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子牙山遍照院 渾沌堂主人雑記  {大日本国終焉日記 }

半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

日本人のこれから・・・

再度「これからの「日本人」は・・・」と易に聴きました。

風雷益 の不変爻


http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-47.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・・
八卦のshinrai-n.gif震(しん)の上に、sonfuu-n.gif巽(そん)を重ねた形。

益は、益す、増加する、といった意。

交代生卦法によれば、もとは天地否より来たものとする。
天地否の九四が来たって初に居り、初六が往きて四に居るのが、この風雷益である。
これは上を損(へら)して下を益す様子である。
だから益と名付けられた。

しかし、山沢損同様に、これも全体から観れば剛柔の交代のみであって、損益はない。
それなのに、ことさら益という。
それは、国家経済を以って喩えれば、上君主の驕りを減らして、下万民を賑わし恵むときは、その国は大いに富むものである。
また、内卦を自分、外卦を相手とすれば、外を減らして内に益し、相手を減らして自分に益す様子である。
また、草木を以って言えば、上の枝葉を透かし減らし、その枝葉を肥料として下の根元に撒くときは、その草木は大きく育つものである。
また、家屋をもって言えば、上の棟木を減らして下の柱を益すときには、その建物は強固にして、倒壊の危険は少なくなり、安全性が益す。
したがって、これらの様子から、ことさらに、益と名付けられた。

また、交代生卦法に従って言えば、天地否の初往き四来るは天地陰陽の二気が上り下って相交わることである。
陰陽の二気が交わるときは、必ずよく雨を成す。
坤地はその雨を承(う)けて、震巽の草木を生じるものである。
天地の草木百物を発生養育するのは、益の根本である。
だから益と名付ける。

また、震を動くとし、巽を従うとすれば、これは自分が動いて相手が従う様子である。
自分が動いて相手が従うときには、互いに相助け益すことになる。
だから益と名付けられた。
また、震を長男とし男とし、巽を長女とし女とすれば、長男長女すなわち男女が相交わり相助け益す様子であり、そうであれば子孫は繁栄するものである。
だから益と名付けられた。

しかし、風も雷も形のないものであり、常に動いているものであり、損益のものである(乾の最下の陽を損したのが巽、坤の最下に陽を益したのが震である)。
雷は陽の気の動きであり、風は陰の気の動きである。
そもそも陰陽は、相助けて益すものである。
雷が奮えばそれに呼応して風が怒り、風が烈しいときは雷が呼応して轟く。
これは雷と風が相助け合って益している様子である。
だから益と名付けられた。

・・・・・・中略・・・・・

卦辞
益、利有攸往、利渉大川、

益は、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、

往く攸とは、おこなうことを言い、この卦では、上を損(へら)して下を益すことを指す。
また、この卦は二五共に中正を得て、君臣相益す様子である。
だから、往く攸有るに利ろし、という。
また、大川を渉るときには、舟に楫(かじ)が必要だが、巽も震も木とする卦であり、その木は楫として利用するものである。
また、巽を従う、震を動くとして、従って動く様子とし、巽を風とし従うとし、震を舟とし動くとすれば、震巽二木の舟が風に従って動き行く様子である。
だから、大川を渉るに利ろし、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
益、損上下益、民説无疆、自上下下、其道大光、
益(えき)は、上(うえ)を損(へ)らして下(した)に益(ま)す、民(たみ)の説(よろこ)ぶこと疆(かぎ)り无(な)し、上(うえ)自(よ)り下(した)に下(くだ)る、其(そ)の道(みち)大(おお)いに光(ひか)れり、

利有攸往、中正有慶、利渉大川、木道乃行、
往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろしとは、中正(ちゅうせい)にして慶(よろこ)び有(あ)るなり、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろしとは、木道(もくどう)乃(の)行(おこな)わるるなり、

益動而巽、日新无疆、天施、地生、其益无方、凡益之道、与時偕行
益(えき)は動(うご)いて而(しこう)して巽(したが)う、日(ひ)に進(すす)むこと疆(かぎ)り无(な)し、天施(てんし)、地生(ちしょう)をなす、其(そ)の益(ま)すこと方(ほう)无(な)し、凡(およ)そ益(えき)之(の)道(みち)、時(とき)与(と)偕(とも)に行(おこな)わる、


象伝(原文と書き下しのみ)
風雷、益、君子以見善則遷、有過則改、
風雷(ふうらい)は、益(ま)し、君子(くんし)以(も)って善(ぜん)を見(み)れば、則(すなわ)ち遷(うつ)り、過(あやま)ち有(あ)れば、則(すなわ)ち改(あらた)む、


・・・・中略・・・・

42 風雷益 爻辞

上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━○

初九、利用為大作、元吉、无咎、

初九(しょきゅう)、用(もち)いて大作(たいさく)を為(な)すに利(よ)ろし、元吉(げんきち)なり、咎(とが)无(な)し、

今、下を益すという時に当たって、初九は陽剛の才徳が有り、正を得て、なおかつ成卦の主爻にして、内卦震の主である。
さて、下を益すというにも二途が有る。
ひとつは、家毎に食料や金銭を配布することである。
しかし、こんなことは、無尽蔵の財でもなければ、継続的に続けられるものではない。
したがって、こういうことを以って、下を益すとは言えない。
本当に下を益すと言えることは、例えば水害対策をしたり、新しい農法や技術を導入したりといったように、民が生活し働くための基本的な環境整備をすることである。
このように、民の生活に有益な事業を行うことが大事なのであって、これを大作と言う。
だから、用いて大作を為すに利ろし、という。
この事業により、民が豊饒になれば、まさに大善の吉であるとともに、こうしてこそ、益の時の宜きに適い、咎はないのである。
だから、元吉なり、咎无し、という。


上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━○
初九━━━

六二、或益之、十朋之亀、弗克違、永貞吉、王用亨于帝、吉、

六二(りくじ)、之(これ)に益(ま)すこと或(あ)れば、十朋(じっぽう)之(の)亀(き)も、違(たご)うこと弗克(あたわじ)、永(なが)く貞(つね)あれば吉(きち)なり、王(おう)用(もち)いて帝(てい)に亨(すすめまつ)る、吉(きち)なり、

今、下を益すの時に当たって、六二は柔中の徳を以って九五剛中の君に応じている。
これを以って九五の君は、六二の忠臣に委ね任せて、下を益そうとし、六二の忠臣は、よくこの君命にしたがって、下を益すことに勤め励む。
だから、之に益すこと或れば、という。
之とは天下万民を指す。
上の驕奢を省き損(へら)して、それを下民のために使うことである。
このような態度であるのならば、十朋の霊亀に問い質すとも、善であり吉であることに、間違いない。
だから、十朋之亀も、違うこと弗克、という。
これは、大善の吉だ、ということを込めた賛辞である。

このように下民を賑わし益すことは、間断があってはいけない。
永く続けてこそ、意味がある。
だから、永く貞あれば吉なり、という。

かつて周の先王は、至仁の政を以って下民を賑わすに当たり、自身の誠敬の志と、下民悦楽の情とを以って、上帝に亨った。
そうすることで、多くの福を得たのである。
だから、王用いて帝に亨る、吉なり、という。
この王とは、周の先王のことである。
帝は上帝のことで、上帝とは、天の運行を司る最高の神であり、天帝などとも呼ばれる。
ともあれ、下民を賑わし益すのであって、王も胸を張って上帝に亨ることができるのである。


上九━━━
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━○
六二━ ━
初九━━━

六三、益之用凶事、无咎、有孚中行、告公用圭、

六三(りくさん)、之(これ)を益(ま)すに凶事(きょうじ)を用(もち)うるとも、咎(とが)无(な)し、孚(まこと)有(あ)って中行(ちゅうこう)ならば、公(こう)に告(こく)して圭(けい)を用(もち)うべし、

この六三には善悪二つの面がある。
六三は陰柔不中正にして内卦震の震動の極に居る。
これが悪い方に影響すれば、妄りに動いて利益を求めようとしているものとする。
これは道を失うことの甚だしい者である。
しかし、今は益の時なので、何かを益さないといけない。
その六三の行動に問題があるのなら、六三にとって好ましくないこと=凶事=罰を益し与えたとしても、それを咎める人はいない。
だから、之を益すに凶事を用うるとも、咎无し、という。

ところで、三爻と四爻は全卦の中ほどの位置である。
六爻が行列して進んでいるとすると、六三は先走らず遅れず、中ほどを行っていることになる。
とすると、六三は問題を起こす場合もあるが、このように静かにみんなに従って慎ましく孚信を以って中ほどを行っている場合もある。
これが第二の面であって、もし、そうであるのなら、これを誉め、六四執政の大臣は九五の君公に告げて、褒美=賞を与えるべきである。
だから、孚有って中行ならば、公に告して圭を用うべし、という。
圭とは賞のことである。

ともあれ、六三は、陰柔不中正にして内卦震の極にいるので、良い事も悪い事もしてしまうのである。
悪い事は罰し、良い事には褒美を与え、良し悪しをきちんとすることが大事なのである。


上九━━━
九五━━━
六四━ ━○
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

六四、中行告公従、利用為依遷国、

六四(りくし)、中行(ちゅうこう)をもって公(こう)に告(もう)して従(したが)わる、依(よ)ることを為(な)し、国(くに)を遷(うつ)すに用(もち)うるに利(よ)ろし、

六四は柔正を得て宰相の位に居るので、よく中行の道を以って公に告げる者である。
したがって、その言葉を聞き入れてもらえる。
だから、中行をもって公に告して従わる、という。

そもそも今は、下を益すべき時なので、下民を賑わし益して、国の基を強くするのが大事である。
下民に疾苦するところがあれば、速やかに救済して安からしめるべきである。
常に、民が飢えや寒さの患いのないようにしないといけない。
それが宰相の職であり任である。

そもそも国を開き、民人を安堵させ、足らし益して繁昌させることは、国都とするべき適切な場所を得ることである。
もし、国都とするべき場所がないときは、民が依り頼むところを失うことである。
もとより国都を建てることは、民の利便性を図り、その居に安堵させることを目的としているのである。
したがって、その国都が、民にとって不便で引っ越したいと思うようなところであれば、その時宜に中して、国都を下民が安堵する場所に遷すのもよい。
これは下を益すということの中でも、最も大なることである。
だから、依ることを為し国を遷すに用うるに利ろし、という。


上九━━━
九五━━━○
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

九五、有孚恵心、勿問元吉、有孚恵我徳、

九五(きゅうご)、恵心(けいしん)に孚(まこと)有(あ)れば、問(と)うこと勿(なか)れ、元吉(げんきち)なり、我(わ)が徳(とく)を恵(けい)とするに有孚(ちがいな)し、

今、上を損(へら)し、下を益すの時に当たって、九五の君は、剛健中正の徳が在り、孚信誠実で、よく自分を省み、華靡を止め、下民を益し厚くすることを専らとする者である。
そもそも君上に、よく恵心が有り、兆民を益し厚くすることがこのようならば、これこそ君徳の最上にして、大善の吉であることは、問わずとも自明である。
だから、恵心に孚有れば、問うこと勿れ、元吉なり、という。

君上の徳が、すでにこのようであるのならば、下民は必ずやその君徳を恩沢仁恵として感謝するものである。
君上の徳こそが、下民にとっては恵なのである。
だからね我が徳を恵とするに有孚し、という。


上九━━━○
九五━━━
六四━ ━
六三━ ━
六二━ ━
初九━━━

上九、莫益之、或撃之、立心勿恒、凶、

上九(じょうきゅう)、之(これ)を益(ま)すこと莫(な)くして、之(これ)を撃(う)つこと或(あ)り、心(こころ)を立(た)つること恒(つね)勿(なか)ればなり、凶(きょう)なり、

上九は不中正の志行にして、上を損(へら)して下を益すというこの時であっても、その身は益の全卦の極に居て、道を失い、利を貪るの念が甚だしい者である。
したがって、下に益すことは考えず、自身の利益のみを求め貪るのである。
これは、時に悖(もと)り、道に逆(さから)い、人に背(そむ)くことである。
このような人物なので、他人もまた上九に味方することはなく、却って寇として撃つ者も出てくる。
だから、之を益すこと莫くして、之を撃つこと或り、という。

およそ、利を貪ることの甚だしい者は、進退共に利に由らないことはない。
不仁を恥じることなく、不義をも畏れず、直接の利が見えなければ勤め励むことのない小人である。
したがって、その心志、心の立ち様は変動して定まることがない。
これは恒常のない人である。
人として常の徳を失ってしまうのは、言うまでもなく凶である。
だから、心を立つること恒勿ればなり、凶なり、という。



・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり

>およそ、利を貪ることの甚だしい者は、進退共に利に由らないことはない。
不仁を恥じることなく、不義をも畏れず、直接の利が見えなければ勤め励むことのない小人である。
したがって、その心志、心の立ち様は変動して定まることがない。
これは恒常のない人である。
人として常の徳を失ってしまうのは、言うまでもなく凶である。
だから、心を立つること恒勿ればなり、凶なり、という。

我利我利の、エゴイズムで、自分だけ利益をむさぼることを正義とするような、たとえばネオコンや巷の愛国者とか、経団連とか、は凶です、死です。

でも

>今、上を損(へら)し、下を益すの時に当たって、九五の君は、剛健中正の徳が在り、孚信誠実で、よく自分を省み、華靡を止め、下民を益し厚くすることを専らとする者である。
そもそも君上に、よく恵心が有り、兆民を益し厚くすることがこのようならば、これこそ君徳の最上にして、大善の吉であることは、問わずとも自明である。
だから、恵心に孚有れば、問うこと勿れ、元吉なり、という。

自分の利益を、自他の及ぼし

「他人とともに楽しむのはその楽しみも長い」

という風な人には、ハッピーが吉が待ち構えています。


そういう意味で、なにか当たってそうな答えに思います。


お読みくださりありがとうございます。

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日本マジヤバイ!特に保育園問題は、ホに次ぐ大問題・・・。

先日、易で「今後の日本は・・・」と漠然とした感じで聴きました・・・・・。

ちょっと怖いですは・・・

沢水困 3爻

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-52.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・
47 沢水困(たくすいこん)

・・・・中略・・・

困とは、苦しむ、困窮して自らの力では打開できない、という意。

易位生卦法によれば、もとは水沢節から来たものとする。
水沢節は、坎の水が兌の沢の上に在り、沢水が溢れず枯れずほどよくある様子である。
それが今、上下が入れ替わると、兌の水は悉く漏れ下り、この沢水困となる。
これは、沢水が涸渇した様子であり、困窮厄難を示す。
だから困と名付けられた。

また、内卦の坎は一陽二陰の間に陥り、二陰のために覆われている様子、外卦の兌は一陰が二陽の上に在り、これも二陽が一陰に覆われている様子である。
また、下の坎は陽卦、上の兌は陰卦であり、陰卦をもって陽卦を覆っている様子である。
また、陰は小人の道、陽は君子の道であり、陽を男子とし、陰を女子とすれば、君子は小人に覆われ、男子は女子に覆われている様子である。
男子が女子に覆われるというのは、男性が色仕掛けで誘惑する女性の言いなりになっていることである。
これらは、困窮の至って甚だしいことである。
だから困と名付けられた。

・・・・中略・・・・

卦辞
困、亨、貞、大人吉、无咎、有言不信、

困は、亨(とお)る、貞(ただ)しかるべし、大人(たいじん)は吉(きち)、咎(とが)无(な)し、言うこと有れども信ぜられじ、

この卦は、坎を険難、兌を悦ぶとすれば、険難のときに悦んでいる様子となる。
険難のときであっても悦んでいるのは、一見問題がありそうだが、実はこれこそ困のときの正しい道なのである。
天命に身を委ね、その困窮に甘んじ、時期を待つしかないときである。
徒に悩んでも解決するものではない。
とすれば、その険難に置かれている状況を悦び楽しみとするのが、一番精神衛生にもよいし、そのようにしていれば、人間としての器の大きさも評価されるのである。
逆に、困窮を脱しようと右往左往しても、おいそれとは脱出できないものである。
なんとか現状を打開するためにと、甘い見通しを立てて無理して金策に走り、結局は失敗し、さらに借金に借金を重ね、ついには泥沼に陥ることがあるように。
したがって、今置かれている険難の状況を悦び楽しむ余裕こそが大事なのである。
そうしていれば、やがて必ず困窮を脱するときが来るものである。
だから、困は亨る、貞しかるべし、という。
亨るというのは、今すぐにではない。
貞しく、というのは、この場合は、険難を悦ぶ余裕で耐えることである。
困のときだからこそ、貞しく険難を悦ぶ余裕で耐えていれば、いつか困窮から脱して、そのときに亨通する、ということである。
大人ならば、どんなに困窮しても、天を恨まず、他人を咎めず、ひたすら貞正の道を守り、険難を悦び、時が至るのを待つものである。
右往左往するのは小人である。
だから、大人は吉、咎无し、という。
咎无しとは、道に違はざることである。
これが小人ならば、凶、咎有り、ということになる。
およそ人は困苦のときに遇うと、必ずその困窮を緩和し、険難を脱しようと、数々の辛酸を舐め、恥辱を耐え、耳を低くして尾を伏せ、他人に哀れみを求め、救済を乞い、哀しみ訴えるものである。
しかし、そうして訴えても、どこまで相手から信用され、助けて貰えるだろうか。
世の中というのは、そんなに甘くない。
自分がその困窮をあれこれ言っても、話半分にしか聞いて貰えないのが普通である。
だから、言うこと有れども信じられじ、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
困、剛揜也、
困(こん)は、剛(ごう)揜(おお)はるる也(なり)、

険以説、困而不失其所亨、其唯君子乎、
険(けん)にして以(も)って説(よろこ)ぶ、困(くる)しんで而(しこう)して其(そ)の亨(とお)る所(ところ)を失(うしな)わざるは、其(そ)れ唯(ただ)君子(くんし)乎(か)、

貞、大人吉、以剛中也、
貞(ただ)しくせよ、大人(たいじん)なれば吉(きち)なりとは、剛中(ごうちゅう)なるを以(も)って也(なり)、

有言不信、尚口乃竆也、
言(い)うこと有(あ)りとも信(しん)ぜられずとは、口(くち)に尚(たよ)れば乃(すなわ)ち竆(きゅう)する也(なり)、

象伝(原文と書き下しのみ)
沢无水、困、君子以致命遂志、
沢(さわ)に水(みず)无(な)きは、困(こん)なり、君子(くんし)以(も)って命(めい)を致(いた)し志(こころざし)を遂(と)ぐ、

・・・・・・中略・・・・

六三、困于石、據于蒺*梨、入于其宮、不見其妻、凶、
*梨は正しくは草冠に梨という字で、茨など棘がある植物のこと。
この字(図形として作成)→ri_toge.gif
しかし、JIS規格にもユニコードにもないので、意味は異なるが音が同じ*梨で代用しておく。

六三(りくさん)、石(いし)に困(くる)しみ蒺*梨(しつり)に據(よ)る、其(そ)の宮(みや)に入(い)りて、其(そ)の妻(つま)を見(み)ず、凶(きょう)なり、

石とは九四を指し、蒺*梨とは九二を指す。
宮とは六三の居所、妻とは上六を指す。

今、困の時に当たって、六三は陰柔不才、不中不正にして、下卦坎の険(なや)みの卦の極に居る。
その上、応爻の援助はなく、九四の陽剛に承け、九二の陽剛に乗っている。
したがって、前に進もうとすれば九四の堅剛な石に遮られて進めず、後ろに退こうとすれば、九二の蒺*梨の鋭利な棘に刺され阻まれて退くこともできず、進退共に窮まっているのである。
これは、困窮の至って甚だしい者である。
だから、石に困しみ蒺*梨に據る、という。

まして六三は、九四の陽に承けると九二の陽に乗るという険みが有るだけではない。
自身の居所の六三の位もまた、坎の険みの極にして、あまつさえ上六の応位の妻が有るとしても、これもまた陰柔にして相応じてはいないので、その妻に会えない。
したがって、安んじるところがなく、援助もない。
困の至極、凶の最大なる者である。
だから、其の宮に入りても其の妻を見ず、凶なり、という。


・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


>其(そ)の妻(つま)を見(み)ず、凶(きょう)なり、


これは、なにか保育所に入れなかったママさんが、「日本死ね」っていったのと呼応しているように思える・・・

あと

>言うこと有りとも信ぜられずとは、口に尚(たよ)れば乃ち竆(きゅう)する也。

新井先生とかも「ホのことを黙っているし誤魔化しているが、それはもうだめだ」

という趣旨のことを言われてますが、まさにこの言葉のとおりです!!


その挙句のはても易も言ってます変卦で・・。

沢風大過 3爻

参考
http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-33.html

上記文抜粋
・・・・・・・・・
28 沢風大過(たくふうたいか)
takufu.gif大過 巽下兌上(そんか だじょう)

八卦のsonfuu-n.gif巽(そん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

大過とは、大いに過ぎる、大なる者が過ぎる、ということ。
易では、陽を大、陰を小とするのだが、この卦は四陽二陰にして、陽爻が陰爻よりその数が過ぎている。
だから大過と名付けられた。
なお、四陽二陰の卦は、他に雷天大壮、天山遯をはじめ、いくつかあるが、それならなぜ、ことさらにこの卦だけ大過というのか、ということになるが、それは、内外主客をもって、卦の形を判断するからである。
そもそも主は内にして、客は外に位置するものである。
したがって、主を陽とし、客を陰とすれば、この卦は四陽が主として内にあり、二陰が客として外にあるわけである。
とすると、主が客よりも大いに過ぎている。
だから大過と名付けられた。
逆に、雷山小過の場合は、二陽が内に主としてあり、四陰が外に客としてあるが、これは客の小なる陰が主の陽なる大よりも過ぎているから、小過と名付けられたのである。
念のために付け加えると、陰は主となるべきものではないので、陰が内にある山雷頤や風沢中孚は、大小過と名付けられなかったのである。

もとより主には勢いがあり、客には勢いはないのは、兵家の主戦客戦という語にもあるとおりである。
この卦は、勢いのある主たる陽剛が、勢いのない客たる陰柔に過ぎている。
対する雷山小過の場合は、客の勢いのない陰柔が、主の勢いのある陽剛に過ぎているわけだが、客は過ぎているとしても、そもそもが勢いのない者だから、大いに過ぎるとは言えないので、小過と名付けられたのである。

・・・中略・・・

卦辞
大過、棟橈、利有攸往、亨、

大過(たいか)なれば、棟(むなぎ)橈(たわ)めり、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

棟とは、屋根を支える大事な木なので、材木の中でも、その材質が傑出大過なものを選んで使うものである。
しかしその棟も、多くの木材を載せ負うと、材力の分に大いに過ぎ、橈んでしまう。
これは、人事に於いても同様である。
人それぞれ能力には限度があり、その人の能力を大いに過ぎる仕事を任されれば、棟が橈んでしまうように、その任に堪えられず、失敗を招いてしまう。
だから、大過なれば棟橈めり、という。

そもそも天運には窮通があり、時勢にも過不及がある。
君子ならば、それを弁え知る必要がある。
今、大過のときに当たって、その任に居り、その職を掌ろうとする者は、必ず大いに過ぎる非常な大材力大手段がないときは、その事を遂げるのは難しい。
しかし、その大いに過ぎる大材力大手段があれば、しかる後には、物事を成すことは可能である。
だから、往く攸有るに利ろし、という。
そして、しかる後に事物は遂げ成るから、亨る、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
大過、大者過也、棟撓、本来弱也、
大過(たいか)は、大(だい)なる者(もの)の過(過)すぎたる也(なり)、棟(ムネ)撓(たわ)むとは、本末(ほんまつ)の弱(よわ)ければ也(なり)、

剛過、而中、巽而説、利有攸往、行乃亨也、大過之時大矣哉
剛(ごう)過(す)ぎたれども、而(しか)も中(ちゅう)にして、巽(ととの)って而(しこう)して説(よろこ)ぶをもって、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、行(おこな)えば乃(すなわ)ち亨(とお)るとなり、大過(たいか)之(の)時大(おお)いなる哉(かな)、


象伝(原文と書き下しのみ)
沢滅木、大過、君子以独立而不懼、遯世无悶、
沢(さわ)が木(き)を滅(め)っするは、大過(たいか)なり、君子(くんし)以(も)って独立(どくりつ)して而(しこう)して懼(おそ)れず、世(よ)を遯(のが)れても悶(いきどお)ること无(な)かるべし、


・・・・・・中略・・・・

九三、棟橈、凶、

九三(きゅうさん)、棟(むなぎ)橈(たわ)めり、凶(きょう)なり、

卦辞に棟と言うのは、全卦を棟の象に取ってのことである。
爻辞では、この九三に、棟橈む、九四に、棟隆んなり、と、この両爻の辞だけに、棟と言う。
これは、全卦の棟のその中間を取ってのことである。
今、この大過の時、過陽の卦に在って、九三は陽爻を以って陽位に居り、なおかつ不中である。
そもそも棟というのは、そこにかかる力が、棟が持っている力を過ぎれば、必ずその任に堪えず、橈み、さらに重さが甚だしければ折れることもある。
これを人事に擬えるときは、国家が背負っている重さに耐え切れず、まさに傾き覆るに至ろうとする時勢である。
とすれば、凶であることは言うまでもない。
だから、棟橈めり、凶なり、という。

なお、上六と陰陽相応じている。
これは陰陽が相助け合う義に取るのが普通だが、棟を以って言うと、上にある応爻は、九四や九五とともに、九三が負い載せている者であって、九三を助ける者ではない。
むしろ、却って九三に重みを増しているだけである。
したがって、上九は応爻ではあるが、実際には何の助けにもならないのである。



・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり


棟木が折れる・・・


地震?ホの日本経済の壊滅?

あります、確実に・・・。なにか痛撃が・・・


日本に死を!そうすれば日本人が生き延び繁栄するだろう・


お読みくださりありがとうございます。

拍手[1回]

今年は、マスコミが貧しくなるのは必至ぽい。

昨年の末と、この元旦に、少し日本の今後をタロットで見ました。

タロットは易よりもよりど素人なので、まあ適当に。


2016年の日本は。

マンデンホロスコープ法 参考 マルセイユ版


1・国民性・国民の情況 12{吊るされた男}の正 参考

2・経済・景気  聖杯の2 正 参考

3・通信・マスコミ・交通 金貨の5 正 参考

4・地震・気候 聖杯の5 逆 参考

5・スポーツ界・芸能 金貨の8 逆 参考

6・健康問題・労働問題  0{愚者} 正 参考

7・外交・外国 金貨の9 正 参考

8・死亡率・外国経済 剣の7 逆 参考

9・宗教 貿易 3{女帝}の逆 参考

10・政府 政治 8{正義} 正 参考

11・国会議員 友好国 9{隠者} 正 参考

12・福祉・犯罪・病院 金貨の3 正 参考

13・総合 金貨の2 逆 参考



すぐかけることは、マスコミは、貧乏になる。

あと、日本の庶民は、耐乏生活ですは。

政治にはジャジメントが下るかも・・・。

スポーツ・芸能は無気力。そりゃ、ホで心身打撃受けているし・・・マスコミは貧乏の貧相だし。


あと福一原発事故の今後。特に放射能禍で 日本は・・・


カードは上と同じ。ヘキサグラム法で

1・過去 剣 9正 参考

2・現在 金貨 8逆 参考

3・未来 0{愚者} 正 参考

4・対策 4 逆 参考

5・周囲の状況 棒 5 正 参考

6・内心  聖杯 6 正 参考

7・最終結論 金貨 10 逆 参考


未来の「愚者」て怖い。

下手したら「放浪」とも言い得る。

まあ死に絶えるよりも「良い」けど・・・。

絶望で、経済的破滅。が最終結論の一つ。

あと内心は「過去の栄光に浸りたい・・・」という気持ちで、多分それでホを無視しているのでしょうな・・・。

あと対策で、4皇帝の逆は、いろいろあるけど・・・

あえて、いうと「俗権・国家権力をひっくり返せ!」とも思える。「暴君を倒せ」とも言い得るし。


てな感じ。



お読みくださりありがとうございます。


拍手[1回]

来年日本は滅亡するかも。 

来年、独り身のさみしい私は結婚できるかな・・・と易に聞いたが、あまり良くなさそう。

正直、私のしっくりいく易の解釈・解説は、ネット上ではあまり見ません。って変にリベラルで妙に古典も好きだからかね・・。

ついでに、来年の日本について、易に聞きました。


山風蠱 2爻

上記文抜粋
・・・・・・・・・
蠱は、腐敗・壊乱・淫溺・惑乱といった意。

この卦は、巽を長女とし、艮を少男とすれば、長女が少男に先立ち、長女の色情をもって少男を媚い惑わす様子となる。
だから、蠱と名付けられた。
また、巽風をもって艮山を粛殺(しゅくさつ=秋の厳しい風で草木を枯らすこと)する様子である。
だから、蠱と名付けられた。
また、上卦の艮を止める、下卦の巽を服従とすれば、上の恵みが止まって下に及ばず、下は巽従に過ぎて佞媚に流れる様子となる。
このようでは、国家は必ず壊乱する。
だから、蠱と名付けられた。
また、艮は一陽が上に在り二陰が下に居て、巽は二陽が上に在り一陰が下に居るわけだが、これでは上下共に陰陽交わらず、陰陽交わらなければ、必ずや物事は壊れる。
また、艮は一陽が上に止まり、巽は一陰が下伏せている形だが、これでは剛柔交わることがなく、剛柔交わらなければ、必ず物事は壊れる。
だから、蠱と名付けられた。
また、巽を臭いとし気とし、艮を止めるとし覆う蓋とすれば、蓋で覆った中に臭気が発生している様子となる。
臭気が発生すれば、必ず腐敗して虫=蟲が生じる。
だから、蠱と名付けられた。
蠱は皿の上に蟲がたかっている様子の文字である。
また、交代生卦法によれば、元は地天泰から来たとする。
地天泰の初九の陽が上に往き、上るに過ぎて不中の高き極みの上爻に居り、上六の陰が下り来て、下るに過ぎて不中の最下の底の初爻に居る形である。
これでは陰陽交わらず壊れを生じる。
だから、蠱と名付けられた。

卦辞
蠱、元亨、利渉大川、先甲三日、後甲三日、
蠱(こ)は、元(おお)いに亨(とお)る、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、甲(こう)に先(さき)だつこと三日(みっか)、甲に後(おく)れること三日、

この卦は、敗壊の意であり、そんなときに元いに亨ることはない。
しかし、だからと言って、敗壊を放っておくわけにはいかない。
折りを見て、いつかは修復する必要がある。
としても、修復するには、そのことについて深い知識と技能が必要である。
要するに、その蠱の敗れたことについて、元いに亨通している必要があり、そういう人物であればこそ、敗壊を修復可能なのである。
だから、蠱は元いに亨る、という。
例えば、パソコンが壊れたとき、パソコンのことをよく知らなければ、修理に出すしかないが、パソコンに精通していれば、自分でどこが壊れたかを調べ、部品を取替えて直せるのと、同じことである。

また、巽を従うとし艮を止めるとすれば、従って止まる様子である。
大きな川を渡るときは、人命に係わる大事であり、逆を慎み順を尚ぶことが第一である。
無理せず時に従って止まり、風、波、水嵩の利ろしきを得て渡れば、過失も少ない。
だから、大川を渉るに利ろし、という。

また、甲(こう=きのえ)は十干の始めである。
だから、甲の日を事の始めとする。
甲に先立つこと三日は辛(しん=かのと)の日であり、辛は新と同音同義である。
甲に後れること三日は丁(てい=ひのと)であり、丁は丁寧の義である。
壊れ極まって、今これを修復する道は、先ず既往の敗壊の原因を悉く改めて新しくし、改新した以後は丁寧に扱い、再び壊れないようにしないといけない。
だから、甲に先だつこと三日、甲に後れること三日という。


彖伝(原文と書き下しのみ)

蠱、剛上、而柔下、巽而止、蠱、
蠱(こ)は、剛(ごう)上(のぼ)って、而(しこう)して柔(じゅう)下(くだ)り、巽(ととの)って而(しこう)して止(とどま)るは、蠱(こ)なり、

蠱、元亨、而天下治也、
蠱(やぶれ)のときにあたって、元(おお)いに亨(とお)るべしとは、而(しこう)してのちに天下(てんか)治(おさ)まるべければなり、

利渉大川、往有事也
大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろしとは、往(ゆ)きて事(こと)有(あ)る也(なり)、

先甲三日、後甲三日、終則有始、天行也、
甲(こう)に先(さき)だつこと三日(みっか)、甲(こう)に後(おく)るること三日(みっか)、終(おわ)れば則(すなわ)ち始(はじ)まること有(あ)るは、天(てん)の行(みち)なれば也(なり)、


・・・中略・・・・

九二、幹母之蠱、不可貞、

九二(きゅうじ)、母(はは)之(の)蠱(やぶ)れに幹(かん)たり、貞(かた)くす不可(べからざる)べし、

母とは六五の爻を指して言う。
今、蠱のときにして、九二の子は剛中の才徳が有り、六五の母に相応じている。
これは、九二の剛中の子が六五の母に仕えて孝行している象義である。
ところがこの母は、寡母=未亡人であることをよいことに、蠱惑壊乱を好む傾向があり、その室に安んじていない。
それをこの子は、よく修めるのである。
だから、母之蠱れに幹たり、という。
母に蠱惑壊乱の行いがあるときに、子としてこれを諌めないのは大義を害することではあるが、強いて諌めるときには愛を損ない親しみを失うものである。
とすると、強行に意見したり行動を規制するのではなく、しばらくは従容として恭敬と親愛を以って接し、自然に感じ化して、自ら改めるように持って行くしかない。
未亡人となり、心の拠り所を失った寂しさは計り知れないものがある。
恭敬と親愛を込め、時間をかけて少しずつ諌めるしかないだろう。
だから、貞くす不可べし、という。
この場合の貞は、正論に固執して強く眉を顰めて何が何でも早急に諌めようとすることを指す。



・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり


崩壊。

あるいは難題の立て直し。

だが、急速にはできそうにもない・・。


変卦は

艮為山 2爻

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-57.html

上記文抜粋
・・・・・・・・・
八卦のgonsan-n.gif艮(ごん)を重ねた形。

この卦は八卦の艮を重ねた形。
艮とは止まるという意。
八卦の艮は、一陽が二陰の上に在る。
陽の性質は上り進むものであり、今、一陽が上り進んで、すでに二陰の上に至っているので、これ以上進むべきところはない。
したがって、自然にそこに止まっている。
だから艮と名付けられた。

卦辞
艮其背、不獲其身、行其庭不見其人无咎、

其(そ)の背(せ)に艮(とど)まり、其(そ)の身(み)を獲(え)ず、其(そ)の庭(にわ)に行(い)きても其(そ)の人(ひと)を見(み)ざれば咎(とが)无(な)し、

およそ人の耳、目、口、鼻は、みな前面にあり、それぞれの作用によって、その人の心を動かす。
また、手足も一日中よく動いている。
しかし、背中だけは、常に静かに止まっている。
ソワソワ動くと物事の本質を見失い、静かに止まっていれば物事の本質を見抜けるものである。
したがって、人の心は常に背中のようにしていれば、長く過失はないのである。
背中は実に止まるのによい場所なのである。
だから、其の背に艮まり、という。
無思無為の寂然不動の象徴が背中なのである。

そもそも天下全般の罪悪凶殃というものは、悉く我が身に対する愛惜の情が過ぎるから起きるのである。
子の父母に対する不孝、臣の君に対する不忠、婦の夫に対する不貞、弟の兄長に対する不悌、朋友の不信から、詐欺、奸謀、阿り諂い、残忍、貧暴・・・など、とにかくあらゆる罪悪に至る根本は、みな己の身を過愛し、情欲の制御が利かなくなることに始まる。
要するに自己チューということである。
したがって、自分の身から欲を断ち切ることが大事なのである。
それが、其の身を獲ず、ということである。
ただし、隠遁したり、弱気になってひきこもれと言っているわけでもないし、放心者の如く身体を自傷したり、家庭を捨てたり、出家したりということを求めているのでもない。
この俗世間に住みつつも、世間に流されないための方策として、示しているのである。
例えば、ある庭に入って行き、そこにいる人を目で見たとしても、心でその人を見ていなければ、痛さも痒さも感じない、といったことである。
庭とは、世間であり、その人とは世間の事物であり、心で見なければその事物に翻弄されない、ということである。
翻弄されなければ、咎められることもない。
だから、其の庭に行きても其の人を見ざれば咎无し、という。


彖伝(原文と書き下しのみ)
艮、止也、時止、則止、時行、則行、動静不失其時、其道光明、
艮(ごん)は、止(とど)まる也(なり)、時(とき)止(とど)まるべく、則(すなわ)ち止(とど)まり、時(とき)行(おこな)うべくば、則(すなわ)ち行(おこな)う、動静(どうせい)其(そ)の時(とき)を失(うしな)わざるは、其(そ)の道(みち)光明(こうみょう)なるなり、

艮其背、止其所也、
其(そ)の背(せ)に艮(とど)まるとは、其(そ)の所(ところ)に止(とど)まる也(なり)、

上下敵応、不相与也、是以不獲其身、行其庭、不見其人、无咎也、
上下(じょうげ)敵応(てきおう)して、相(あい)与(くみ)せざる也(なり)、是(これ)を以(も)って其(そ)の身(み)を獲(え)ず、其(そ)の庭(にわ)に行(ゆ)きても其(そ)の人(ひと)を見(み)ざれば、咎(とが)无(な)きと也(なり)、


象伝(原文と書き下しのみ)
兼山艮、君子以思不出位、
兼(あわ)せたる山(やま)あるは艮(ごん)なり、君子(くんし)以(も)って思(おも)うこと位(くらい)を出(い)でず、

・・・・・・・中略・・・・・


六二、艮其腓、不拯其随、其心不快、

六二(りくじ)、其(そ)の腓(こむら)に艮(とど)まる、拯(すく)わずして其(そ)れ随(したが)えども、其(そ)の心(こころ)快(よ)からず、

腓は脹脛(ふくらはぎ)のことにして、六二が丁度その位置に当たる。
もとより六二は、中正にしてよく艮止の道を得ている者だが、陰柔なので微力にして、仕方なく内卦艮の主である九三陽剛に比し従ってしまう。
これは、腓(こむら)が脛(すね)に従って動き止まるようなものである。
だから、其の腓に艮まる、という。

そもそも九三は内卦艮の主にして、上下四陰の間に隔て止まり、上下を引き離している。
これによって、四陰は大いに困窮艱難する。
六二は中正にして、心よりこれを視るに忍びなく、四陰を救うために、九三が隔てるのを制し止めようと欲する。
しかし、自己は陰弱微力なのでどうにもならず、不愉快ではあるが、九三に比し従うしかない。
恰も腓の肉が脛に従って動止するように。
だから、拯わずして其れ随えども、其の心快からず、という。



・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


止まる・無心。ってこと。

だけど、

「死体」にも私には思える。

日本という国家は死んでる。滅んでいる・・


結構といえば、結構だが、多くの日本の衆生の死体ばかりで、田布施の河原モノ・やくざ者が、わが世を謳歌しているかも・・・てそれもないけど・・・。



文殊菩薩 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
「日本を背負う気概のある人間は、この国にはいない。 ただ、日本を食い潰したい人間だけが、好き放題なことをしてる…」 ふ~ん、そうなんだ。ほろぶ国ってのは、ま、えてして、そんなもんなのさ。(泣く)


働けど働けど… 大正時代以下になった日本 


「日本を背負う気概のある人間は、この国にはいない」 というツイート。
たしかにそうだ。
だが、日本を食い潰したい人間だけが(強権を発動して)好き勝手なことをしてる放射能まみれの国家で、国民は5年近くも内部被曝し続け、無気力になり、病弱になり、貧乏になる…、こんな最低・最悪・最凶の国を背負う!たって、そりゃあ、あんた、無理だべさ。…と言いつつ泣くあたし。
(飯山一郎)
・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり



無念に思うが、でも、5年間苦しんだ・・・

それも来年「日本帝国の滅亡」で、解放される。

生きてか、死んでかは、わからんが・・・・。


このような国が5年も存続してしまったことが、日本の衆生の最大の悲劇で、それを看過し続けたことが、最大の罪である・・・。


力及ばず、馬鹿の殺人教国家を、野放しにしてしまった・・・。


この悲劇も、国家が日本という悪魔国家が消滅することで、「滅亡」という形でも終焉するのが、救いで、その救いをホをしのぎつつ待つだけです。



日本滅亡万歳!


追記


日本=ヤマトヤンキー帝国という腐った大木の倒れた後に、新しい命が生まれる。

幻の桜 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・



それが起るのは
磁場の影響


都心や都は
元々富がたくさんとれる場所じゃなかった


土地自体が望んでいなかった


でもそこにしるしをつけて
気を運ばせたり 富を集めさせると

その磁場に動かされて
人にも
望んでない者に富やエネルギーが集まる緩衝が起こる


それで
欲しくない人の所に誰かの欲しいものが来て
欲しい人の所にいつまで経っても欲しい物が来なくなる 」






(・・;)






その磁場を作られると
一生懸命望んでいる人ほど
現実が来なくなる 

すべての人にとって
不幸な結果が起こってしまう 


時に楽しさを感じるだけでも
エネルギーが吸われてしまう


世界とは
苦痛を感じてる土地に
エネルギーが運ばれる磁場だから

だから地獄なの

妬みがは
誰にも欲しいものが手に入らなくするように作ったのが
世界なの 」





(・・;)






でもね
欲しいと想った人が吸われ続けるけど
それでも欲しいを諦めないで 想い続けると 

時に
つけかえの磁場を超えるぐらいのエネルギー量が吸われると

つけかえの磁場を超える
たすけの力を得て
それで願いが叶ったりもする 」





(・・;)






そしてね


人の感覚ではもうちょっとかかるけど
土地の感覚ではもうすぐ
そのつけかえの磁場の修正される

もう少し
もう少し
望んだ土地に望んだ物が来るようになった頃

人に望んだ物 
望んだ暮らしが入りやすくなってくる 」(あめで聞こえた言葉)



・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり




お読みくださりありがとうございます。

拍手[2回]

エルサレムは、血に染まる。 ハザユダの血で舗装される。 渾沌堂

飯山一郎のはったり無しの口演会場 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
2015/11/25(水)2  プーチンは全ての主導権を手にした!

トルコ、やりすぎ!

シリア上空で撃墜されたSu24のパイロット↓地上からの射撃で殺害(動画)



シリア上空で撃墜されたSu24のパイロットのうち1人は地上からの射撃で殺害された。ロシア参謀本部が明らかにした。 (記事)
Su24のパイロット2名はカタパルト脱出し、パラシュートで降下中に、地上から射撃され殺害された。

この証拠である上の動画の音声は、トルコの正規軍人ではない、という情報もある。

いずれにしても、ロシアから見れば、ロシアに対するトルコの過剰防衛であり、先制攻撃であり、宣戦布告に等しい。


・・・・・中略・・・・・

ロシアは、トルコから一方的、かつ先制的な軍事攻撃に遭った。
これで、ロシアは軍事的なフリーハンドを獲得、『倍返しの報復攻撃』も可能だ。

イスラム国(ISIS)壊滅作戦も一段落したところだし、フランス軍(空母)もロシアの指揮下にある。

ロシアには軍事的な余裕が出来た。その矢先のトルコからの一方的な軍事攻撃だ。

ロシアはヤル! その決意は充分だ。

そのロシアをNATOは必死で牽制している。

『NATO、ロシア機がトルコの領空侵犯とみなす』 (記事)

NATOの対応は、ロシアの怒りの炎(ほむら) にガソリンをかけるようなものだ。

プーチン、どう出る?

戦況、状況は、プーチンの出方次第でどうにでも変わる。

主導権はプーチンにある。

主導権をもった軍帥=軍を指揮・統率する総大将は、強い!


飯山 一郎


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


さて

トルコ軍と戦争屋‘{米・英・い}が、ロシア戦闘機を撃墜。


プーチン激オコ。


どうでるか・・・どうなるか・・・

易にこれは聞いてみた。

略ゼン法です。

沢水困 の2爻 です。


http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-52.html

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
八卦のkansui-n.gif坎(かん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

困とは、苦しむ、困窮して自らの力では打開できない、という意。

易位生卦法によれば、もとは水沢節から来たものとする。
水沢節は、坎の水が兌の沢の上に在り、沢水が溢れず枯れずほどよくある様子である。
それが今、上下が入れ替わると、兌の水は悉く漏れ下り、この沢水困となる。
これは、沢水が涸渇した様子であり、困窮厄難を示す。
だから困と名付けられた。

また、内卦の坎は一陽二陰の間に陥り、二陰のために覆われている様子、外卦の兌は一陰が二陽の上に在り、これも二陽が一陰に覆われている様子である。
また、下の坎は陽卦、上の兌は陰卦であり、陰卦をもって陽卦を覆っている様子である。
また、陰は小人の道、陽は君子の道であり、陽を男子とし、陰を女子とすれば、君子は小人に覆われ、男子は女子に覆われている様子である。
男子が女子に覆われるというのは、男性が色仕掛けで誘惑する女性の言いなりになっていることである。
これらは、困窮の至って甚だしいことである。
だから困と名付けられた。

また、交代生卦法によれば、もとは天地否より来たものとする。
天地否の六二が往きて上爻に居て、上九が来たって二爻に居るのが沢水困である。
その上六は兌沢の主爻であり、九二は坎水の主爻である。
これは兌沢より坎水が漏れ下り困窮している様子である。
天地否は否塞して通らないことだが、今、僅かに剛柔交代すれば、忽ちこのように困窮してしまう。
だから困と名付けられた。
また、天地否は塞がるという意の卦であっても、乾の純陽が上に位置し、坤の純陰が下に居る。
それが今、妄りにひとたび交わり動いただけで、忽ちこのように剛明なる者が柔暗なる者に覆われてしまう。
だから困と名付けられた。


卦辞
困、亨、貞、大人吉、无咎、有言不信、

困は、亨(とお)る、貞(ただ)しかるべし、大人(たいじん)は吉(きち)、咎(とが)无(な)し、言うこと有れども信ぜられじ、

この卦は、坎を険難、兌を悦ぶとすれば、険難のときに悦んでいる様子となる。
険難のときであっても悦んでいるのは、一見問題がありそうだが、実はこれこそ困のときの正しい道なのである。
天命に身を委ね、その困窮に甘んじ、時期を待つしかないときである。
徒に悩んでも解決するものではない。
とすれば、その険難に置かれている状況を悦び楽しみとするのが、一番精神衛生にもよいし、そのようにしていれば、人間としての器の大きさも評価されるのである。
逆に、困窮を脱しようと右往左往しても、おいそれとは脱出できないものである。
なんとか現状を打開するためにと、甘い見通しを立てて無理して金策に走り、結局は失敗し、さらに借金に借金を重ね、ついには泥沼に陥ることがあるように。
したがって、今置かれている険難の状況を悦び楽しむ余裕こそが大事なのである。
そうしていれば、やがて必ず困窮を脱するときが来るものである。
だから、困は亨る、貞しかるべし、という。
亨るというのは、今すぐにではない。
貞しく、というのは、この場合は、険難を悦ぶ余裕で耐えることである。
困のときだからこそ、貞しく険難を悦ぶ余裕で耐えていれば、いつか困窮から脱して、そのときに亨通する、ということである。
大人ならば、どんなに困窮しても、天を恨まず、他人を咎めず、ひたすら貞正の道を守り、険難を悦び、時が至るのを待つものである。
右往左往するのは小人である。
だから、大人は吉、咎无し、という。
咎无しとは、道に違はざることである。
これが小人ならば、凶、咎有り、ということになる。
およそ人は困苦のときに遇うと、必ずその困窮を緩和し、険難を脱しようと、数々の辛酸を舐め、恥辱を耐え、耳を低くして尾を伏せ、他人に哀れみを求め、救済を乞い、哀しみ訴えるものである。
しかし、そうして訴えても、どこまで相手から信用され、助けて貰えるだろうか。
世の中というのは、そんなに甘くない。
自分がその困窮をあれこれ言っても、話半分にしか聞いて貰えないのが普通である。
だから、言うこと有れども信じられじ、という。



・・・・・・・中略・・・・・・


九二、困于酒食、朱紱方来、利用亨祀、征吉、无咎、

九二(きゅうじ)、酒食(しゅしょく)に困(くる)しむ、朱紱(しゅふつ)方(まさ)に来(き)たらんとす、亨祀(こうし)を用うるに利ろし、征(ゆ)くは吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、

酒とは宴楽の義、食とは頤養の義を指し、心を楽しませることを酒に喩え、身を養うことを食に喩えているのである。
九二は、剛中の才徳は有るが、内卦坎の険(なや)みの主にして、上に応爻の援助はない。
これは、未だ君に知られず、君に遇されていない者である。
したがって、眼前に困苦の民がいても、彼らを賑わし養い、宴楽させることができない。
これが九二の君子の困しみである。
だから、酒食に困しむ、という。

この時に当たって、九五の応位も、また困の時の君上にして、輔弼する臣がいないので、応位の九二に援助を求めて来る。
そもそも、この九二九五は、共に剛中なので、同徳相応じ、九五の君が九二の臣に輔けられる義があるのである。
そこで、九五は九二に援助を求めて招聘する。
朱紱とは天子の飾りにして、九五君位の爻を指す。
だから、朱紱方に来たらんとす、という。

九二が九五の招聘に応じて仕える時には、必ずその徳を庶民に施すことを得て、その従来の志の困窮するところのことは、一時に脱することを得る。
なおかつ、二五が同徳相応じるところの孚信を以って、誠敬を尽くして亨祀する時には、神人共に感じ格(いた)って必ず多福を降し来たし、庶民の困の難(なや)みを済(すく)うことを得るのである。
したがって、招聘に応じて九五に行き仕えることが一番よいのであって、九二と九五が陰陽正しく応じていなくとも、咎はないのである。
だから、亨祀を用うるに利ろし、征くは吉なり、咎无し、という。



・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり

>亨祀を用うるに利ろし、征くは吉なり、咎无し、


これは、多少の戦火はありそうだ。


>言うこと有れども信ぜられじ、


マスコミのいうことは信じれない。


難しいぞ・・・。


変卦は

沢地萃 の2爻

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-50.html

上記文抜粋
・・・・・・・・・
八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

萃とは、集まる、という意。

この卦は、九五の君と九四の宰相と、共に剛明の才徳があり、下の衆陰がこの二陽の徳に集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、水地比の聖君と雷地予の賢臣とが、同徳をもって相助け集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、兌を悦ぶ、坤を民衆とし順(したが)うとすれば、悦んで順う様子である。
これを、上を主体に言えば、君主が悦んで民衆が順う様子であり、下を主体に言えば、民衆が悦んで順う様子となる。
悦んで順うのであれば、皆が相集まる。
だから萃と名付けられた。
また、一人のこととして言えば、悦んで順うのであって、また、対人関係で言えば、自分が順い相手が悦ぶことであり、これは共に相集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、沢が地上にある様子だが、沢は水が集まっているところであって、だから萃と名付けられた。
また、易位生卦法によれば、もとは地沢臨から来たものとする。
地沢臨は沢水坤地の下に在るわけだが、その沢水が地上に上ったのが、この沢地萃である。
これは水気が地上に集まった様子である。
だから萃と名付けられた。
また、坤の母と兌の少女とが相集まった様子である。
だから萃と名付けられた。
また、兌の少女が愛嬌を振りまいて、大勢の民衆が集まった様子である。
だから萃と名付けられた。


・・・・・中略・・・・

およそ物事は、相集まってしかる後に亨通するものである。
萃は物事が集まった様子である。
だからまず、萃は亨る、という。
有廟とは、先祖を祭祀するところにして、有は尊称である。
そもそも神とは、祭祀するときには、そこに集まり、祭祀しないときにはそこから散じるものである。
そこで六十四卦では、集まるという意の沢地萃と、散じるという意の風水渙の二卦に、鬼神を祭祀するときのことを書いているのである。
風水渙は既に散じたものが、祭って集まることを解説し、沢地萃は集まるという卦の意義について、祭ることを解説しているのである。

さて、天下を治める道の肝要は、民心を集めることが第一である。
その民心を集めることは、自分が孝を尽くすのが先決である。
その孝を尽くすのは、近きより遠きを追うのが先決である。
遠きというのは、先祖のことであり、先祖を丁重に敬うことが大事だ、ということである。
『論語』にも「終わりを慎み遠きを追えば、則(すなわ)ち民の徳は厚きに帰す」とある。
今、君上がよく孝を先祖に致すこと厚ければ、鬼神は必ず感じ格(いた)って来臨し、民も必ず化して集まるものである。
これを王者の萃という。
要するに、自分の先祖を敬ってこそ、人は他人から信頼されるのであって、自分の先祖を蔑ろにすれば、目先の利益では人を集めたとしても、その人間性を心からは信頼されないものだ、ということである。

その祭祀をするときには必ず牲を用いる。
牲とは進め献じる供え物のことである。
大牲とは、その供え物の至って大掛かりなものであって、至極の大礼を備えることである。
だから、王有廟に*假る、亨(すすめま)つるに大牲を用いてす、吉、という。
吉というのは、その祭祀において至敬至誠を尽くすときには、鬼神は必ず感じて格(いた)って大いに福を得るということである。
なお、太古には牲として大型動物を生贄にすることもあったようだが、周易では、水火既済九五の爻辞にあるように、その必要はないと考えている。

今は萃=集まるときである。
民衆は、天下の賢明な大人たちが集まって政治を行う様子を見ればこそ、悦んで順うものである。
したがって、九四の賢臣から言えば、九五の大人たる君主に謁見するに利ろしく、九五の君主から言えば、九四の大人たる賢臣に接見するに利ろしいのである。
だから、大人を見るに利ろし、という。

君臣上下共に相集まるときには、貞正であることが大事である。
だから、貞しきに利ろし、という。

そもそも沢地萃は、九四と九五の二陽剛賢明の君臣が、大いに天下の人心を集めるという意だが、九四九五は外卦なので、要するに、外卦に集まる様子である。
往く攸有るに利ろしというのは、内卦を現在地としたときの往く攸すなわち外卦の九四九五に集まるに利ろし、と諭しているのである。

・・・・・中略・・・・・

沢上於地、萃、君子以除戎器、戒不、
沢(さわ)が地(ち)に上(のぼ)るは、萃(すい)なり、君子(くんし)以(も)って戎器(じゅうき)を除(あらた)め、不虞(ふぐ)を戒(いまし)む、

・・・・・中略・・・・・

六二、引吉、无咎、孚乃利用禴、

六二(りくじ)、引(ひ)けば吉(きち)なり、咎(とが)无(な)し、孚(まこと)あらば乃(すなわ)ち禴(やく)を用(もち)うるに利(よ)ろし、

今、四陰が二陽に萃るの時に当たって、初は四の正応にして、三は四の正比である。
これはみな九五の君に萃まれない、あるいは萃まらない者である。
そんな中、この六二のみ柔順中正にして、四に応じず比せず、九五の君に正応している。
これは、吉にして咎のないことである。

しかし、六二は下卦に在って大臣の位に居る。
その下卦坤の同体中の初と三とを引き連れて九五の君に萃まらず、初や三を九四の権臣に萃まらせるのは、下に在る大臣の職任においては、咎のあることである。
したがって、六二の大臣は、同じ下卦坤の体中にある初と三の二陰爻を引き連れて九五の君に萃まらせることこそが、吉にして咎のないことなのである。
だから、引けば吉なり、咎无し、という。

禴とは薄い祭りのことである。
六二は中正にして君に孚の有る者である。
君に孚の有るときは、必ず神にも孚を以って接する。
孚が有って祭祀するのであれば、供え物が少ない薄い祭りであっても、神明は必ず感じ格(いた)るものである。
だから、孚あらば乃ち禴を用うるに利ろし、という。

そもそも神とは、集ればそこに在り、散ればそこにいないものである。
この沢地萃は集るの卦なので、神霊を集めて祭祀を行うことにも言及する。
爻において見れば、五は天神の位にして、二は五の応位なのでその祭主とする。



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・・・・・・・・・
抜粋終わり

>その祭祀をするときには必ず牲を用いる。
牲とは進め献じる供え物のことである。
大牲とは、その供え物の至って大掛かりなものであって、至極の大礼を備えることである。
だから、王有廟に*假る、亨(すすめま)つるに大牲を用いてす、吉、という。
吉というのは、その祭祀において至敬至誠を尽くすときには、鬼神は必ず感じて格(いた)って大いに福を得るということである。
なお、太古には牲として大型動物を生贄にすることもあったようだが、周易では、水火既済九五の爻辞にあるように、その必要はないと考えている。


至誠をもってすれば、「生贄」など無用。

でも、至誠など・・・

>君子(くんし)以(も)って戎器(じゅうき)を除(あらた)め、不虞(ふぐ)を戒(いまし)む、

人が多く集まると、不測の事態が起きるので、武器をもって備えよ。ともいえる。

世界最大の「廟所」の一つで、一神教の最大の聖地「エルサレム」が血に染まる可能性もあるかも・・・・。


それで、戦乱・ホは終わるのかもしれないが・・・・。


お読みくださりありがとうございます。

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