故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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DEEPLY JAPAN より
上記文抜粋
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保守ブーム、歴史、そして西部さんの死
西部邁さんが亡くなった。宮台さんは泣いているだろうと思ったらご自分でそうtwitterされていた。そうだろうと思う。
西部さんはつらい人だと思う。本当はこうなりたかったわけではない何かになっていった自己を止められず誤解の渦の中に呑まれていったというのが現時点での私の考えかな。
そして、「保守」という態度に拘るよう設計されたことが最後まで韜晦を逃れ得なかったということなんじゃないか。
ではどこからその「保守」が来たのか。中曽根時代あたりがしかけた言論人の一人ということなのではなかろうかと思う。実際、西部さん自身が中曽根との噂に腹を立てている部分もあったようで、3年ぐらい前のMXで、中曽根から確かに金をもらったがそれはこんなものとその金で買ったという皮のコートを着て登場したことがあった。
中曽根時代といえば、もう一人重要な人がいる。梅原猛さん。梅原さんは中曽根にかけあって、あるいはおもねって、資金を出させて国際日本文化研究センターの設立を可能にした。wikiを見るとなんかさっぱりした記述になっていたが、このあたりは梅原さん自身があちこちで盛大に語っている。
このへんから、日本は素晴らしい系の発想が、戦前の京都学派っぽいノリと融合しつつ前に出て来たという感じでしょうか。
実際、梅原さんによれば、中曽根元首相は、サミットに行くと欧米の政治家たちが、やれシェークスピアだのなんだのと文化の話をするわけだ、しかし日本にだってすごいものがあるぞと見せなきゃならん、と語り、研究施設を作ろうということになったという話だった。発想がそもそも、日本文化の研究というより、外国人に誇るための日本文化研究だったのだなと私はその話を聞いた時そう思った(国際日本文化研究センターの動画の中にまだあると思う)。
言うまでもなく中曽根元首相といえばレーガン大統領と重なるわけで、ここらへんがソ連崩壊を目算に入れた、新しい保守をしかけていったんだろうなと思う。
しかし、にもかかわらわず、梅原さんは、九条の会の梅原さんなわけですよ。2004年に九条の会ができた時の発起人の一人として原点からかかわっている。
どうしてこうなったのか。
私は、原因は一つしかないと思う。それは、梅原さんは1925年生まれだから、1945年に20歳。京都大学の学生として戦争につぐ戦争をしていた日本、対米戦に入っていた日本、そして、守るといったってどうしようもない状態になって学生を大量に投入していった日本をリアルに知っていた人。
だから、国家が戦争をしようとする時のその作為が見え、感づき、これはいけないと思って行動に入ったということなんでしょう。立場作ってる場合やないでぇといったところ。
2015年の戦後70周年の時にインタビューを受けていたが、その短文の中でも、本土決戦などと勇ましい言論の影にある現実が描かれていた。
大砲を引く馬はもう、3頭くらいしかいなかった。大砲も実弾なんか見たことないし、訓練らしい訓練はなかった。僕たちの中隊は、浄土真宗のお寺が宿所。中隊は2小隊からなり、60人くらい。年寄りの古参兵と新兵からなり、若く戦闘力のある兵士は、小隊に数人しかいなかった。
敵が上陸したら爆弾を持って戦車に体当たりせよ、と言われたが、そのための訓練があったわけでもない。
僕たち兵卒は、玉音(ぎょくおん)放送を聞いていない。見習士官から、放送があり戦争が終わったと聞いた。予想以上に早く終わって助かった、と素直に嬉(うれ)しかった。
http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150815-OYT8T50017.html
また、戦前の知識人の記憶も重要。
京都学派の哲学者による「世界史の哲学」という思潮が当時あってね。それは、今の日本の戦争は世界史の必然だ、日本の深い伝統的精神と西欧の浅い合理主義的精神との戦いだと。そういうことを、京大の西田幾多郎(きたろう)教授の弟子の高山(こうやま)岩男、高坂(こうさか)正顕(まさあき)などの学者が唱えていた。僕は必ずしも納得しなかったけど、世界史の哲学に、自分の死の理由を、戦争に行く理由を見つけようと思って、ずいぶん一生懸命、読んだな。
高校卒業前、45年2月に京大を訪れると、高山先生が学生と討議していた。「なんで戦争せんならんのですか」「戦争を避ける方法もあったのでは」と問う学生に、高山先生が「戦争しなかったら、日本の道徳的エネルギーがダメになる」と。そのやりとりをまざまざと思い出すね。
このへんの知識人に対する評価が戦後相当期間芳しいものではなかったことを、現在の右派(または保守派)は一般に、戦後入って生きたGHQや左翼のせいにしている。チャンネル桜などはその典型。しかし、そうではないでしょう。生き残った人々が、彼らは勝手なことを言っていたと判断したからこそ誰も容易に顧みようとはしなかったまでのことでしょう。
この体験をした人は、ほとんどの場合、戦前に戻りたいという考えを持たない。
1939年生まれの西部さんにはこの体験がない。いや、それよりも問題だったのは歴史を知る間もなく安保闘争に入り、それを挫折として総括して、保守というタイトルを始終くっつけられた存在として自己規定する以外の道を見いだせなかったのではなかろうか。
西部さんは、保守という態度について様々なことを語った。亡くなったことを告げる記事の多くには「保守派の論客」というタイトルが付けられてもいる。
しかし、保守であるのならば、まず必要なことはその社会がよってたつ歴史の解明だったのではなかったか。
同じく60年安保の時代を大学生として生き、強い衝撃を受けたと思しきジャーナリストの末浪靖司さんは、人生の半分以上をかけて日米間の密約の研究をされてきた。末浪さんはおそらく左翼と分類されているのだろうと思う。しかし、私には、こちらこそ社会を保守しようとする民族派(ほとんどnationalist)にみえる。
【広告連動企画!!】 新刊『「日米指揮権密約」の研究』自衛隊はなぜ、海外へ派兵されるのか 岩上安身によるジャーナリスト末浪靖司氏インタビュー 2017.10.7
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/400203
おそらくジャーナリズムはこれから、憲法改正を目算に入れることもあり、保守の真髄だの保守とは何かだの、国民の道徳とあった憲法だのといったことを書き、その中で西部さんに言及することになるんだろうと想像する。
しかし、西部さんはそれを望んだだろうか。望まないからこそ、保守ブームをというある種のバブル幻想めいたいものをひっさげて死んでいったのではないのかと、私はそう思う。
いろいろ書いたけど、このブログでも何度も引用している通り私はこのおじいさんが好きだった。好きだったからこそ、おそらく望んでいなかったであろう方向へと消費され尽くされるであろうこの時代がたまらなく怖くもあり、そして氏に対して不憫な感情を持つ。
・・・・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり
なんか今の保守って、妄想のカルト信者でしかない・・
ここまで阿呆だから、西部さんも耐え切れなかったのか・・・
逝きし世の面影 より
上記文抜粋
・・・・・・
(関連記事)
『近代日本の右翼思想』 つまづきの石としての天皇 2008年04月14日 | 政治・外交と天皇制
近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ) (単行本)
片山 杜秀 (著)
価格: ¥ 1,575 (税込)
躓きの石としての天皇 超克されざる『近代――近代日本のパラドクス』
革命への赤き心は、なにゆえ脱臼され、無限の現状肯定へと転化されなければならないのか。
躓きの石としての天皇、超克されざる「近代」――北一輝から蓑田胸喜まで、西田幾多郎から長谷川如是閑まで、大正・昭和前期の思想家たちを巻き込み、総無責任化、無思想化へと雪崩を打って向かってゆく、近代日本思想極北への歩みを描く。
[本書の内容]
●「超―国家主義」と「超国家―主義」
●万世一系と「永遠の今」
●動と静の逆ユートピア
●「口舌の徒」安岡正篤
●西田幾多郎の「慰安の途」
●アンポンタン・ポカン君の思想
●現人神
基本的に極少数の例外を除けば、1945年8月15日までの日本人のすべてが右翼だった。
この本は基本的には、20世紀前半、日露戦争からアジア・太平洋戦争までの間の、右翼を中心とした日本思想史だが、思想史の本にありがちな難解さがない。
右翼思想に少しでも関心があれば、この本はとにかく面白い。
右翼思想は,現状に不満を持ち,崩壊寸前の伝統といった過去のものにひとつの理想を見出す。
しかし日本の近代右翼思想はどこに注目しても必ず最後に天皇と結びつけたため,『過去の代表者』でありつつ『現在の日本』も支えている天皇に導かれ,ねじれて現在にのめり込み,現在を礼賛して終わる。
この近代右翼のキーワード『超国家主義』の意味内容を問いながら、近代右翼思想の悩み・ねじれを鮮やかに描かれている。
『超国家主義』のこのような当然の理論の帰着の結果、現状肯定的な思想が展開していき、当時、農本主義や健康法に堕してしまった右翼思想書すらあった。
『そういう何重にもねじれた重いが積み上がって、互いの思いを牽制しあい、にっちもさっちも行かなくなってしまった。』のが戦前の右翼思想である。
同じく、財閥・軍閥ばかりがのさばり、国民が疲弊の限りを尽くしているなか、解決を天皇に求めずにこの国を何とかしようとしたのが『左翼』ということになるが、如何せん人数的に少なすぎた。
日本近代の右翼の思想 の目次
『第1章 右翼と革命』
★世の中を変えようとする、だがうまくいかない。
日本近代の右翼の思想史には、まず現代をいやだと思って過去に惹かれるが、
過去に分け入っても、何処でも最後には天皇を見出す。
右翼思想では幾等時代を遡っても天皇しか出てこない。
右翼は『今の日本は気に入らないから変えてしまいたい』と一旦は思うが、そこで、『正しく変える力』は『天皇』に代表される『日本の伝統』にあると思うようになる。
『第2章 右翼と教養主義』
★どうせうまく変えられないならば、自分で変えようとは思わないようにする。
しかし、その天皇は今まさにこの国に現前しているのだから、じつはすでに立派な美しい国ではないかと、もう一度思い直す。
それなら変えようなどと『余計なことは考えない』ほうがいいのではないかと思い至る。
『天皇が相変わらずちゃんといる現在が悪いはずはない』
『天皇がいつも現前している今このときは常に素晴らしい』
となる。
『第3章 右翼と時間』
★変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる。
現在ありのままを絶対化して行くと、最後には常識的な漸進主義すら現在を変改しようとするものだからと認められなくなる。
現在に密着して、そこで思考が停止するという道筋が、ここからうかがえる。
次に、考えないなら脳は要らないから『見てくれだけは美しくしよう』と思うようになる。
『第4章 右翼と身体』
★すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る。
それで、様は、『美しくしても死ぬときは死ぬ』のだと思い至る。
それならば、『美しい国を守る』ために、『潔く死のう』と思う。
思考よりも『美しい様』が重視され、結果として日本を1945年の敗戦の破滅まで、右翼思想は一直線に導いていく。
『世界的に見ても不思議な日本の右翼思想の無残』
一見似ているようで現状肯定の『保守』と、現状に不満で変革を目指す『右翼』とは全く別のもので、基本的に政治姿勢も主義主張も大きく違う。
ところが日本の『右翼』は暴力団系以外は全て『保守』を自認していて、よほどのことが無いと自分のことを『右翼である』とは言わない。
此処がそもそも自分でも左を自称して憚らない『左翼』とは大きく違うところだが、『街宣右翼=暴力団』との現実が影響しているのだろうか。
実に不思議な日本国の傾向である。
『保守』の意味は文字にある通りで、今までの古き良き権威や伝統を『守り』『保つ』政治姿勢で現在の生活や体制に基本的に満足している。
不満があるが右翼や左翼より相対的に小さい。
『保守』とは現在に依拠し、現在を守る勢力のことで、土台からの根本的な造り替えを警戒するが、漸進的な改良を最善と考えている穏健思想で、少しずつ着実に前に向かって動いて行くところに特徴がある。
その点『右翼』や『左翼』は根本的なところで現状に満足出来ずに不満を持っており、社会の根本的な土台からの改革(造り替え)を主張しているので、この部分だけなら右も左も全く同じ政治的なスタンスであるとも考えられるが、時間軸が全く違っている。
『左翼』はまだ見ぬ未来に自分の理想を期待するが、『右翼』は正反対。
右翼とは『失われた理想の過去に立脚して現在に異議を申し立てる』思想や勢力のことなのです。
この部分だけなら150年前の『逝きし世の面影』(今では失われた美しく儚い江戸文明)を主張している私などは『右翼』に分類されそうだが、どうも話が違うのです。
日本の右翼は150年前の平和な『江戸文明』は少しも理想とはしていなくて問答無用で完全否定している。
安倍晋三の『戦後レジーム(体制)からの脱却』のスローガンが示すように、今の日本国憲法に反対し65年前の敗戦以前の大日本帝国の今では失われてしまった教育勅語に理想を見る。
今の社会問題は、過去の理想的な社会からの逸脱からもたらされたもので、過去に立ち返れば全ては良くなると考えている。
ところが日本国では何処まで歴史を遡っても今と同じで天皇制がある。
現在を否定しても、現在と同じ天皇制が過去にもあるので、日本の右翼思想は最初から無条件の現状肯定の思考停止に陥らざるをえない宿命を孕んでいるのです。
社会変革を否定し現状肯定なら、それは最早『右翼』とは呼べないので我が日本国の右翼は全てが、現状肯定を身上とする『保守』を自認する今のような不思議な状態になっているのです。
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・・・・・・
抜粋終わり
偽伝統・・・・
つながっているこころ2 より
上記文抜粋
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「日本の疑似伝統」その3
「ケガレ」とは「気が枯れる」ことと私は考えます。
(土地のケガレも同じ)
そう考えれば月経やお産はケガレにならない。
ネットで他者を誹謗中傷したり、
ヘイトを垂れ流す人たちこそ、ケガレです。
彼らは人の気を枯らす。
■日本の疑似伝統::阿満利麿 明治学院大学国際学研究
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/1668/1/kokusai_8_1-22.pdf
2.ケガレの強調
三不浄
沖縄、奄美では経血を不浄とする考えはなく
沖縄には日本古代文化の原型が残っていると考えられるだけに
月経の不浄視は後代から成立してきたと著者。
ここに書かれている二つの相反する「イミ」は面白いですね。
非日常的な尋常ではない世界に対処する態度のイミ
尋常ではない世界には人にとって好ましい場合とそうでない場合がある
好ましい場合は積極的に近づき
好ましくない場合は近づかないようにする
前者が「斉み」、後者が「忌み」
こうした分化は奈良時代末期と言われているが
時代を下るにつれ「忌み」が「斉み」を抑えて圧倒的に強くなってくる
桓武天皇は歴代の天皇のなかでも中国皇帝を施行した代表的人物で、
宮廷の祭儀、儀礼を中国の制度にならって整備、
神祇祭祀に従う者に対しては徹底して凶事の忌避を求めた。
8世紀から9世紀初めにかけて成立した天皇をとりまく律令貴族の
神聖意識が伝来の「イミ」における禁制部分を異常に増加させる原因となった。
彼らの最大の関心事はもっぱら自らの神聖性を侵す恐れがあるケガレを
回避し続けることであった。
自らというのが重要。
高取正雄はこれをもって神道の成立とした、と著者。
この律令貴族の禁忌体系が中世になって農民に広がってゆく。
もともと「浄・穢」は日本固有のものではなく
万物を「浄・穢」に分類する古代インドの世界観に属するもの。
明治近代天皇制でこの「穢れ」が極端に強化されるようになる。
民間に伝承されるケガレ=穢れは日本史における
2度にわたる神権天皇制の産物だった。
墓地は自由に作れなくなった。
「喪中につき賀状辞退云々」の挨拶状も
天皇に仕える官吏から新しくはじまった過剰な禁忌意識。
「国家神道」は従来の神道を天皇中心に組み替えた国教。
憲法上の「信教の自由」に抵触しないようにたくみに
儀礼中心に構成され、「神道は宗教に非ず」という
詭弁のものに諸宗教の上に君臨した。
したがってその祭儀の禁忌意識は激化していく。
こうした禁忌意識は義務教育における
神社参拝を通じて国民の間で徹底されて行き、
昭和10年代になるとヒステリックな様相になってくる。
身だしなみをと整え…手の洗い方からはじまり
参拝の仕方など…神社へお参りする一連の作法。
「二礼二拍手一礼」も新しくできたもの。
神社の前を通り過ぎるときに敬礼したり
忌中の者は参拝を遠慮するなどもこの一環です。
昔からあったわけじゃない。
国家神道の中でも靖国神社がもっとも厳格だった。
病的なまでの清潔、手洗いが決められているそうです。
女性の穢れについても近代天皇制で強化された。
「二礼二拍手一礼」について
宗教学者の島田裕巳さんもこう語っています。
「神社に行くと、「二礼二拍手一礼」が正式な作法と強調されている。だが、そのやり方は、明治8年の「神社祭式」で定まったものがもとになっていて、明治以前には存在しなかった。明治以前の神仏習合の時代には、神と仏は同時に祀られていたので、合掌と拍手の区別はできない。」「これが江戸時代の伊勢神宮での参拝のしかたです。拍手ではなく、合掌だったことがよく分かります。天皇に対して拍手を臣下が打つ、あるいは天皇が神に柏手をうつということはあったようですが、それは特殊なことだったようです。」
つづく
次回は天皇「機軸」論
・・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
>もともと「浄・穢」は日本固有のものではなく
万物を「浄・穢」に分類する古代インドの世界観に属するもの。
>明治近代天皇制でこの「穢れ」が極端に強化されるようになる。
民間に伝承されるケガレ=穢れは日本史における
2度にわたる神権天皇制の産物だった。
この穢れ感覚が肥大化したのは、天皇制・特に明治阿呆天皇カルトからか・・・
>「神社に行くと、「二礼二拍手一礼」が正式な作法と強調されている。だが、そのやり方は、明治8年の「神社祭式」で定まったものがもとになっていて、明治以前には存在しなかった。明治以前の神仏習合の時代には、神と仏は同時に祀られていたので、合掌と拍手の区別はできない。」「これが江戸時代の伊勢神宮での参拝のしかたです。拍手ではなく、合掌だったことがよく分かります。天皇に対して拍手を臣下が打つ、あるいは天皇が神に柏手をうつということはあったようですが、それは特殊なことだったようです。」
やっぱ、なにかおかしいと思った。
「鳥烏帽子をかぶっているが、男根みたいでオカシイ」と南方熊楠。明治人の意見なので、こりゃ~大きいよね・・
天皇ってやはり日本の癌のようで・・・
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
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保守ブーム、歴史、そして西部さんの死
西部邁さんが亡くなった。宮台さんは泣いているだろうと思ったらご自分でそうtwitterされていた。そうだろうと思う。
西部さんはつらい人だと思う。本当はこうなりたかったわけではない何かになっていった自己を止められず誤解の渦の中に呑まれていったというのが現時点での私の考えかな。
そして、「保守」という態度に拘るよう設計されたことが最後まで韜晦を逃れ得なかったということなんじゃないか。
ではどこからその「保守」が来たのか。中曽根時代あたりがしかけた言論人の一人ということなのではなかろうかと思う。実際、西部さん自身が中曽根との噂に腹を立てている部分もあったようで、3年ぐらい前のMXで、中曽根から確かに金をもらったがそれはこんなものとその金で買ったという皮のコートを着て登場したことがあった。
中曽根時代といえば、もう一人重要な人がいる。梅原猛さん。梅原さんは中曽根にかけあって、あるいはおもねって、資金を出させて国際日本文化研究センターの設立を可能にした。wikiを見るとなんかさっぱりした記述になっていたが、このあたりは梅原さん自身があちこちで盛大に語っている。
このへんから、日本は素晴らしい系の発想が、戦前の京都学派っぽいノリと融合しつつ前に出て来たという感じでしょうか。
実際、梅原さんによれば、中曽根元首相は、サミットに行くと欧米の政治家たちが、やれシェークスピアだのなんだのと文化の話をするわけだ、しかし日本にだってすごいものがあるぞと見せなきゃならん、と語り、研究施設を作ろうということになったという話だった。発想がそもそも、日本文化の研究というより、外国人に誇るための日本文化研究だったのだなと私はその話を聞いた時そう思った(国際日本文化研究センターの動画の中にまだあると思う)。
言うまでもなく中曽根元首相といえばレーガン大統領と重なるわけで、ここらへんがソ連崩壊を目算に入れた、新しい保守をしかけていったんだろうなと思う。
しかし、にもかかわらわず、梅原さんは、九条の会の梅原さんなわけですよ。2004年に九条の会ができた時の発起人の一人として原点からかかわっている。
どうしてこうなったのか。
私は、原因は一つしかないと思う。それは、梅原さんは1925年生まれだから、1945年に20歳。京都大学の学生として戦争につぐ戦争をしていた日本、対米戦に入っていた日本、そして、守るといったってどうしようもない状態になって学生を大量に投入していった日本をリアルに知っていた人。
だから、国家が戦争をしようとする時のその作為が見え、感づき、これはいけないと思って行動に入ったということなんでしょう。立場作ってる場合やないでぇといったところ。
2015年の戦後70周年の時にインタビューを受けていたが、その短文の中でも、本土決戦などと勇ましい言論の影にある現実が描かれていた。
大砲を引く馬はもう、3頭くらいしかいなかった。大砲も実弾なんか見たことないし、訓練らしい訓練はなかった。僕たちの中隊は、浄土真宗のお寺が宿所。中隊は2小隊からなり、60人くらい。年寄りの古参兵と新兵からなり、若く戦闘力のある兵士は、小隊に数人しかいなかった。
敵が上陸したら爆弾を持って戦車に体当たりせよ、と言われたが、そのための訓練があったわけでもない。
僕たち兵卒は、玉音(ぎょくおん)放送を聞いていない。見習士官から、放送があり戦争が終わったと聞いた。予想以上に早く終わって助かった、と素直に嬉(うれ)しかった。
http://www.yomiuri.co.jp/matome/sengo70/20150815-OYT8T50017.html
また、戦前の知識人の記憶も重要。
京都学派の哲学者による「世界史の哲学」という思潮が当時あってね。それは、今の日本の戦争は世界史の必然だ、日本の深い伝統的精神と西欧の浅い合理主義的精神との戦いだと。そういうことを、京大の西田幾多郎(きたろう)教授の弟子の高山(こうやま)岩男、高坂(こうさか)正顕(まさあき)などの学者が唱えていた。僕は必ずしも納得しなかったけど、世界史の哲学に、自分の死の理由を、戦争に行く理由を見つけようと思って、ずいぶん一生懸命、読んだな。
高校卒業前、45年2月に京大を訪れると、高山先生が学生と討議していた。「なんで戦争せんならんのですか」「戦争を避ける方法もあったのでは」と問う学生に、高山先生が「戦争しなかったら、日本の道徳的エネルギーがダメになる」と。そのやりとりをまざまざと思い出すね。
このへんの知識人に対する評価が戦後相当期間芳しいものではなかったことを、現在の右派(または保守派)は一般に、戦後入って生きたGHQや左翼のせいにしている。チャンネル桜などはその典型。しかし、そうではないでしょう。生き残った人々が、彼らは勝手なことを言っていたと判断したからこそ誰も容易に顧みようとはしなかったまでのことでしょう。
この体験をした人は、ほとんどの場合、戦前に戻りたいという考えを持たない。
1939年生まれの西部さんにはこの体験がない。いや、それよりも問題だったのは歴史を知る間もなく安保闘争に入り、それを挫折として総括して、保守というタイトルを始終くっつけられた存在として自己規定する以外の道を見いだせなかったのではなかろうか。
西部さんは、保守という態度について様々なことを語った。亡くなったことを告げる記事の多くには「保守派の論客」というタイトルが付けられてもいる。
しかし、保守であるのならば、まず必要なことはその社会がよってたつ歴史の解明だったのではなかったか。
同じく60年安保の時代を大学生として生き、強い衝撃を受けたと思しきジャーナリストの末浪靖司さんは、人生の半分以上をかけて日米間の密約の研究をされてきた。末浪さんはおそらく左翼と分類されているのだろうと思う。しかし、私には、こちらこそ社会を保守しようとする民族派(ほとんどnationalist)にみえる。
【広告連動企画!!】 新刊『「日米指揮権密約」の研究』自衛隊はなぜ、海外へ派兵されるのか 岩上安身によるジャーナリスト末浪靖司氏インタビュー 2017.10.7
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/400203
おそらくジャーナリズムはこれから、憲法改正を目算に入れることもあり、保守の真髄だの保守とは何かだの、国民の道徳とあった憲法だのといったことを書き、その中で西部さんに言及することになるんだろうと想像する。
しかし、西部さんはそれを望んだだろうか。望まないからこそ、保守ブームをというある種のバブル幻想めいたいものをひっさげて死んでいったのではないのかと、私はそう思う。
いろいろ書いたけど、このブログでも何度も引用している通り私はこのおじいさんが好きだった。好きだったからこそ、おそらく望んでいなかったであろう方向へと消費され尽くされるであろうこの時代がたまらなく怖くもあり、そして氏に対して不憫な感情を持つ。
・・・・・・・・・・
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抜粋終わり
なんか今の保守って、妄想のカルト信者でしかない・・
ここまで阿呆だから、西部さんも耐え切れなかったのか・・・
逝きし世の面影 より
上記文抜粋
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(関連記事)
『近代日本の右翼思想』 つまづきの石としての天皇 2008年04月14日 | 政治・外交と天皇制
近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ) (単行本)
片山 杜秀 (著)
価格: ¥ 1,575 (税込)
躓きの石としての天皇 超克されざる『近代――近代日本のパラドクス』
革命への赤き心は、なにゆえ脱臼され、無限の現状肯定へと転化されなければならないのか。
躓きの石としての天皇、超克されざる「近代」――北一輝から蓑田胸喜まで、西田幾多郎から長谷川如是閑まで、大正・昭和前期の思想家たちを巻き込み、総無責任化、無思想化へと雪崩を打って向かってゆく、近代日本思想極北への歩みを描く。
[本書の内容]
●「超―国家主義」と「超国家―主義」
●万世一系と「永遠の今」
●動と静の逆ユートピア
●「口舌の徒」安岡正篤
●西田幾多郎の「慰安の途」
●アンポンタン・ポカン君の思想
●現人神
基本的に極少数の例外を除けば、1945年8月15日までの日本人のすべてが右翼だった。
この本は基本的には、20世紀前半、日露戦争からアジア・太平洋戦争までの間の、右翼を中心とした日本思想史だが、思想史の本にありがちな難解さがない。
右翼思想に少しでも関心があれば、この本はとにかく面白い。
右翼思想は,現状に不満を持ち,崩壊寸前の伝統といった過去のものにひとつの理想を見出す。
しかし日本の近代右翼思想はどこに注目しても必ず最後に天皇と結びつけたため,『過去の代表者』でありつつ『現在の日本』も支えている天皇に導かれ,ねじれて現在にのめり込み,現在を礼賛して終わる。
この近代右翼のキーワード『超国家主義』の意味内容を問いながら、近代右翼思想の悩み・ねじれを鮮やかに描かれている。
『超国家主義』のこのような当然の理論の帰着の結果、現状肯定的な思想が展開していき、当時、農本主義や健康法に堕してしまった右翼思想書すらあった。
『そういう何重にもねじれた重いが積み上がって、互いの思いを牽制しあい、にっちもさっちも行かなくなってしまった。』のが戦前の右翼思想である。
同じく、財閥・軍閥ばかりがのさばり、国民が疲弊の限りを尽くしているなか、解決を天皇に求めずにこの国を何とかしようとしたのが『左翼』ということになるが、如何せん人数的に少なすぎた。
日本近代の右翼の思想 の目次
『第1章 右翼と革命』
★世の中を変えようとする、だがうまくいかない。
日本近代の右翼の思想史には、まず現代をいやだと思って過去に惹かれるが、
過去に分け入っても、何処でも最後には天皇を見出す。
右翼思想では幾等時代を遡っても天皇しか出てこない。
右翼は『今の日本は気に入らないから変えてしまいたい』と一旦は思うが、そこで、『正しく変える力』は『天皇』に代表される『日本の伝統』にあると思うようになる。
『第2章 右翼と教養主義』
★どうせうまく変えられないならば、自分で変えようとは思わないようにする。
しかし、その天皇は今まさにこの国に現前しているのだから、じつはすでに立派な美しい国ではないかと、もう一度思い直す。
それなら変えようなどと『余計なことは考えない』ほうがいいのではないかと思い至る。
『天皇が相変わらずちゃんといる現在が悪いはずはない』
『天皇がいつも現前している今このときは常に素晴らしい』
となる。
『第3章 右翼と時間』
★変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる。
現在ありのままを絶対化して行くと、最後には常識的な漸進主義すら現在を変改しようとするものだからと認められなくなる。
現在に密着して、そこで思考が停止するという道筋が、ここからうかがえる。
次に、考えないなら脳は要らないから『見てくれだけは美しくしよう』と思うようになる。
『第4章 右翼と身体』
★すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る。
それで、様は、『美しくしても死ぬときは死ぬ』のだと思い至る。
それならば、『美しい国を守る』ために、『潔く死のう』と思う。
思考よりも『美しい様』が重視され、結果として日本を1945年の敗戦の破滅まで、右翼思想は一直線に導いていく。
『世界的に見ても不思議な日本の右翼思想の無残』
一見似ているようで現状肯定の『保守』と、現状に不満で変革を目指す『右翼』とは全く別のもので、基本的に政治姿勢も主義主張も大きく違う。
ところが日本の『右翼』は暴力団系以外は全て『保守』を自認していて、よほどのことが無いと自分のことを『右翼である』とは言わない。
此処がそもそも自分でも左を自称して憚らない『左翼』とは大きく違うところだが、『街宣右翼=暴力団』との現実が影響しているのだろうか。
実に不思議な日本国の傾向である。
『保守』の意味は文字にある通りで、今までの古き良き権威や伝統を『守り』『保つ』政治姿勢で現在の生活や体制に基本的に満足している。
不満があるが右翼や左翼より相対的に小さい。
『保守』とは現在に依拠し、現在を守る勢力のことで、土台からの根本的な造り替えを警戒するが、漸進的な改良を最善と考えている穏健思想で、少しずつ着実に前に向かって動いて行くところに特徴がある。
その点『右翼』や『左翼』は根本的なところで現状に満足出来ずに不満を持っており、社会の根本的な土台からの改革(造り替え)を主張しているので、この部分だけなら右も左も全く同じ政治的なスタンスであるとも考えられるが、時間軸が全く違っている。
『左翼』はまだ見ぬ未来に自分の理想を期待するが、『右翼』は正反対。
右翼とは『失われた理想の過去に立脚して現在に異議を申し立てる』思想や勢力のことなのです。
この部分だけなら150年前の『逝きし世の面影』(今では失われた美しく儚い江戸文明)を主張している私などは『右翼』に分類されそうだが、どうも話が違うのです。
日本の右翼は150年前の平和な『江戸文明』は少しも理想とはしていなくて問答無用で完全否定している。
安倍晋三の『戦後レジーム(体制)からの脱却』のスローガンが示すように、今の日本国憲法に反対し65年前の敗戦以前の大日本帝国の今では失われてしまった教育勅語に理想を見る。
今の社会問題は、過去の理想的な社会からの逸脱からもたらされたもので、過去に立ち返れば全ては良くなると考えている。
ところが日本国では何処まで歴史を遡っても今と同じで天皇制がある。
現在を否定しても、現在と同じ天皇制が過去にもあるので、日本の右翼思想は最初から無条件の現状肯定の思考停止に陥らざるをえない宿命を孕んでいるのです。
社会変革を否定し現状肯定なら、それは最早『右翼』とは呼べないので我が日本国の右翼は全てが、現状肯定を身上とする『保守』を自認する今のような不思議な状態になっているのです。
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抜粋終わり
偽伝統・・・・
つながっているこころ2 より
上記文抜粋
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「日本の疑似伝統」その3
「ケガレ」とは「気が枯れる」ことと私は考えます。
(土地のケガレも同じ)
そう考えれば月経やお産はケガレにならない。
ネットで他者を誹謗中傷したり、
ヘイトを垂れ流す人たちこそ、ケガレです。
彼らは人の気を枯らす。
■日本の疑似伝統::阿満利麿 明治学院大学国際学研究
http://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/1668/1/kokusai_8_1-22.pdf
2.ケガレの強調
三不浄
沖縄、奄美では経血を不浄とする考えはなく
沖縄には日本古代文化の原型が残っていると考えられるだけに
月経の不浄視は後代から成立してきたと著者。
ここに書かれている二つの相反する「イミ」は面白いですね。
非日常的な尋常ではない世界に対処する態度のイミ
尋常ではない世界には人にとって好ましい場合とそうでない場合がある
好ましい場合は積極的に近づき
好ましくない場合は近づかないようにする
前者が「斉み」、後者が「忌み」
こうした分化は奈良時代末期と言われているが
時代を下るにつれ「忌み」が「斉み」を抑えて圧倒的に強くなってくる
桓武天皇は歴代の天皇のなかでも中国皇帝を施行した代表的人物で、
宮廷の祭儀、儀礼を中国の制度にならって整備、
神祇祭祀に従う者に対しては徹底して凶事の忌避を求めた。
8世紀から9世紀初めにかけて成立した天皇をとりまく律令貴族の
神聖意識が伝来の「イミ」における禁制部分を異常に増加させる原因となった。
彼らの最大の関心事はもっぱら自らの神聖性を侵す恐れがあるケガレを
回避し続けることであった。
自らというのが重要。
高取正雄はこれをもって神道の成立とした、と著者。
この律令貴族の禁忌体系が中世になって農民に広がってゆく。
もともと「浄・穢」は日本固有のものではなく
万物を「浄・穢」に分類する古代インドの世界観に属するもの。
明治近代天皇制でこの「穢れ」が極端に強化されるようになる。
民間に伝承されるケガレ=穢れは日本史における
2度にわたる神権天皇制の産物だった。
墓地は自由に作れなくなった。
「喪中につき賀状辞退云々」の挨拶状も
天皇に仕える官吏から新しくはじまった過剰な禁忌意識。
「国家神道」は従来の神道を天皇中心に組み替えた国教。
憲法上の「信教の自由」に抵触しないようにたくみに
儀礼中心に構成され、「神道は宗教に非ず」という
詭弁のものに諸宗教の上に君臨した。
したがってその祭儀の禁忌意識は激化していく。
こうした禁忌意識は義務教育における
神社参拝を通じて国民の間で徹底されて行き、
昭和10年代になるとヒステリックな様相になってくる。
身だしなみをと整え…手の洗い方からはじまり
参拝の仕方など…神社へお参りする一連の作法。
「二礼二拍手一礼」も新しくできたもの。
神社の前を通り過ぎるときに敬礼したり
忌中の者は参拝を遠慮するなどもこの一環です。
昔からあったわけじゃない。
国家神道の中でも靖国神社がもっとも厳格だった。
病的なまでの清潔、手洗いが決められているそうです。
女性の穢れについても近代天皇制で強化された。
「二礼二拍手一礼」について
宗教学者の島田裕巳さんもこう語っています。
「神社に行くと、「二礼二拍手一礼」が正式な作法と強調されている。だが、そのやり方は、明治8年の「神社祭式」で定まったものがもとになっていて、明治以前には存在しなかった。明治以前の神仏習合の時代には、神と仏は同時に祀られていたので、合掌と拍手の区別はできない。」「これが江戸時代の伊勢神宮での参拝のしかたです。拍手ではなく、合掌だったことがよく分かります。天皇に対して拍手を臣下が打つ、あるいは天皇が神に柏手をうつということはあったようですが、それは特殊なことだったようです。」
つづく
次回は天皇「機軸」論
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抜粋終わり
>もともと「浄・穢」は日本固有のものではなく
万物を「浄・穢」に分類する古代インドの世界観に属するもの。
>明治近代天皇制でこの「穢れ」が極端に強化されるようになる。
民間に伝承されるケガレ=穢れは日本史における
2度にわたる神権天皇制の産物だった。
この穢れ感覚が肥大化したのは、天皇制・特に明治阿呆天皇カルトからか・・・
>「神社に行くと、「二礼二拍手一礼」が正式な作法と強調されている。だが、そのやり方は、明治8年の「神社祭式」で定まったものがもとになっていて、明治以前には存在しなかった。明治以前の神仏習合の時代には、神と仏は同時に祀られていたので、合掌と拍手の区別はできない。」「これが江戸時代の伊勢神宮での参拝のしかたです。拍手ではなく、合掌だったことがよく分かります。天皇に対して拍手を臣下が打つ、あるいは天皇が神に柏手をうつということはあったようですが、それは特殊なことだったようです。」
やっぱ、なにかおかしいと思った。
「鳥烏帽子をかぶっているが、男根みたいでオカシイ」と南方熊楠。明治人の意見なので、こりゃ~大きいよね・・
天皇ってやはり日本の癌のようで・・・
お読みくださりありがとうございます。
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