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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/04     03 < 10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  > 05
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P R
京の風 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
ダダモレ放射能がイノチを削る中、日本でもこの歌が似合う時になった。"Road of Resistance"

これまで、日本の教育では、絶対に教えなかったこと。 しかし、世界の英知が知る真実。

 国家権力の本質は、少数者のための 暴力 と 騙し。

 この真実をよく知った上で、 

 森羅万象と向い合って、 本気で、新しい世界を創ろう。

 この安保法制なんか、 "目覚めの一発" にすぎないよ。

 これから、 マッカーサーのとき以上の衝撃が来る。

 まず、この週末、谷内正太郎が、中国に行く。

 国家間の問題には、戦争 と 経済 があるが、

  放射能は、その国家だけでなく人間社会そのものを 全てをひっくり返す重大問題。

  曖昧なままでは、何事も、まともな変革は出来ないぞ。 情報公開が、一番肝心。

 種として、生き残るための大選択。 これを、しなければならない。

 覚悟はできているか?  何かを守り、 それ以外を全て捨てることができるか? 

 生活の次元で、今だけを見ていたら、 存在そのものが、消えていくぞ。

 生存次元から、地上世界を創り直す。 ピラミッド構造を 産まない社会システム。 

 まずは、元気を出すために、 ベビーメタルの Road of Resistance を 聞こう。

  https://www.youtube.com/watch?v=Zi-XFUZ5EL4

 人間として、生きている限り、イノチを大切にして、未来を、想像・創造していこう。


・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり

画像



抵抗の道・・・

レジスタンスなど日本に有史以来なかった。

せいぜい一揆で一向一揆くらいか。

陳勝呉広緑林赤眉黄巾黄巣白蓮教の乱に、義和団の乱。

五代十国の時には、遼の過酷な占領に、華北の農民が蜂起して、ついに漠北へ追い返した。


あまりに飼いならされた日本人・・・・

これでは明日がない・・・・。


て、人のことはいえないダメな在来日本人です・・・・。



富貴や出世をすてるなら、簡単にできる。

まずはそれから捨てよう。

他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ

さもしいエゴイズム・神経症的な恐怖に煽られる生き方を、やめよう・・・

さもないと本気で神経症になり、死んでしまう・・・。


>国家権力の本質は、少数者のための 暴力 と 騙し。

その通り。

確かにそうでない人も確かにいた。

でも少ないから目立つ。だいたいエゴイズムと保身でドンドン劣化し、国家は吸血鬼に早々になる。

国家のもつ本質的な「暴力性・欺瞞性」を直視しない限りに、死しかない。

強者に媚びても、やがて自分がいけにえにされる。



なんでもいいから、狂気と戦わないといけない。どのような方法であれ。それを怠ると死だろう。

>この安保法制なんか、 "目覚めの一発" にすぎないよ。

私もそうも思う。

日本政府が「日本人を殺す政府」とようやく気が付き一歩だろう。


>これから、 マッカーサーのとき以上の衝撃が来る。


自力で革命できない日本人には、「大ハーンプーチン」の威徳でしか、もはや救いがない。

日本会議カルトの中には、改心する者やプーチンに早速媚びる犬が続出するか、日本人を道連れに心中するモノが続出するだろう。

それに期待するしか私はその無力を呪うが、せめてそれをうまく使って乗り切りたい。

易でこの戦争安保法案のことを聴きました。

風水カン の九五

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-64.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・・
渙は、散らす、渙散、離散、といった意。

この卦は内卦の坎を水とし、外卦の巽を風とすれば、風が水の上を行く様子である。
風が水上を行くときには、必ず水を吹き渙(ちら)すものである。
だから渙と名付けられた。
また、内卦を自分とし坎を険難とし、外卦を相手とし巽を従うとすれば、自分に険難があり、相手がそれに従うことであって、これは相手が自分の悩みを渙す様子である。
これまもた渙と名付けられた所以である。
また、坎を水とし冬とし氷とし、巽を春とし風とすれば、厳寒の凍氷を春の風が渙散させる様子である。
だから渙と名付けられた。
また、交代生卦法によれば、もとは天地否から来たものとする。
天地否の九四が内卦に来て二爻に居り坎の主爻となり、六二は外卦に往き四爻に居て巽の主爻となったのが、この風水渙である。
九四が来て二爻に居るというのは、天気が下って坎の雨となった様子であって、六二が往きて四爻に居るのは地気が上って巽の風となった様子である。
天地の気が塞がれているときには、風雨を以ってこれを渙散させるのは、雷雨をもって屯欝の気を解くのと同様である。
だから渙と名付けられた。
またこれを人事に譬えて国家政経の道を判断するときには、先ず天地否の卦の形を国家に道無く閉塞壊乱のときとする。
その打開策として、九四は内卦にやって来て二爻の臣位に居り、剛中の才徳を以って、九五の剛中の君を、同徳を以って相応じ助けるのである。
と同時に、六二が外卦に往き、四爻執政大臣の位に居て、柔正の徳を得て、九五の君と陰陽正しく比し親しみ、よく補佐するのであるる。
これは、二と四との二人の臣が共に力を合わせ、国家の否塞を開通させ、混乱を消散させる様子である。
だから渙と名付けられた。

卦辞
渙、亨、王*假有廟、利渉大川、利貞、

渙は、亨(とお)る、王(おう)有廟(ゆうびょう)に*假(いた)る、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、

*假は、沢地萃や雷火豊と同様に、通本ではこの假(「仮」の正字)を使っているが、中州はニンベンではなく彳(ギョウニンベン)だとしている。
しかし、その字はJISにもユニコードにもないので、ここでは*假で代用しておく。

およそ天下の事物は、否塞して難渋するときは、必ずこれを渙散させないといけない。
その渙散させるときをもって、否塞していたのが亨通するのである。
要するに、交代生卦法で、天地否から来たとするから、渙は亨る、というのである。

さて、王道の興廃は、まったく人民によるところである。
民衆は国の本である。
民衆の心が集まるときに国は興り、民衆の情が渙散するときに国は廃れる。
民衆を集め、その民衆の心を化服させるには、何を置いてもまず孝である。
その孝の道の高く盛んなものは、祖先に孝なるを以って至極とする。
『論語』にも、終わりを慎み遠きを追えば、民の徳は厚きに帰す、とある。
終わりを慎むとは、親の葬儀や祖先の祭祀を丁重に行うことである。
祖先の祭祀は至誠至敬を以ってすれば、祖霊が集まり、誠敬がないときには、渙散して祖霊は集まらないものとする。
だから、水火既済の九五の爻辞には、東隣に牛を殺すは、西隣の禴祭(やくさい)に実あって其の福を受くるに如かず、とあるのである。
禴祭とは質素な祭りである。
形ばかりの大きな生贄を供える祭りよりも、供えは質素だが誠敬がこもっているほうが、福は受けられるものだ、ということである。
したがって、この風水渙の渙散の気運のときには、王者は渙散しようとしている祖先の霊を祭祀で集め、孝を尽くすのが大事なのである。
祖先に孝を尽くすことにより、風水渙の気運で渙散しようとしていた民衆の心もひとつに集まるのである。
だから、王有廟に*假る、という。
有廟とは、廟を有(たも)つ、といったニュアンスで、廟に集めた祖霊を渙散しないように有つようにとの教戒が込められている。

大川を渉るに利ろし、というのは、海や大きな川を渉るには、船が必要である。
この卦は、坎の水の上に巽の木の船が浮かんでいる様子でもある。
だから、大川を渉るに利ろし、という。

天下の否塞を渙散させて亨通させるも、大川を渉るも、共に貞正に行われることが大事である。
邪に事が行われるのであれば、災いを起こし、害を生じるものである。
大川という険難を渉るにしても、貞正に流れや風波を読まずに、いい加減な判断で行けば、身命はどうなるかわからないものである。
だから、貞しきに利ろし、という。


・・・・・・・・中略・・・・・・・

九五、渙汗、其大号渙、王居无咎、

九五(きゅうご)、渙(ちら)さんとして汗(あせ)す、其(そ)の大号(だいごう)にして渙(ちら)さしめば、王(おう)居(お)りて咎(とが)无(な)し、

汗とは人の身から出る液体にして、人身を労することが有る時に出るものである。
今、渙の時に当たって、九五は剛健中正の徳が有り、君の位に在って、天下の険(なや)みを己が身の険(なや)みとし、その険みを渙散しようと、汗を滴らして大いに苦労する君である。
だから、渙さんとして汗す、という。

そもそも天下の政務は、千万無量であるとしても、その根本は、人を知るに在り、民を安んじるに在る。
しかし今、幸いに六四の賢宰臣がある。
六四は柔正の徳を備え、巽の風の主、成卦の主爻にして、非常の大手段を有し、天下群民の坎の険みを渙す大任に堪える賢宰臣である。
そこで、九五の君は、この六四に大号令を伝え、徳風教化を大いに天下に布き施させるのである。
このようにして、群民の険みを渙す時には、九五は自ら動かず、常のようにそのまま王位に居ても、少しも君位を辱めることはなく、道において咎はないのである。
だから、大号にして渙さしめば、王居りて咎无し、という。




・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり


>天下の否塞を渙散させて亨通させるも、大川を渉るも、共に貞正に行われることが大事である。
邪に事が行われるのであれば、災いを起こし、害を生じるものである。
大川という険難を渉るにしても、貞正に流れや風波を読まずに、いい加減な判断で行けば、身命はどうなるかわからないものである。

て気になるセンテンス。


変卦は、

山水蒙 の六五 

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-9.html

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・

蒙は、くらい、おろか、先が見えない、といった意。
艮を山とし、坎を雲霧とすれば、艮の山の麓より坎の雲霧が発生し、峰も谷も覆い隠して、幽暗となった様子。
だから蒙と名付けられた。
また、艮を山とし阻むとし、坎を川とし険しいとすれば、山川険阻の地を表現していることになるが、そういうところは旅人も道に迷いやすく、これでいいのかと先が見えない不安を抱く。
だから蒙と名付けられた。
また、艮を山とし、坎を泉とすれば、山より泉が出るところを表現していることになるが、その泉はやがて他の湧き水と合流して川となり、さらにいろいろな川と合流して、大きな川となり最後には海にたどり着く。
しかし、湧き出る泉の時点では、これからどこをどう流れて、どういう結末になるかは、無知蒙昧のように、まったくわからない。
だから蒙と名付けられた。
また、上卦を外とし、下卦を内とすれば、内卦の坎の険難の外に出て、その場に艮止(とどま)っている様子。
例えば、鉄砲水が出て、危うく岸に逃れたけど、さらに遠くの安全なところまで避難することはせず、鉄砲水をすぐ近くから眺めているようなもの。
これでは何も知らない子供のように愚かなことだ。
だから蒙と名付けられた。

卦辞
蒙、亨、匪我求童蒙、童蒙求我、初筮告、再三瀆、瀆則不告、利貞、
蒙は、亨(とお)る、我(われ)より童蒙(どうもう)に求(もと)めるに匪(あら)ず、童蒙より我に求めるべきなり、初筮(しょぜい)は告(つ)げる、再三(さいさん)すれば瀆(けが)れる、瀆れれば則(すなわち)告げず、貞(ただし)きに利(よろ)し、

ここに、亨る、とあるのは、今、直ちに亨ということではない。
蒙昧であることを自覚し、賢者を求めて勉強し、物事の道理を会得して、然る後に亨る、ということである。

蒙昧を自覚して勉強を始めると、なんだか偉くなったような気がして、教わったことを誰かに教えたくなるものである。
続く、我より童蒙に求めるに匪ず、童蒙より我に求めるべきなり、というのは、そんなときの気分を戒めているのだ。
我とは教える立場の人間=先生、童蒙とは子供のように蒙昧な人間=教えられる立場の人間。
少し教わり、なんだか偉くなった気分になって、先生のつもりで、嫌がる子供たちを集め、自分が教わったことを自慢げに教えるのは、よくないことだ。
自分は何もせずとも、子供たちの方から教えて欲しいと頼まれるようになることだ。

ところで、蒙昧な人間は、自分に都合のよいことしか考えない傾向にある。
特に筮竹を捌いて占うときには、それが顕著である。
悪い形が出ると、こんなはずではない、として、その形を信じて対処を考えず、よい形が出るまで何度も何度も筮竹を捌いたりする。
そんなことでは、当たるものも当たらない。
だから、初筮は告げる、再三すれば瀆れる、瀆れれば則ち告げず、
と戒めているのだ。
ともあれ、多少なりとも勉強をすると、自分はもう、蒙昧ではない、と過信してしまいやすい。
しかし、客観的に観察してみると、まだまだ蒙昧なものだ。
だからこそ、驕らず、謙虚に、貞正に勉めるのが利ろしい、ということで、貞しきに利よろし、という。

・・・・・・中略・・・・

六五(りくご)、童蒙(どうもう)のごとくならば、吉(きち)

六五は柔中の徳が有り、九二に応じ、上九に比している。
その九二は賢明剛中の才徳が有り、成卦の主爻であって、よく六五の君を補佐する賢臣である。
また、上九は剛明の才徳が有り、王者の師の位置に居て、よく六五の君を教導輔弼する者である。
したがって六五の君は、自身が陰柔であることを弁え、富貴栄誉を欲することなく、謙虚に六二の賢臣に委ね任せ、上九の賢師の助言に降り服し、その純心精一なることが、童子のように天真自然であれば、吉である。
だから、童蒙のごとくならば吉、という。


・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり


まさに目覚めの一撃。



今後の行方をあえて、タロットでも聞いた。

過去 3 女帝 正

参考 

現在 13 死神 正

参考

未来 8 逆

参考

いずれにしろ、戦争など無理。

東京五輪もつぶれる。

13ってことはすべてご破算ってことか。

ともわれ、傲慢の鼻をへし折られて、放射能の追い打ちで、つぶれる。



本当のことを長く知ろうとしない報いでしょう。



オチになりませんが。


お読みくださりありがとうございます。



追記 

易のことで少し調べていたらすごい記事を発見

http://sun.ap.teacup.com/souun/17788.html 
のコメント欄 より

上記文抜粋
・・・・・・・・

「明治18年、易聖・高島嘉右衛門の易占では、神道国教化は「大往き小来たる」、「それ滅びん、それ滅びん」。

以上

と、廃仏毀釈で大が去り、フリーメーソンの影が濃厚に漂う神国日本ではあります。


・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


まさに・・・・



PR
先日、ギリシャ危機・箱根小噴火・新幹線焼身心中、という現状で、日本は?

と易に問いました。

略ゼン法で聞きました。

沢水困 九五  

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-52.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・
八卦のkansui-n.gif坎(かん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

困とは、苦しむ、困窮して自らの力では打開できない、という意。

易位生卦法によれば、もとは水沢節から来たものとする。
水沢節は、坎の水が兌の沢の上に在り、沢水が溢れず枯れずほどよくある様子である。
それが今、上下が入れ替わると、兌の水は悉く漏れ下り、この沢水困となる。
これは、沢水が涸渇した様子であり、困窮厄難を示す。
だから困と名付けられた。

・・・・中略・・・・

卦辞
困、亨、貞、大人吉、无咎、有言不信、

困は、亨(とお)る、貞(ただ)しかるべし、大人(たいじん)は吉(きち)、咎(とが)无(な)し、言うこと有れども信ぜられじ、

この卦は、坎を険難、兌を悦ぶとすれば、険難のときに悦んでいる様子となる。
険難のときであっても悦んでいるのは、一見問題がありそうだが、実はこれこそ困のときの正しい道なのである。
天命に身を委ね、その困窮に甘んじ、時期を待つしかないときである。
徒に悩んでも解決するものではない。
とすれば、その険難に置かれている状況を悦び楽しみとするのが、一番精神衛生にもよいし、そのようにしていれば、人間としての器の大きさも評価されるのである。
逆に、困窮を脱しようと右往左往しても、おいそれとは脱出できないものである。
なんとか現状を打開するためにと、甘い見通しを立てて無理して金策に走り、結局は失敗し、さらに借金に借金を重ね、ついには泥沼に陥ることがあるように。
したがって、今置かれている険難の状況を悦び楽しむ余裕こそが大事なのである。
そうしていれば、やがて必ず困窮を脱するときが来るものである。
だから、困は亨る、貞しかるべし、という。
亨るというのは、今すぐにではない。
貞しく、というのは、この場合は、険難を悦ぶ余裕で耐えることである。
困のときだからこそ、貞しく険難を悦ぶ余裕で耐えていれば、いつか困窮から脱して、そのときに亨通する、ということである。
大人ならば、どんなに困窮しても、天を恨まず、他人を咎めず、ひたすら貞正の道を守り、険難を悦び、時が至るのを待つものである。
右往左往するのは小人である。
だから、大人は吉、咎无し、という。
咎无しとは、道に違はざることである。
これが小人ならば、凶、咎有り、ということになる。
およそ人は困苦のときに遇うと、必ずその困窮を緩和し、険難を脱しようと、数々の辛酸を舐め、恥辱を耐え、耳を低くして尾を伏せ、他人に哀れみを求め、救済を乞い、哀しみ訴えるものである。
しかし、そうして訴えても、どこまで相手から信用され、助けて貰えるだろうか。
世の中というのは、そんなに甘くない。
自分がその困窮をあれこれ言っても、話半分にしか聞いて貰えないのが普通である。
だから、言うこと有れども信じられじ、という。


・・・・中略・・・・



劓(はなきら)れとは、上に在る者の困難の喩えであって、君上の困である。
刖(あしきら)れとは、下に在る者の困難の喩えであって、下民の困である。
赤紱(せきふつ)は諸侯の飾りにして、九二を指しての喩えである。

今、困の時に当たって、九五は君の位に居る。
そもそも人君の主たる務めは、天下の憂いを以って自身の憂いとし、天下の困苦を以って自身の困苦とすることである。
これを以って、上下の困難厄窮を一身に集め、自身が刑罰を受けているかのように苦しむ。
だから、劓れ刖れ、という。

もとより九五の爻は、剛健中正の徳が有るとしても、今、天命困窮の時にして、とても一人では天下億兆の困を済(すく)うことはできない。
そこで、九二の賢者が下に在るので、援助を求めようとするが、共に陽剛なので、相応じ難い。
これが九五の困(なや)むところである。
だから、赤紱に困しむ、という。

しかし、九五の君からすれば、九二以外に、応位の求めるべき者はいないので、心を専らにし、志をひとつにし、礼を崇(たか)くして、懇ろに九二の賢者を求めるべきである。
そうすれば、九二もまた剛中にして同徳相応じる象義があるので、時間はかかるが、必ずや来て九五を補佐してくれる。
九二が来て、君臣が徳を合わせれば、天下の困窮を済(すく)うことができる。
困窮から済われれば、大いに悦び楽しめる。
だから、乃ち徐に説び有らん、という。

さて、天下に君たらん人は、天下の困窮険難を見ては、一日片時も徒然として空しく過ごしてはいけない。
千慮百計して、以って困を済う方策を求めることは勿論であるが、粉骨砕身して人事人力を尽くしても解決しないことは、天地神明に祈り求めるべきである。
要するに、人事を尽くすだけでは足りないところを、祭祀を行い、天地神明に祈るのであって、今がその時その位なのである。
だから、祭祀を用うるに利ろし、という。

・・・・・
・・・・・・
抜粋終わり

ロシアだろうが、中国だろうが、助けを求めよ。

てことかも。

格下と思っている相手でも、これ!と思うものに助けを求めよ。

でも、安倍さんや「イヌ日本人」には難しいよな・・・。

>しかし、そうして訴えても、どこまで相手から信用され、助けて貰えるだろうか。
世の中というのは、そんなに甘くない。
自分がその困窮をあれこれ言っても、話半分にしか聞いて貰えないのが普通である。
だから、言うこと有れども信じられじ、という。

明治期の近代産業遺産のユネスコ登録を巡り、韓国と激しく言い合いになっている。

私は「戦争と植民地支配の罪過・過ちを認めて、飲め」と思うけど、

「対馬わが祖国」と対馬に堂々と広告塔を立てる、あちらの恥知らずも知っているので・・・

わが方は「自己の過ちを認めない恥知らず」で、

あちらは「自己の優位性を笠に着て、無体つき道理を踏みにじる恥知らず」

なので、恥知らず同志勝手にしやがれ!って気分。

もっと大変ことで「言うことあれど、信じられない」ことが続出してくると思う。

この卦はもう一つは「相手の言うことを信じるな」てもある。

マスコミ・国家・学校のいうことをウカウカと信じるな!っていう易の日本人への警告もあると思う。



変卦

雷水解 5

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-45.html

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
八卦のkansui-n.gif坎(かん)の上に、shinrai-n.gif震(しん)を重ねた形。

解とは、解消、解決、解散といった意。
易位生卦法によれば、もとは水雷屯から来たものとする。
屯は険難の中で動く様子だったが、その屯の内卦の震が動き進んで坎の険難の外に出て、険難が解消したのが、この雷水解である。
だから解と名付けられた。
また、水雷屯のときには、震雷が下にあって上昇しようとし、坎水が上にあって下降しようとし、その結果として両者が交わっていたのだが、今、震雷が動いて上り、坎水の雨が和して下り、両者が交わらなくなったのが雷水解である。
これは雷と雨が解散した様子である。
だから解と名付けられた。
また、水雷屯の内卦の震が動き進んで、坎の大川を渉り切り、険難を脱出解決した様子である。
だから解と名付けられた。

また、六五の君は柔中の徳が有り、
九四執政の大臣とは陰陽正しく比し、九二剛中の大臣とは陰陽正しく応じている。
これは、六五の君がよく賢良の二大臣に委任し、二四の両大臣もまた共に剛健の才力を発揮して天下国家の険難を解決する才徳が有る様子である。
だから解と名付けられた。

卦辞
解、利西南、无攸往、其来復吉、有攸往夙吉、

解は、西南(せいなん)に利(よ)ろし、往(ゆ)く攸(ところ)无(な)くば、其(そ)れ来(き)たり復(かえ)りて吉(きち)、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)れば夙(はや)くして吉(きち)、

この卦は、来往生卦法によれば、もとは地水師から来ていたとする。
地水師の内卦の外より一陽剛がやって来て、その上卦坤の体中に入り九四となったのである。
坤は西南の方位であり、衆とし、師とは軍旅のことである。
そもそも天下の険難を解くためには武力行使も必要である。
今、九四成卦の主として、摂政の位に居る。
これは西南坤の方に往きて衆を得た様子である。
だから、西南に利ろし、という。
そして、険難が解消して最早解くべきところがないのであれば、さらに何かをするのではなく、安静にしてその位を守るようにするのがよい。
だから、往く攸无くば、其れ来たり復りて吉、という。
往くというのは場所の移動ではなく、行動する、というニュアンスである。
来たり復りて、というのは、往くという字に対するものであり、行動する前の、平時の状態に戻ることをいう。

また、この卦は、もとは雷地予から来たともする。
雷地予の卦の中へ一陽剛が外卦の外からやって来て、九二となり、内卦の主となったのが、この雷水解である。
これは、険難が解ければ、人々は予楽和順する、という様子を示しているが、このときには、九二は来たり復って中を得ているわけである。
これもまた、来たり復って吉、という所以である。

しかし、もし、未だ解消していない険難があるのならば、速やかに解くべきである。
時は得難く失いやすいものである。
どうしようどうしようと躊躇していると、タイミングを逸し、速やかに行動すれば解決できたものが、解決できなくもなる。
だから、往く攸有れば夙くして吉、という。

・・・・・中略・・・・

六五、君子維有解、吉、有孚于小人、

六五(りくご)、君子(くんし)維(こ)れ解(と)くこと有(あ)り、吉(きち)なり、小人(しょうじん)に孚(まこと)とせらるること有(あ)り、

君子とは、九ニと九四のニ陽剛を指す。
今、ニと四の両大臣は、共に陽剛の才徳が有り、よく天下の険難を解くに堪える者なので、これを称美して君子と言う。
小人とは、ここでは天下の民衆を総称する義である。
これは、在位の君子に対する文言である。

さて、六五は柔中の徳を以って、恭しく君位に居る。
これは天下の険みを解くの主である。
もとより九四陽剛の執政大臣とは陰陽親しく比し、また、九二剛中の賢臣とは陰陽正しく応じている。
とすると六五は、よく人を知り、賢を官にしているのであって、股肱の良臣に委ね任して疑い慮ることがない明主である。

そもそも九二は、すでに三狐の佞人を除き去り、九四は私係陰累の初六の拇を解き去っている。
要するに、ニ四の両大臣は共に偏りなく公正の道を以って天下の険みを解いているのである。
したがって六五の君上は、自分からあれこれ動くことなく、この二人に任せて、見守っているだけでよいのである。
だから、君子維れ解くこと有り、吉なり、という。

およそ民を治める道は、寛仁と威権と兼ね備わるに在るものだが、その中について、なお細かに割論すれば、臣を以って民に臨むには公正を先として威権を主とし、君を以って民に臨むには慈愛を先とし寛仁を主とする、ということになる。
今、九ニと九四の両大臣は、剛明の威権を以って、天下の険みを解き去ることを主としているので、六五柔中の君としては、柔中の仁徳を以って、万民を懐柔することを主とするのがよい。
そうすればね天下億兆の小人は、両大臣の剛明の威権に謹み畏(かしこ)み、反対したり罪を犯したりせず、君上の寛仁に懐き服すものである。
だから、小人に孚とせらるること有り、という。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり

>しかし、もし、未だ解消していない険難があるのならば、速やかに解くべきである。
時は得難く失いやすいものである。
どうしようどうしようと躊躇していると、タイミングを逸し、速やかに行動すれば解決できたものが、解決できなくもなる。
だから、往く攸有れば夙くして吉、という。


放射能・消費税・戦争法案・年金カット。
ことごとく、日本人を殺しつくそうとしている日本国。

それが「さっさと課題・問題を解消する」ことなど無いは!

まさに「日本国」自体が、日本の衆生の最大の問題。


易は

「早く解決すると、美味しい思いできますよ・・・」

と誘ってくれてますけど、

不安で、不幸と死にしがみついている日本。

>君子とは、九ニと九四のニ陽剛を指す。
今、ニと四の両大臣は、共に陽剛の才徳が有り、よく天下の険難を解くに堪える者なので、これを称美して君子と言う。
小人とは、ここでは天下の民衆を総称する義である。
これは、在位の君子に対する文言である。

>さて、六五は柔中の徳を以って、恭しく君位に居る。
これは天下の険みを解くの主である。
もとより九四陽剛の執政大臣とは陰陽親しく比し、また、九二剛中の賢臣とは陰陽正しく応じている。
とすると六五は、よく人を知り、賢を官にしているのであって、股肱の良臣に委ね任して疑い慮ることがない明主である。


この六五の賢君を「安倍首相」って思いますか?

どう考えても違いますよね。

変爻は、5、すなわち最高指導者。

これが変わらないと、悩み・苦難の解消はできないのですから・・・


で、お金持ちのひとは自公・馬鹿は維新を応援して、一生懸命バカ殿に殺されるのでね。


お読みくださりありがとうございます。
ギリシアデフォルト さてどうなるか。

易に聞きました。

ネット上の使いました。

 

風雷益 上6 5

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-47.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・・
42 風雷益(ふうらいえき)
fuurai.gif益 震下巽上(しんか そんじょう)

八卦のshinrai-n.gif震(しん)の上に、sonfuu-n.gif巽(そん)を重ねた形。

益は、益す、増加する、といった意。

交代生卦法によれば、もとは天地否より来たものとする。
天地否の九四が来たって初に居り、初六が往きて四に居るのが、この風雷益である。
これは上を損(へら)して下を益す様子である。
だから益と名付けられた。

しかし、山沢損同様に、これも全体から観れば剛柔の交代のみであって、損益はない。
それなのに、ことさら益という。
それは、国家経済を以って喩えれば、上君主の驕りを減らして、下万民を賑わし恵むときは、その国は大いに富むものである。
また、内卦を自分、外卦を相手とすれば、外を減らして内に益し、相手を減らして自分に益す様子である。
また、草木を以って言えば、上の枝葉を透かし減らし、その枝葉を肥料として下の根元に撒くときは、その草木は大きく育つものである。
また、家屋をもって言えば、上の棟木を減らして下の柱を益すときには、その建物は強固にして、倒壊の危険は少なくなり、安全性が益す。
したがって、これらの様子から、ことさらに、益と名付けられた。

また、交代生卦法に従って言えば、天地否の初往き四来るは天地陰陽の二気が上り下って相交わることである。
陰陽の二気が交わるときは、必ずよく雨を成す。
坤地はその雨を承(う)けて、震巽の草木を生じるものである。
天地の草木百物を発生養育するのは、益の根本である。
だから益と名付ける。

また、震を動くとし、巽を従うとすれば、これは自分が動いて相手が従う様子である。
自分が動いて相手が従うときには、互いに相助け益すことになる。
だから益と名付けられた。
また、震を長男とし男とし、巽を長女とし女とすれば、長男長女すなわち男女が相交わり相助け益す様子であり、そうであれば子孫は繁栄するものである。
だから益と名付けられた。

しかし、風も雷も形のないものであり、常に動いているものであり、損益のものである(乾の最下の陽を損したのが巽、坤の最下に陽を益したのが震である)。
雷は陽の気の動きであり、風は陰の気の動きである。
そもそも陰陽は、相助けて益すものである。
雷が奮えばそれに呼応して風が怒り、風が烈しいときは雷が呼応して轟く。
これは雷と風が相助け合って益している様子である。
だから益と名付けられた。

なお、風雷相助け益すことから益と名付けられたのなら、雷風恒もまた雷風の組み合わせだが、こちらはなぜ、益とは名付けなかったのか。
それは、震雷は陽気にして上に属し、巽風は陰気にして下に属すからである。
雷風恒は上に属す震雷が上、下に属す巽風が下にあるが、これは恒常の位置であり、従って恒と名付けられた。
そもそも陰陽は交わるを以って用をなし、交わらなければ用をなさない。
天地否は、天地の位置が正しいので陰陽が交わらないわけだが、それと同じことである。
震雷も下にあればこそ上に昇り、巽風も上にあればこそ下に降りて、上下陰陽の気が交わり益を生むのである。

また、天地水火の四卦にも、損益の意があるべきではないか、なぜ山沢と雷風の四卦に限って損益と名付けられたのか、という疑問もあるだろう。
これは、山沢が地にある損益のものであるとともに、風雷が天にある損益の現象だからである。
したがって、山沢風雷の四卦について、損益の道を見出したのである。
これを天地否の交代生卦法によって話せば次のようになる。
乾天は上に位置し、坤地は下に位置する。
初六が上って四に居るのは、地の気の上昇であり、九四が下って初に来るは天の気の下降である。
要するに、地の気が昇って風となり、天の気が下って雷となるのであって、天地の気が交わって風雷を生じ、風雷が相交わって草木百物を生じるのである。
したがって、天地間にある物は、皆この風雷二気の相益す作用によっての産物なのである。
だから、山沢雷風の四卦をもって、損益の卦とされたのである。


・・・・・・中略・・・・・・
九五、有孚恵心、勿問元吉、有孚恵我徳、

九五(きゅうご)、恵心(けいしん)に孚(まこと)有(あ)れば、問(と)うこと勿(なか)れ、元吉(げんきち)なり、我(わ)が徳(とく)を恵(けい)とするに有孚(ちがいな)し、

今、上を損(へら)し、下を益すの時に当たって、九五の君は、剛健中正の徳が在り、孚信誠実で、よく自分を省み、華靡を止め、下民を益し厚くすることを専らとする者である。
そもそも君上に、よく恵心が有り、兆民を益し厚くすることがこのようならば、これこそ君徳の最上にして、大善の吉であることは、問わずとも自明である。
だから、恵心に孚有れば、問うこと勿れ、元吉なり、という。

君上の徳が、すでにこのようであるのならば、下民は必ずやその君徳を恩沢仁恵として感謝するものである。
君上の徳こそが、下民にとっては恵なのである。
だからね我が徳を恵とするに有孚し、という。


上九、莫益之、或撃之、立心勿恒、凶、

上九(じょうきゅう)、之(これ)を益(ま)すこと莫(な)くして、之(これ)を撃(う)つこと或(あ)り、心(こころ)を立(た)つること恒(つね)勿(なか)ればなり、凶(きょう)なり、

上九は不中正の志行にして、上を損(へら)して下を益すというこの時であっても、その身は益の全卦の極に居て、道を失い、利を貪るの念が甚だしい者である。
したがって、下に益すことは考えず、自身の利益のみを求め貪るのである。
これは、時に悖(もと)り、道に逆(さから)い、人に背(そむ)くことである。
このような人物なので、他人もまた上九に味方することはなく、却って寇として撃つ者も出てくる。
だから、之を益すこと莫くして、之を撃つこと或り、という。

およそ、利を貪ることの甚だしい者は、進退共に利に由らないことはない。
不仁を恥じることなく、不義をも畏れず、直接の利が見えなければ勤め励むことのない小人である。
したがって、その心志、心の立ち様は変動して定まることがない。
これは恒常のない人である。
人として常の徳を失ってしまうのは、言うまでもなく凶である。
だから、心を立つること恒勿ればなり、凶なり、という。


 

・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

変卦は、

地雷復 

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-29.html 


上記文抜粋
・・・・・・・・・

この地雷復は、一陽が復(かえ)り生じた卦であり、君子の道がこれから長じようとするときなのである。
だから、復は亨る、という。
また、震を動くとし、坤を順(したが)うとすれば、下卦の自分が動き、上卦の相手が順う様子であるが、これもまた、亨る、という根拠である。
しかしこの卦の陽は、初九の一陽剛のみであり、その勢いは微弱である。
したがって、元いに亨る、とは言えないのである。

そもそも陰陽消長は、出入共に少しの障り隔てはないものであり、天運の循環であるところの自然の流れである。
これに対して疾病は、陰陽の出入りが障り滞り、気血の不和より起こるものである。
したがって、陽が消滅し、今ここに再び来復したということは、疾病のときのような、陰陽の出入に障り隔たり滞りがあってのことではなく、まったく自然の流れなのである。
だから、出入りともに疾い无し、という。

また、この地雷復は、一陽初めて復り生じたのであって、今その勢いは微弱だが、次第に同朋の陽爻が来たって地沢臨となり地天泰となって行くわけである。
その来るところの朋は陽であり君子であるわけだから、朋来りて咎无し、という。
これが逆に、天風姤から天山遯、天地否となるときは、陰邪な小人の朋が来るわけだから、咎有りということになる。

また、この地雷復は、元々純陽の乾為天より段々と陽が消滅して行き、ついに純陰の坤為地となってしまったところに、今再び元の乾為天の初九の一陽剛がその本位に来復したのであって、その一陽剛が反(かえ)って来た意義は、陽であるがゆえに正しく大いにして、よく道に適うところである。
だから、反復するに其れ道あり、という。

さて、この一陽の復活だが、乾為天の初九が陰にとって代わられた天風姤から、天山遯、天地否、風地観、山地剥、坤為地、地雷復と、七卦にして、最下に陽が復(かえ)り来っている。
だから、七日にして来復す、という。
もとよりその来復するのは陽である。
だから七日という。
七は奇数なので陽の数であり、日は陽物だからである。
陽が来復することは吉であり、吉は速やかに来て欲しいと願うものである。
だから日にかけて七日と言ったのである。
地沢臨では、陰邪が来ることを、八月に至れば凶有らん、と示しているが、陰が来ることは凶であり、凶はすぐに来て欲しくないことである。
そして八は偶数なので陰の数であり、月も陰物である。
だから地沢臨では、地雷復とは逆に、少しでも遅くと、日ではなく月で言っているのだ。

また地雷復は、君子の道が長じ、小人の道が消えるときであって、下卦の自分が震で動けば、上卦の相手は坤で順(したが)うときでもあり、さらには順をもって動くという様子でもある。
そうであるのなら、何事でも、行うに問題はない。
だから、往く攸有るに利ろし、という。


・・・・・中略・・・・・

六五、敦復、无悔、

六五(りくご)、復(かえ)るに敦(あつ)し、悔(くい)无(な)し、

敦とは篤厚の義である。
今、復の卦の道に復る時に当たって、六五は柔中の徳が有り、君の位に居る。
これは、道に復ることの篤い君である。
だから、復るに敦し、という。
このようであれば、民を懐柔して国を治めるにおいて、悔が有ることはないものである。
だから、悔无し、という。

・・・・中略・・・・・

上六、迷復、凶、有災眚、用行師、終有大敗以其国君、凶、至于十年不克征、

上六(じょうりく)、復(かえ)るに迷(まよ)えり、凶(きょう)なり、災眚(さいせい)有(あ)らん、用(もち)いて師(いくさ)を行(や)らば、終(おわ)りに大敗(たいはい)有(あ)りて其(そ)の国君(こくくん)に以(およ)ばん、凶(きょう)なり、十年(じゅうねん)に至(いた)るとも征(せい)すること克(あた)わじ、

この卦は道に復るということから卦名が付けられたのであって、六爻ともにその復ることの遅速得失を以って象義を為している。
このうちの初九は、陽明剛正にして卦の初めに居るので、道に復ることが至って速やかな者であって、このようであるのなら、仁と称され、道と誉められよう。
一方、この上六は、陰暗柔弱にして卦の終りに居るので、道に復ることが至って遅く迷い、遂にはその身を終わるまでも復ることを知らない者とである。
このように初九と上六とは、反対にして、初九は復ることの速やかなることを以って元吉とし、上九は復ることが遅いことを以って、凶とする。
もとより上六は、始めより終りまで、道も仁も知らないのであって、暗い中に始まり、迷いの中に終わる者である。
少しでも仁や道を知っていれば、このような状態を悔い改めようとの念も有るところだが、情欲の海に沈み、暗昧の中を迷い行き、道も義も知らずに生涯を終わる者である。
だから、復るに迷えり、凶なり、という。
そして、爻辞のこれより下の部分は、この、復るに迷えり、の結末を書いているのである。

およそ凶害が来ることは、その形状は種々あるとしても、道を失ってのことより大なるはない。
その道を失う者には、天の災いと人の眚が並び至るものである。
だから、災眚有らん、という。
眚とは自らが原因となって引き起こす災難のことである。

さて、戦争を行うときの道は、公の道を以って私情なるを征し、大義を以って不義なるを伐し、順を以って逆を討ち、正しきを以って邪を誅することである。
このようであるのなら、天も順(した)がい人も順がうので、令も行われて衆人も服し従う。
その結果として、よく暴を除き、残を撥(はら)い、敵に克ち、乱を治めることを得るものである。
今、この上六は、大にこれに反している。
まず、自己はすでに道を失い、陰柔暗昧の志行にして、却って無道不義の軍隊を興そうとしている。
これは天に逆らい人に背いているのである。
このようなときには、令も行われず、人民も服せず、その軍隊は必ず大に敗退するものである。
その敗退は、徒に軍隊を喪うのみではない。
必ずやその国君の位にも及ぶものである。
だから、用いて師を行らば、大敗有りて其の国君に以ばん、凶なり、という。
国君とは、その君の国と自身とを共に指すのであって、国を喪い宗廟社稷をも滅するこを戒めているのである。
そのような戦争なのだから、何年費やしても勝てるわけがない。
だから、十年に至るとも征すること克わじ、という。
十とは極数の名にして、日を積み年を重ねて十年の久しきに至るとも、終りに軍功を成し得ることはできない、ということである。



・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

よくないよね・・・・


>およそ、利を貪ることの甚だしい者は、進退共に利に由らないことはない。
不仁を恥じることなく、不義をも畏れず、直接の利が見えなければ勤め励むことのない小人である。
したがって、その心志、心の立ち様は変動して定まることがない。
これは恒常のない人である。
人として常の徳を失ってしまうのは、言うまでもなく凶である。
だから、心を立つること恒勿ればなり、凶なり、という。

ギリシアも、より以上にユダキン・欧州も、強欲で恐ろしい。

帰る・・・・て、土石に帰る・・・。


お読みくださりありがとうございます。
新井先生のブログを見て、今後の日本を問いました。

「放射能地獄の日本の行く末」

天地否 上6

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-17.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
12 天地否(てんちひ)
tenchi.gif否 坤下乾上(こんか けんじょう)

八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、kenten-n.gif乾(けん)を重ねた形。

否とは閉塞否定といった意。
前卦地天泰とはまったく逆の形であり意味である。
この卦も地天泰同様、乾を天の気、坤を地の気とするが、上にある天の気が上昇、下にある地の気が下降だから、意味は逆になる。
要するに、陰陽の気が交わらないのだ。
陰陽の気が交わらなければ雨は降らず、草木百物は育たない。
このような状態を否塞という。
だから否と名付けられた。
また、上にある者がことさら上にあることを主張し、下にある者がことさら下にあることを主張し、上下が対立しているのだ。
君臣が心を一つにするのではなく、双方が共に相手の言い分を否定するだけで、決して譲り合わないのである。
だから否と名付けられた。
また、夫婦で言えば、乾の夫と坤の妻が、自己主張ばかりで相手の気持ちを汲もうとしない様子である。
夫婦が互いに相手を思いやり、心を通わせてこそ、結婚生活は上手く行き、子孫繁栄にも恵まれるというものだが、これではそういう明るい未来は否定され、離婚が待ち構えているだけである。
だから否と名付けられた。
また、内卦の坤は柔弱、外卦の乾は剛健とすれば、優柔不断で自分自身の考えが曖昧なのに、物事はその場の思いつきで威圧的に決め付けてしまう様子である。
これでは何事も失敗するばかりである。
だから否と名付けられた。
また、内卦の坤を小人、外卦の乾を君子とすれば、小人が国政を弄び、君子たる資質を備えた人間が外に左遷されている様子。
これでは必ずその国は傾き凋落する。
だから否と名付けられた。
また、十二消長で言えば、天風姤で生じた陰気が半分を占めるまでになったところである。
したがって、陽を君子の道、陰を小人の道とすれば、小人の道が幅を利かせ、君子の道が尊ばれなくなってきた様子。 これでは世の中は混迷する一方で、先行きは不透明である。
だから否と名付けられた。

卦辞
否、大往小来、不利君子貞、
否(ひ)は、大(だい)往(ゆ)き小(しょう)来(き)たる、君子(くんし)の貞(かた)くなしきに利ろしからず、

前卦地天泰とは逆に、こちらから出て行くのは大、入り来るのは小である。
十二消長で言えば、陽の大なる者が卦外へ行き、その数を減らし、陰の小なる者が卦内に来て、その数を増やしているときである。
だから、大往き小来たる、という。
大きく投資しても、儲けは少ない、という意味に取ってもよいだろう。
とにかく陰陽が交わらなければ、何も生まれないのだから、これは大凶である。
君子ならば、小人の道が盛んになろうとする兆しを見極め、原理原則に捉われず、小人から害されないように、時が過ぎるのを待つのが得策だろう。


・・・・・・中略・・・

上九、傾否、先否、後喜、

上九(じょうきゅう)、否(ひ)を傾(かたぶ)く、先(さき)には否(ふさ)がり、後(のち)には喜(よろこ)ぶ、

この爻は否の終りにして、否もすでに傾き尽くして、まさに泰通に至ろうとするときである。
だから、否を傾く、という。
しかし、天下の否は、自ら傾き尽きるものではない。
乱を治め、否を救うのは、天命を得た大人である。
したがって、人力を尽くして心を用い、その後に安泰に至る、ということである。
ともあれ、これまでは否塞の乱世に憂い苦しんでいたのが、これより後は、否もすでに傾き尽くして泰通安寧の世に向かうのであって、楽しみ喜ぶときである。
だから、先には否なり、後には喜ぶ、という。



・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり


衰亡滅亡の寸前。

小人跋扈して、まともな人は放逐される。

天地を転倒させるほどでないと、生き延びれない。

この多くの死者で気が付き立ち上がれば、何とかなるかもしれない。


孤独を覚悟して・・・

変卦は

沢地萃 上6

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-50.html  

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
45 沢地萃(たくちすい)
takuchi.gif萃 坤下兌上(こんか だじょう)

八卦のkonchi-n.gif坤(こん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

萃とは、集まる、という意。

この卦は、九五の君と九四の宰相と、共に剛明の才徳があり、下の衆陰がこの二陽の徳に集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、水地比の聖君と雷地予の賢臣とが、同徳をもって相助け集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、兌を悦ぶ、坤を民衆とし順(したが)うとすれば、悦んで順う様子である。
これを、上を主体に言えば、君主が悦んで民衆が順う様子であり、下を主体に言えば、民衆が悦んで順う様子となる。
悦んで順うのであれば、皆が相集まる。
だから萃と名付けられた。
また、一人のこととして言えば、悦んで順うのであって、また、対人関係で言えば、自分が順い相手が悦ぶことであり、これは共に相集まる様子である。
だから萃と名付けられた。
また、沢が地上にある様子だが、沢は水が集まっているところであって、だから萃と名付けられた。
また、易位生卦法によれば、もとは地沢臨から来たものとする。
地沢臨は沢水坤地の下に在るわけだが、その沢水が地上に上ったのが、この沢地萃である。
これは水気が地上に集まった様子である。
だから萃と名付けられた。
また、坤の母と兌の少女とが相集まった様子である。
だから萃と名付けられた。
また、兌の少女が愛嬌を振りまいて、大勢の民衆が集まった様子である。
だから萃と名付けられた。

卦辞
萃、亨、王*假有廟、亨用大牲、吉、利見大人、利貞、利有攸往、

萃は、亨(とお)る、王(おう)有廟(ゆうびょう)に*假(いた)る、亨(すすめまつ)るに大牲(たいせい)を用(もち)いてす、吉(きち)、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろし、貞(ただ)しきに利(よ)ろし、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

*假:通本は仮の正字体の假とするが、中州はその偏をイではなく彳が正しいと指摘する。
しかしそれは、パソコンで使うJIS、UNIコード、共に規格外の字なので、ここでは止むを得ず、假で代用しておく。

およそ物事は、相集まってしかる後に亨通するものである。
萃は物事が集まった様子である。
だからまず、萃は亨る、という。
有廟とは、先祖を祭祀するところにして、有は尊称である。
そもそも神とは、祭祀するときには、そこに集まり、祭祀しないときにはそこから散じるものである。
そこで六十四卦では、集まるという意の沢地萃と、散じるという意の風水渙の二卦に、鬼神を祭祀するときのことを書いているのである。
風水渙は既に散じたものが、祭って集まることを解説し、沢地萃は集まるという卦の意義について、祭ることを解説しているのである。

さて、天下を治める道の肝要は、民心を集めることが第一である。
その民心を集めることは、自分が孝を尽くすのが先決である。
その孝を尽くすのは、近きより遠きを追うのが先決である。
遠きというのは、先祖のことであり、先祖を丁重に敬うことが大事だ、ということである。
『論語』にも「終わりを慎み遠きを追えば、則(すなわ)ち民の徳は厚きに帰す」とある。
今、君上がよく孝を先祖に致すこと厚ければ、鬼神は必ず感じ格(いた)って来臨し、民も必ず化して集まるものである。
これを王者の萃という。
要するに、自分の先祖を敬ってこそ、人は他人から信頼されるのであって、自分の先祖を蔑ろにすれば、目先の利益では人を集めたとしても、その人間性を心からは信頼されないものだ、ということである。

その祭祀をするときには必ず牲を用いる。
牲とは進め献じる供え物のことである。
大牲とは、その供え物の至って大掛かりなものであって、至極の大礼を備えることである。
だから、王有廟に*假る、亨(すすめま)つるに大牲を用いてす、吉、という。
吉というのは、その祭祀において至敬至誠を尽くすときには、鬼神は必ず感じて格(いた)って大いに福を得るということである。
なお、太古には牲として大型動物を生贄にすることもあったようだが、周易では、水火既済九五の爻辞にあるように、その必要はないと考えている。

今は萃=集まるときである。
民衆は、天下の賢明な大人たちが集まって政治を行う様子を見ればこそ、悦んで順うものである。
したがって、九四の賢臣から言えば、九五の大人たる君主に謁見するに利ろしく、九五の君主から言えば、九四の大人たる賢臣に接見するに利ろしいのである。
だから、大人を見るに利ろし、という。

君臣上下共に相集まるときには、貞正であることが大事である。
だから、貞しきに利ろし、という。

そもそも沢地萃は、九四と九五の二陽剛賢明の君臣が、大いに天下の人心を集めるという意だが、九四九五は外卦なので、要するに、外卦に集まる様子である。
往く攸有るに利ろしというのは、内卦を現在地としたときの往く攸すなわち外卦の九四九五に集まるに利ろし、と諭しているのである。

・・・中略・・

上六、齎咨涕洟、无咎、

上六(じょうりく)、齎咨(せいし)涕洟(ていい)すれば、咎(とが)无(な)し、

齎咨涕洟とは、歎き悲しみ泣く様子である。
今は萃の時である。
上六は陰柔不中にして、兌口の主である。
したがって、強いて九五の君に比し萃まろうとする。
これは、重陰不中姦佞の小人であって、巧言令色を以って君上に取り入って信用を得、君寵を利用して威勢を逞しくしようと画策する者である。
しかし、この九五は剛健中正なので、よく徳を守って姦佞陰邪の小人を防ぎ斥ける。
これを以って上六の小人は、君辺に萃まる必要のない者とされる。
上六は、このときに当たって己の身の安泰を求めるのならば、巧言令色佞媚姦謀を以って人を欺き身を立てようとして道に背き義に悖ることの宿罪前非を痛く悔いて、厳しく改め、嘆き悲しみ泣き、正しきに復(かえ)ることである。
そうすれば、これ以降は罪咎を免れるというものである。
もし、従来の志を改めないときは、大なる罪咎を得て、大凶となる。
だから、齎咨涕洟すれば、咎无し、という。



・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり


多くの人が助けてくれるかもしれない。

でも傲慢で愚かで、前非を改めないと、

>もし、従来の志を改めないときは、大なる罪咎を得て、大凶となる。
だから、齎咨涕洟すれば、咎无し、という。


その咎は、まずは自身の死。家族も友人も死に、日本という山河すら滅亡する。

生き延びるための祭祀の犠牲・生贄は、まずは「ネオコン」と「アベチョンとその仲間」だろう。



深刻さは易でも伝わる。

最低最悪の状態も意味する「天地否」に、「人がそれでも集まらずみじめ」な「沢地萃 上6」


それを認識したら、まだ活路はあるが・・・

日本人のこれまでの行動様式を見ると、無理でダメで死滅だ!尋常なことでは変わらないし動かない。断定するけど。



お読みくださりありがとうございます。

易に「箱根山の噴火はどうなるか」を問いました。

略ゼン法で行きました。

山天大畜 の6爻でした。

http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/ekikyou/ekikyou_body.html

上記文抜粋
・・・・・・・・
大畜、利貞。不家食吉。利渉大川。
【読み】
大畜は、貞しきに利ろし。家食せずして吉なり。大川を渉るに利ろし。


・・・・・・中略・・・・

上九、何天之衢。亨。

上九は、何ぞ天の衢[ちまた]なる。亨る。

・・・・中略・・・

何天之衢、道大行也。

何ぞ天の衢なるとは、道大いに行わるるなり。



・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-31.html 

上記文抜粋
・・・・・・・

上九、行天之衢、亨、

上九(じょうきゅう)、天(てん)之(の)衢(ちまた)を行(ゆ)く、亨(とお)る、

天の衢とは、天路といったことである。
この爻は大畜の卦の終りにして、畜(とど)め止めるという義も、既に尽きている。
だから、縦横無碍にして、阻み隔てるものは何もない。
これは鳥が空中を飛び行き、雲路を翔けるが如く、少しも支障なく自由自在に、どこへでも行け、何事も為し遂げられ、亨通するときである。
だから、天之衢を行く、亨る、という。


・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり

この卦は、「停滞・大いなる蓄積」も意味しますが、それが

>この爻は大畜の卦の終りにして、畜(とど)め止めるという義も、既に尽きている。
だから、縦横無碍にして、阻み隔てるものは何もない。
これは鳥が空中を飛び行き、雲路を翔けるが如く、少しも支障なく自由自在に、どこへでも行け、何事も為し遂げられ、亨通するときである。

て、ヤバイですよね・・・・


変卦は、地天泰 です。その6爻をメインにみます。

http://mokusai-web.com/shushigakukihonsho/ekikyou/ekikyou_body.html 

上記文抜粋
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【読み】
泰は、小往き大來る。吉にして亨る。

初九、拔茅茹。以其彙。征吉。
九二、包荒、用馮河、不遐遺、朋亡、得尙于中行。
九三、无平不陂、无往不復。艱貞无咎。勿恤其孚。于食有福。
六四、翩翩。不富以其鄰。不戒以孚。
六五、帝乙歸妹。以祉元吉。
上六、城復于隍。勿用師。自邑告命。貞吝。
【読み】
初九は、茅[ちがや]を拔くに茹たり。其の彙[たぐい]を以[ひき]いる。征けば吉なり。
九二は、荒を包[か]ね、河を馮[かちわた]るを用い、遐[とお]きを遺[わす]れず、朋亡ぶれば、中行に尙[かな]うことを得ん。
九三は、平かなるものにして陂[かたむ]かざること无く、往くものにして復らざるは无し。艱[くる]しみて貞しければ咎无し。其の孚を恤うること勿かれ。于[ここ]に有福を食まん。
六四は、翩翩たり。富めりとせずして其の鄰を以[ひき]いる。戒めずして以て孚あり。
六五は、帝乙妹を歸[とつ]がしむ。以て祉[さいわい]ありて元いに吉なり。
上六は、城隍[ほり]に復る。師を用うること勿かれ。邑より命を告げんのみ。貞なれども吝なり。

〔彖傳〕泰、小往大來、吉亨、則是天地交、而萬物通也。上下交、而其志同也。内陽而外陰。内健而外順。内君子而外小人。君子道長、小人道消也。
【読み】
〔彖傳〕泰は、小往き大來る、吉にして亨るとは、則ち是れ天地交わりて、萬物通ずるなり。上下交わりて、其の志同じきなり。内陽にして外陰なり。内健にして外順なり。内君子にして外小人なり。君子は道長じ、小人は道消するなり。

〔象傳〕天地交、泰。后以財成天地之道、輔相天地之宜、以左右民。
【読み】
〔象傳〕天地交わるは、泰なり。后以て天地の道を財成し、天地の宜を輔相し、以て民を左右す。

・・・・・中略・・・・

城復于隍、其命亂也。

城隍に復るとは、其の命亂るるなり。



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抜粋終わり

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上記文抜粋
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上九は、泰の全卦の終りにして、まさに否に遷ろうとするときである。
今は泰中の否であるが、もう一歩進めば完全なる否のときになるのである。
だから、このときの時運の変遷をもって書いている。

城は土を築いて成るものである。
隍は土を掘って成るものである。
今、泰の時運はすでに去り、否の気運がまさに来ようとしている。
それは、言うなれば、高く堅く築かれた城が、忽ち深く低い隍に反覆変革することである。
もとより事物の盛衰成敗は、実にあざなえる縄のごとくである。
だから、その時運を諭し示して、城隍に復る、という。

およそ時運すでに衰え、天命が革まろうとするときは、必ず上は政治に怠り、驕りに長じ、下は諂い欺き、賄賂が公然と横行し、規律や規則はないがしろにされ、上下の情意は遥かに隔たり、人の和がなくなり、情が通じない至極となり、忽ちに逆乱が起こるものである。
要するに、人の和が一番大事で、それが崩れると乱れが起きるのである。
したがって、軍隊においても、人の和を以って第一とする。
『孟子』公孫丑章句下にも「天の時は、地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」とあるではないか。

今、否の気運が間近なのだから、君と民と上下の情が遠ざかること、ほとんど世を隔てるがごとくであって、人心は和しない。
まるで、氷と炭とが、形状は似ていても、作用は相背くが如くである。
このようなときに、強いて軍隊を出して用いる時には、必ず砂上の楼閣のように、すぐ敗れ崩れるものである。
だから、これを戒めて、師を用うる勿れ、という。
師とは師団という言葉があるように、軍隊のことを指している。

そもそも礼楽征伐の命令は天子より出る所のものである。
それが、天子を差し置いて、諸侯より出れば、それは道なきの政である。
また、諸侯の下の、大夫より出れば亡びる兆しである。
況や、辺境の小邑=小さな村より上国に向かって告命=命令を出すに至るのであれば、これは君徳のすでに衰え、威厳は廃れ失い国脈ほとんど絶せんとするところの大凶の徴である。
このような状況のときに、君上は、尚も固執に常例先格などの迂遠なる論を持ち出し、その小邑からの告命を斥けるのがよいのだろうか?
いや、そういうことに縛られず、臨機応変に対処しないといけない。
もとより君上たる者は、進退変通の幾を知らなければ、わが身の滅亡のみではなく、宗廟社稷をも覆し、さらには、遠い後の世までにも歴史に残り謗られる。
これは、吝の極である。
だから、邑自り告命すとも、貞(かた)くするは吝し、という。



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抜粋終わり


地天泰は、安泰・安らかな繁栄も意味しますが、すごい爻辞です。

見方は

1・大畜から泰への変化を重視して、
「ぐずぐずが続いて、なんとなく噴火しなかった。」

2・変化の卦の形をみて、
「山の頭が吹っ飛んで、噴火するけど、すぐに安泰になる。大噴火から、そく収束。」

3・変卦の爻辞も加味して

「箱根山の大噴火。日本は混乱して「城が堀に戻る=国家の崩壊」あるいは、日本のリセット」


でも両方とも、良い卦です。

変卦の爻辞も悪すぎない、「貞なれども吝なり。」


で、日本のこの騒動後の動向を易に聴きました。

中ゼン法で聴きました。

火天大有の不変でした。

上記文抜粋
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大有、元亨。
【読み】
大有は、元いに亨る。

初九、无交害。匪咎。艱則无咎。
九二、大車以載。有攸往无咎。
九三、公用亨于天子。小人弗克。
九四、匪其彭。无咎。
六五、厥孚交如。威如、吉。
上九、自天祐之。吉无不利。
【読み】
初九は、害に交[わた]ること无し。咎に匪ず。艱[なや]めば則ち咎无し。
九二は、大車以て載す。往く攸有るも咎无し。
九三は、公用[もっ]て天子に亨せらる。小人は克[あた]わず。
九四は、其の彭[さか]んなるに匪ず。咎无し。
六五は、厥の孚交如たり。威如たれば、吉なり。
上九は、天より之を祐[たす]く。吉にして利ろしからざること无し。

〔彖傳〕大有、柔得尊位大中、而上下應之、曰大有。其德剛健而文明、應乎天而時行。是以元亨。
【読み】
大有は、柔尊位を得て大中にして、上下之に應ずるを、大有と曰う。其の德剛健にして文明、天に應じて時に行う。是を以て元いに亨るなり。

〔象傳〕火在天上、大有。君子以遏惡揚善、順天休命。
【読み】
〔象傳〕火天上に在るは、大有なり。君子以て惡を遏[とど]め善を揚げて、天の休[おお]いなる命に順う。

大有初九、无交害也。
大車以載、積中不敗也。
公用亨于天子。小人害也。
匪其彭、无咎、明辯晳也。
厥孚交如、信以發志也。威如之吉、易而无備也。
大有上吉、自天祐也。
【読み】
大有の初九は、害に交ること无きなり。
大車以て載すとは、中に積みて敗れざるなり。
公用て天子に亨せらる。小人は害あるなり。
其の彭なるに匪ず、咎无しとは、明辯にして晳[あき]らかなればなり。
厥の孚交如たりとは、信以て志を發するなり。威如の吉とは、易[あなど]りて備うること无ければなり。
大有の上の吉とは、天より祐くればなり。



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抜粋終わり

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-19.html

上記文抜粋
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大有とは、有(たも)つところが大なること言う。
一陰が六五の君位にあって、他の五陽爻を有っている様子。
だから大有と名付けられた。

およそ天地陰陽の道理は、陽を剛健強動とし、陰を柔順弱静とする。
したがって、陽をもって陰を有つことは容易く、陰をもって陽を有つことは難しい。
その難しいことができてしまっているのが、この卦である。
それは素晴しいことではあるが、同時にその状態を維持するには、それなりの方法が必要である。
だから、陰が陽を有つとして大有という卦名を立てているのである。

そもそも国を有つ者は、第一に威厳がなければいけない。
威厳がなければ令は行われず、民衆は服従しない。
そして、文明(聡明なこと)でなければ、邪な考えに惑わされる。
そして、柔中の仁徳をもって、臣の諫めを聞き入れることも大事である。
そして、決断力がなければ、賢者を見つけても登用することはできず、不肖者を見つけても退けることができない。
今、この卦は、乾を威厳とし決断とし、離を文明とし、さらには、六五柔中温良の得有ってよく諫めを聞き入れ、民衆を懐柔する様子となる。
だから大有と名付けられた。

六五の君位の爻は、陰だからこその陰柔暗弱の意があるのだが、同時に上卦離明の主爻にして、内卦に乾の威厳・決断がある。
これにより、暗弱な君とはせず、文明柔中の君とするのである。
文明柔中の君は、何を置いても第一に諫めをよく聞き入れるから、国を有つことができるのである。

また、離を太陽とし、乾を天とすれば、太陽が天上に在り、遍く万国を照らし、その有つところ大なるときである。
だから大有と名付けられた。

また、離明の徳があって、万事に迷うことなく、その行動は乾の健やかにして、怠惰になることはない、ということであって、このようであれば、何事でも大いに有つことになる。
だから大有と名付けられた。

卦辞
大有、元亨、
大(おお)いに有(たも)つならば、元(おお)いに亨(とお)る、

上に述べたような大いに有つ徳があれば、無理をせず、状況をきちんと把握し、天に応じ時に従って行動するので、どんな願いでも叶うもの。
だから、元いに亨る、という。

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抜粋終わり


悪くない。


太陽が天に輝く。


ようするに、膿だしのための大噴火かも・・・。


まあ死人が出なければ、大万々歳の結果になりそうですけど・・・



まあ私の下手な占いとその判断ですので、まあ参考と楽しみ程度に。


お読みくださりありがとうございます。
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