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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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きなこのブログ より

上記文抜粋
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15.自民党の穏健派とハト派の勢力(これが、日本の 本当の、本物の温和な保守の人々)は、安倍晋三、と小泉純一郎が、「この国を壊す。自民党をぶっ壊す。日本の国の形を変える」と言い続けてきたことを知っている。

だから、ひどく迷惑だ、という感じを持っている。

彼らは、一体、アメリカのどういう勢力が、安倍晋三や小池百合子を嗾(けしか)けているのか、と深い疑念と訝(いぶか)しく疑う感じながら生きてきた。

同じく、日本の慎(つつ)ましいサラリーマンの、企業労働者たちも、「政治家たちは、政治を穏(おだ)やかにやってくれ。何とか、私たちが食べられるように。そして、戦争に巻き込まれないようにだけはしてくれ。今の平和な国のままであって欲しい」と願っている。

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抜粋終わり


>日本の慎(つつ)ましいサラリーマンの、企業労働者たちも、「政治家たちは、政治を穏(おだ)やかにやってくれ。何とか、私たちが食べられるように。そして、戦争に巻き込まれないようにだけはしてくれ。今の平和な国のままであって欲しい」と願っている。


こういう、ささやかだけど真剣で切実な思いを書いて表現するのは、多分今のところ副島先生くらいではないのか。

飯山先生も昔日はそうだったが、その傾向が弱いのもあって今は先生ならぬ「先逝{先に逝った}」


最低限のこの思いを実現するのが政治である。まずは「食える生きれる」である。

孫子を読んでもこうでしょう。喰える生きれる政治体制を期待し応援する。それができないのなら、海外では革命だ。
日本では昔は逃げたが、今は日本人は死滅だよね・・・。


こういう真摯な思いを書かず、

http://www.snsi.jp/bbs/page/1/

上記文抜粋
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9.だから、今の日本国内で、右翼言論で、思いっきり勇ましいことを言って、「日本軍もアメリカ軍と共に、北朝鮮を攻撃する態勢を、急いで整えなければいけない」というほどの強烈なタカ派の言論を吐く人物を、私、副島隆彦は、自分の周囲に見ない。庶民の間にはブツブツ、そういうことを言っている人間たちはいるのだろう(ネトウヨと呼ばれる軽度の精神障害者たち)。

 彼らの勇ましそうな、人種差別と、排外主義(ショービニズム)の精神構造の根底は、やはり被害妄想(ひがいもうそう。パーセキューション・マニアック)と恐怖感である。人一倍の臆病者たちの心理だ。本当の勇気や、自己犠牲の特攻隊精神では無い。日本の愛国右翼たちもまた、情けない状態に陥っている。「憲法改正の悲願」をドンドコ、ドンドコと太鼓を叩いているだけで、それ以外にまで頭が回らない。

10.それよりも、旧来の日本の左翼的なリベラル人間たちの方に、自暴自棄の戦争肯定勢力が出てきている感じがする(本性は、こっちも自分の恐怖心)。それが、小池新党を応援して、憲法改正勢力に荷担して行く道が生まれるのだろう。彼らがメディア(テレビ、新聞、週刊誌)に煽られて、小池新党支持、自民党嫌(きら)いの形で、噴出しそうである。


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抜粋終わり

という指摘のように、自棄か精神疾患の八つ当たりで、戦争・恐怖を煽るのが「愛国」で「防衛」とか言うのが「リアリズム」というそうで。

これも命を、あざ笑っているのだ。愛国者ほど亡国の犬である。

光武帝と建武二十八宿伝 より

上記文抜粋
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晩年の劉秀はますます自分に厳しく、周囲の人はみな痛々しいものを触れるように見ていたようである。
 史書の記録は、建武二十年(西暦44年)以降、すなわち劉秀の晩年の統治について記述が短い。というのも平和で事件が何もなく過ぎ去っていたからである。民衆は平和を謳歌できるようになり、のんびりと落ち着いて暮らせるようになった。ところが民衆が休み、のびやかになるのにまるで反比例するように皇帝は忙しく働くようになった。
 劉秀は以前にも増して政務に熱心になり、さまざまな努力を続けるが、その姿は多くの人に悲愴であり、悲しげに映っていた。人々はこの劉秀の行動を不思議に思い、また何とか劉秀を元気づけようといろいろなことを考えていたようである。
 それが皇太子の休むように勧めた諫言であり、あるいは民衆たちが伝えた奇跡の瑞兆であった。奇跡はほとんどが劉秀の指示により記録から抹消されたため、残ったものは少ないが、実際に報告された数は相当な数に及んだようである。これらは民衆が平和な時代を喜び、それを皇帝に伝えようとした気持ちの表れのようだ。
 そして大臣たちが勧めたのが封禅の儀式である。
 封禅は封の禅と二つからなる。封の儀式は泰山の山頂で天の神をまつるもので、禅の儀式は泰山のふもとである梁父で地の神をまつるものである。
 それまでも家臣からしばしば封禅の儀式をすることを勧められていたが、自分にその資格はないとずっと断っていた。さらに執拗に封禅を勧められた劉秀は逆に怒り出し、民衆は恨みに満ちている、天を騙せというかと叱咤し、もし私の政治を褒め称えたりするものがいれば、刑罰として髭を剃らせ地方に送って屯田の労役をさせると言い出したのである。
 注意すべきことは、劉秀は民衆から送られる大量の上書を読んでいたことである。どんなに平和な時代でも、不幸な境遇の人間がいるのはどうにもならない。特に問題として王莽の時代に河筋が変わった黄河の修復が経済的理由で延期されたままになっており、流域の民衆は今も避難生活を強いられていた。劉秀は、万人が楽しむまで自分が楽しむことはできないと感じていたようである。

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抜粋終わり

おなじく より

上記文抜粋
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劉秀は南宮の前殿にて亡くなった。六十三歳である。遺言の詔にいう。
「私は人民に益するところがなかった(朕無益百姓)。葬儀はみな孝文帝の制度の如く簡略にせよ。刺史、二千石の長吏はみな城から離れてはならない。官吏を遣わしたり上書してはならない」
 驚くべき発言である。私は人民に益するところがなかった――これはまさに国民に対する謝罪に等しい言葉である。前半生を過酷な戦場で戦い続け、後半生も周囲が過労を心配するほどに働き続けた男の最期の言葉は、結局、私は人々の役に立てなかったのだ、というものであった。
 この言葉は、実は劉秀が尊敬する祖先の皇帝、文帝劉恒の遺言を模倣したものである。劉恒は「私は人徳がなかった上に、人々を助けることもできなかった(朕既不德,無以佐百姓)」と述べている。だから葬儀も文帝のようにせよというわけだ。
 しかし注目すべきはその言葉の続きである。劉秀は、自分に向けて喪に服すために仕事を休むことはもちろん、弔辞一本書くことすら容認しなかったのである。まるで自分が罪人であるかのような扱いである。
 これはあまりに厳しいということで、研究者の間でも誤伝ではないかと疑われるものの、あらゆる資料がほぼ同じ文面を載せているため正しいのであろうとされている。

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抜粋終わり





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