故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/03 02 < | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | > 04 |
---|
京の風 より
上記文抜粋
・・・・・・・・・
FM宇治の「ちはやぶる宇治・・・」に出たラジオ放送がアップされています。
以下、ご参考までに、
http://www.fmuji.com/chihaya.htm
http://chihayaburu-uji.com/category/radio/
ps :
① 11日の『未来創庵』 ですが、
早めに来られる方と、昼に、お蕎麦を食べたいと思います。
また、前日からの宿泊も可能です。
② 日本会議や神道政治連盟の人間は、宇治に都があったことなど、
まるで、判らないでしょうね。伊勢神宮の宇治橋との関連も。
それが、ホンダワケ(応神)の時代であり、それを、ヒロニワ(欽明)の時代に、
奈良の三輪山を本貫とするす大神比義が、八幡神がその時に現れた、としていることの
意味も解らないでしょうね。
3000年前のダビデ ~ 2200年前の始皇帝 ~ のあと、
ヘブライ人にとっての、建国の意志は、一体どうなっていったのか?
この意味で、先月、淡路島・沼島のあと、坂越の大避神社に行き、更に、太子町の斑鳩寺に行けたことは、私の歴史観の完成に本当に役立ちました。
また、日本会議に限らず、いわゆる「愛国者」を名乗る人間が、日本人の軍事行動の成功例に、忠臣蔵を上げ、山鹿流軍学を唱えるのですが、それが、いかに政治的に作られた、仇討の成功例だったと、はっきりさせました。
浅野匠 のところに、なぜ、山鹿素行が派遣されたのか?そこで、中朝事実を書くようになったのか? この時、柳沢吉保は一体、何を考えてたのか?
仇討の成功は、当時の幕府から、完全に、おぜん立てされていたのです。
そもそも、現実の討ち入りの場面では、陣太鼓は使われていなかった。大石内蔵助が陣太鼓を持っていた、とするのは、仮名手本忠臣蔵にあった脚色・演出をそのまま引き継いでいるもので、そこには、林羅山の下で、中国礼賛を言っていた山鹿素行が、赤穂にいったあと変節したことを、あてこすった、江戸庶民の嘲りの意味が込められていたのですが、こんなことを、安倍の仲間たちは、全く知らないでしょうね。
だから、いつも、自分勝手な、ファンタジーの中にいる。 そんな人間に、振り回されるのは、天皇であってもなくても、御免被りたい。
・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり
> また、日本会議に限らず、いわゆる「愛国者」を名乗る人間が、日本人の軍事行動の成功例に、忠臣蔵を上げ、山鹿流軍学を唱えるのですが、それが、いかに政治的に作られた、仇討の成功例だったと、はっきりさせました。
>」 浅野匠 のところに、なぜ、山鹿素行が派遣されたのか?そこで、中朝事実を書くようになったのか? この時、柳沢吉保は一体、何を考えてたのか?
そうですね。
赤穂浪士は、なにか胡散臭い。
柳沢・綱吉は、なにか深いモノを考えていたのでは?
生類憐みの令のガス抜きだった・てだけではないのだろう。
>そこには、林羅山の下で、中国礼賛を言っていた山鹿素行が、赤穂にいったあと変節したことを、あてこすった、江戸庶民の嘲りの意味が込められていたのですが、こんなことを、安倍の仲間たちは、全く知らないでしょうね。
私にはよくわからんけど、このときに「国粋主義」、あるいは「天皇に対する徳川の確固たる姿」を決めるために「赤穂義士」が使われた。
吉良さんは、足利の後胤・あるいは京文化の継承者。それを殺すことで、「喝采をあげる」ってことで、徳川幕府のモラルでの優位を示した。かも。
でも「一応は法治」ってことで、義士たちには腹切ってもらう・・。
これで「京・天皇よりも、江戸・徳川の方が、モラル的に高い。それも法で決まった。」
てこと・・かも・・・。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
・・・・・・・・・
FM宇治の「ちはやぶる宇治・・・」に出たラジオ放送がアップされています。
以下、ご参考までに、
http://www.fmuji.com/chihaya.htm
http://chihayaburu-uji.com/category/radio/
ps :
① 11日の『未来創庵』 ですが、
早めに来られる方と、昼に、お蕎麦を食べたいと思います。
また、前日からの宿泊も可能です。
② 日本会議や神道政治連盟の人間は、宇治に都があったことなど、
まるで、判らないでしょうね。伊勢神宮の宇治橋との関連も。
それが、ホンダワケ(応神)の時代であり、それを、ヒロニワ(欽明)の時代に、
奈良の三輪山を本貫とするす大神比義が、八幡神がその時に現れた、としていることの
意味も解らないでしょうね。
3000年前のダビデ ~ 2200年前の始皇帝 ~ のあと、
ヘブライ人にとっての、建国の意志は、一体どうなっていったのか?
この意味で、先月、淡路島・沼島のあと、坂越の大避神社に行き、更に、太子町の斑鳩寺に行けたことは、私の歴史観の完成に本当に役立ちました。
また、日本会議に限らず、いわゆる「愛国者」を名乗る人間が、日本人の軍事行動の成功例に、忠臣蔵を上げ、山鹿流軍学を唱えるのですが、それが、いかに政治的に作られた、仇討の成功例だったと、はっきりさせました。
浅野匠 のところに、なぜ、山鹿素行が派遣されたのか?そこで、中朝事実を書くようになったのか? この時、柳沢吉保は一体、何を考えてたのか?
仇討の成功は、当時の幕府から、完全に、おぜん立てされていたのです。
そもそも、現実の討ち入りの場面では、陣太鼓は使われていなかった。大石内蔵助が陣太鼓を持っていた、とするのは、仮名手本忠臣蔵にあった脚色・演出をそのまま引き継いでいるもので、そこには、林羅山の下で、中国礼賛を言っていた山鹿素行が、赤穂にいったあと変節したことを、あてこすった、江戸庶民の嘲りの意味が込められていたのですが、こんなことを、安倍の仲間たちは、全く知らないでしょうね。
だから、いつも、自分勝手な、ファンタジーの中にいる。 そんな人間に、振り回されるのは、天皇であってもなくても、御免被りたい。
・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり
> また、日本会議に限らず、いわゆる「愛国者」を名乗る人間が、日本人の軍事行動の成功例に、忠臣蔵を上げ、山鹿流軍学を唱えるのですが、それが、いかに政治的に作られた、仇討の成功例だったと、はっきりさせました。
>」 浅野匠 のところに、なぜ、山鹿素行が派遣されたのか?そこで、中朝事実を書くようになったのか? この時、柳沢吉保は一体、何を考えてたのか?
そうですね。
赤穂浪士は、なにか胡散臭い。
柳沢・綱吉は、なにか深いモノを考えていたのでは?
生類憐みの令のガス抜きだった・てだけではないのだろう。
>そこには、林羅山の下で、中国礼賛を言っていた山鹿素行が、赤穂にいったあと変節したことを、あてこすった、江戸庶民の嘲りの意味が込められていたのですが、こんなことを、安倍の仲間たちは、全く知らないでしょうね。
私にはよくわからんけど、このときに「国粋主義」、あるいは「天皇に対する徳川の確固たる姿」を決めるために「赤穂義士」が使われた。
吉良さんは、足利の後胤・あるいは京文化の継承者。それを殺すことで、「喝采をあげる」ってことで、徳川幕府のモラルでの優位を示した。かも。
でも「一応は法治」ってことで、義士たちには腹切ってもらう・・。
これで「京・天皇よりも、江戸・徳川の方が、モラル的に高い。それも法で決まった。」
てこと・・かも・・・。
お読みくださりありがとうございます。
PR
Comment