故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
ネットゲリラ より
上記文抜粋
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奴隷制の良いところを書きなさい
野次馬 (2018年4月26日 08:57) | コメント(0)
アメリカ黒人て、ずいぶん原種のアフリカ黒人とは違って来ている。言うまでもなく混血が進んでいるからで、それはむかしから今に至るまで、延々と混じり続けている。奴隷制があった頃には、オンナの奴隷に種付けして自分の子供を産ませる白人農場主というのはありふれた話だったし、というのも、奴隷女が産んだ子供は奴隷なので、無料で労働力が増えるからだ。バンコクに行くとアフリカ黒人の溜まり場みたいな地域があるんだが、肌の色は見事に真っ黒で、顔もアメリカ黒人とは違う。
◆「奴隷制の良いところを書きなさい」 歴史の授業で出された宿題が波紋⇒学校側は謝罪
アメリカ・テキサス州にあるチャータースクール(特別認可学校)で、奴隷制の「良い面」を記述させる宿題が出され、波紋を呼んだ。
宿題は8年生の歴史の授業で出された。
学校を運営する団体が「明らかに間違いだった」と謝罪する事態になった。
同校の最高責任者であるアーロン・キンデルさんは、Facebookで「明らかに、奴隷制に是非などない」「この宿題は、不道徳で非人道的であった」とつづり、謝罪した。
問題となった宿題は4月18日、同校生徒の親であるロベルト・リバーさんがFacebookに投稿したことで一気に話題になった。
奴隷は買い切りの所有物なので、適切な扱いをして、栄養のある食事を与え、家族を作らせて再生産すれば、買わなくても、給料払わなくても、勝手に増えるのでお得ですw 家畜と同じw 近代の奴隷制度というとアメリカばかりが取り上げられるが、イギリスはアジアでも散々やった。スリランカを占領して農場を作ったものの、現地のシンハリ人は誰も雇われて働こうとしなかったので、インドからタミル人奴隷を連れて来て働かせた。今でも紅茶産業はタミル人頼りです。マレー半島では、中国人奴隷を連れて来て働かせた。中国は戦乱の時代だったので、奴隷が安く買えたのだ。
・・・・・中略・・・・・・・
【米国/教育】「奴隷制の良いところを書きなさい」 歴史の授業で出された宿題が波紋 ★5、というわけで、例によって2ちゃんねるでは無責任なネットすずめたちがピーチク騒いでおります。ニュース速報板からです。
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で、実際のところ良いところと悪いところはなんだったのか?
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>「奴隷制の良いところを書きなさい」
賃金(人件費)が要らない。これで米国は大きく発展できた。
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↑賃金は要らんが、工場機械の導入と同じく、利益を出すには適切な管理、整備、保守点検が必要。
衣食住、「給料」という名目費で丸投げの雇用関係よりも、よっぽど気を配る必要がある。
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奴隷は働く牛馬と同じで資産だから大事に扱われた。
病気になったら大損なので長時間働かせる事もなかった。
手放す時は他のオーナーが引き取った。
無給の野球選手に近いね。
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生徒「戦争は嫌いです」
先生「どうじて?」
生徒「覚えることが増えるからです」
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「賃金奴隷と呼ばれる現代のシステムの良いところを書きなさい」 テキサス州 チャータースクール改題
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悪い時は~ どうぞブッてね~♪
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アメリカのポルノには、Black Maidというジャンルがある
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安倍総理の良いところを書きなさい
とか
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聞き方の問題だろ。
南北戦争当時、南部の人々が奴隷制を維持しようとした理由を書きなさい、とでも
聞いていれば同じ回答が得られただろうに。
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何気にこの問題って高校生でやるにはすげー難しいと思う
模範解答ってどんなだろ??? ここのニートの奴隷連呼じゃなくて
マジ解答
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↑奴隷の価格が安かった時代では、集約的単純労働を実施するための手段として有効であった
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いまの派遣奴隷と違って
自由はないが、そいつの生活まで抱えるので死ぬこたあない
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ドイツにとってのナチス
アメリカにとっての奴隷制度
日本にとっての核武装
議論することが許されない問題
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20年くらい前の米社会派ドラマ「ピケットフェンス」
そのⅠエピソード
主人公(保安官 白人)の小学生の息子が昔の本を読んで影響受けて、「黒人って知能低いから、奴隷にするくらいしか使い道ないよねー」と学校の自由研究で発表し、大問題になる
周りの大人たちは大慌てで息子の考えを改めようとするが、「それが(世間的に)ヤバい」ことは説明できても「何が間違っているか」がうまく説明できない
高学歴な黒人連れてきて説得させても「ああ、そういう珍しい黒人もいるんだね でもほんの少しだろ」と考えを変えないし、周りの大人もそれを否定できない
最後はユダヤ人連れてきてアウシュビッツ語らせて解決というトホホな結末なんだが、逆に言うとアメリカ人自身にも確固たる解答がない問題だ、って話でもある
「そんなに黒人が優れているなら、なんで奴隷にされてたの?」
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奴隷は持ち主の財産でもあるから、ちゃんとした奴隷主なら、それこそ工場の生産機械にするように保守や整備をちゃんとやるんだよな。
労働者のほうが、待遇が悪かったりする。
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↑食事、住居、家族(嫁)まで農場主が面倒を見るわけなので
その負担はやはり農場主には軽いとは言えないだろうな
現代では季節労働者を格安の賃金で使い捨てできるのでむしろ悪化しているのではないかとすら思われる
奴隷が良いという意味ではなく、人権のない奴隷にすら劣るとも言える非人間的労働契約が横行しているのが現代なのだ
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なまじ「人権」って考え方出てきちゃったせいで、「奴隷制」と折り合い付けるために
「奴隷にされるのは劣等な人種」
みたいな言い訳して、それでかえってドツボはまっちゃったイメージだ、欧米
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奴隷制で良い所があるなら白人のキリスト教徒を奴隷にすれば白人から感謝されるだろうよ
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「安倍政権の良い所を書きなさい」
⇒そりゃ、国民が怒るだろうW
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何でも支配者のせいにして生きられるから、精神的に楽。
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低コストで働かさせるということができる
若ければ売り飛ばせる
歳をとったら追放できる
使用者側が脳筋バカでも人権がないから力で言うことをきかせられる
放っておけばかってに増える
このくらいかな。なにかに似てる気がするのは気のせいかな...
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↑お前に似てる
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表向きは選挙権などの人権はあるが、経済的奴隷は有るよね。
富の分配に格差が有りすぎる。
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いつから自分が奴隷じゃないと勘違いしてた?
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奴隷制の利点は食住の確保。衣は微妙だけど。
所有者からすると必要だから奴隷を用いるわけで、維持しなければ意味がない。
奴隷制が成立する環境下では、供給源となるような、より悲惨な環境が同時に存在する。
その事抜きに今の価値観だけで奴隷が悪いとすると本質を
見誤る。
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何で南軍側についた黒人奴隷がいたのか調べて考えたら答えが
出てくるんじゃないのかな?
奴隷制度があれば一応食っていくことだけはできるけど、奴隷解放されたら
それもままならなくなるかもしれない、と彼らは考えたのかも知れない。
まあ、機械化が進んでそのうち奴隷ってものは人権意識に限らず
コスト的になくなってはいただろうけどね。
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保守管理を考えたら契約で縛って賃金制にした方がコスパがよくね?
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奴隷から解放された黒人は、食うに困って
奴隷のままが良かったと言いました
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歴史的に言うとアメリカ大陸などの植民地プランテーションが広がった18・19世紀前半が一番奴隷の数が多かったのではないか
この時期、国際貿易品である砂糖・綿花などは奴隷生産、奴隷によって国際貿易が発展した
しかし産業資本が発展すると、植民地を基盤とする旧資産家階級と新興産業資本が対立するようになる
アメリカでは南部の資産家と北部の産業資本という形の対立になった
もしこうした対立がなければ奴隷プランテーションは存続していた可能性が十分あるわけだ
いまでも南部で奴隷制を懐かしむ資産家はいるのだろう、
大儲けする仕組みを北部に壊された恨みは深いだろうな
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黒人奴隷が解放されて、次にアメリカ南部の綿花畑で働いたのは中国人だった
中国人は、奴隷以下の待遇で働いた
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なんだろうな。
すくなくとも奴隷は直接税的な税金を払う義務がないこととか?
権利もないけど、義務も少ない制度だよね?
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奴隷解放の際に、「自分で自分の身の振り方を考えなきゃならない」というので、途方に暮れた黒人がたくさんいた。今までは何も考えずに言われた労働だけをこなしていれば、餌が貰えた。それが、「オマエは自由だ。どこにでも行け。餌は自分で探せ」と言われても、それを考えるための教育を受けていないのだから、どうにもならない。まぁ、せっかく定年になっても、「もう少し働かせてくれ」と会社にしがみつく社畜も、同じようなもんかw
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抜粋終わり
「見えない」奴隷制国家の日本。
こりゃ、戦争も勝てないし、原発も6機爆発するのも当然。
明治以降は、天皇家以外みんな奴隷。それが日本列島の悲しい現実の一面なのである。
だから、天皇制・天皇家ある限りに、日本人に安穏の時間は無い。
お読みくださりありがとうございます。
オマケ
光武帝と建武二十八宿将伝 より
上記文抜粋
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人の貴さは天の定め、法は万人に平等なり
劉秀が統一後に目指した世界とはどんなものだったか。
その姿は統一前から少しずつ政策に現れていた。まずは奴婢の解放令である。
建武二年(西暦26年)五月。嫁に出した娘、売られた子どもで親元に帰りたい者は、すべてその願い通りとし、それを拒否する者は法律によって処罰する。
建武六年(西暦30年)十一月。王莽の時代の下級役人で罪に問われて奴婢となった者で、漢の時代の法律によるものでないものは免じて庶人とする。
建武七年(西暦31年)。下級役人で飢饉や戦乱に遭ったもの、青州、徐州で賊によりさらわれて奴婢や妻とされた者、去りたい者も残りたい者、自由にすべてその願い通りとし、それを拒否する者には売人法を適用する。
建武十二年(西暦36年)三月。隴や蜀でさらわれて奴婢とされた者で、自ら訴え出たもの、判決が出ていない者(及獄官未報)とすべて庶人とする。
建武十三年(西暦37年)十二月。益州で建武八年以降にさらわれて奴婢となった者は庶人とする。また身を売って他人の妻となったもので去りたいものはすべてこれを聞き入れよ。敢えて引き留める者は、青州、徐州同様に略人法を適用する。
建武十四年(西暦38年)十二月。益州、涼州で建武八年以降に申告した奴婢は、裁判なしで庶人とし、売った者は代金を返さなくてよいとした。奴婢の多くは、夫が妻子を売るケースが多いのだが、そのとき夫は代金を返さなくても妻子を取り戻せるということである。
何度も出しているのは、効果がないからではなく、新しく敵地を平定するたびに解放令を出しているためである。あくまでもそのときの解放令であるから、自国領でしか無意味だからである。
また文面に出てくる売人法と略人法は、劉秀の時代に創設された法律であるとされる。売人法は人を売ることの罪を決めた法律であり、略人法とは人をさらったときの罪を決めた法律である。
この時代の民間の奴婢の多くは、貧乏であるために妻や子を売るケースと、戦争で女や子どもを略奪してそのまま妻や奴婢にするケースである。そこで劉秀は、人身売買についての「売人法」を制定し、人さらいについての「略人法」を制定した。二つの奴婢の成立状況を狙い打ちにした法律を制定したのである。
さらに劉秀は歴史的にも驚くべき宣言を行う。
建武十一年春二月己卯(西暦35年3月6日)
「この天の地の性質として、人であるから貴いのである。故に殺したのが奴隷でもその罪を減らすことはできない。(天地之性人為貴。其殺奴婢,不得減罪。)」
という詔書を発行し、法律の改革を進めた。人が貴い存在であることは、天地、すなわちこの宇宙自体が持つ自然の性質、言うなれば重力のように誰にも変えられない天与のものとし、貴さの起源が人間存在にある以上、貴族も良民も奴婢も貴さは同じであり、同じ刑法が適用されるのだ、というのである。現代の人権天賦説に近いものと言えよう。この言葉は中国における人権宣言として、アメリカの独立宣言にある「人はみな平等に造られている(All men are created equal.)」に相当するものとして注目されている。
劉秀はこの年に、不平等だった法律を具体的に一つ一つ排除を進めている。春二月、
「あえて奴婢に焼き印したものは、法律の通りに処罰し、その焼き印された者を庶人となす」
冬十月には、奴婢が弓を射て人を傷つけたときに死刑となる法律を削除した。
「天地之性人為貴」という言葉自体は『孝経』からの引用であり、曽子の質問に孔子が答えた言葉である。こうした昔から知られた理想を示す言葉、悪く言えば建前だけの空言に、実のある改革を付け加えることで、実際に意味のあるものにしてしまうところに劉秀のすごさがある。聖典に根拠を置くことで誰にも反論できなくしてしまうのである。
これら一連の詔書は多くの人を驚かせ、感嘆させた。代表的な人物が次の次の代の皇帝である章帝の時代に宰相になる若き俊才第五倫である。第五倫は詔書を読むたびに「この方こそ真に聖主である、何が何でもお会いしたいものだ」と嘆息した。この発言に同僚たちは失笑して、「君は上司の将軍すら説得できないくせに、万乗の陛下を動かせるわけがない」とバカにしたが、「いまだ私を知る者に会うことなく、行く道が違うからだ」と答えた。
第五倫は、劉秀を志と理想を同じくする同志であると考えていたことがわかる。周囲に自らの理想を理解する者もなく孤高に生きていた第五倫は、何と遙か天上の同じ世界を夢見る同志を見つけたのである。
奴婢の法的立場は大きく改善された。例を挙げよう。皇帝の側近である常侍の樊豊の妻が自分の家の婢を殺す事件が起こった。洛陽の県令祝良は遙か上の権力者である樊豊の妻を捕まえて死刑にしたのである。
あるいは県令の子どもが奴と弩で遊んでいたところ、奴が誤って子どもを射て殺してしまう事件があったが、事故としてお咎めなしとされた。奴婢と良民の法律上の平等が守られていたのである。そのため奴婢に対する偏見も少なくなっていた。後漢の第六代皇帝安帝の母は婢であったほどである。
劉秀は奴婢という制度をなくしたわけではない。しかし前漢の頃、奴婢は奴隷として市場で公然と競売にかけて売られていたが、どうやら後漢では人身売買は禁止されたようである。
人身売買の禁止は既に王莽が一度挑戦し、混乱の中で挫折し、法令を撤回している。このときの王莽の人身売買禁止の詔から当時の状況が推察できる。王莽は、秦王朝は人間を牛馬と同じように平然と市場で売買する無道な政府であったと非難し、奴婢を私属と名称を変えて売買を禁止すると宣言しているのである。
このことは秦では人身売買は完全に合法であったこと、前漢でも人身売買が行われていたこと、しかし秦を無道と非難し、前漢について述べないことから、前漢では人身売買は禁止されていたが、武帝以降の貧富の差の拡大と共に、法律が有名無実となり、半ば公然と売買されるようになったと考えられるのだ。
劉秀はここで再度法律を引き締め、法律の厳密な運用を行った。
その結果、後漢の奴婢は戦争捕虜や犯罪者として官奴婢になったものと、それが民間に下げ渡されたもののみとなったのである。奴婢の多くは功績を立てた家臣への賞与として、あるいは公官庁に働く役人のために支給されるものが多かったようだ。宮崎市定は奴婢は終身懲役刑であるとしているが、まさに正しい理解である。
後漢王朝では奴婢の売買に関する記録が残っていない。後漢の戸籍には奴婢の値段が書かれるが、これはもちろん購入価格ではなく、資産税のための公定価格が記入されているに過ぎず、人身売買の存在を示すものではない。
奴婢の人権を宣言した翌年、後漢の著名な学者鄭興が密かに奴婢を買ったことが発覚して処罰されたと記録される。朱暉伝には、南陽太守阮況が郡の役人である朱暉から婢を買おうとして拒絶される話がある。これらも公的に売買が禁止されていたとすれば理解しやすい。
後漢では人身売買の代わりに庸という、賃金労働が広まっていた。貧しくなると身を売るのではなく、平民のまま他の家の労働をするようになったのである。より穏当な経済体制になっていたことがわかる。
それでもなお困窮した者は、戸籍を捨てて流民になった。商人、手工業、芸人などで暮らすようになったのである。後漢は、前漢に比べても顕著に流民の記録が多い。ところがそれが赤眉の乱のような反乱に至るものは多くなかった。生産力が大幅に向上していた後漢では、農業をしなくてもある程度食べていくことができたとわかる。後漢の時代、朝廷からは数年の一度のペースで流民に対して戸籍登録と農地の提供を呼びかけているが、いっこうに流民は減る様子がなかった。郷里に帰らず今いる現地で良いとし、土地も用意すると譲歩しても、流民たちは農民に戻ろうとしなかった。彼らは農地を失ったというより積極的に農地を捨てた、農民でない新しい階層の人々とわかる。当時書かれた『潜夫論』にも農業より儲かるから農地を捨てる人が多かったことが書かれている。
後漢では奴婢の売買は禁止されたし、また売買の必要性もなかったのである。
リンカーンの奴隷解放と劉秀の奴婢解放の違い
劉秀の奴婢解放はしばしばアメリカ大統領リンカーンの奴隷解放と比較される。そして時代の古さから、劉秀の奴婢解放はリンカーンの奴隷解放と違い政治的なものとされる。しかし真相は真逆である。
リンカーンの奴隷解放は明確な政治的な目的によるものである。リンカーン自身は確かに奴隷制反対の立場であったが、あくまでも国家の統一を優先し、南部が合衆国に戻るなら奴隷解放はしなくてもよいと考え、その意思を何度も南部に伝達していた。
それが変更されたのは外交の問題である。南北戦争が長引くと、経済も人口も劣勢な南部が善戦していることに対して諸外国から同情が集まり始めていた。イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が介入する気勢を見せていたのである。
それを封じるための政治戦略が奴隷解放であった。南北戦争を正義の戦争であると定義し、南部を奴隷制を持つ道義的に劣った存在とすることで、イギリス、フランスに南部を援助させないようにしたのである。これが功を奏し、イギリス、フランスともに南部を支持することなく、リンカーンは南北戦争を終結させることに成功したのである。
それに対して劉秀の場合はどうか。当時の状況を見てみよう。
新末の農民反乱の猛威に、豪族は自衛のために独立勢力となって、地方を割拠し、天下は分裂する。劉秀の統一に抵抗した政権のほとんどが豪族連合政権であった。特に蜀の公孫述政権、隴西の隗囂ともに典型的な豪族政権であった。
蜀と隴西は戦乱の少ない新天地であり、中原の大混乱を避けたたくさんの避難民が流れ込んでいた。着の身着のままの難民は資産もなく土地もない。新しい土地で地元の豪族に奴婢として使役される身分に甘んじざるを得ない。公孫述と隗囂の政権では、無数の奴婢が使役されていた。
ところが劉秀政権は奴婢の解放を早々と宣言し、その待遇改善を実行していた。公孫述、隗囂から見れば、兵員の八割以上が銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍から構成され、奴婢の解放と保護を宣言し、馬武、臧宮、王常といった緑林の将軍まで現役で活躍している劉秀政権は、農民軍政権そのものとしか映らなかったであろう。
公孫述と隗囂の政権にとって劉秀に降伏するということは、その財産を大量に没収されることを意味していた。そのため公孫述も隗囂も劉秀の六分の一にすら満たない勢力であるのに、徹底抗戦を展開し、全滅するまで戦い続けたのである。劉秀の奴婢解放は統一戦争の妨げになっていたことがわかる。
しかも当時の中国には道義的な理由で介入するような外国は存在しない。劉秀の奴婢解放は、実際の政治政策としては死傷者を増やす誤った政治戦略であったことがわかる。リンカーンの奴隷解放とはすべての意味で真逆なのである。
もし奴婢解放をするのなら、天下統一後にすればこうした抵抗はなかったはずである。ではなぜ劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのか。それは劉秀の政権の兵力のほとんどを銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍が占めているということにある。
飢饉のために飢えに苦しんだ農民には、二つの選択肢があった。土地を捨てて流浪し農民反乱軍に加わるか、豪族に身売りして奴婢に転落するかである。このとき反乱軍に加わるのは壮年の男子が多く、女子供は豪族に売られることが多かった。劉秀の率いる兵士たちの妻子は、豪族に買い取られて奴婢に転落している者が多かったのだ。
劉秀は常に自ら先頭に立って戦い、直接に兵士を率いていたから、当然、彼らの悲しみや悲劇を良く知っていた。夜な夜な妻子を想って涙する兵士がいることを。劉秀は自分の兵士たちの、家族に再会したい、家族とともに暮らしたいという願いを叶えるために、奴婢の解放に踏み切ったということなのである。
劉秀自身、皇帝に即位してそれから洛陽を陥落させてやっと、妻の陰麗華、姉の劉黄、妹の劉伯姫と再会できた。家族との再会の喜びを自分だけが味わうことは許されないと考えたのであろう。そのため劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのである。
すべての人に対等に接した劉秀
劉秀のこの人権政策はいったいどこから来たのか。
劉秀は法律は万人に平等でなければならないと考えていた。例を挙げよう。
劉秀の姉劉黄の奴婢が殺人を犯したため、董宣という役人に殺されたことがあった。姉の劉黄は大いに怒り董宣に報復しようとしたのだが、これが聞き入れられなかった。劉黄は皇帝なのにこんなこともできないのかと怒ったが、劉秀はそれを抑えて董宣を賞賛し、皇帝も法に従うことを示したのである。
劉秀はお忍びを好み、こそっと外出しては夜中に帰ることがあった。そのとき門番である郅惲は、目の前の相手が皇帝であることを確認しても、とっくに門を開けてよい時間を過ぎていることを告げて門を開けず、皇帝を追い払ってしまったのである。劉秀は泣く泣く城外を放浪し、他の門まで回って城内に入った。
明くる日、劉秀は郅惲をたたえ昇進させ、皇帝すら法に従う存在であることを示したのである。
ちなみに劉秀の城の抜け出しは相当な頻度であった。史書に記録されるのは銚期、申屠剛、郅惲、何湯らによって発覚した計四回であるが、見つかっただけでこれだけの回数であるから、城から勝手に抜け出すのは全くの日常茶飯事であったことがわかる。劉秀は言われるたびに家臣の意見に従うのであるが、にもかかわらずこれだけ記録が残っているということは、口だけでその場だけ家臣に合わせているだけで、全く従う気持ちがなかったことがわかる。
将軍では岑彭、来歙は暗殺されているし、陰麗華の母や兄も盗賊に殺されている。実際に危険なのであるから、家臣の心配は当然であろう。
もちろん劉秀は遊びほうけていたのではない。日本の江戸幕府を開いた徳川家康は鷹狩りが趣味で、鷹狩りは民情視察に最適だと述べている。劉秀の頻繁な外出も民情視察の可能性が高いようである。
法律を重んじる例をもう一つ。育ての父である叔父の劉良の病気が重くなり、劉秀が見舞った。死の床にあった劉良は最後のお願いをする。劉良の親友李子春の孫が殺人事件を起こし、李子春がそれを隠していたため、李子春は投獄されていた。そこで親友を助けて欲しいと懇願したのだ。ところが劉秀は、
「役人は法律に従っているに過ぎず、法律は曲げることはできない。何か他の願いはないか」
と答えたのである。法律とは皇帝であっても曲げてはならないものなのである。
これら法のもとの平等という思想は劉秀自身が持つ人間平等の思想から来ている。劉秀には万人に対して平等に対するエピソードが無数にある。それをここで紹介しよう。
たとえば劉秀は皇太子の教育の役目である太子舎人に李善という人物を選んだが、李善は奴であった。李善は李元という人物の奴隷であったが、李元の家族が幼子を残して全員亡くなったとき、その一人息子を守って育て上げたのである。そのことがその地の県令の知るところになり、皇帝に推薦状が送られて太子舎人となったのである。李善は後に日南太守、九江太守を歴任し、善政で知られるようになる。
劉秀は人と呼び話をするとき、上座から見下ろして話すのを嫌って、横に並んで話すようにしていた。
劉秀はごく数例の例外を除いて、「朕」という皇帝の一人称を会話ではほとんど使わず、「我」か「吾」を使った。会話でも意図的に権威を見せたいときや、法的な意味を持つ詔の文中でのみ「朕」を使ったのである。相手に自分が皇帝であると意識させるのを嫌っていたのである。
劉秀は無意味に自分をあがめようとする行為を嫌った。上書で皇帝を呼ぶときに聖とつける人が多いので「聖」を禁句とし、聖のつく文書をすべて無効として拒絶した。形式的人を崇めるのを嫌ったのである。
劉秀は人を見るのに年齢を一切気にしなかった。
皇帝に即位したときは七十を越える老人卓茂を最高位に据え、二十そこそこの鄧禹や耿弇を重用した。あるいは建武十九年(西暦43年)四月、廬江での反乱討伐に際してはまだ十代の息子劉陽の戦略を採用して平定した。劉陽は建武四年(西暦28年)五月生まれで、当時まだ満十四歳である。今で言えば兵法マニアの中学生の意見を総理大臣が国家戦略に採用して成功したようなものである。
女性に対する優しさと尊重
劉秀は女性の言葉にもよく耳を傾け、女性を尊重した。
歴史上の英雄のほとんどは、女性を子供を産む機械か、性の対象としか見ない。まれに妻を尊敬したという記録があってもそれは男勝りの度胸や智謀に一目置くという場合である。ところが劉秀は妻の陰麗華について亡き父を思っては涙するような優しさに尊敬の念を抱いたという。
赤眉軍を降伏させたとき、大逆無道な赤眉の首領もその罪が許される三つの善があるから、命を助けるに値すると言った。その一つ目が「妻を大事にしたこと」。
趙憙という人物を太僕に取り立てたときの理由は「赤眉の大乱のとき女性たちを救出して故郷まで送り届けた」というものだった。劉秀自身、小長安の乱戦では妹を救出し、姉も救出しようとしたことを思い出したのかもしれない。
劉秀は優れた人物はその母や妻が優れているからだと考えていた。大臣馮勤との宴会の席に常に馮勤の老母を呼び、馮勤を尊貴にさせたのは母であると賞賛し、拝礼を免除し介添え人をつけた。
この他、岑彭の母、王常、来歙の妻、祭遵の妻も特別に賞賛された。来歙が凱旋したときはその妻に賞与が与えられたし、王常が凱旋したときはその妻を称えた。岑彭が凱旋したときはその母を栄誉を持って待遇し、岑彭が暗殺されたときその妻に特別な賞与を与えた。
劉秀は女性を男性のように優れていると考えて尊敬するのではなく、男性とは違った女性性の中に尊いものを見ていたようだ。
もちろんこれは劉秀がフェミニズムのような思想を持っていたことを意味しない。劉秀は、理念から演繹する理想主義者ではなく、すべてを体験から帰納的に考える現実主義者である。劉秀はもともと世話好きで、人を支えることを何よりも楽しみとする人間であった。そのため家庭の中で男たちを支えた女性の行為を、人間の営みの中で真に重要なものと考えていたのである。劉秀は女性によるシャドウ・ワークをよく理解していたと言えるだろう。
皇后郭聖通や貴人陰麗華に対する終始一貫した変わらぬ愛情は後に説明する。
万人の意志を尊重する皇帝
あるいは税金を減らすように求めた郷里の老人の態度も興味深い。
建武十九年(西暦43年)九月、劉秀は父の劉欽が県令を勤めた南頓県に行き宴会を開き、税を一年免除した。すると南頓の長老たちは昔話を始めて、ここは陛下ゆかりの地ですから、税を十年免除して欲しいという。
劉秀はこれに対して驚き、さらに深刻な顔で、
「天下の重大さにいつも自分では不足ではないかと恐れて一日一日努めているのに、遙かに十年などどうしてできよう」
といった。これを見た長老たちはすぐに劉秀のわざとらしい演技を見破り、
「陛下は実は惜しんでいるだけでしょう。何を謙遜ぶっているのですか」
とつっこんだのである。これを聞いた劉秀は大笑いして、一年プラスすることにしたのである。「一年でどうじゃ」「十年ください」「じゃ二年にしよう」と、まるで市場の値切り交渉のような愉快な会話であるが、ここにも劉秀が相手を対等に見てボケて見せたことがわかる。
まだ蕭王だった頃、老人に諫められたことがある。鄧禹を赤眉討伐への遠征に派遣したとき、その見送りの帰りに息抜きのつもりか狩猟をした。すると森で小鳥を捕っている二人の老人に出会う。おそらく鳴き声の美しい鳥を捕まえて飼おうと考えているのだ。劉秀は聞いた。
「鳥はどっちに行ったかな」
老人は手を挙げて西を指し、
「この森の中には虎がたくさんいます。人が鳥を捕らえると虎も人を捕らえます。大王は行ってはなりません」
と言う。劉秀は答えた。
「一通り装備もある、虎ぐらいどうして恐れよう」
これを聞いた老人は色を変えて言う。
「大王の考えは何と間違っていることでしょう。むかし湯王は鳴條で桀王を捕らえましたが、桀には亳に大きな城がありました。武王も牧野で紂王を捕らえましたが、紂王にも郟鄏に大きな城がありました。この二人の王は備えがしっかりしていなかったのではありません。人を捕らえようとすれば人も捕らえるのです。備えがあるからと行って、おろそかにしてよいものでしょうか」
劉秀はその考えを悟り、振り返って側近に言った。
「二人は隠者だな」
二人を用いようとしたが、辞して去り、どこへ言ったかわからない。
皇帝となるとたくさんの人材が必要であるから、賢者と聞けば朝廷から使者を送って仕えるように連絡する。
太原の周党は評判高い賢者であり、劉秀は人を使わして朝廷へと招聘した。ところが周党は朝廷まで来たものの劉秀の面前で自らの志を述べ、仕官を断ったのである。劉秀の面子は丸つぶれであるし、側にいた大臣も不敬であると大いに怒ったが、劉秀は、
「いにしえより聖王には、伯夷、叔斉のような家臣にならない者がいるものだ。太原の周党が私に仕えないのも志というもの。帛四十匹(帛は絹であり当時の現物貨幣)を賜うことにしよう」
と詔して、周党を郷里へと帰してしまったのである。
劉秀が万人を平等に対することは大衆にも広く知られていた。
大原の人、荀恁は、賢者として名声が高く、劉秀が招聘したが断って山野に暮らしていた。周党や荘光と違って、朝廷からの迎えの車を完全無視したのである。
劉秀の死後、息子の明帝の時代に明帝の弟東平王劉蒼が驃騎将軍となり、荀恁を招聘すると応じて現れた。明帝はこれを不思議に思ってからかった。
「先帝(劉秀)が君を召したときは来なかったのに、驃騎将軍(劉蒼)のときに来たのはどういうことか」
「先帝は徳を持って恵みを下しますので、臣は来ないことが許されました。驃騎将軍は法律で下のものを取り締まりますので、臣は来ないわけにいきません」
法律で上下を分けて考える劉蒼に対し、劉秀はどんな立場の人間の意志も尊重して平等に接しており、民間人までが劉秀という皇帝に対しては対等に自分の意志を主張してかまわないと認識していたことがわかる。
荀恁がもしも誰に対しても拒絶していたなら、それは荀恁の剛直な性格を示すに過ぎない。劉蒼と劉秀で態度が違うことで、劉秀が他の貴人とは全く異なる存在と見なされていたことがわかるのだ。誤解のないように言うと、劉蒼は才能豊かで性格も謙遜で評判高く、本来親族を重用することを嫌う明帝が敢えて起用するほどの人物である。劉秀はそうした常識の範囲の人格者とは違う異次元の存在と見なされていたのである。
賢者は、暗君に会えば山野に隠れ、名君に会えば出て来て君主を補佐するが、劉秀に会えば賢者も一個の自由な人間に立ち戻り、行くも来るも自在となる。聖王の政治は「野に遺賢なし(賢者はすべて君主に仕えるので民間で遊んでいたりしないということ)」とされるのに、劉秀の時代には野にも遺賢があふれていた。それは劉秀が人間の貴賤、年齢、性別などを一切気にしない徹底した平等思想を持っていたからである。長い中国史の中でも、賢者に無視されることで賞賛されるのは劉秀一人であろう。
平等思想の源泉・戦場とユーモア
こうした劉秀の平等観はどこからきたのか。
一つは戦場である。戦場では皇帝といえども将軍に従わなければならないとされているのだ。皇帝であるより、将軍として戦場に生きた劉秀は、法律に将軍の姿を見て、そこに万人が従わなければならないと考えたのかもしれない。
優れた将軍は兵と同じ待遇でなければならないとされる。食事も兵士と同じでなくてはならず、すべての兵士が休むまで休んではならないのだ。そしてその通りに、皇帝でありながら兵士と同じく自ら武器を取って戦ったのが劉秀である。皇帝であるよりもまず将軍として生きた劉秀は、平等であることこそが人の能力を最大に発揮できることを知っていたのである。
またこれは劉秀自身の天性も関係する。ジョークを好む劉秀であるが、ジョークというものは、言う人間と聞いて笑う人間が平等であることを前提とした行為だからである。怖い上司のジョークでは追従して笑うことしかできないし、ネタにされた人間が反論できない場合も、ジョークは嫌がらせや皮肉になってしまう。ジョークを心から楽しむためには話す相手と対等でなければならないのである。劉秀にとっては、自らが楽しく生きるため万民は平等でなければならないのである。
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抜粋終わり
天皇は戦場に立たない・行政の最前線すら立たない。
祈って入るが、庶民と共に祈るわけではない。
ので、革命も無いので、日本天皇国は準奴隷制国家のままのです。
おなじく より
上記文抜粋
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平等を目指す戦い・土地調査を始める
だが真の平等はただ法律で規定し、それを強制するだけで達成されるものではない。奴婢の多くは経済的格差が生み出したものなのだ。社会学者ケビン・ベイルズは、人類の歴史で奴隷人口が一番多い時代は古代でも中世でもなく、すべての国で奴隷制が禁止されている現代であることを指摘している。人権の平等は、経済の平等の上にこそ実現する理想なのである。
真に平等な社会を作るには、経済を平等に把握する必要がある。
こうして始まったのが度田、建武十五年(西暦39年)の全国の土地人口調査である。劉秀は州や郡に命じて全国の田畑の面積、人口や戸数、年齢の調査をしたのだ。詔して、州郡の開墾された田畑と戸数と年齢を取り調べ、二千石の官吏で上官におもねるもの、民衆をしいたげているもの、あるいは不公平なものを調べた。
だがここで劉秀の改革は重大局面を迎える。ここまで軍備、税制、法律などを大胆に改革を続けた劉秀であるが、強力な反動が来たのである。
調べる主体である刺史や太守に不公平な者が多くおり、豪族を優遇し、弱いものから絞り取り、大衆は怨み道に怨嗟の声が広がった。刺史や太守の多くが巧みに文書を偽造し、事実を無視し、田を測るのを名目にして、人々を田の中に集めて、村落の家々まで測ったので、人々は役人を道を遮って泣いて懇願した。
このとき各郡からそれぞれ使者が来て結果を上奏していた。陳留郡の官吏の牘の上に書き込みがあった。「潁川、弘農は問うべし、河南、南陽は問うべからず」とある。
劉秀は官吏に意味を問い詰めたが、官吏は答えようとせず、長寿街でこれを拾ったと嘘をついた。劉秀は怒った。
このとき後の明帝、年は十二歳の東海公の劉陽が、帷幄の後ろから言った。「官吏は郡の勅命により、農地を比較したいのです」
陳留郡の使者は、自分たちの作為の数字を潁川郡、弘農郡と比較して妥当な数値に収まっているか確認するように指示されていたのである。劉秀は言う。
「それならば何ゆえ河南と南陽は問うてはならぬのか」
「河南は帝城であり、大臣が多くいます。南陽は帝の郷里であり、親戚がいます。邸宅や田畑が制度を越えていても基準を守らせることはできません」
河南と南陽は問うなとは、この二つは例外地域で法外な数値を出しているに決まっているから、真似して数値を作ると痛い目に遭うから注意しろと指示されていたのだ。劉秀は虎賁将に官吏を詰問させると、官吏はついに真実を述べたが、劉陽の答えのとおりであった。これにより謁者を派遣し刺史や太守の罪を糾明した。
この結果たくさんの地方官が事件に連座した。河南尹張伋や各郡の二千石級の大官が虚偽報告などで罪を問われ、十数人が下獄し処刑されて死んだ。
他にも鮑永、李章、宋弘、王元といった重臣までが虚偽報告に連座しているが、最も大物は首相級というべき大司徒の欧陽歙である。
欧陽歙は汝南で千余万を隠匿した罪で牢獄に収監された。当代最高クラスの学者としても知られる欧陽歙の投獄に、学生千人あまりが宮殿の門まで押しかけて罪の減免を訴えた。ある者は髭を剃ったりした。この時代、髭を剃るのは犯罪者への刑罰としてだけであり、当時としては過激な行為である。平原の礼震という者は自らが代わりに死ぬので欧陽歙を助けて欲しいと上書した。劉秀の旧知でもある汝南の高獲は、鉄の冠をかぶるなど罪人を格好をして減免を求めて門に現れた。
これはおそらく世界初の学生デモである。劉秀のような評判のよい君主が学生デモの対象となったのは興味深い。このとき劉秀と高獲との会話が残っていることから、劉秀は学生たちと対話したようである。しかし結局、劉秀はこうした抗議に対して断固とした態度をとり続け、欧陽歙は獄中に死ぬことになる。
豪族のゲリラ戦と皇帝の謀略戦
劉秀に衝撃だったのは、建国の功臣である劉隆(二十八星宿十六位)も不正に連座したことで、周囲の者十数人を処刑し本人も庶人とせざるを得なかった。翌年に劉隆が南越討伐に派遣されているのは、その汚名払拭のためのようだ。
劉秀の断固たる措置に汚職役人は打撃を受けたが、すると今度は郡や国の名門、豪族、群盗が次々と挙兵し、いたるところを攻め官吏を殺害した。汚職役人を粛清したところ、汚職役人と結託した土着豪族が、新しく刷新された役人を殺戮し脅迫を始めたのである。郡や県が軍を出して追いかけて討伐すると、軍の到着とともに解散し、軍が去れば集結した。ゲリラ戦を展開したのである。青州、徐州、幽州、冀州が最もひどかった。
このゲリラ戦の戦い方は明白に農民反乱とは異なる。農民反乱は山林に集合して流浪するのであるが、この反乱では帰るところがあるのだ。それはもちろん豪族の邸宅である。かつて南陽で侠客として知られた劉秀の兄の劉縯は殺人事件を犯すなど問題が多かったが、多数の武装した食客を抱えていたため、役人たちも恐れてその門をくぐることが出来なかった。このゲリラ戦は、典型的な豪族のやり口であることがわかるだろう。軍が到着しても、地元の役人は恐れてどこに逃げ込んだのか申告できなかったのである。
今回の土地調査を、地方の豪族支配に対する中央政府による重大な挑戦と見なした豪族が、レジスタンス、あるいはサボタージュ作戦を始めたのだ。劉秀政権は挙兵当初より民衆反乱軍を自らの基盤にして、敵対する豪族政権を掃討して天下統一し、その後も一貫して民衆側に立った政治を進めていたが、ここでもまた豪族側の抵抗が始まったのである。
劉秀は謀略を用いて対応した。使者を郡国に派遣し、群盗が仲間を訴えて五人につき一人を斬ればその罪を免除した。官吏で現地に赴任せずに道中で待機した者、敵から逃げた者、敵を放した者も、みな罪を問わず、これから敵を討って捕らえれば功績とした。現職の牧、太守、県令、亭長で、境界内の盗賊を捕らえなかった者、恐れて城を他人に任せて逃げた者、みなその責任とせず、ただ賊を捕らえた数の多少を重要とし、かくまったもののみを罪とした。
さらにかつて赤眉戦で鄧禹軍随一の猛将と知られた張宗を派遣すると、その武威を恐れ、お互いを斬り捕まえて降伏するものが数千人となり、青州、徐州は戦慄した。
こうして賊は次々と解散した。賊の首領を他の郡に遷し、公田を与えて生業につかせた。これより平和が訪れた。牛馬は放牧され邑の門も閉ざされることはなくなったと伝えている。
この豪族反乱は、豪族が指導者とはいえ実行部隊は一般民衆である。劉秀はそこで豪族をねらい打ちにするため、かくまった者の罪を問い、首領である豪族の力を奪うため、豪族を他の郡へと転居させて民衆との連結を断ち切り、民衆の罪は問わないで済むようにしたのである。
劉秀得意の敵を分裂させて自滅させる謀略を採用したのである。この謀略であるが、情報戦の達人耿弇の助言があったかもしれない。というのは、耿弇は列侯として朝廷におり、問題が発生するたびに顧問として策略を献じたとされ、しかも乱の発生した青州こそは、耿弇がかつて平定した張歩の領域だからである。
史家もまた豪族であること
この土地調査については、失敗に終わり二度と実施されなかったと伝統的に解釈されてきた。その理由はただ土地調査についてこの後にまとまった記述がないこと、劉秀が豪族出身であるという先入観のためであった。しかし近年の研究の結果その評価は反転し、土地調査は大成功であり、後漢では定期的に行われるようになったとするのが有力だ。
たとえば『後漢書』五行志には建武十七年(西暦41年)のこととして「各郡は新しい税が定まった後であったため(諸郡新坐租之後)」とあり、この土地調査の後に新しい税制が全国的に施行されたことがわかる。また『武威漢簡』には建武十九年(西暦43年)の記録に「度田は五月に行い、三畝以上の隠匿については……」という記録がある。さらに次の明帝の時代には田畑を過大に申告して、役人が統治成績を高く申告しようとして処罰されるというケースが劉般伝に記載されている。その次の章帝の時代には、秦彭が田畑の質を三段階に区分して測るにように進言し、それが採用されてさらに精密化していくのである。
土地調査についてまとまった記述がないのは、史家自身が土地調査によって取り締まられる大土地所有者であり、この画期的な政策も、儒家の視点では論ずるに値しない法家的な政策として無視されたためなのである。
そもそも劉秀の統治下では、豪族の弾圧や取り締まりの記事が歴史的に希有なほど多く、酷吏伝を中心に十七件もの記録がある。それほど劉秀は豪族と激しく対立していたのである。
二十世紀の歴史研究者は、劉秀は豪族に迎合し法を曲げたと非難する。ところが史書では儒家の歴史家が劉秀は法を苛烈に運用して豪族を抑圧した圧政であると非難しているのだ。イデオロギーがいかに恣意的な分析を生み出すのかの典型例であると言えよう。
度田は中国史上初の土地、住宅、人口の全国統計調査である。そして後漢以後に度田に相当することを再開したのは隋の文帝であり、それは六百年近くも後のことであった。
土地調査の二年後に、劉秀は有名な「柔道をもって治める」という発言する。かつてこれを土地調査の放棄と豪族への降服宣言であると悪意をもって解釈されたこともあったが、発言時期や場所から見ても豪族対策とは何の関係もなく、そのまさしく同じ月に起こった皇后廃立問題についての発言と考えられる。柔道の発言の年には既に新しい税が施行されたとあり、土地調査の問題は終わっているのであるから、この発言が土地調査と関係があると考えるのはひどいこじつけである。これは後にも詳述する。
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抜粋終わり
革命が無いので、豪族層が延々と有史から支配している。
有能で徳があればいいがそうとはまず限らない。
で、一種の身分制社会というか奴隷制モドキの精神の社会になっているように思える日本。
結局は天皇であろうとも悪いことをする・失政すると「さすらいぞする」を実行しないと日本人に明日は無いのである。
上記文抜粋
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奴隷制の良いところを書きなさい
野次馬 (2018年4月26日 08:57) | コメント(0)
アメリカ黒人て、ずいぶん原種のアフリカ黒人とは違って来ている。言うまでもなく混血が進んでいるからで、それはむかしから今に至るまで、延々と混じり続けている。奴隷制があった頃には、オンナの奴隷に種付けして自分の子供を産ませる白人農場主というのはありふれた話だったし、というのも、奴隷女が産んだ子供は奴隷なので、無料で労働力が増えるからだ。バンコクに行くとアフリカ黒人の溜まり場みたいな地域があるんだが、肌の色は見事に真っ黒で、顔もアメリカ黒人とは違う。
◆「奴隷制の良いところを書きなさい」 歴史の授業で出された宿題が波紋⇒学校側は謝罪
アメリカ・テキサス州にあるチャータースクール(特別認可学校)で、奴隷制の「良い面」を記述させる宿題が出され、波紋を呼んだ。
宿題は8年生の歴史の授業で出された。
学校を運営する団体が「明らかに間違いだった」と謝罪する事態になった。
同校の最高責任者であるアーロン・キンデルさんは、Facebookで「明らかに、奴隷制に是非などない」「この宿題は、不道徳で非人道的であった」とつづり、謝罪した。
問題となった宿題は4月18日、同校生徒の親であるロベルト・リバーさんがFacebookに投稿したことで一気に話題になった。
奴隷は買い切りの所有物なので、適切な扱いをして、栄養のある食事を与え、家族を作らせて再生産すれば、買わなくても、給料払わなくても、勝手に増えるのでお得ですw 家畜と同じw 近代の奴隷制度というとアメリカばかりが取り上げられるが、イギリスはアジアでも散々やった。スリランカを占領して農場を作ったものの、現地のシンハリ人は誰も雇われて働こうとしなかったので、インドからタミル人奴隷を連れて来て働かせた。今でも紅茶産業はタミル人頼りです。マレー半島では、中国人奴隷を連れて来て働かせた。中国は戦乱の時代だったので、奴隷が安く買えたのだ。
・・・・・中略・・・・・・・
【米国/教育】「奴隷制の良いところを書きなさい」 歴史の授業で出された宿題が波紋 ★5、というわけで、例によって2ちゃんねるでは無責任なネットすずめたちがピーチク騒いでおります。ニュース速報板からです。
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で、実際のところ良いところと悪いところはなんだったのか?
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>「奴隷制の良いところを書きなさい」
賃金(人件費)が要らない。これで米国は大きく発展できた。
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↑賃金は要らんが、工場機械の導入と同じく、利益を出すには適切な管理、整備、保守点検が必要。
衣食住、「給料」という名目費で丸投げの雇用関係よりも、よっぽど気を配る必要がある。
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奴隷は働く牛馬と同じで資産だから大事に扱われた。
病気になったら大損なので長時間働かせる事もなかった。
手放す時は他のオーナーが引き取った。
無給の野球選手に近いね。
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生徒「戦争は嫌いです」
先生「どうじて?」
生徒「覚えることが増えるからです」
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「賃金奴隷と呼ばれる現代のシステムの良いところを書きなさい」 テキサス州 チャータースクール改題
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悪い時は~ どうぞブッてね~♪
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アメリカのポルノには、Black Maidというジャンルがある
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安倍総理の良いところを書きなさい
とか
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聞き方の問題だろ。
南北戦争当時、南部の人々が奴隷制を維持しようとした理由を書きなさい、とでも
聞いていれば同じ回答が得られただろうに。
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何気にこの問題って高校生でやるにはすげー難しいと思う
模範解答ってどんなだろ??? ここのニートの奴隷連呼じゃなくて
マジ解答
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↑奴隷の価格が安かった時代では、集約的単純労働を実施するための手段として有効であった
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いまの派遣奴隷と違って
自由はないが、そいつの生活まで抱えるので死ぬこたあない
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ドイツにとってのナチス
アメリカにとっての奴隷制度
日本にとっての核武装
議論することが許されない問題
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20年くらい前の米社会派ドラマ「ピケットフェンス」
そのⅠエピソード
主人公(保安官 白人)の小学生の息子が昔の本を読んで影響受けて、「黒人って知能低いから、奴隷にするくらいしか使い道ないよねー」と学校の自由研究で発表し、大問題になる
周りの大人たちは大慌てで息子の考えを改めようとするが、「それが(世間的に)ヤバい」ことは説明できても「何が間違っているか」がうまく説明できない
高学歴な黒人連れてきて説得させても「ああ、そういう珍しい黒人もいるんだね でもほんの少しだろ」と考えを変えないし、周りの大人もそれを否定できない
最後はユダヤ人連れてきてアウシュビッツ語らせて解決というトホホな結末なんだが、逆に言うとアメリカ人自身にも確固たる解答がない問題だ、って話でもある
「そんなに黒人が優れているなら、なんで奴隷にされてたの?」
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奴隷は持ち主の財産でもあるから、ちゃんとした奴隷主なら、それこそ工場の生産機械にするように保守や整備をちゃんとやるんだよな。
労働者のほうが、待遇が悪かったりする。
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↑食事、住居、家族(嫁)まで農場主が面倒を見るわけなので
その負担はやはり農場主には軽いとは言えないだろうな
現代では季節労働者を格安の賃金で使い捨てできるのでむしろ悪化しているのではないかとすら思われる
奴隷が良いという意味ではなく、人権のない奴隷にすら劣るとも言える非人間的労働契約が横行しているのが現代なのだ
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なまじ「人権」って考え方出てきちゃったせいで、「奴隷制」と折り合い付けるために
「奴隷にされるのは劣等な人種」
みたいな言い訳して、それでかえってドツボはまっちゃったイメージだ、欧米
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奴隷制で良い所があるなら白人のキリスト教徒を奴隷にすれば白人から感謝されるだろうよ
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「安倍政権の良い所を書きなさい」
⇒そりゃ、国民が怒るだろうW
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何でも支配者のせいにして生きられるから、精神的に楽。
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低コストで働かさせるということができる
若ければ売り飛ばせる
歳をとったら追放できる
使用者側が脳筋バカでも人権がないから力で言うことをきかせられる
放っておけばかってに増える
このくらいかな。なにかに似てる気がするのは気のせいかな...
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↑お前に似てる
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表向きは選挙権などの人権はあるが、経済的奴隷は有るよね。
富の分配に格差が有りすぎる。
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いつから自分が奴隷じゃないと勘違いしてた?
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奴隷制の利点は食住の確保。衣は微妙だけど。
所有者からすると必要だから奴隷を用いるわけで、維持しなければ意味がない。
奴隷制が成立する環境下では、供給源となるような、より悲惨な環境が同時に存在する。
その事抜きに今の価値観だけで奴隷が悪いとすると本質を
見誤る。
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何で南軍側についた黒人奴隷がいたのか調べて考えたら答えが
出てくるんじゃないのかな?
奴隷制度があれば一応食っていくことだけはできるけど、奴隷解放されたら
それもままならなくなるかもしれない、と彼らは考えたのかも知れない。
まあ、機械化が進んでそのうち奴隷ってものは人権意識に限らず
コスト的になくなってはいただろうけどね。
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保守管理を考えたら契約で縛って賃金制にした方がコスパがよくね?
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奴隷から解放された黒人は、食うに困って
奴隷のままが良かったと言いました
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歴史的に言うとアメリカ大陸などの植民地プランテーションが広がった18・19世紀前半が一番奴隷の数が多かったのではないか
この時期、国際貿易品である砂糖・綿花などは奴隷生産、奴隷によって国際貿易が発展した
しかし産業資本が発展すると、植民地を基盤とする旧資産家階級と新興産業資本が対立するようになる
アメリカでは南部の資産家と北部の産業資本という形の対立になった
もしこうした対立がなければ奴隷プランテーションは存続していた可能性が十分あるわけだ
いまでも南部で奴隷制を懐かしむ資産家はいるのだろう、
大儲けする仕組みを北部に壊された恨みは深いだろうな
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黒人奴隷が解放されて、次にアメリカ南部の綿花畑で働いたのは中国人だった
中国人は、奴隷以下の待遇で働いた
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なんだろうな。
すくなくとも奴隷は直接税的な税金を払う義務がないこととか?
権利もないけど、義務も少ない制度だよね?
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奴隷解放の際に、「自分で自分の身の振り方を考えなきゃならない」というので、途方に暮れた黒人がたくさんいた。今までは何も考えずに言われた労働だけをこなしていれば、餌が貰えた。それが、「オマエは自由だ。どこにでも行け。餌は自分で探せ」と言われても、それを考えるための教育を受けていないのだから、どうにもならない。まぁ、せっかく定年になっても、「もう少し働かせてくれ」と会社にしがみつく社畜も、同じようなもんかw
・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり
「見えない」奴隷制国家の日本。
こりゃ、戦争も勝てないし、原発も6機爆発するのも当然。
明治以降は、天皇家以外みんな奴隷。それが日本列島の悲しい現実の一面なのである。
だから、天皇制・天皇家ある限りに、日本人に安穏の時間は無い。
お読みくださりありがとうございます。
オマケ
光武帝と建武二十八宿将伝 より
上記文抜粋
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人の貴さは天の定め、法は万人に平等なり
劉秀が統一後に目指した世界とはどんなものだったか。
その姿は統一前から少しずつ政策に現れていた。まずは奴婢の解放令である。
建武二年(西暦26年)五月。嫁に出した娘、売られた子どもで親元に帰りたい者は、すべてその願い通りとし、それを拒否する者は法律によって処罰する。
建武六年(西暦30年)十一月。王莽の時代の下級役人で罪に問われて奴婢となった者で、漢の時代の法律によるものでないものは免じて庶人とする。
建武七年(西暦31年)。下級役人で飢饉や戦乱に遭ったもの、青州、徐州で賊によりさらわれて奴婢や妻とされた者、去りたい者も残りたい者、自由にすべてその願い通りとし、それを拒否する者には売人法を適用する。
建武十二年(西暦36年)三月。隴や蜀でさらわれて奴婢とされた者で、自ら訴え出たもの、判決が出ていない者(及獄官未報)とすべて庶人とする。
建武十三年(西暦37年)十二月。益州で建武八年以降にさらわれて奴婢となった者は庶人とする。また身を売って他人の妻となったもので去りたいものはすべてこれを聞き入れよ。敢えて引き留める者は、青州、徐州同様に略人法を適用する。
建武十四年(西暦38年)十二月。益州、涼州で建武八年以降に申告した奴婢は、裁判なしで庶人とし、売った者は代金を返さなくてよいとした。奴婢の多くは、夫が妻子を売るケースが多いのだが、そのとき夫は代金を返さなくても妻子を取り戻せるということである。
何度も出しているのは、効果がないからではなく、新しく敵地を平定するたびに解放令を出しているためである。あくまでもそのときの解放令であるから、自国領でしか無意味だからである。
また文面に出てくる売人法と略人法は、劉秀の時代に創設された法律であるとされる。売人法は人を売ることの罪を決めた法律であり、略人法とは人をさらったときの罪を決めた法律である。
この時代の民間の奴婢の多くは、貧乏であるために妻や子を売るケースと、戦争で女や子どもを略奪してそのまま妻や奴婢にするケースである。そこで劉秀は、人身売買についての「売人法」を制定し、人さらいについての「略人法」を制定した。二つの奴婢の成立状況を狙い打ちにした法律を制定したのである。
さらに劉秀は歴史的にも驚くべき宣言を行う。
建武十一年春二月己卯(西暦35年3月6日)
「この天の地の性質として、人であるから貴いのである。故に殺したのが奴隷でもその罪を減らすことはできない。(天地之性人為貴。其殺奴婢,不得減罪。)」
という詔書を発行し、法律の改革を進めた。人が貴い存在であることは、天地、すなわちこの宇宙自体が持つ自然の性質、言うなれば重力のように誰にも変えられない天与のものとし、貴さの起源が人間存在にある以上、貴族も良民も奴婢も貴さは同じであり、同じ刑法が適用されるのだ、というのである。現代の人権天賦説に近いものと言えよう。この言葉は中国における人権宣言として、アメリカの独立宣言にある「人はみな平等に造られている(All men are created equal.)」に相当するものとして注目されている。
劉秀はこの年に、不平等だった法律を具体的に一つ一つ排除を進めている。春二月、
「あえて奴婢に焼き印したものは、法律の通りに処罰し、その焼き印された者を庶人となす」
冬十月には、奴婢が弓を射て人を傷つけたときに死刑となる法律を削除した。
「天地之性人為貴」という言葉自体は『孝経』からの引用であり、曽子の質問に孔子が答えた言葉である。こうした昔から知られた理想を示す言葉、悪く言えば建前だけの空言に、実のある改革を付け加えることで、実際に意味のあるものにしてしまうところに劉秀のすごさがある。聖典に根拠を置くことで誰にも反論できなくしてしまうのである。
これら一連の詔書は多くの人を驚かせ、感嘆させた。代表的な人物が次の次の代の皇帝である章帝の時代に宰相になる若き俊才第五倫である。第五倫は詔書を読むたびに「この方こそ真に聖主である、何が何でもお会いしたいものだ」と嘆息した。この発言に同僚たちは失笑して、「君は上司の将軍すら説得できないくせに、万乗の陛下を動かせるわけがない」とバカにしたが、「いまだ私を知る者に会うことなく、行く道が違うからだ」と答えた。
第五倫は、劉秀を志と理想を同じくする同志であると考えていたことがわかる。周囲に自らの理想を理解する者もなく孤高に生きていた第五倫は、何と遙か天上の同じ世界を夢見る同志を見つけたのである。
奴婢の法的立場は大きく改善された。例を挙げよう。皇帝の側近である常侍の樊豊の妻が自分の家の婢を殺す事件が起こった。洛陽の県令祝良は遙か上の権力者である樊豊の妻を捕まえて死刑にしたのである。
あるいは県令の子どもが奴と弩で遊んでいたところ、奴が誤って子どもを射て殺してしまう事件があったが、事故としてお咎めなしとされた。奴婢と良民の法律上の平等が守られていたのである。そのため奴婢に対する偏見も少なくなっていた。後漢の第六代皇帝安帝の母は婢であったほどである。
劉秀は奴婢という制度をなくしたわけではない。しかし前漢の頃、奴婢は奴隷として市場で公然と競売にかけて売られていたが、どうやら後漢では人身売買は禁止されたようである。
人身売買の禁止は既に王莽が一度挑戦し、混乱の中で挫折し、法令を撤回している。このときの王莽の人身売買禁止の詔から当時の状況が推察できる。王莽は、秦王朝は人間を牛馬と同じように平然と市場で売買する無道な政府であったと非難し、奴婢を私属と名称を変えて売買を禁止すると宣言しているのである。
このことは秦では人身売買は完全に合法であったこと、前漢でも人身売買が行われていたこと、しかし秦を無道と非難し、前漢について述べないことから、前漢では人身売買は禁止されていたが、武帝以降の貧富の差の拡大と共に、法律が有名無実となり、半ば公然と売買されるようになったと考えられるのだ。
劉秀はここで再度法律を引き締め、法律の厳密な運用を行った。
その結果、後漢の奴婢は戦争捕虜や犯罪者として官奴婢になったものと、それが民間に下げ渡されたもののみとなったのである。奴婢の多くは功績を立てた家臣への賞与として、あるいは公官庁に働く役人のために支給されるものが多かったようだ。宮崎市定は奴婢は終身懲役刑であるとしているが、まさに正しい理解である。
後漢王朝では奴婢の売買に関する記録が残っていない。後漢の戸籍には奴婢の値段が書かれるが、これはもちろん購入価格ではなく、資産税のための公定価格が記入されているに過ぎず、人身売買の存在を示すものではない。
奴婢の人権を宣言した翌年、後漢の著名な学者鄭興が密かに奴婢を買ったことが発覚して処罰されたと記録される。朱暉伝には、南陽太守阮況が郡の役人である朱暉から婢を買おうとして拒絶される話がある。これらも公的に売買が禁止されていたとすれば理解しやすい。
後漢では人身売買の代わりに庸という、賃金労働が広まっていた。貧しくなると身を売るのではなく、平民のまま他の家の労働をするようになったのである。より穏当な経済体制になっていたことがわかる。
それでもなお困窮した者は、戸籍を捨てて流民になった。商人、手工業、芸人などで暮らすようになったのである。後漢は、前漢に比べても顕著に流民の記録が多い。ところがそれが赤眉の乱のような反乱に至るものは多くなかった。生産力が大幅に向上していた後漢では、農業をしなくてもある程度食べていくことができたとわかる。後漢の時代、朝廷からは数年の一度のペースで流民に対して戸籍登録と農地の提供を呼びかけているが、いっこうに流民は減る様子がなかった。郷里に帰らず今いる現地で良いとし、土地も用意すると譲歩しても、流民たちは農民に戻ろうとしなかった。彼らは農地を失ったというより積極的に農地を捨てた、農民でない新しい階層の人々とわかる。当時書かれた『潜夫論』にも農業より儲かるから農地を捨てる人が多かったことが書かれている。
後漢では奴婢の売買は禁止されたし、また売買の必要性もなかったのである。
リンカーンの奴隷解放と劉秀の奴婢解放の違い
劉秀の奴婢解放はしばしばアメリカ大統領リンカーンの奴隷解放と比較される。そして時代の古さから、劉秀の奴婢解放はリンカーンの奴隷解放と違い政治的なものとされる。しかし真相は真逆である。
リンカーンの奴隷解放は明確な政治的な目的によるものである。リンカーン自身は確かに奴隷制反対の立場であったが、あくまでも国家の統一を優先し、南部が合衆国に戻るなら奴隷解放はしなくてもよいと考え、その意思を何度も南部に伝達していた。
それが変更されたのは外交の問題である。南北戦争が長引くと、経済も人口も劣勢な南部が善戦していることに対して諸外国から同情が集まり始めていた。イギリス、フランスなどのヨーロッパ諸国が介入する気勢を見せていたのである。
それを封じるための政治戦略が奴隷解放であった。南北戦争を正義の戦争であると定義し、南部を奴隷制を持つ道義的に劣った存在とすることで、イギリス、フランスに南部を援助させないようにしたのである。これが功を奏し、イギリス、フランスともに南部を支持することなく、リンカーンは南北戦争を終結させることに成功したのである。
それに対して劉秀の場合はどうか。当時の状況を見てみよう。
新末の農民反乱の猛威に、豪族は自衛のために独立勢力となって、地方を割拠し、天下は分裂する。劉秀の統一に抵抗した政権のほとんどが豪族連合政権であった。特に蜀の公孫述政権、隴西の隗囂ともに典型的な豪族政権であった。
蜀と隴西は戦乱の少ない新天地であり、中原の大混乱を避けたたくさんの避難民が流れ込んでいた。着の身着のままの難民は資産もなく土地もない。新しい土地で地元の豪族に奴婢として使役される身分に甘んじざるを得ない。公孫述と隗囂の政権では、無数の奴婢が使役されていた。
ところが劉秀政権は奴婢の解放を早々と宣言し、その待遇改善を実行していた。公孫述、隗囂から見れば、兵員の八割以上が銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍から構成され、奴婢の解放と保護を宣言し、馬武、臧宮、王常といった緑林の将軍まで現役で活躍している劉秀政権は、農民軍政権そのものとしか映らなかったであろう。
公孫述と隗囂の政権にとって劉秀に降伏するということは、その財産を大量に没収されることを意味していた。そのため公孫述も隗囂も劉秀の六分の一にすら満たない勢力であるのに、徹底抗戦を展開し、全滅するまで戦い続けたのである。劉秀の奴婢解放は統一戦争の妨げになっていたことがわかる。
しかも当時の中国には道義的な理由で介入するような外国は存在しない。劉秀の奴婢解放は、実際の政治政策としては死傷者を増やす誤った政治戦略であったことがわかる。リンカーンの奴隷解放とはすべての意味で真逆なのである。
もし奴婢解放をするのなら、天下統一後にすればこうした抵抗はなかったはずである。ではなぜ劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのか。それは劉秀の政権の兵力のほとんどを銅馬、赤眉、緑林の三大農民反乱軍が占めているということにある。
飢饉のために飢えに苦しんだ農民には、二つの選択肢があった。土地を捨てて流浪し農民反乱軍に加わるか、豪族に身売りして奴婢に転落するかである。このとき反乱軍に加わるのは壮年の男子が多く、女子供は豪族に売られることが多かった。劉秀の率いる兵士たちの妻子は、豪族に買い取られて奴婢に転落している者が多かったのだ。
劉秀は常に自ら先頭に立って戦い、直接に兵士を率いていたから、当然、彼らの悲しみや悲劇を良く知っていた。夜な夜な妻子を想って涙する兵士がいることを。劉秀は自分の兵士たちの、家族に再会したい、家族とともに暮らしたいという願いを叶えるために、奴婢の解放に踏み切ったということなのである。
劉秀自身、皇帝に即位してそれから洛陽を陥落させてやっと、妻の陰麗華、姉の劉黄、妹の劉伯姫と再会できた。家族との再会の喜びを自分だけが味わうことは許されないと考えたのであろう。そのため劉秀は皇帝に即位するとすぐに奴婢の解放を始めたのである。
すべての人に対等に接した劉秀
劉秀のこの人権政策はいったいどこから来たのか。
劉秀は法律は万人に平等でなければならないと考えていた。例を挙げよう。
劉秀の姉劉黄の奴婢が殺人を犯したため、董宣という役人に殺されたことがあった。姉の劉黄は大いに怒り董宣に報復しようとしたのだが、これが聞き入れられなかった。劉黄は皇帝なのにこんなこともできないのかと怒ったが、劉秀はそれを抑えて董宣を賞賛し、皇帝も法に従うことを示したのである。
劉秀はお忍びを好み、こそっと外出しては夜中に帰ることがあった。そのとき門番である郅惲は、目の前の相手が皇帝であることを確認しても、とっくに門を開けてよい時間を過ぎていることを告げて門を開けず、皇帝を追い払ってしまったのである。劉秀は泣く泣く城外を放浪し、他の門まで回って城内に入った。
明くる日、劉秀は郅惲をたたえ昇進させ、皇帝すら法に従う存在であることを示したのである。
ちなみに劉秀の城の抜け出しは相当な頻度であった。史書に記録されるのは銚期、申屠剛、郅惲、何湯らによって発覚した計四回であるが、見つかっただけでこれだけの回数であるから、城から勝手に抜け出すのは全くの日常茶飯事であったことがわかる。劉秀は言われるたびに家臣の意見に従うのであるが、にもかかわらずこれだけ記録が残っているということは、口だけでその場だけ家臣に合わせているだけで、全く従う気持ちがなかったことがわかる。
将軍では岑彭、来歙は暗殺されているし、陰麗華の母や兄も盗賊に殺されている。実際に危険なのであるから、家臣の心配は当然であろう。
もちろん劉秀は遊びほうけていたのではない。日本の江戸幕府を開いた徳川家康は鷹狩りが趣味で、鷹狩りは民情視察に最適だと述べている。劉秀の頻繁な外出も民情視察の可能性が高いようである。
法律を重んじる例をもう一つ。育ての父である叔父の劉良の病気が重くなり、劉秀が見舞った。死の床にあった劉良は最後のお願いをする。劉良の親友李子春の孫が殺人事件を起こし、李子春がそれを隠していたため、李子春は投獄されていた。そこで親友を助けて欲しいと懇願したのだ。ところが劉秀は、
「役人は法律に従っているに過ぎず、法律は曲げることはできない。何か他の願いはないか」
と答えたのである。法律とは皇帝であっても曲げてはならないものなのである。
これら法のもとの平等という思想は劉秀自身が持つ人間平等の思想から来ている。劉秀には万人に対して平等に対するエピソードが無数にある。それをここで紹介しよう。
たとえば劉秀は皇太子の教育の役目である太子舎人に李善という人物を選んだが、李善は奴であった。李善は李元という人物の奴隷であったが、李元の家族が幼子を残して全員亡くなったとき、その一人息子を守って育て上げたのである。そのことがその地の県令の知るところになり、皇帝に推薦状が送られて太子舎人となったのである。李善は後に日南太守、九江太守を歴任し、善政で知られるようになる。
劉秀は人と呼び話をするとき、上座から見下ろして話すのを嫌って、横に並んで話すようにしていた。
劉秀はごく数例の例外を除いて、「朕」という皇帝の一人称を会話ではほとんど使わず、「我」か「吾」を使った。会話でも意図的に権威を見せたいときや、法的な意味を持つ詔の文中でのみ「朕」を使ったのである。相手に自分が皇帝であると意識させるのを嫌っていたのである。
劉秀は無意味に自分をあがめようとする行為を嫌った。上書で皇帝を呼ぶときに聖とつける人が多いので「聖」を禁句とし、聖のつく文書をすべて無効として拒絶した。形式的人を崇めるのを嫌ったのである。
劉秀は人を見るのに年齢を一切気にしなかった。
皇帝に即位したときは七十を越える老人卓茂を最高位に据え、二十そこそこの鄧禹や耿弇を重用した。あるいは建武十九年(西暦43年)四月、廬江での反乱討伐に際してはまだ十代の息子劉陽の戦略を採用して平定した。劉陽は建武四年(西暦28年)五月生まれで、当時まだ満十四歳である。今で言えば兵法マニアの中学生の意見を総理大臣が国家戦略に採用して成功したようなものである。
女性に対する優しさと尊重
劉秀は女性の言葉にもよく耳を傾け、女性を尊重した。
歴史上の英雄のほとんどは、女性を子供を産む機械か、性の対象としか見ない。まれに妻を尊敬したという記録があってもそれは男勝りの度胸や智謀に一目置くという場合である。ところが劉秀は妻の陰麗華について亡き父を思っては涙するような優しさに尊敬の念を抱いたという。
赤眉軍を降伏させたとき、大逆無道な赤眉の首領もその罪が許される三つの善があるから、命を助けるに値すると言った。その一つ目が「妻を大事にしたこと」。
趙憙という人物を太僕に取り立てたときの理由は「赤眉の大乱のとき女性たちを救出して故郷まで送り届けた」というものだった。劉秀自身、小長安の乱戦では妹を救出し、姉も救出しようとしたことを思い出したのかもしれない。
劉秀は優れた人物はその母や妻が優れているからだと考えていた。大臣馮勤との宴会の席に常に馮勤の老母を呼び、馮勤を尊貴にさせたのは母であると賞賛し、拝礼を免除し介添え人をつけた。
この他、岑彭の母、王常、来歙の妻、祭遵の妻も特別に賞賛された。来歙が凱旋したときはその妻に賞与が与えられたし、王常が凱旋したときはその妻を称えた。岑彭が凱旋したときはその母を栄誉を持って待遇し、岑彭が暗殺されたときその妻に特別な賞与を与えた。
劉秀は女性を男性のように優れていると考えて尊敬するのではなく、男性とは違った女性性の中に尊いものを見ていたようだ。
もちろんこれは劉秀がフェミニズムのような思想を持っていたことを意味しない。劉秀は、理念から演繹する理想主義者ではなく、すべてを体験から帰納的に考える現実主義者である。劉秀はもともと世話好きで、人を支えることを何よりも楽しみとする人間であった。そのため家庭の中で男たちを支えた女性の行為を、人間の営みの中で真に重要なものと考えていたのである。劉秀は女性によるシャドウ・ワークをよく理解していたと言えるだろう。
皇后郭聖通や貴人陰麗華に対する終始一貫した変わらぬ愛情は後に説明する。
万人の意志を尊重する皇帝
あるいは税金を減らすように求めた郷里の老人の態度も興味深い。
建武十九年(西暦43年)九月、劉秀は父の劉欽が県令を勤めた南頓県に行き宴会を開き、税を一年免除した。すると南頓の長老たちは昔話を始めて、ここは陛下ゆかりの地ですから、税を十年免除して欲しいという。
劉秀はこれに対して驚き、さらに深刻な顔で、
「天下の重大さにいつも自分では不足ではないかと恐れて一日一日努めているのに、遙かに十年などどうしてできよう」
といった。これを見た長老たちはすぐに劉秀のわざとらしい演技を見破り、
「陛下は実は惜しんでいるだけでしょう。何を謙遜ぶっているのですか」
とつっこんだのである。これを聞いた劉秀は大笑いして、一年プラスすることにしたのである。「一年でどうじゃ」「十年ください」「じゃ二年にしよう」と、まるで市場の値切り交渉のような愉快な会話であるが、ここにも劉秀が相手を対等に見てボケて見せたことがわかる。
まだ蕭王だった頃、老人に諫められたことがある。鄧禹を赤眉討伐への遠征に派遣したとき、その見送りの帰りに息抜きのつもりか狩猟をした。すると森で小鳥を捕っている二人の老人に出会う。おそらく鳴き声の美しい鳥を捕まえて飼おうと考えているのだ。劉秀は聞いた。
「鳥はどっちに行ったかな」
老人は手を挙げて西を指し、
「この森の中には虎がたくさんいます。人が鳥を捕らえると虎も人を捕らえます。大王は行ってはなりません」
と言う。劉秀は答えた。
「一通り装備もある、虎ぐらいどうして恐れよう」
これを聞いた老人は色を変えて言う。
「大王の考えは何と間違っていることでしょう。むかし湯王は鳴條で桀王を捕らえましたが、桀には亳に大きな城がありました。武王も牧野で紂王を捕らえましたが、紂王にも郟鄏に大きな城がありました。この二人の王は備えがしっかりしていなかったのではありません。人を捕らえようとすれば人も捕らえるのです。備えがあるからと行って、おろそかにしてよいものでしょうか」
劉秀はその考えを悟り、振り返って側近に言った。
「二人は隠者だな」
二人を用いようとしたが、辞して去り、どこへ言ったかわからない。
皇帝となるとたくさんの人材が必要であるから、賢者と聞けば朝廷から使者を送って仕えるように連絡する。
太原の周党は評判高い賢者であり、劉秀は人を使わして朝廷へと招聘した。ところが周党は朝廷まで来たものの劉秀の面前で自らの志を述べ、仕官を断ったのである。劉秀の面子は丸つぶれであるし、側にいた大臣も不敬であると大いに怒ったが、劉秀は、
「いにしえより聖王には、伯夷、叔斉のような家臣にならない者がいるものだ。太原の周党が私に仕えないのも志というもの。帛四十匹(帛は絹であり当時の現物貨幣)を賜うことにしよう」
と詔して、周党を郷里へと帰してしまったのである。
劉秀が万人を平等に対することは大衆にも広く知られていた。
大原の人、荀恁は、賢者として名声が高く、劉秀が招聘したが断って山野に暮らしていた。周党や荘光と違って、朝廷からの迎えの車を完全無視したのである。
劉秀の死後、息子の明帝の時代に明帝の弟東平王劉蒼が驃騎将軍となり、荀恁を招聘すると応じて現れた。明帝はこれを不思議に思ってからかった。
「先帝(劉秀)が君を召したときは来なかったのに、驃騎将軍(劉蒼)のときに来たのはどういうことか」
「先帝は徳を持って恵みを下しますので、臣は来ないことが許されました。驃騎将軍は法律で下のものを取り締まりますので、臣は来ないわけにいきません」
法律で上下を分けて考える劉蒼に対し、劉秀はどんな立場の人間の意志も尊重して平等に接しており、民間人までが劉秀という皇帝に対しては対等に自分の意志を主張してかまわないと認識していたことがわかる。
荀恁がもしも誰に対しても拒絶していたなら、それは荀恁の剛直な性格を示すに過ぎない。劉蒼と劉秀で態度が違うことで、劉秀が他の貴人とは全く異なる存在と見なされていたことがわかるのだ。誤解のないように言うと、劉蒼は才能豊かで性格も謙遜で評判高く、本来親族を重用することを嫌う明帝が敢えて起用するほどの人物である。劉秀はそうした常識の範囲の人格者とは違う異次元の存在と見なされていたのである。
賢者は、暗君に会えば山野に隠れ、名君に会えば出て来て君主を補佐するが、劉秀に会えば賢者も一個の自由な人間に立ち戻り、行くも来るも自在となる。聖王の政治は「野に遺賢なし(賢者はすべて君主に仕えるので民間で遊んでいたりしないということ)」とされるのに、劉秀の時代には野にも遺賢があふれていた。それは劉秀が人間の貴賤、年齢、性別などを一切気にしない徹底した平等思想を持っていたからである。長い中国史の中でも、賢者に無視されることで賞賛されるのは劉秀一人であろう。
平等思想の源泉・戦場とユーモア
こうした劉秀の平等観はどこからきたのか。
一つは戦場である。戦場では皇帝といえども将軍に従わなければならないとされているのだ。皇帝であるより、将軍として戦場に生きた劉秀は、法律に将軍の姿を見て、そこに万人が従わなければならないと考えたのかもしれない。
優れた将軍は兵と同じ待遇でなければならないとされる。食事も兵士と同じでなくてはならず、すべての兵士が休むまで休んではならないのだ。そしてその通りに、皇帝でありながら兵士と同じく自ら武器を取って戦ったのが劉秀である。皇帝であるよりもまず将軍として生きた劉秀は、平等であることこそが人の能力を最大に発揮できることを知っていたのである。
またこれは劉秀自身の天性も関係する。ジョークを好む劉秀であるが、ジョークというものは、言う人間と聞いて笑う人間が平等であることを前提とした行為だからである。怖い上司のジョークでは追従して笑うことしかできないし、ネタにされた人間が反論できない場合も、ジョークは嫌がらせや皮肉になってしまう。ジョークを心から楽しむためには話す相手と対等でなければならないのである。劉秀にとっては、自らが楽しく生きるため万民は平等でなければならないのである。
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・・・・・・
抜粋終わり
天皇は戦場に立たない・行政の最前線すら立たない。
祈って入るが、庶民と共に祈るわけではない。
ので、革命も無いので、日本天皇国は準奴隷制国家のままのです。
おなじく より
上記文抜粋
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平等を目指す戦い・土地調査を始める
だが真の平等はただ法律で規定し、それを強制するだけで達成されるものではない。奴婢の多くは経済的格差が生み出したものなのだ。社会学者ケビン・ベイルズは、人類の歴史で奴隷人口が一番多い時代は古代でも中世でもなく、すべての国で奴隷制が禁止されている現代であることを指摘している。人権の平等は、経済の平等の上にこそ実現する理想なのである。
真に平等な社会を作るには、経済を平等に把握する必要がある。
こうして始まったのが度田、建武十五年(西暦39年)の全国の土地人口調査である。劉秀は州や郡に命じて全国の田畑の面積、人口や戸数、年齢の調査をしたのだ。詔して、州郡の開墾された田畑と戸数と年齢を取り調べ、二千石の官吏で上官におもねるもの、民衆をしいたげているもの、あるいは不公平なものを調べた。
だがここで劉秀の改革は重大局面を迎える。ここまで軍備、税制、法律などを大胆に改革を続けた劉秀であるが、強力な反動が来たのである。
調べる主体である刺史や太守に不公平な者が多くおり、豪族を優遇し、弱いものから絞り取り、大衆は怨み道に怨嗟の声が広がった。刺史や太守の多くが巧みに文書を偽造し、事実を無視し、田を測るのを名目にして、人々を田の中に集めて、村落の家々まで測ったので、人々は役人を道を遮って泣いて懇願した。
このとき各郡からそれぞれ使者が来て結果を上奏していた。陳留郡の官吏の牘の上に書き込みがあった。「潁川、弘農は問うべし、河南、南陽は問うべからず」とある。
劉秀は官吏に意味を問い詰めたが、官吏は答えようとせず、長寿街でこれを拾ったと嘘をついた。劉秀は怒った。
このとき後の明帝、年は十二歳の東海公の劉陽が、帷幄の後ろから言った。「官吏は郡の勅命により、農地を比較したいのです」
陳留郡の使者は、自分たちの作為の数字を潁川郡、弘農郡と比較して妥当な数値に収まっているか確認するように指示されていたのである。劉秀は言う。
「それならば何ゆえ河南と南陽は問うてはならぬのか」
「河南は帝城であり、大臣が多くいます。南陽は帝の郷里であり、親戚がいます。邸宅や田畑が制度を越えていても基準を守らせることはできません」
河南と南陽は問うなとは、この二つは例外地域で法外な数値を出しているに決まっているから、真似して数値を作ると痛い目に遭うから注意しろと指示されていたのだ。劉秀は虎賁将に官吏を詰問させると、官吏はついに真実を述べたが、劉陽の答えのとおりであった。これにより謁者を派遣し刺史や太守の罪を糾明した。
この結果たくさんの地方官が事件に連座した。河南尹張伋や各郡の二千石級の大官が虚偽報告などで罪を問われ、十数人が下獄し処刑されて死んだ。
他にも鮑永、李章、宋弘、王元といった重臣までが虚偽報告に連座しているが、最も大物は首相級というべき大司徒の欧陽歙である。
欧陽歙は汝南で千余万を隠匿した罪で牢獄に収監された。当代最高クラスの学者としても知られる欧陽歙の投獄に、学生千人あまりが宮殿の門まで押しかけて罪の減免を訴えた。ある者は髭を剃ったりした。この時代、髭を剃るのは犯罪者への刑罰としてだけであり、当時としては過激な行為である。平原の礼震という者は自らが代わりに死ぬので欧陽歙を助けて欲しいと上書した。劉秀の旧知でもある汝南の高獲は、鉄の冠をかぶるなど罪人を格好をして減免を求めて門に現れた。
これはおそらく世界初の学生デモである。劉秀のような評判のよい君主が学生デモの対象となったのは興味深い。このとき劉秀と高獲との会話が残っていることから、劉秀は学生たちと対話したようである。しかし結局、劉秀はこうした抗議に対して断固とした態度をとり続け、欧陽歙は獄中に死ぬことになる。
豪族のゲリラ戦と皇帝の謀略戦
劉秀に衝撃だったのは、建国の功臣である劉隆(二十八星宿十六位)も不正に連座したことで、周囲の者十数人を処刑し本人も庶人とせざるを得なかった。翌年に劉隆が南越討伐に派遣されているのは、その汚名払拭のためのようだ。
劉秀の断固たる措置に汚職役人は打撃を受けたが、すると今度は郡や国の名門、豪族、群盗が次々と挙兵し、いたるところを攻め官吏を殺害した。汚職役人を粛清したところ、汚職役人と結託した土着豪族が、新しく刷新された役人を殺戮し脅迫を始めたのである。郡や県が軍を出して追いかけて討伐すると、軍の到着とともに解散し、軍が去れば集結した。ゲリラ戦を展開したのである。青州、徐州、幽州、冀州が最もひどかった。
このゲリラ戦の戦い方は明白に農民反乱とは異なる。農民反乱は山林に集合して流浪するのであるが、この反乱では帰るところがあるのだ。それはもちろん豪族の邸宅である。かつて南陽で侠客として知られた劉秀の兄の劉縯は殺人事件を犯すなど問題が多かったが、多数の武装した食客を抱えていたため、役人たちも恐れてその門をくぐることが出来なかった。このゲリラ戦は、典型的な豪族のやり口であることがわかるだろう。軍が到着しても、地元の役人は恐れてどこに逃げ込んだのか申告できなかったのである。
今回の土地調査を、地方の豪族支配に対する中央政府による重大な挑戦と見なした豪族が、レジスタンス、あるいはサボタージュ作戦を始めたのだ。劉秀政権は挙兵当初より民衆反乱軍を自らの基盤にして、敵対する豪族政権を掃討して天下統一し、その後も一貫して民衆側に立った政治を進めていたが、ここでもまた豪族側の抵抗が始まったのである。
劉秀は謀略を用いて対応した。使者を郡国に派遣し、群盗が仲間を訴えて五人につき一人を斬ればその罪を免除した。官吏で現地に赴任せずに道中で待機した者、敵から逃げた者、敵を放した者も、みな罪を問わず、これから敵を討って捕らえれば功績とした。現職の牧、太守、県令、亭長で、境界内の盗賊を捕らえなかった者、恐れて城を他人に任せて逃げた者、みなその責任とせず、ただ賊を捕らえた数の多少を重要とし、かくまったもののみを罪とした。
さらにかつて赤眉戦で鄧禹軍随一の猛将と知られた張宗を派遣すると、その武威を恐れ、お互いを斬り捕まえて降伏するものが数千人となり、青州、徐州は戦慄した。
こうして賊は次々と解散した。賊の首領を他の郡に遷し、公田を与えて生業につかせた。これより平和が訪れた。牛馬は放牧され邑の門も閉ざされることはなくなったと伝えている。
この豪族反乱は、豪族が指導者とはいえ実行部隊は一般民衆である。劉秀はそこで豪族をねらい打ちにするため、かくまった者の罪を問い、首領である豪族の力を奪うため、豪族を他の郡へと転居させて民衆との連結を断ち切り、民衆の罪は問わないで済むようにしたのである。
劉秀得意の敵を分裂させて自滅させる謀略を採用したのである。この謀略であるが、情報戦の達人耿弇の助言があったかもしれない。というのは、耿弇は列侯として朝廷におり、問題が発生するたびに顧問として策略を献じたとされ、しかも乱の発生した青州こそは、耿弇がかつて平定した張歩の領域だからである。
史家もまた豪族であること
この土地調査については、失敗に終わり二度と実施されなかったと伝統的に解釈されてきた。その理由はただ土地調査についてこの後にまとまった記述がないこと、劉秀が豪族出身であるという先入観のためであった。しかし近年の研究の結果その評価は反転し、土地調査は大成功であり、後漢では定期的に行われるようになったとするのが有力だ。
たとえば『後漢書』五行志には建武十七年(西暦41年)のこととして「各郡は新しい税が定まった後であったため(諸郡新坐租之後)」とあり、この土地調査の後に新しい税制が全国的に施行されたことがわかる。また『武威漢簡』には建武十九年(西暦43年)の記録に「度田は五月に行い、三畝以上の隠匿については……」という記録がある。さらに次の明帝の時代には田畑を過大に申告して、役人が統治成績を高く申告しようとして処罰されるというケースが劉般伝に記載されている。その次の章帝の時代には、秦彭が田畑の質を三段階に区分して測るにように進言し、それが採用されてさらに精密化していくのである。
土地調査についてまとまった記述がないのは、史家自身が土地調査によって取り締まられる大土地所有者であり、この画期的な政策も、儒家の視点では論ずるに値しない法家的な政策として無視されたためなのである。
そもそも劉秀の統治下では、豪族の弾圧や取り締まりの記事が歴史的に希有なほど多く、酷吏伝を中心に十七件もの記録がある。それほど劉秀は豪族と激しく対立していたのである。
二十世紀の歴史研究者は、劉秀は豪族に迎合し法を曲げたと非難する。ところが史書では儒家の歴史家が劉秀は法を苛烈に運用して豪族を抑圧した圧政であると非難しているのだ。イデオロギーがいかに恣意的な分析を生み出すのかの典型例であると言えよう。
度田は中国史上初の土地、住宅、人口の全国統計調査である。そして後漢以後に度田に相当することを再開したのは隋の文帝であり、それは六百年近くも後のことであった。
土地調査の二年後に、劉秀は有名な「柔道をもって治める」という発言する。かつてこれを土地調査の放棄と豪族への降服宣言であると悪意をもって解釈されたこともあったが、発言時期や場所から見ても豪族対策とは何の関係もなく、そのまさしく同じ月に起こった皇后廃立問題についての発言と考えられる。柔道の発言の年には既に新しい税が施行されたとあり、土地調査の問題は終わっているのであるから、この発言が土地調査と関係があると考えるのはひどいこじつけである。これは後にも詳述する。
・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり
革命が無いので、豪族層が延々と有史から支配している。
有能で徳があればいいがそうとはまず限らない。
で、一種の身分制社会というか奴隷制モドキの精神の社会になっているように思える日本。
結局は天皇であろうとも悪いことをする・失政すると「さすらいぞする」を実行しないと日本人に明日は無いのである。
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