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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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福一と日本帝国政府の悪政での惨禍のためにブリヤート共和国の移民も考慮せざろう得ない状態。


その可否を易に問いました。


沢風大過 2爻 

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
大過とは、大いに過ぎる、大なる者が過ぎる、ということ。
易では、陽を大、陰を小とするのだが、この卦は四陽二陰にして、陽爻が陰爻よりその数が過ぎている。
だから大過と名付けられた。
なお、四陽二陰の卦は、他に雷天大壮、天山遯をはじめ、いくつかあるが、それならなぜ、ことさらにこの卦だけ大過というのか、ということになるが、それは、内外主客をもって、卦の形を判断するからである。
そもそも主は内にして、客は外に位置するものである。
したがって、主を陽とし、客を陰とすれば、この卦は四陽が主として内にあり、二陰が客として外にあるわけである。
とすると、主が客よりも大いに過ぎている。
だから大過と名付けられた。
逆に、雷山小過の場合は、二陽が内に主としてあり、四陰が外に客としてあるが、これは客の小なる陰が主の陽なる大よりも過ぎているから、小過と名付けられたのである。
念のために付け加えると、陰は主となるべきものではないので、陰が内にある山雷頤や風沢中孚は、大小過と名付けられなかったのである。

もとより主には勢いがあり、客には勢いはないのは、兵家の主戦客戦という語にもあるとおりである。
この卦は、勢いのある主たる陽剛が、勢いのない客たる陰柔に過ぎている。
対する雷山小過の場合は、客の勢いのない陰柔が、主の勢いのある陽剛に過ぎているわけだが、客は過ぎているとしても、そもそもが勢いのない者だから、大いに過ぎるとは言えないので、小過と名付けられたのである。

また、この卦は、兌を沢、巽を木とすれば、沢が木を滅ぼすという意もある。
沢は水草が集まり蓄えられている場所であり、本来は木を潤養するところである。
しかしこの卦にあっては、巽の木は、兌の沢の中に入って滅没している。
これは、その潤養が却って大いに過ぎた様子である。
だから大過と名付けられた。
また、兌を悦ぶとし、巽を従うとすれば、悦んで従う様子である。
心に悦楽して従事するときは、その事は必ず大いに過ぎるものである。
だから大過と名付けられた。
また、兌を少女とし、巽を長女とすれば、この卦は少女が長女の上に位置している。
これを少女について言えば、長女を凌ぐことが過ぎているのであって、長女について言えば、少女に譲ることが過ぎている様子である。
これもまた、大過と名付けられた所以である。

卦辞
大過、棟橈、利有攸往、亨、

大過(たいか)なれば、棟(むなぎ)橈(たわ)めり、往(ゆ)く攸(ところ)有(あ)るに利(よ)ろし、

棟とは、屋根を支える大事な木なので、材木の中でも、その材質が傑出大過なものを選んで使うものである。
しかしその棟も、多くの木材を載せ負うと、材力の分に大いに過ぎ、橈んでしまう。
これは、人事に於いても同様である。
人それぞれ能力には限度があり、その人の能力を大いに過ぎる仕事を任されれば、棟が橈んでしまうように、その任に堪えられず、失敗を招いてしまう。
だから、大過なれば棟橈めり、という。

そもそも天運には窮通があり、時勢にも過不及がある。
君子ならば、それを弁え知る必要がある。
今、大過のときに当たって、その任に居り、その職を掌ろうとする者は、必ず大いに過ぎる非常な大材力大手段がないときは、その事を遂げるのは難しい。
しかし、その大いに過ぎる大材力大手段があれば、しかる後には、物事を成すことは可能である。
だから、往く攸有るに利ろし、という。
そして、しかる後に事物は遂げ成るから、亨る、という。


・・・・・・・中略・・・・・・・

九二、枯楊生梯、老夫得其女妻、无不利、

九二(きゅうじ)、枯楊(かれやなぎ)梯(ひこばえ)を生(しょう)ず、老夫(ろうふ)其(そ)の女妻(じょさい)を得(え)たり、利(よ)ろしからざる无(な)し、

この卦は兌の沢の中に巽の木が在る象である。
また、巽は柔木とする。
楊は柔木(柔らかい木)にして、水を好む木である。
したがって、象を楊に取る。
草木の性は陰潤の水の養いの過ぎるにも枯れ、陽燥の水の養い不足なるにも枯れるものである。
今、この卦は四陽ニ陰なので、陽が大いに過ぎている。
これを草木に取れば、陽燥に過ぎて乾き枯れる義が有る。
なおかつこの卦は、もとより陽に過ぎている。
しかし、この九二の爻は、内卦の中の徳を得ているので、過ぎていない、という義が有るとともに、初六の陰柔の比爻の浸潤の助けを得て、剛柔相適い、相済(ととの)い、ほとんど宜しきを得ているので、大過の過失を補う、という義が有る。
そこで、象に則して直ちに言えば、九二の枯れた陽が、初六の陰の根の助けを得て、再び陽の梯を生じる義である。
だから、枯楊梯を生ず、という。
およそ草木の中で、すでに乾枯しているに、そこから梯を生じて復活するのは、楊のみである。

さて、これを人事について言えば、一旦喪い果てることが、再び復活するという義である。

もとより九二は陽剛にして夫である。
初六は陰柔にして妻である。
初とニと陰陽正しく比している。
したがって、これを夫婦とする。
なおかつこの辞には女妻とある。
女とは、未だ嫁いでない者の称にして、言うなれば少女の義である。
この卦は大過の時なので、夫は老夫、妻は女妻と言う。
これは夫の年齢が、遥かに妻に過ぎている様子である。
爻象を以って見れば、九二は初六より一段上である。
これは加倍の長である。
その上に大過の時の義を兼ね合わせる。
だから、老夫、其の女妻を得たり、という。

老夫が少女と結婚するのは、常識を大いに過ぎているということもあり、躊躇することもあるだろう。
しかし、九二の夫が初六の妻の助けを得ることは、枯楊が水の潤おいの助けを得て、梯を生じるようなものであって、この夫婦にもついには子が生まれ、その血は脈々と受け継がれていくのである。
要するに、結婚の目的は子孫を残すことであって、老夫と少女のカップルであってもその目的は達成できるのだから、世間的な評価は関係ない。
本人同士が望むのであれば、躊躇せず、積極的にその話を進めて、何ら問題はない。
だから、利ろしからざる无し、と、背中を強く押す。



・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


日本復興のために、この「ブリヤート共和国への日本移民」は、吉と言っているのかな。

ただ、そういう風な計画は、一番いいってことかも・・・。


沢山カン の 2爻
http://uqmk.blog106.fc2.com/blog-category-36.html

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・・
八卦のgonsan-n.gif艮(ごん)の上に、sdataku-n.gif兌(だ)を重ねた形。

咸とは、物と物とが相対して、その心念合一になることを言う。
平たく言うと、感じる、ということである。
そもそも天地の間の物は、相咸じないということはない。
その相咸じる中でも、男女の情欲より咸じることの激しいものはない。
その男女の中でも、少男少女は、特に咸じることが甚だしい。
『論語』李子篇に、少(わか)き時は血気未だ定まらず、これを戒むること色に在り、とあるが、これは少年の咸じることの甚だしいことにより、礼を失うことを恐れて、深く戒めたものである。
咸じるとは、思慮なく感覚的に感じていることである。
例えば、可愛い女の子を見て可愛いと感じ、カッコイイ男の子を見てカッコイイと感じることや、満開の桜を見て綺麗だと感じることなどが、咸じるということになる。

さて、この卦は、艮の少男が兌の少女の下にいる。
これは少男少女が相交わり、互いに咸じ合っている様子である。
だから咸と名付けられた。

もとより万物の相対する者は、すべからく相咸じる者である。
山は地の高い場所、沢は地の低い場所であり、この両者は高いと低いとで相対している。
これを、山沢相対する、という。
易位生卦法によれば、この沢山咸は、山沢損から来たものとする。
山沢損の艮山が下り、兌沢が上ったのがこの沢山咸である。
しかし、山沢の実体が上り下りするわけがない。
動いたのは気であって、艮山の気が下り、兌沢の気が上がったのであって、これにより、二気が交わり咸じたのである。
だから咸と名付けられた。
なお、気が上り下りして相交わるというのは、地天泰、風雷益、水火既済の三卦と同じ例である。

また、ひとりのこととして観るときは、兌を悦ぶとし、艮を止まるとし、悦んで止まる様子とする。
人々が、その事その物を悦び、その悦ぶところに心を止めることが、咸ということである。
だから咸と名付けられた。

また、交代生卦法によれば、もとは天地否から来たものとする。
天地否の上九が下り来て九三となり、天地否の六三が上り往きて上六となったのが、この沢山咸である。
上九が下り来たのは、天気が下って交わる様子であり、六三が上り往くのは、地気が上って交わる様子である。
これは天地が交わり咸じる様子である。
だから咸と名付けられた。

卦辞
咸、亨、利貞、取女吉、

咸は亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よろ)し、女(おんな)取(めと)るに吉(きち)、

およそ天下のことは、互いに心念合一の咸じ合う域に達していれば、亨通しないことはない。
また、その道を悦んで、その事を心に止めるときには、これも亨通しないことはない。
だから、亨る、という。
ただし、咸というのは、感覚的に感じ合って意気投合しているだけであって、まだ具体的な効用事業に感じ合っているわけではない。
だから、元いに亨る、とまでは言えず、単に、亨る、という。

そもそも天下のことは、すべて善悪正邪の両方を具えているわけだが、特に咸の道は、情欲意念が強い。
正しきに咸じれば善となるが、正しくないことに咸じれば不善となる。
だからこれを戒めて、貞しきに利ろし、という。

さて、男女夫婦の道は、家道の大経であり、夫(おっと)が首(はじ)めに唱えれば、婦(つま)が随い和して、和楽するものだが、そもそもはこの咸より始まることである。
男女夫婦が互いに咸じなければ、和楽することもない。
またこの卦は、悦んで止まる様子であるが、これは婦が悦んで夫の家に止まる、ということでもある。
だから、女取るに吉、という。


・・・・・・・中略・・・・・・・

六二、咸其腓、凶、居吉、

六二(りくじ)、咸(かん)じて其(そ)れ腓(こむら)なり、凶(きょう)なり、居(お)れば吉(きち)なり、

初を拇(ぼ=足の親指)とし、三を股(もも)とし、二はその中間に在る。
これは腓(こむら)の位である。
六二は陰柔にして、上の九五と陰陽正しく応じている。
これは、九五に咸じて、他の志を持つべきではない爻である。
しかし咸というものは、そもそもが情欲意念から発するのであって、なおかつ六二は陰柔にして節操が弱く、遠くに咸じることは日夜に疎くなり、近くに馴れ親しみ咸じやすい。
かくして、遂に六二の陰爻は、まず比爻の九三の陽爻に比し咸じてしまう。
これを以って、九三が動けば六二も共に動き、九三が止まれば六二も共に止まるのだが、その様子はまさに股と腓が共に動き止まるが如くである。
これを人事に当てれば、その人に定まった志念などなく、卓立した見識もなく、ただ他人に就いて進退動止する者とする。
苦楽是非もすべて他人任せで気概節操のない惰夫であり、このような態度で行動するのが凶であることは、言うまでもない。
だから、咸じて其れ腓なり、凶なり、という。
しかし、今日よりこのような態度を戒め改め、まず、自らよく物事に主宰たる見識を張り立て、志を堅固に定め、妄りに動かないようにすれば、吉を得られるものである。
だから、居れば吉なり、という。
居るとは、九三に比し咸じるという不正の動きを止めて、九五正応に咸じるようにしなさい、という義を込めての垂戒である。



・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


だからといって、すぐに動くな・・・・という話かな。


移民計画は大吉。

でも移民自体は、まず様子見。


てことかな・・・



面白い・・・・


さてさて・・・



お読みくださりありがとうございます。







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