忍者ブログ
故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/04     03 < 10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  > 05
Admin | Write | Comment
P R
大本法華ワンワールドって概念の存在に気が付き、正直愕然として、政治のことを書く気が

完全に失せそうです・・・・


日本の一見良心的て思える人も「大本法華ワンワールド」に汚染されている。

普通の人士は既存の「金融ワンワールド」の洗脳が解けない。


まさに戦前そのものです・・・・


右も左も、ネオコンも陰謀暴き屋も、どちらも「ワンワールド」の手先の「仏神・天地」の敵かその毒に充てられてます・・・・

ためになる情報も上げてくれますが、その毒の汚染を回避しないと、放射能でも食品添加物でもない「俺だけが生き延びたらいい」という「エセユダタルムード狂信教」に毒され、徳を失い死んでいきます。

もう嫌になります・・・・

でもまあ、やつらの首魁が死に、洗脳者が幾分か目覚めて正気になって、その悪行のバベルの塔がつぶれるを見るまで死んでたまるか!!!


で今後の世界は?

と大変ざっくりとしたものを易に問いました。

最後は、自分の良心と仏神・昔の聖賢の英知だけです、この手の判断で信用できるのは。


いまさらですけど


山風蠱 5爻 です。


http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-23.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・・・

蠱は、腐敗・壊乱・淫溺・惑乱といった意。
この卦は、巽を長女とし、艮を少男とすれば、長女が少男に先立ち、長女の色情をもって少男を媚い惑わす様子となる。
だから、蠱と名付けられた。
また、巽風をもって艮山を粛殺(しゅくさつ=秋の厳しい風で草木を枯らすこと)する様子である。
だから、蠱と名付けられた。
また、上卦の艮を止める、下卦の巽を服従とすれば、上の恵みが止まって下に及ばず、下は巽従に過ぎて佞媚に流れる様子となる。
このようでは、国家は必ず壊乱する。
だから、蠱と名付けられた。
また、艮は一陽が上に在り二陰が下に居て、巽は二陽が上に在り一陰が下に居るわけだが、これでは上下共に陰陽交わらず、陰陽交わらなければ、必ずや物事は壊れる。
また、艮は一陽が上に止まり、巽は一陰が下伏せている形だが、これでは剛柔交わることがなく、剛柔交わらなければ、必ず物事は壊れる。
だから、蠱と名付けられた。
また、巽を臭いとし気とし、艮を止めるとし覆う蓋とすれば、蓋で覆った中に臭気が発生している様子となる。
臭気が発生すれば、必ず腐敗して虫=蟲が生じる。
だから、蠱と名付けられた。
蠱は皿の上に蟲がたかっている様子の文字である。
また、交代生卦法によれば、元は地天泰から来たとする。
地天泰の初九の陽が上に往き、上るに過ぎて不中の高き極みの上爻に居り、上六の陰が下り来て、下るに過ぎて不中の最下の底の初爻に居る形である。
これでは陰陽交わらず壊れを生じる。
だから、蠱と名付けられた。

卦辞
蠱、元亨、利渉大川、先甲三日、後甲三日、
蠱(こ)は、元(おお)いに亨(とお)る、大川(たいせん)を渉(わた)るに利(よ)ろし、甲(こう)に先(さき)だつこと三日(みっか)、甲に後(おく)れること三日、

この卦は、敗壊の意であり、そんなときに元いに亨ることはない。
しかし、だからと言って、敗壊を放っておくわけにはいかない。
折りを見て、いつかは修復する必要がある。
としても、修復するには、そのことについて深い知識と技能が必要である。
要するに、その蠱の敗れたことについて、元いに亨通している必要があり、そういう人物であればこそ、敗壊を修復可能なのである。
だから、蠱は元いに亨る、という。
例えば、パソコンが壊れたとき、パソコンのことをよく知らなければ、修理に出すしかないが、パソコンに精通していれば、自分でどこが壊れたかを調べ、部品を取替えて直せるのと、同じことである。

また、巽を従うとし艮を止めるとすれば、従って止まる様子である。
大きな川を渡るときは、人命に係わる大事であり、逆を慎み順を尚ぶことが第一である。
無理せず時に従って止まり、風、波、水嵩の利ろしきを得て渡れば、過失も少ない。
だから、大川を渉るに利ろし、という。

また、甲(こう=きのえ)は十干の始めである。
だから、甲の日を事の始めとする。
甲に先立つこと三日は辛(しん=かのと)の日であり、辛は新と同音同義である。
甲に後れること三日は丁(てい=ひのと)であり、丁は丁寧の義である。
壊れ極まって、今これを修復する道は、先ず既往の敗壊の原因を悉く改めて新しくし、改新した以後は丁寧に扱い、再び壊れないようにしないといけない。
だから、甲に先だつこと三日、甲に後れること三日という。


・・・・・中略・・・・・・

六五は君であるが、同時に先君の子であり、柔中の徳が有り、九二剛中の賢臣と陰陽正しく応じている。
したがって、よく九二剛中の賢者を用いてこれに委ね任せて、己が徳を輔弼せしめ、以って父=先君の失敗の後を修復して治める者である。
だから、父之蠱れに幹たり、用いて誉あり、という。


・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり



世界の立て直し。


腐った世界が、毒を吹いて、壊れかけている。


それを立て直そうと、新君主が奮闘を始めている。


DRFが亡くなったではないのか?と説を大愚先生。


巽為風 の 5爻

参考
http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-62.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・・
八卦のsonfuu-n.gif巽(そん)を重ねた形。

巽は、入る、従う、伏せる、といった意。
八卦の巽を重ねた形なので、八卦と同じ巽と名付けられた。
そもそも陽の性質は上り進み、陰の性質は下り退くもの。
八卦の巽は、一陰が下り退く性質により、二陽剛の下に入り、そこから出られない様子。
とすると、その一陰は、その状態に甘んじ、伏せ従うしかない。
だから巽と名付けられた。
また、陰はそもそも陽に順うのを道とする。
今は、一陰を以って二陽の下に在る。
これは順従恭服せざるを得ないときである。
だから巽と名付けられた。

卦辞
巽、小亨、利有攸往、利見大人、

巽は、小(すこ)しく亨(とお)る、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、大人(たいじん)を見(み)るに利(よ)ろし、

およそ天下の事業百般の務めというものは、一によく巽(したが)い従うときには、亨通するものである。
しかし、従うということは、元来が自己を屈して他人に行く末を委ねることである。
自ら主宰となって物事を行うのではない。
だから、小さなことなら亨通するとしても、元(おお)いに亨ることは得られないのである。
だから、小しく亨る、という。
続く、往く攸有るに利ろし、の往く攸というのは、場所の移動ではなく、するべきことといった意で、この卦の場合は、巽だから従って行うことが大事だ、という意である。
そもそも従って物事を行うには、大人を選んで従うことが重要である。
そうでなければ、従っても功はなく、場合によっては、従ったばかりに、却って失敗を招きもする、ということである。
だから、大人を見るに利ろし、という。


・・・・・・・・中略・・・・

今は巽の時にして、朝廷に在る官人は、悉くに巽諛(そんゆ)佞媚(ねいび)=おもねりへつらいの気風を盛んに行うので、日夜に浸潤して君徳を汚し暗まそうとしている。
これは九五の君上の大いに悔いの有るところである。
としても、元来九五の君は、剛健中正の徳が在るので、よくその徳を明らかにして、巽諛佞媚の徒を遠ざけ放つ時には、その悔いも亡ぶのである。
だから、貞しくして吉なり、悔い亡ぶ、という。

九五の君と言えども、その初めは巽従の甘い言を慶び好び、やがて宮中も朝廷も、悉くに巽諛佞媚の気風が盛んになり、ついには国家が乱れる兆しが現れるに至る。
上の好むところを、下は見習い好むものである。
したがって、国天下の風俗が弊悪になるのは、その君上と宰相との喜んで致すところなのであって、その責は免れないのである。
しかし九五の君上は、初めは何もせず悔いが有ったとしても、天稟賦性の剛健中正の徳が有るので、よくこれを省み察して、その巽諛佞媚する陰邪の小人を除き去って、陽正の君子を挙げ用いて、政教風化を全くする時には、悪しき気風の時は終わり有って、その悔いは忽ちに亡ぶのである。
そうすることは、何ら悪いことではない。
むしろ、是非ともそうしなければいけない。
だから、利ろしからざる无し、初め无くとも終わり有るべし、という。

さて、続く辞の庚とは、十干の庚のことである。
庚は更と同じ意であって、事義物理の変じ革(あらた)まる義をいう。
その庚に先立つこと三日は丁の日であり、丁は丁寧の義にして、変革する前を丁寧にせよということである。
また、庚の三日後は癸の日であって、癸は揆度の義にして、その変じ更(あらた)めた後をよく揆(はか)り度(はか)れよという義である。
今、天下朝野ともに、巽諛佞媚の気風が盛んなのであれば、その弊風悪俗を一変改革しないことには、天下の徳教風化は新たに成り難い。
だから、この、初めを慎み、終わりを揆って、巽諛佞媚の弊風悪俗を一変改革するべきだということを込めて、庚に先立つこと三日、庚に後るること三日、吉なり、という。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり



変革は確実に丁寧に、まるで最初は媚びるように始まり、確実に成し遂げると。



ワンワールドは、金融キリストユダヤワンワールドも、法華大本ワンワールドも

「自分たちは正しい、それ以外は家畜以下か駆除」という、傲慢で非道なモノである。

さも「現世利益は人を堕落させる」と言いながら、それで「それをしない上等な偉い俺様たち」というエグイ現世利益を得て、他者をなぶり抹殺する口実にする。

そもそも人間は弱い。生きるために「現世利益」を求めないと、救いも悟りも得られない状況に簡単になるのに、それを無視して「お前らは弱い害虫のようなやつ」と思いあがる。

現世利益が仮に「宗教の産業廃棄物」としたら、「現世利益否定」から起きる「慈悲の無さ・思い上がり・選民意識」はまさに「宗教の放射性廃棄物」であり、凶悪無比な悪逆である。

理趣経 百字偈にいう

http://mandalaya.com/rishu.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・・

{ほさつしょうけいしゃ  だいししんせいし   こうさくしゅうせいり  じふしゅでっぱん}

 菩薩勝慧者  乃至盡生死   恒作衆生利  而不趣涅槃


{はんじゃきゅうほうべん   ちとしつかち   しょほうきゅうしょゆう  いっせいかいせいせい}

 般若及方便   智度悉加持  諸法及諸有   一切皆清浄

{ よくとうちょうせかん  れいとくせいちょこ   ゆうていきゅうあくしゅ  ちょうふくしんしょゆう}

 欲等調世間   令得浄除故  有頂及悪趣    調伏盡諸有

{じょれんていほんぜん   ふいこそぜん   しょよくせいえきぜん   ふぜんりきんせい}

 如蓮體本染  不為垢所染  諸欲性亦然   不染利群生

{ たいよくとくせいせい  たいあんらくふうじょう  さんかいとくしさい   のうさけんこり}

 大欲得清浄   大安楽富饒   三界得自在  能作堅固利

・・・・・中略・・・・・


菩薩は勝れし知慧を持ち、なべて生死の尽きるまで


恒に 衆生の利をはかり、たえてねはんに趣かず。

        
世にあるもの[=方便]も、その性[=般若]も、智慧の及ばぬものはなし。

         
もののすがた[=有]も、そのもの[=法]も、一切のものは皆清浄し。

欲が世間をととのえて、よく浄らかになすゆえに、


有頂天 もまた悪も、みなことごとくうちなびく。


蓮は 泥に咲きいでて、花は垢に 染されず。

すべての欲もまたおなじ。そのままにして人を利す。


大なる欲は清浄なり、大なる楽に富み饒う。


三界の 自由身につきて、固くゆるがぬ利を得たり

(翻訳文:金岡秀友先生 東京美術「理趣経」)

・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


参考
http://www5a.biglobe.ne.jp/~houon/okyou-bk12.htm

上記文抜粋
・・・・・・・・・・

--百字の偈--
菩薩は勝れた智慧を持ち、一切の生死が尽きるまで、恒に衆生の利をなし、あえて涅槃に趣かず。

方便と般若(真実の智慧)も、智慧のおよばぬものはない。一切の存在と現象も、すべて皆清浄なるものである。

欲が世間を調え、よく清浄になすがゆえに、有頂天(勝れた魂)も悪趣(あくしゅ、最悪の存在)も、悉く付き従う。

蓮が泥に染まらぬように、垢に染まることもなし。すべての欲もそれと同じく、邪に染めることなく生あるものに利をなす。

大いなる欲は清浄なり。大いなる安楽は富みさかえる。三界に自在を得て、よく堅固なる利を成就する。


意味は、大体わかると思います。理趣経で説いてきた内容の要約です。
菩薩は、この世の存在が尽きるまで、自分自身は覚りの世界へは行かないのです。これは、お大師様の誓いである
「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きん」
と同じですね。お大師様は菩薩の境地に至っていたのです。まさに、この理趣経の百字の偈の最初の経文です。
智慧は何ものよりも勝れていて、不浄という存在はありません。これも、理趣経の根本テーマですね。一切は清浄である、という教えです。世間の欲もまた清浄なのです。天界の最高位に存在する魂であろうと、地獄の一番下でうごめく悪の魂であろうと、その存在そのものはすべて清浄なのです。
すべてのものは、泥のような苦しみの中から生まれ、あるいは存在しているにもかかわらず、その泥・・・苦・・・に染まることなく、清浄なのです。菩薩は、それを説き、一切の存在に利益をもたらすのです。
大きな欲望は清浄です。大いなる安楽は、豊かで富めるものなのです。欲界・色界・無色界の三界(輪廻の世界すべて)において、自由自在なる存在となり、不変不壊の利益をもたらすのが菩薩なのです。
とまあ、このようなことが説かれているのですよ。



・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


私はなにも「菩薩行」など大層なことを思ってない。

「他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ」

と思っているので、

タルムード教徒どもは「自分たち以外の人間を家畜にして、それが自分たちが「選民である」」って思うようだが、
所詮は「異生羝羊心 」ごときの連中で、そいつらに地球を好き放題されるのが胸糞悪いだけで、やつら人型の畜生の癖に「選ばれた人」などほざく阿呆どもを、改心なくば皆殺しにしてやりたいだけである。



俺は仮に放射能か、なにかに殺されるかもしれない。

でも「天地の理・仏神の意思」が、タルムート教徒・金融ユダヤキリストワンワールドや大本法華ワンワールドを許すはずもない。

それも易を立てた。

火沢ケイ 上6
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/jyujyushinnron.html 

上記文抜粋
・・・・・・・・

睽は、小事(しょうじ)には吉(きち)、

何かをやろうとするときは、まず人の和を大事にしないといけない。
しかしこの卦は、背き離れる様子である。
これでは、大事を成すことは無理である。
また、内卦の兌を悦ぶとし自分とし、外卦の離を麗(つ)くとして相手とすれば、自分が悦んで明らかな相手に麗く様子である。
自分は明らかに物事を見ることはできなくても、明らかに物事を見られる相手に、仕方なくではなく、悦んで麗くのであれば、小事ならなんとかなるものである。
だから、小事には吉、という。
また、来往生卦法によれば、もとは天沢履から来たとする。
天沢履の卦中へ、六五の一陰が卦の外から進み上り、中を得て九二の剛に応じたのがこの火沢睽である。
天沢履のときは、柔中の徳を得ず、なおかつ二五の応も無かったが、今六五が上り往きて中徳を得て離明の主爻となり、剛中九二に応じている。
これは、六五の君主が柔中にして、九二の剛中の臣に輔(たす)けられる様子である。
とすると、大事を決行するにもよさそうではあるが、今は睽の背くときであるとともに、進み上ったのは弱い陰柔だから大事は無理だとして、小事には吉、という。


・・・・・中略・・・・

上九は六三と正応だが、睽の極に居るので、睽き離れて、その応爻を捨て、自ら孤独となる者である。
だから、睽きて孤りなり、という。
そして上九は、その睽き疑う意が甚だ盛んにして、いつしか六三を憎み見ることが、例えば汚穢(けがらわ)しい豕が、その汚穢しさの上にさらに泥塗を負っているような、不浄不潔の至極と思う。
そう思うと、睽き憎む情はさらに増長し、恐怖心さえも生じて来て、ついには六三を醜鬼のように思う。
鬼というのは、そもそも無形の者である。
それなのに、実際に存在する者と考える。
これは疑い睽く情が極まって、妄想の甚だしい様子である。
もとより鬼は、陰邪にして忌み憎むべき者である。
それが一人ならまだしも、無数無量に変現して、車に満杯に積載していると思い込むのである。
だから、豕の塗を負い、鬼を載せること一車なるを見る、という。
そして上九は、その睽き疑い忌み憎み怖れる妄念により、遂に六三を殺害しようと思い、弧=弓矢を手に取り、すぐにも六三を射ようとする。
しかし、睽の背くということは、そもそも疑念から生じているのであって、その疑惑ということも既に極まれば、豁然と解けるものである。
解ければ忽ち睽く意も止み、害念も絶して、その弓矢も射らずに捨てる。
だから、先には之が弧を張り、後には之が弧を説す、という。

要するに、今は睽の時なので上九は六三を疑い、寇仇の如くに思うが、睽くことが極まって、その疑いが解けて、よく平常心になって考えれば、六三は寇仇ではなく、そもそもは親密な者同志である。
男女で言えば、結婚相手である。
だから、寇するに匪ず婚媾せんとす、という。
上九は夫、六三は妻であり、だから婚媾という。

男女が親密になることを、天地陰陽の交わりに擬えると、それは雨である。
今、上九が六三に応じ往き、相親しく和すれば、睽の時は尽き果て、互いに安寧になる。
だから、往きて雨に遇えば、則ち吉なり、という。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり

「俺たちは選民・貴様らはゴムイ・家畜」と思っていると、すべての人が鬼に見える。

その傲慢さを捨てると、仲良く大きな繁栄を手に入れれる。


から

雷沢帰妹 上6 である。

http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-59.html

ああ、天地仏神は慈悲深い。改心あれば、彼らもまだ救われる。



でもそれなくば、

上記文抜粋
・・・・・・・・・

帰妹は、往(ゆ)くは凶(きょう)、利(よ)ろしき攸(ところ)无(な)し、

交代生卦法によれば、この卦は地天泰から来たわけだが、その地天泰のときには、天地陰陽二気が相交わること正しく、六本の爻に悉く応爻があり、泰通安寧の吉とされている。
しかし、忽ちに一点の情欲に牽かれて動き、三四の陰陽の爻が相交代してこの雷沢帰妹となると、九四震の長男の主爻も、六三の兌の主爻も、共に正位を失い、また各その応爻の助けを喪う。
これは凶以外の何ものでもない。
また、悦んで動くという様子であるわけだが、世人が悦んで動くのは、色欲か利欲のどちらかである。
色欲や利欲を丸出しで動くのは下品であり、そんな人は誰からも尊敬はされない。
だから、往くは凶、利ろしき攸无し、という。


・・・・・・・中略・・・・・

要するに、この上六の士は、男として当たり前の技術を身につけていないダメ男なのである。

また、本来ならば、士についてを先に書き、女についてを後にするべきなのに、ここでは先ず女について書き、後に士について書いている。
これは、卦象の、女を以って男に先立つの義を主とし、その礼を失ってしまった罪が、全く女に在ることを示しているのである。
そういう女だから、よく相手のことを確認せず、そんなダメ男を掴んでしまうのである。

そもそも、女子が筺を承けて祭祀を佐(たす)け侍(はべ)っても、其の実がない時には、何を以って薦め祭ることを得るだろうか。
士も生贄の羊を刲くとしても、屠殺が下手で、ちゃんと血を出せないようでは、何を以って祭祀を亨め祭ろうか。
女にして実が無く、士にして血が無い時は、士も女も、共に廟見(先祖への挨拶)は行われず、鬼神は亨(う)けない。
廟見の礼が行われないときには、その二人は夫婦として認められず、家を齊(ととの)えることもできない。
だから、女筺を承くるに実无し、士羊を刲くに血无し、利ろしき攸无し、という。

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


参考
http://plaza.rakuten.co.jp/dersxh5351/diary/200702030000/

中身はなにもなかった・・・

ようややつら選民さまも滅亡・・・・。



いや~貴族様・王族さま・セレブさま・選民さまが「賤民」になるのであろう。



お読みくださりありがとうございます。
PR
Comment
Name
Title
Mail(非公開)
URL
Color
Emoji Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
Comment
Pass   コメント編集用パスワード
 管理人のみ閲覧
<< BACK  | HOME |   NEXT >>
Copyright ©  -- 渾沌堂主人雑記~日本天皇国滅亡日記 --  All Rights Reserved

Designed by CriCri / Material by White Board / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]