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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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とまべっちーの考え事  より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
学校=教育ポルノ=全体主義 (内藤朝雄)
いじめ研究の第一人者が問う、日本の学校が染まる「全体主義」の核心 内藤 朝雄

学校教育の歪んだ思想がよく分かる記事だ。引用したい箇所がいくつもあるが、順に感想をつけていきたい。内藤はいきなり精神医学の「発達障害」の診断基準を批判する。

筆者はDSM-5の「神経発達障害」という概念を棄却し、それを<発達-環境>調整障害スペクトラムという新概念に代えることを提唱する。
そして現在学校関連でなされる多くの診断については、
診断名:<発達-環境>調整障害スペクトラム・環境帰責型(学校タイプ)
という、もっぱら環境側にある「障害」を問題化する診断を提唱する。


つまり、問題は生徒にはなく学校のほうにあると言っているのだ。不正がまかり通る学級で正義を貫こうとする生徒を「性格に問題あり」と診断する実態がある。内藤は激しい言葉で批判している。

まるで集団レイプされている人に、「気持ちよくなれず、加害者を寄せつけないあなたは精神医学的に問題がある。こころとからだの底から加害者と<共に響きあって生きる!>ことを受け入れようとしない冷感症を治療する」、と言っているようなものだ。

まさにその通りだと思う。さらに内藤は「教育ポルノ」という言葉を使って学校にはびこる思想を糾弾する。

全体主義は、ただ外形的な服従を要求するだけではない。生活環境を集団化して涙や叫びや歌や笑いなどの共振密度を高め、一人ひとりが自分を裂け開く<すなおさ>をどこまでも要求する。

すると、性ポルノにおける<おれのもの>の<おれ>の位置に、教育ポルノの<クラスのみんなのまじわり>が位置づけられているのがわかる。
学校の集団生活では、おまえがおまえである底のところから自発的に<クラスのみんなのまじわり>のものになるべし。


おぞましいことだが、私も生徒たちから同じような話を聞くことがある。たとえば中学3年生の男子は運動会の長縄跳びが中学で最高の思い出だったと胸を張る。全員一丸となって大記録を達成したらしい。それはそれは感動的な瞬間だったのだろう。担任の教師も胸を震わせたかもしれない。しかし、そういう話を聞くと私は不安になる。彼はたまたま幸福な全体主義者だったかもしれない。だが、人間はそう簡単に「全員一丸」になどなれるはずがないのだ。皆が涙を流して感動を分かち合っている中で気まずい思いをしていた子たちもいただろう。クラスが団結すればするほど居づらく感じる子たちもいるのだ。

上記典型例が示す児童青年精神医学は、このような魂のレイプが痛いのではなく、きもちよくなるように治療する。心を閉ざすのではなく、泣いて同情されてクラスにきもちよく抱かれるように援助する。ときには脳に作用する薬物を使ってさえ、学校を人間に適応させるのではなく、人間のしくみを学校に適応させようとする。

これは児童に限らず精神医学全般にいえる傾向で、きわめて重大な問題だと私も思う。社会や組織にどんなに問題があろうとも、精神医学は人間のほうに問題があると診断し、薬物で脳機能を抑制させてまで組織に嵌め込もうとしている。
次の三浦瑠璃の体験談も怖かった。

国際政治学者の三浦瑠麗は中学生のとき、部活のなかでいじめられていた。教員は「和解」のための話し合いの場を設けた。それは、女子全員対一人の「人民裁判みたいなもの」だった。
三浦は回想する。
「一人ひとり私に対する不満を順番に言っていくんです。で、言い終わるたびに一人ずつワーッと泣くんですね」
「自分で言って、自分で感動して泣くみたいな。どんなにひどかったか、私たちの気持ちをどういう風に理解しなかったか」と。


おそらくこれが現実なのだろう。自分で言ってワーッと泣くような女子は私の学校にはいなかったが、スクール小説などを読むとよく出てくる。また、一人の生徒について「〇〇さんの嫌いなところを順番に言いましょう」というような学級会をやるところは本当にあるらしく、それがきっかけで自殺する生徒もいる。

学校教育の全体主義的な側面に対しては、相当強く意識して観察したほうがいいと思った。ちょうど明日運動会をする学校は多いだろうが、単純な感動で心を洗っている場合ではない。

・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり



http://gendai.ismedia.jp/articles/-/55712 

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
いじめ研究の第一人者が問う、日本の学校が染まる「全体主義」の核心

だから「いじめ自殺」が起きてしまった

「日本の学校から『いじめ自殺』がなくならない根本理由」で福井県の中学校で起きてしまったいじめ自殺事件を分析した、いじめ研究の第一人者・内藤朝雄氏。このケースでは発達障害がひとつのポイントになっている。日本の学校が染まる「全体主義」とあわせて考える。

いじめ自殺と「発達障害」
昨年起きた、福井県の中学校2年生のいじめ自殺問題。事故等調査委員会がまとめた調査報告書は現時点でもっとも良心的な部類といえる。そのなかに、精神医学が入っている。

精神医学と学校の集団教育は相互に影響しあってきた。これを観察することから「学校の全体主義」の真髄が見えてくる。

本稿(中編)では、まず、精神医学が学校の色に染め上げられる事態と、そこから見えてくる全体主義の形を明らかにする。

学校の色に染め上げられた精神医学の挙動を観察することから、ポルノ的ともいうべき学校の全体主義、さらに全体主義そのものの本質が、くっきり見えてくる。

次に、近年精神医学で勃興してきた「発達障害」という概念について考える。そこから、人間の遺伝的・神経生物的多様性と「障害」概念についてコペルニクス的転回を試みる。

筆者はDSM-5の「神経発達障害」という概念を棄却し、それを<発達-環境>調整障害スペクトラムという新概念に代えることを提唱する。

そして現在学校関連でなされる多くの診断については、

診断名:<発達-環境>調整障害スペクトラム・環境帰責型(学校タイプ)

という、もっぱら環境側にある「障害」を問題化する診断を提唱する。


信じられないような価値の転倒
まず最初に、学校の色に染め上げられた精神医学について典型的な事例を示そう。

学校が精神医学を染め上げる仕方から、学校の奥深い全体主義の本質と、さらに全体主義そのものの本質を見て取ることができる。

事例となるのは、大学病院精神科教授若林慎一郎と榎本和による論文「他罰的な子への嫌がらせ」である。若林は児童青年精神医学を牽引してきた人物でもある(1991年~1994年 日本児童青年精神医学会理事長)。

彼らが書いた内容は、次のようなものだ。

【事例1:他罰的な子へのいやがらせ】
 若林らのもとに、「登校拒否」の中学生E子が来院した。
 優等生のE子が通うのは、「いじめやいやがらせが横行する」「地域でも校内暴力で有名」な中学校で、さらに一番「悪い」と言われているクラスである。暴力グループに付和雷同する学級集団は、正義感の強いE子にとっては不正がまかりとおる場である。
E子は「教科書で頭を叩かれたり、足を引っかけられたりするなど、⋯生傷が絶えない」。それでもE子はいじめ加害者に屈服しないで逐一反撃する。それがさらなるいじめを誘発する悪循環を形成する。「保護者会で母親は、成績はよいが性格が悪いと言われた。E子としてはいやな人たちばかりだからしゃべらないだけだ」。このような状況下でE子は学校にいかなくなる。
 若林らの「初診時所見」は次の通りである。
 「⋯可愛らしいというよりは、気が強そうできつい子といった印象を受ける。学校のことや教師、生徒に対する不満がいっぱいという感じで、よくしゃべるが、他罰的で、少しふてくされたような態度がみられ、誤解を受けやすい子のようにも思われる。E子自身も、トイレに閉じこめられたり、仲間はずれにされた時に、泣けばよいのだけれども、『私は泣かない、それで、皆から同情されないと思う』と述べている」。
 さらに若林らは、次のような言葉を用いてE子を臨床記述する。
 「依怙地で他罰的」
 「弾力性の乏しい態度」
 「クラスや学校に対して協調的な態度がとれない」
 「クラスへ適応しようという気持ちがないようで、周囲を寄せ付けない」
 「E子の性格に問題がある」
 「E子の非協調的な態度をE子にいかに自覚させるかということが課題である」。
 (若林慎一郎・榎本和「他罰的な子へのいやがらせ」メンタルヘルス研究会編『メンタルヘルス実践体系5 いじめ・自殺』日本図書センター、1988年 )



ここには、正気の社会からは信じられないような価値の転倒がある。

若林らは、人に暴力をふるって楽しむ嗜虐者たちを異常視しない。逆に、自分に暴行を加える迫害者(およびその勢いに同調する学級集団)をはっきりと「敵」、「悪」、「赤の他人」と認識する女子中学生の方を異常視する。

そして、自分に暴力をふるい、苦しむのをながめて楽しむ加害者たちを、共に生きるクラスの仲間とみなして自発的に「寄せつけ」、学級集団の大いなる共生に順応するよう「性格の問題」を直すのが、治療の目標であるとしている。

まるで集団レイプされている人に、「気持ちよくなれず、加害者を寄せつけないあなたは精神医学的に問題がある。こころとからだの底から加害者と<共に響きあって生きる!>ことを受け入れようとしない冷感症を治療する」、と言っているようなものだ。

若林らがしていることは、旧ソ連の精神科医が共産主義に逆らう人を精神病とするのと同じである。

上で紹介した文章を読めば明らかに、若林らがE子を異常視する判定ポイント(精神医学的に正常と異常を分ける基準点)は、E子の存在が深部から<学校のもの>になっているかどうかである。

若林らは、こころとからだの深いところから<学校のもの>になって共に生きようとしない、E子のまつろわぬこころを医療の対象とする。学校の生徒でありながら、学級集団に染めあげられないE子は、精神科で治療しなければならない。

若林らの精神科医および精神医学指導者としての言動は、精神医学が学校の色に染め上げられた局面を鮮やかに示している。

日本社会にありふれた教育ポルノ
それだけではない。学校が精神医学を染め上げる形から、逆に、学校のなかに濃縮した姿で現れる全体主義の本質を明らかにすることができる。

全体主義は、ただ外形的な服従を要求するだけではない。生活環境を集団化して涙や叫びや歌や笑いなどの共振密度を高め、一人ひとりが自分を裂け開く<すなおさ>をどこまでも要求する。

ほんとうに心を開いておまえそのものが流れ出ているかどうか、といった自己裂開への執拗なこだわりが、全体主義を単なる独裁から分かつ、全体主義の本質である。

「トイレに閉じこめられたり、仲間はずれにされた時に、泣けばよいのだけれども、『私は泣かない、それで、皆から同情されないと思う』」のは、泣くことがクラスの集団生活で要求される「すなお」な自己裂開であり、個人が勝手に距離を取ることは加害行為よりも「悪い」ことであるからだ。

ここでは、自他共振の擦りあいのうちから、おまえがおまえである底のところから<おれのもの>になるべし――それをあかすがゆえに、しばしば身体開口部が濡れているかどうかにこだわる――という、ポルノ的な裂開規範(裂け開くべし)をみとめることができる。

世にありふれた性ポルノと、同じく世にありふれた教育ポルノを比較してみよう。

すると、性ポルノにおける<おれのもの>の<おれ>の位置に、教育ポルノの<クラスのみんなのまじわり>が位置づけられているのがわかる。

学校の集団生活では、おまえがおまえである底のところから自発的に<クラスのみんなのまじわり>のものになるべし。

おまえは、この<まじわり>のものになったあかしとして、涙に濡れて身を開かなければならない。自己裂開をかたどり受肉する祭具として「すなお」に濡れるべしと要求される身体の開口部は、性器から眼球に代わる。

もちろん、全体主義が戦争を要求するとき、人々に濡れるべしと執拗に要求するのは血が吹き出す傷口だ。またそれは、がんばったと拍手で賞賛される、危険な組み体操での骨折であり、カミカゼ自爆攻撃で飛び散る散華の肉片である。こういった骨も肉も、全体主義において濡れて輝いている。

これについては、「人格を壊して遊ぶ…日本で『いじめ自殺』がなくならない根深い構造」をもう一度ごらんいただきたい。また、カミカゼ賛美に代表される日本の全体主義については、「世界が警戒する日本の「極右化」〜私たちはいま、重大な岐路にいる」を参照されたい。

全体主義の核心部には、さまざまな領域に共通のポルノ性=自己裂開規範(裂け開くべし)がある。

この「裂け開くべし」と命じる教育ポルノの秩序のなかで、E子は目から涙を出して泣かねばならない。泣かないE子はクラスの仲間を寄せ付けない。そのような個人的人格は、学校の共同生活ではゆるされない。

日本の学校にみられる極端な集団主義教育のどこが人間にとって有害なのか。それは、距離なしで魂を擦りあい開きあう共生が、魂に無理やり突き込まれることである。

上記典型例が示す児童青年精神医学は、このような魂のレイプが痛いのではなく、きもちよくなるように治療する。心を閉ざすのではなく、泣いて同情されてクラスにきもちよく抱かれるように援助する。ときには脳に作用する薬物を使ってさえ、学校を人間に適応させるのではなく、人間のしくみを学校に適応させようとする。

読者は意外な論理を示されて驚かれたかもしれない。

しかし、上で説明したしくみを頭に入れておくと、これまで漠然と違和感を抱くだけで理解できなかったことを、はっきり理解できるようになる。


群れの「やさしさ」は恐ろしい
ここまで読み進めた読者は、次の事例で教頭が本当に言いたかったことを理解できるようになっているはずだ。試していただきたい。

【事例2:なかよくなってほしかった】
 ある小学校で、一年生女児(6歳)が、露骨で執拗なしかたでいじめられていた。担任はそれを放置した。被害児は夜中に叫び声をあげるようになり、医師からは睡眠時驚愕症と診断された。
 その後、相談した教頭が熱心に介入し、露骨ないじめはかげをひそめた。しかし、無視や顔そむけ、ひそひそ話、他の子から孤立させようとするコミュニケーション操作、などは続いた。
 クラス替えまで被害児は加害児と関わらないようにしていた。
 クラス替えの前に母親が「こういう(いじわるな)人もいるんだ」と理解して今は騒がず受け流すようにしている」と教頭に伝えると、教頭は「残念です。こんな人もいる、と諦めてしまうのでなく、仲良くなってほしかった。ここの学区の子どもたちは優しい子が多いはずなんです」と言った。(母親へのインタビュー)


教頭は、6歳児○○ちゃんが障害を負うほど虐待されたことではなく、自分の身を守ろうと<クラスのともだち=加害児>から距離を取ったことを「残念」と言っている。

現に生きているかけがえのない○○ちゃんが苦しかったろう、つらかったろうということは、教頭の目に入らない。それよりも、「ともにかかわりあい、まじわりあい、そだちあう」大いなる全体(集合的生命としての学校)が大切だ。

一人ひとりの人間は、こころとからだの深いところから<みんななかよし>のものになって、大いなる学校生命が生き生きと躍動するための材料だ。

「学校らしい」共生を離れた個人それ自体は鴻毛(羽毛)のように軽い。個人の命や健康よりも、みんながこころとからだの深いところからクラスのものになって共生する、全体のかたちの方が尊い。

この教育的に美しい群れのかたち(いわば教育の国体)は、個人が勝手に「ともだち」から距離をとることによって、そこなわれてしまう。

6歳児が睡眠時驚愕症になるほど校内で虐待され続けたことよりも、個人(被害者)が、ともだち(加害者)と「なかよく」融け合う関係を拒否することの方が、学校のコスモロジーのなかでは残念なことだ。

だから教頭は、母親に面と向かって言ったのだ。「残念です」と。

大いなる全体のための材料の分際で、個人が勝手に「ともだち」と距離をとるなど、ありえないことだ。そんなことをしたら、大いなる全体が壊れてしまうではないか。たとえ死んでも心が壊れても、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、みんなで・なかよし・おともだちをしなければダメじゃないですか。お母さん、こんな自分勝手をされては困りますよ。ほんとうに「残念です」。

これが、教頭が本当に言いたかったことである(ただし、自分がやっていることを知る勇気はないであろう)。

教頭は「やさしさ」なるものを大切な価値とみなしている。しかし、個人に対しては、ぞっとするほどやさしくない。

精神に変調をきたすほど虐待された6歳児が、身をすくめ、襲いかかり痛めつける加害者を避けるのは、ちいさな生き物としてのけなげな自己保存反応だ。これをもって、教頭は「残念です」と言う。

脳が教育という阿片に浸されると、ここまで冷酷になることができるという見本といってもよい。

それと同時に、この同じ人物は、群れた子どもたちが感情と感情を響きあわせ、その渦の中から大いなる全体(集合的生命としての「学校らしい」学校)を生み出す、感動材料としての「やさしさ」を何よりも大切にする。

この教頭の言動は、一人ひとりを大切にするやさしさと、個を超えた大いなる<みんななかよし>を生み出す感動材料としての「やさしさ」のちがいを、くっきり浮き上がらせる。

学校の集団生活では、個のやさしさは群の「やさしさ」に変じ、個の食事は群れの給食儀式になり、個の声や笑いや涙は群の声や笑いや涙に置き換えられていく。

群れの「やさしさ」は個のやさしさとは異なり、集団心理・利害権力政治の材料になりやすい。


感動の涙と学校の醜さ
次の事例を見てみよう。

【事例3:ゴーゴー○○子】
 クラスと部活でいじめ被害にあっていた少女(中学一年生)が、ビルから飛び降りて自殺した。学校、教委、市、加害者の親は結託して隠蔽工作を行い、遺族へのこころないデマを地域にふりまいていた。学校関係者ぐるみ、自治体ぐるみのいやがらせはひどいものだった。
 いじめにかかわっていた部活集団は、加害者と結託したきわめて卑劣な行為をしつつも、亡くなった被害者の名前を使って、これみよがしに「ゴーゴー○○子」と感動的なエールのかけ声をあげていた。その中にはいじめ加害者も含まれていた。教頭は、隠蔽利益が一致した加害生徒たちを焼き肉屋に連れて行くなどして、人情あふれるコミュニケーションをくりかえして一体感をつくり出していた。(遺族からの情報提供)


「ゴーゴー○○子」と焼き肉屋のエピソードは、学校のものになった感情がどのようなものか、よく示している。

彼らは個のやさしさという基準からは怪物といってもよい。しかし、群の「やさしさ」という意味では、本当に「やさしい」のである。やさしさという感情そのものが、個人のものではなく、学校のものになったのである。


次に、学校のものになった涙について事例を挙げる。

【事例4:「ずいぶん醜いな」学校の醜さを極限的にあらわす女子中学生の群れの涙】
 国際政治学者の三浦瑠麗は中学生のとき、部活のなかでいじめられていた。教員は「和解」のための話し合いの場を設けた。それは、女子全員対一人の「人民裁判みたいなもの」だった。
 三浦は回想する。
 「一人ひとり私に対する不満を順番に言っていくんです。で、言い終わるたびに一人ずつワーッと泣くんですね」
 「自分で言って、自分で感動して泣くみたいな。どんなにひどかったか、私たちの気持ちをどういう風に理解しなかったか」と。
 その内容は、「瑠麗ちゃんがテストの答案を返してもらって嬉しそうにしてた。私はテストの点が悪くてその日一日落ち込んでいて、『ヤバイ、こんな点とっちゃったよー』と笑いながら言ったら『そうだねー』と返したとか、男子にちやほやされていた」といった細々としたものだった。
 そのとき中学生の三浦は、「これが人々の心を洗い流してくれる感動の涙っていうやつなのか。ずいぶん醜いな」と思った。
 「そこで涙を流すようなカタルシスを求めようとする様を私は醜いと思ってしまった。とんだ茶番だと思いました」
 (「三浦瑠麗が語る『感動の涙を醜いと思ってた』中学時代――国際政治学者・三浦瑠麗さんインタビュー#2」『文春オンライン』2018年4月3日)


これは、【事例1・他罰的な子へのいやがらせ】のところで論じた「みんなで共に生きる」涙である。学校の集団生活で求められるのは、このような習性である。

学校は、やさしさも、食べることも、躍動感のある身体運動や声、笑い、涙、叫びも、服装やしぐさも――要するに、人が生きることのすべてを、「かかわりあい、まじわりあって、ともに生きる」学校のものにしようとする。

この、全人的な集団教育の奴隷制(共同体奴隷)は、古代ローマ人が奴隷に石切場の労働をさせればよい、というようななまやさしいものではない。学校の奴隷は生きていることのすべてが、魂の奥深くまで、学校のものにならなければならない。そして、こころからよろこんで学校のものにならなければならない。

つまり、学校の集団生活では、あなたが存在すること自体が全体のものであり、「おのおの全体の中に分を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一体を保つところの大和」(『国体の本義』)でなければならない。

このようなタイプの「全体」は、国家であることもあれば、学校や会社のような中間集団であることもある。筆者は、国家に焦点をあてる従来の全体主義概念を拡張し、中間集団全体主義という考え方を提唱した(『いじめの社会理論』、『いじめの構造』)。中間集団全体主義という観点から見れば、日本は学校と会社を基盤とする全体主義社会だ。

人間のすべてを奥深くまで全体のものにしようとする傾向を、全体主義の貫通性という。この意味で日本の学校は、全体主義のエッセンスをなによりもくっきりと示す。

全体主義の核心部は単なる独裁ではない。それは個に対する全体の圧倒的優位である。圧倒的優位は、個に対する余儀ない貫通性(浸透性)の深さによって現実のものになる。

全体主義は、一党独裁、秘密警察、しつこい集合的イベントへの動員といったしくみを社会にはりめぐらすことが多い。

だが、一党独裁や秘密警察などのしくみは、単なる独裁政権でもありふれた現象である。

全体主義と単なる独裁を区分する基準は、一人ひとりの人間存在を変更する集合的イベント(学校行事のようなもの)への深い動員が日常生活をおおいつくす度合いである。

全体主義は人間を魂の底からつくりかえ続け、そのプロセスのなかから、個を超えた高次の生命(集合的生命)として生み出されるものだからだ。



旧ソ連の指導者ニコライ・ブハーリンの次の言葉は、この全体主義の「教育熱心」な本質を言い当てている。

 「たとえいかに逆説的に聞こえようと、プロレタリア的強制は――死刑執行から強制労働にいたるそのあらゆる形態において――資本主義期の人間という材料から共産主義的な人間[性]をつくりだす方法なのだ」(アイザイア・バーリン『自由論』みすず書房)。

かつての左翼活動家は「社会変革は自己変革、自己変革は社会変革」というスローガンを好み、連合赤軍は「人間の共産主義化」と革命を同一視し、「教育熱心」な集団リンチにはげんだ。

戦争中の日本では、一人ひとりが「日本人らしく」天皇の赤子になりつづける「くにがら」を守ること(国体護持)が、何よりも重視された。一人ひとりの命は鴻毛(羽毛)のように軽い。カミカゼ自爆攻撃などで死ぬ瞬間こそが、人として生まれた最高の栄誉であり、花が咲いたような生のきらめき(散華)でなければならない(「世界が警戒する日本の『極右化』」参照)。

このような教育熱心、あるいは教育の暴走が、全体主義の特徴である。旧ソ連も、ナチス・ドイツも、北朝鮮も、そして戦時中の大日本帝国も、人間を根底から別のものに変える教育に熱心である。安倍政権が、歴代政権のなかでもきわめて教育に熱心であるのも、全体主義をめざす政治集団の特徴と考えることができる。

全体主義が人間を分類し、位置づけ、操作する方法は多岐にわたり、その経験は蓄積され、磨き上げられていく。

「発達障害」のラベルを貼られ…
その方法として精神医学が使われることもある。

たてまえはともかく実質的に「やっていること」として、精神医学は、学校にあわない人を「病気」や「障害」として扱い、学校に適合するよう操作を加えてきた。つまり、人間を学校の集団生活にあわせてつくりかえることを目標とするのである。

そのため、学校に行かない、学校の集団生活にあわないという理由で、人のこころを変える治療をしたり、精神を変える薬を飲ませたり、精神病院や施設に収容したりすることがある。

くりかえすが、これは旧ソ連の精神科医が、共産主義にまつろわない人を精神病院に入れて治療するのと同じことである。

精神分析、「分裂病」、境界例・自己愛障害、軽症なんでもうつ病、そして発達障害など――精神医学の分類、位置づけ、操作のセットは、ときどきの流行でうつり変わっていく。

これら流行の枠組は、次の新しい流行まで適用範囲を拡大しつづけ、多かれ少なかれ誰にでも当てはまる人間類型のようなものになるころに、飽和し、飽きられ、次の流行があらわれる。

現在は発達障害の流行期にあり、診断数が急増している。

学校にあわない人、学校が「こまる」とみなした人は、かつては分離不安、情緒障害などとレッテル貼りされることがあったが、現在では「発達障害」というラベルを貼られるようになった。

診断数が急増したのは、学校固有の「こうでなければならない・ああでなければならない」を基準点として「こまり」がつくりあげられ、それが「発達障害」流行により精神科受診につなげられ、診断がなされるからである。

いまほど平和な時代はないけれど
さて、ここで不思議な現象を説明しなければならなくなる。

露骨なしかたで学校全体主義と一体化した(典型的には【事例1】のごとき)従来の精神医学に対し、20世紀後半の人権革命のなかで、「人間にやさしい」傾向の精神医学が相対的に有力になってきた。

スティーブン・ピンカーは、人類はきわめて残酷であったのが、数万年、数千年、数百年、数十年の何段階かの変化を経て、過去にくらべて信じられないほど平和になったと論ずる(スティーブン・ピンカー『暴力の人類史(上・下)』青土社、ピンカーのTED講演)。

特に20世紀後半、先進諸国は、人口の多くを占める中流階級を中心として、残酷を嫌い、人間の尊厳を中心とする、リベラル・デモクラシーによる市民社会の絶頂へと進んでいった(現在それが、世界同時後退ともいうべき様態で破壊されつつある)。

いじめ、児童虐待、教員による暴力、セクシャル・ハラスメント、ドメスティック・バイオレンスなど、今まで電柱のシミのように「あたりまえ」すぎて目の前にあっても見えていなかった<人間の尊厳に抵触する項目>が、次々と問題化されるようになる。

日本で起きた、さまざまな領域での人権に関する変化も、この世界的な潮流のなかのひとつであり、精神医学もこの流れのなかで変化してきた。

精神医学は、ほんの数十年前には多かれ少なかれ【事例1:他罰的な子へのいやがらせ】が典型例となるような傾向を示していたと思われる。ところが、現在の「発達障害」領域のリーダーたちは、【事例1】のタイプとは正反対の見解を示し始めた。

それは、木に竹を接ぎ、新しい酒を古い革袋に入れるようなしかたでではあるが、大きな進歩であるといえる。

・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

中外日報で 「作られていく発達障害」という論説があった。

そもそも、それほど「病んでいる」はずでもない脳みそ・個性なのに、異常な学校・労働環境に合わせるために、天然自然の長所・自分を「投薬・治療」というので捨てさせられる今の社会は異常ということである。

>たてまえはともかく実質的に「やっていること」として、精神医学は、学校にあわない人を「病気」や「障害」として扱い、学校に適合するよう操作を加えてきた。つまり、人間を学校の集団生活にあわせてつくりかえることを目標とするのである。

日本の場合は、特に「天皇・日本国は、絶対正しい。社会は間違いではない」というカルト思想が蔓延して、それも宗教界もそれで、狂っているからな。

狂った社会から逃れる。それを儒教も、老荘も、仏道も「善し」とした。

それを攻撃する今の天皇制日本は、歴史の流れから見ても、キチガイの悪魔である。

そういう悪魔は退治される・調伏される必要があるのは必然な話なのである。


お読みくださりありがとうございます。
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無題
  • from 大阪のおばちゃん :
  • 2018/05/27 (09:35) :
  • Edit :
  • Res
この問題を考えると、学校は要らんんね。
ろくに指導出来ずに時間ばかり拘束する部活なんぞ
止めて、親が家に居ないか、したい生徒だけすればいい
真面目を従順と言い換えて、生徒を評価するべからず。


あなた方に子供を評価できる教養があるとは思えませんぞ、先生方。
全体主義があったから、同調圧力が強いから
先の戦争にまんまと誘い出されたのではないの?
よく歴史を学んで、子供に未来を開くお手伝いをして欲しい。

教育者とは、生徒に花を持たせる職業です。
小役人の真似をして、権力を濫用する人間は教育界から去れ‼️
Re:無題
2018/05/27 17:48
>この問題を考えると、学校は要らんんね。
>ろくに指導出来ずに時間ばかり拘束する部活なんぞ
>止めて、親が家に居ないか、したい生徒だけすればいい
>真面目を従順と言い換えて、生徒を評価するべからず。
>
>
>あなた方に子供を評価できる教養があるとは思えませんぞ、先生方。
>全体主義があったから、同調圧力が強いから
>先の戦争にまんまと誘い出されたのではないの?
>よく歴史を学んで、子供に未来を開くお手伝いをして欲しい。
>
>教育者とは、生徒に花を持たせる職業です。
>小役人の真似をして、権力を濫用する人間は教育界から去れ‼️

本当に、病み・闇の日本です。

恐ろしいは、病んでいることすら気が付いていない。

御先も真っ暗だけど、放射能が阿呆を殺していく・・・それが良いのか悪いのか・・

まあ阿呆もカシコも死んでいくので、じっと我慢の子・・。

書き込みありがとうございます。
無題
  • from 大阪のおばちゃん :
  • 2018/05/27 (09:37) :
  • Edit :
  • Res
すみません
上記訂正です

真面目を従順と言い換え→従順を真面目と言い換え
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