であったので、ローマから代金として金貨がインドにもたらされた。クシャーナ朝ではローマからもたらされた金をもとに、ローマ貨幣に模して大量の金貨を造った。

後漢、ローマ帝国との関係
 クシャーナ朝の王は、東の漢帝国(後漢)に使者を送っている(『後漢書』ではクシャーナ朝も大月氏として出てくる)が、ローマ帝国のトラヤヌス帝の時にインドから使者というのもクシャーナ朝の王の使者であろうと言われている。

クシャーナ朝の衰退
 クシャーナ朝は3世紀に西方イラン高原に起こったササン朝ペルシアに圧迫され衰退した。同じころ、ローマ帝国も3世紀の危機といわれる衰退期に入っており、ローマとの交易も衰えたことがクシャーナ朝の衰退の要因の一つと考えられている。
” (着色は引用者)



第2章:巧みなる方便(方便品第二)
p.77
〔七つの〕覚りへの要件(七覚支)(しちかくし)

本書では
( ):言葉の言い換え
だが (しちかくし)は私がルビの代わりに書いた。
〔 〕:筆者による言葉の補足


p97から
シャーリプトラよ、私はただ一つの乗り物(一乗)、すなわち〔衆生を〕ブッダへと到らせる乗り物(仏乗)(ぶつじょう)について衆生たちに法(真理の教え)を説くのだ。シャーリプトラよ、〔そのほかに〕何か第二、あるいは第三の乗り物が存在するのではない 63.
〔法を法たらしめる〕根本の理法(法性)(ほっしょう)はこれなのである。

衆生たちにただ一つの乗り物(一乗)、すなわち、一切種智(仏智)(ぶっち)を終着点とするブッダに到る乗り物(仏乗)(ぶつじょう)について法を説かれたのである。

p145から
63の注釈。
(↓鳩摩羅什による漢訳の文語訳)
「余乗の若しは二、若しは三有ること無し」について。
けれどもサンスクリット原文を厳密に読めば、これは唯一を強調するレトリックであり、「声聞」「独覚」とも、「二乗」「三乗」とも読むのは誤りであることがわかる。

注67
(岩本訳や中公版の誤訳について)
筆者(本書の著者である植木)、
「如来たちは、巧みなる方便である三つの乗り物(三乗)による教示を通して、そのただ一つのブッダの乗り物(一仏乗)を説かれるのである」と訳した箇所は原典では次のようになっている。
省略
(岩本訳では)
「唯ひとつの仏の乗り物」を「三種の乗り物」という言葉に置き換えられて説かれるだけで、名前は変わっても同じものかという誤解を与えかねない余地がある。
それに対して中公版は次の通りである。
「三つの乗り物に分解して」
この場合は、原点にない「分解して」という言葉を補って訳した結果、「仏陀の乗り物」を三つに分解したものが「三つの乗り物」であるかのような誤解を招きかねない懸念が残る。

一仏乗と三乗との間には、「止揚」という関係が無視できない。
三乗は一仏乗を言い換えたものではない。
分解したものでもない。

三位一体とかほざいているスピ系がいそうだな


p169
註200
私にとって、この世に声聞〔と言われる人〕はだれ一人として存在しないのだ」と

一仏乗の思想によって「声聞と言われる人」を見ると、その人たちも本来、菩薩であって「声聞〔と言われる人〕はだれ一人として存在しないのだ」という意味なのである。
声聞がいなくなるとは、声聞が菩薩になるからではない。
それは、この方便品で展開される「声聞の菩薩への止揚」という考えに反するのである。「菩薩になる」のではなく、「本来、菩薩である」と法華経は主張しているのだ。これは、仏教史上画期的な発言である。
この世に声聞と言われる人はだれ一人として存在しないとは、法華経の根本思想の主張。


禅みたいだな。仏になるのではなく、すでに仏であることに気づく。言葉だけでなく心でも理解しないといけない)
(法華経などにいちいち『』をメモでつけないことがある)


・・・・・・・・中略・・・・・・・・

〔 〕は筆者による言葉の補足なのだが、補いすぎでは?
愛語って誤訳っぽいんだよな。キリスト教流入以前はよくても流入後はダメでしょ。
和顔愛語は駄目だけどな。和顔軟語でないとな。


p396
注95
「四摂事」は、catvāri saṃgraha-vastūni(〔人びとを〕包容〔して救うため〕の四つの事柄)を漢訳したもので、
①dāna(布施=施しを与えること)、
②priyavacana(愛語=慈愛の言葉)、
③arthacaryā(利行=他人のためになる行為)、
④samānārtha(同事=他人と協力すること)――の四つからなる。

高楠順次郎による編集の『大正新修大蔵経』(全百巻)だと「和顔軟語」。欄外の注には、「軟=愛」と表記されている。しかし、現在流布している比較的入手しやすい『無量寿経』のテキストや資料には、「和顔愛語」となっている。意図的に「愛」に変えようとしている奴らがいるってことだ。
仏教では愛は渇愛を想起させるので悪い印象がある。まあ良い意味でも使われるんだけどさ。
無量寿経というなかの和顔軟語というのを、愛にむりやりすり替え、和顔愛語と改竄した経典を広めたグループの一員が高楠順次郎。
高楠順次郎はエスペランティストで、
1906年に黒板勝美らと共に日本エスペラント協会の結成に参加し、東京支部長。
1919年に日本エスペラント学会が設立された際は、当初は評議員として参加。
世界連邦派の仏教を耶蘇化させるための憑依戦術系の工作員。
神戸の裕福な高楠家の婿養子となり、その援助で英国に留学、オックスフォード大学でM.ミュラーに師事し、その後、ドイツやフランスにも留学しているあいだにスカウトされたのだろう。
仏典もできる限り昔に出たものを読まないとダメだね。
仏教は神秘主義という完全に間違ったデマを広めた神智学系の鈴木大拙と、
エスペラントの高楠順次郎がからむ本で仏教を学んではいけない!
仏教経典改竄を平気でやるヤソ勢力。エスペラント大好き大本教の王仁三郎「仏教を滅ぼせ」


・・・・・・・・・中略・・・・・・・

p572から
注17
女人成仏を説く『法華経』において、このように女性を悪と並べてブッダの国土から排除するのは、例外的なことである。シャーリプトラなどの他の声聞たちのブッダの国土においては、女性は全く排除されていない。刈谷定彦博士は、この箇所の描写は後世の付加であろうと述べている。著者は、『無量寿経』の思想を割り込ませたものだと考える。その詳細は、cf.植木雅俊著『仏教のなかの男女観』、岩波書店、pp.243-249。
(
新約聖書のマグダラのマリアの特別な地位を見るに、マグダラのマリアもどうみても使徒なのに、使徒が男ばかりなのを思い出すな。
娼婦でない可能性が高い。そもそも娼婦という解釈も女性差別が混ざってそうなんだよな。
外典ではマグダラのマリアは使徒(イエスの弟子)なんだよな。使徒だったのを男尊女卑的に改悪したのだろう。仏教みたいにな。

https://twitter.com/nekonomical/status/1338483666045923328 と続き

紀元前後のインドでは現代で言う小乗仏教が多数派で、大乗仏教は少数派だったのだ。『般若経』は大乗仏教の側から小乗仏教の出家者たちを批判、『維摩経』は保守的で権威主義的な部派仏教を糾弾するものとして書かれたのだ。そして『法華経』は小乗と大乗の対立を止揚するものとして書かれたのだ。
画像
午後11:12 · 2020年12月14日·Twitter Web App

原始仏教から小乗仏教(=「説一切有部」と言う部派が代表)に至る流れで、小乗仏教の権威付けのために多くの改変がされているのだ。

例えばゴータマは「私は人間である」と原始仏教では語っているのに、小乗仏教では「私は人間ではない、ブッダである」と人間離れしたものに祭り上げられたのだ。
午後11:18 · 2020年12月14日·Twitter Web App


・・・・・・・・・中略・・・・・・・

p95から
マンジュシリー〔菩薩〕が言った。
「良家の息子よ、サーガラ龍王の娘(龍女〔りゅうにょ〕)がいるのだ。〔その娘は〕生まれて八年で、大いなる智慧をそなえ、研ぎ澄まされた能力を持ち、智に基づいた身体と言葉と心の行ない(身口意〔しんくい〕の三業〔さんごう〕)を具えており、あらゆる如来が説かれた象徴的表現の意味を会得していて、ダーラニー(陀羅尼)を得ており、あらゆる事物や衆生に対して精神集中する幾千もの三昧(ざんまい)を一瞬にして獲得しているのだ。

〔サーガラ龍王の娘は〕次の詩句(偈)(げ)を述べた。
私にとって完全なる覚りは思うがままであり、その際、私の証人は如来であります。


尊者シャーリプトラ(舎利弗)
「(前略)女性は、今日まで五つの位に到達したことはないからだ。
第一はブラフマーの位、第二はインドラの位、第三は大王の位、第四は転輪〔王(のう)〕の位、第五は不退転の菩薩の位である」

仏どころか不退転の菩薩にすらなれねーよって小乗の立場で言っている。
シャーリプトラは汚れ役だな


一切世間の〔人々の〕眼前において、また長老シャーリプトラの眼前において、その女性の性器が消えてなくなり、男性の性器が現われ33、そして、サーガラ龍王の娘は、自ら真の菩薩であることをはっきりと示した。

サハー〔娑婆〕世界

p107
注33
「女性の性器が消えてなくなり、男性の性器が現れ」という箇所は、「変成男子(へんじょうなんし)」(変じて男子と成る)と漢訳された。この言葉尻をとらえて、「女性に対する差別」「時代思潮の制約から完全には自由になっていない限界」などといった論評がなされている。ところが、原文の前後を読むと、変成男子は、女性の成仏に必要不可欠な条件として描写されているのではなく、小乗仏教の偏頗な女性観にとらわれた人に、女性の成仏が可能なことを説得するための手段として用いられていることが分かる。


デーヴァダッタという悪人でも成仏できる=仏陀になれるという悪人成仏が重要。
①女性でも、②年齢が8歳(1桁の子供)でも、③人間でなくても、仏になれると書いたのが重要。
女人成仏思想。

スピ系が勝手に、両性具有属性とかドラコニアンとかシェイプシフトとか言ってそうな箇所だな。

・・・・・・・・・・中略・・・・・・


 人類史上初めて唱えられた平等思想
平等は、「へいとう」と読まないで、「びょうどう」と読む。漢音ではなく、呉音の読み方がなされるということは、「平等」が仏教用語であることを意味している。それは、サンスクリット語のサマ(sama)、あるいはその名詞形サマターの漢訳語である。中村博士は、1949年に出版した『宗教における思索と実践』で、「人類の歴史において『平等』ということを最も明瞭な自覚を以て最初に唱えたのは、インドの仏教徒であった」と論じている。
 歴史的人物としての釈尊の教えに近い原始仏典では、際立った平等思想が説かれ、釈尊在世中の教団内ではそれが実現されていた。釈尊は、決して権威主義的ではなく、原始仏典では自分のことを「人間」であり、「善き友人である私」と語っていた。弟子たちから「ゴータマ」、あるいは「ゴータマさん」「君よ」と呼ばれても、全く意に介することはなかった。釈尊在世当時の男女の弟子たちが自ら綴った詩集『テーラ・ガーター』『テーリー・ガーター』を読むと、女性たちが男性たちに勝るとも劣らず、溌剌として「釈尊の教えを成し遂げました」「解脱しました」と語っている(拙著『仏教のなかの男女観』第二章を参照)。ブッダという語は「目覚めた人」という意味で、原始仏典では特定の一人を指す固有名詞ではなく、普通名詞として複数形で用いられていた。釈尊の最初の説法の際の五人の弟子たちの覚り(原文ママ)の場面の描写は、釈尊の場合と全く同じ表現になっていた。
 ところが、釈尊入滅後、次第に様相は変化する。釈尊が亡くなって100年ほど経った紀元前三世紀後半以降、教団は分裂を繰り返し、部派仏教(いわゆる小乗仏教)の時代に入る。そこにおいて、教義の緻密な体系化がなされる一方で、男性・出家者中心主義、隠遁的な僧院仏教という傾向を強め、煩瑣な教理の研究と修行に明け暮れ、遂には民衆と遊離してしまった。その中でも特にガンダーラを中心に西北インドで勢力を振っていたのが説一切有部であった。こうして、保守・権威主義的な傾向を強め、在家や女性に対する差別が始まり、仏弟子を意味していた「声聞」から在家や女性は排除されてしまい、小乗仏教の男性出家者をさす言葉に限定された。その結果、大乗仏典で「声聞」という語は、もっぱら小乗仏教の男性出家者を批判する場面で用いられることになった。
 こうした思想情況に対して、紀元前後ごろに平等の旗印を掲げて思想運動を展開したのが大乗仏教であり、それが法華経の一仏乗の思想へと結実した。

 
 小乗仏教の差別思想
 原始仏典では、在家も出家も男女の別なく仏弟子とされ、在家であっても「智慧を具えた聖なる仏弟子」とまで称されていたが、小乗仏教では在家と女性が仏弟子から排除された。
 原始仏典で代表的な仏弟子は、在家・出家・男女の区別なく列挙されていて、女性の智慧第一、説法第一もいたし、在家の説法第一もいた。釈尊の教えを理解できなくて智慧第一の女性に質問し、明快な答えを聞いて感動した男性出家者の話も記録されている(拙著『仏教のなかの男女観』96~100頁を参照)。それなのに、小乗仏教では女性と在家の代表的な仏弟子が削除され、「智慧第一のシャーリプトラ(舎利弗)」「多聞第一のアーナンダ(阿難)」などと男性出家者のみの十大弟子に限定された。
 原始仏典で釈尊は、「私は人間である」と語っていたが、小乗仏教では「私は人間ではない、ブッダである」と神格化され、釈尊の言葉に仮託して、「私を喬答摩(ゴータマ)などと呼ぶものは、激しい苦しみを受けるであろう」とまで語られるようになった。最古の原始仏典とされる『スッタニパータ』に、「まのあたり即時に実現され、時を要しない法」(中村元訳『ブッダのことば』)とあったにもかかわらず、小乗仏教では、何劫(こう)(kalpa)もの天文学的な時間をかけて修行(歴劫修行〔りゃっこうしゅぎょう〕)してやっとブッダになったとされ、ブッダが人間離れしたものとされた。
  釈尊はその歴劫修行の結果、遥かな過去のディーパンカラ仏(燃燈(ねんとう)仏)のもとで未来成仏の予言(授記)がなされたとされ、ブッダとなるまでの釈尊を「覚り(bodhi)が確定している人(sattva)」という意味でbodhi-sattva(菩提薩埵(ぼだいさった)、略して菩薩)と呼んだ。それは紀元前二世紀ごろのことであった。小乗仏教で菩薩は、釈尊と未来仏のマイトレーヤ(弥勒)に限定され、ブッダになれるのは、釈尊とマイトレーヤのみとされた。男性出家者はブッダにはなれないが、阿羅漢にはなれる。その阿羅漢には、どんなに徳があり、学識があったとしても在家は至ることはできない(在家非阿羅漢論)。ましてや女性は、女性であること自体で絶対に成仏できない(女人不成仏(にょにんふじょうぶつ))とされた。原始仏典では、多くの女性出家者が「ブッダの教えを成し遂げました」「解脱しました」と語り、また在家について「世俗の生活のままで究極の境地に達し得るという思想が表明され」(中村元著『ゴータマ・ブッダⅠ』)ていたのとは、大変な様変わりである。

生まれで差別する(性別含む)って放っておったら勝手にそうなるんだろうな。

初期経典に覚りに達した女性がいっぱい出てくるんだよな。岩波文庫から『尼僧の告白』って題名で出てる『テーリーガーター』など。
『テーリーガーター 尼僧の告白』は釈尊の女性弟子たちの発言録で、涅槃に至った人々もいる。
女人不作仏は釈迦の教えではないとよくわかる。
法華経の悪人成仏と女人成仏は革新的。悪人成仏の初期仏教の扱いは知らないけどね。
「かくのごとき車に乗る人は、男であろうと、女であろうと、実にこの車によって、安らぎ(ニルヴァーナ)のもとに至るであろう。」(中村元訳「相応部経典」より)


 大乗仏教の平等思想と差別思想
 それに対して、紀元前後に興起した大乗仏教は、仏弟子(声聞)として仏の説かれた教え(声)を学ぶ(聞く)のみの小乗仏教の自利(じり)の修行に飽き足りず、ブッダと同じく菩薩行を修してブッダの覚りを得ること、人々に対して利他行(りたぎょう)を貫くことを理想とした。その大乗仏教運動の先駆けが『般若経』編纂者たちによってなされた。
 彼らは、自らの掲げる教えをマハー・ヤーナ(偉大な乗り物)と称し、伝統的仏教をヒーナ・ヤーナ(貧弱な乗り物)と貶称(へんしょう)した。それぞれ、「大乗」「小乗」と漢訳された。大乗は、「覚り(bodhi)を得ることが確定している人(sattva)」という意味で小乗仏教が用いていた菩薩(bodhi-sattva)という言葉を、「覚り(bodhi)を求める人(sattva)」と読み替え、成仏をあらゆる人に開放するという仏教本来の平等思想を打ち出した。
 (だから、大乗は仏教ではない、というのも誤りなんだよね
 )
『法華経』をはじめとする大乗仏教の主張は、「釈尊の原点に還れ」をスローガンとする"仏教のルネッサンス運動"であったと言っても過言ではない。


・・・・・・・・・中略・・・・・・・・

引用者注:
法華経などでわかるように、大乗仏教はミトラ=弥勒信仰を咎めるわけよ。
対して「仏教を滅ぼす」思想の大本教系は「みろくの世(ミトラの世)」を強調する。
仏教大嫌い思想なので、仏教が「良くない」と言っていることを崇めたり褒めたりするわけだ。


提婆達多(デーヴァダッタ)は教団を分裂させた悪人とされてきたのだ。しかし『法華経』では彼を仙人として登場させ、しかも釈尊が『法華経』の教えを請うため奴隷になって仕えたと語られるのだ。悪人とされた提婆達多もブッダの善き友であり、成仏できるのだ。
八歳の龍女でも成仏できるのかという話が面白いのだ。まず龍なので「畜生」なのだ。そして八歳というのは、当時の価値観で「胎児」とされるのだ。そして女性差別は激しく、夫が亡くなったら妻は火の中に飛び込まなければならない慣習だったのだ。(寡婦焚死、ヒンディー語で「サティー」と言うのだ)

このような背景があった上で、龍女は悟りを持っていることを語るのだ。しかし聞いている方(智積菩薩)は簡単に納得できないのだ。そこで龍女は説得のために男性に変身(変成男子)して、成仏の姿を見せ、大衆を説法し、人々を歓喜させたのだ。菩薩も沈黙してしまうのだ。

善女龍王像 長谷川等伯・画



 釈尊は多くの世界に現れては、それぞれの国土で如来としての自分の名前をそれぞれに名乗る。
 (並行世界論じゃん。その発想自体に法華経が影響しているかも。日本語以外の言語の翻訳の歴史についてはよくしらないけど)

こうして、多くのブッダ、如来たちが、釈尊という「永遠のブッダ」の化現(けげん)したものだとして統一した。
(お経がたくさんある理由の説明ね)

 釈尊は、「遥かな昔に覚りに達し、量ることのできない寿命の長さを持ち、常に存在し続けている」(本書下巻、92頁)、すなわち、久遠以来ずっとブッダであり、存在し続けて説法している。
 「永遠のブッダ」は「果徳」であり、「菩薩行の実践」は「因行」に当たる。そうすると、これは報身のことを示す「因行果徳身(いんぎょうかとくしん)」ということになる。永遠性に根差しつつ、現実とのかかわりを持って菩薩としての働きをなし続ける存在だということである。
 
 以上が、法華経の原型とされる部分の概略である。
 (寿命があるなら永遠じゃないじゃん。
久遠実成(くおんじつじょう)=無量無辺の遥かな過去において釈尊が成道していたこと)

 衣裏珠(えりじゅ)の譬え(授記品)
 (
 人名みたいだ。エリ、エリージュちゃん)

p.294から

(大乗非仏論について著者が書いた箇所にて。富永仲基が)
p.294、植木 雅俊〔うえき まさとし〕訳『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(下)(の植木の解説より)

大乗仏典の文献学的考察において独創性を発揮したことは大いに評価されるが、『法華経』の思想的内容にまでは理解が及ばなかったといえよう。中村元先生が、「思想の研究において文献学のみに頼って研究する人を、私は信用しません」と語っておられた(拙著『仏教学者 中村元――求道のことばと思想』(四三頁を参照)ことを思い出す。



終わりに
法華経も、形骸化され、権威の象徴に祀り上げられることもあるかもしれない。
それは、ほかならぬ法華経自身が「正しい教え(正法)に似て非なる教え(像法)」という言葉を用いて懸念していたことである。
(スピリチュアル仏教のことかな?
法華経が懸念していたのが像法だもんな。
スピ信者って法華経が好きっぽいんだよな。憑依できそうな箇所があるでしょ?
まさに像法じゃねーか。いや像法どころか邪教というか外道だな。だって根本が違うからな)

あとがき
p299
本書の出版のために手直しした『法華経』の現代語訳
(梵語があるのとは訳文が違うということだ。

マジで素晴らしい翻訳と解説だったよ!)

・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
抜粋終わり

>植木雅俊『梵漢和対照・現代語訳 法華経』 岩波書店(上・下)、2008年
植木雅俊『サンスクリット原典現代語訳 法華経』(上下)、2015年


一度、これ読んでみるか。


法華経は、結構工作員の詐術の舞台にもなっているので、良いの探すのが難しいけど。ありがたいです。


お読みくださりありがとうございます。









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規格外の馬鹿の日本人。


これも天皇陛下のおかげです。




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