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半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

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風観羽 より

上記文抜粋
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東浩紀氏の新著『ゲンロン0』の私なりの読み方



◾️ 経済人の立場



思想家/ 批評家の東浩紀氏の新刊、『ゲンロン0』*1については、発売からおよそ一ヶ月が経過していくつか書評も出てきているが、予想通り総じて評価が高い。私も遅れじと書評を書こうと思っていたのだが、自分の書こうとしている文章に自分で納得できず、ついリリースを躊躇してしまっていた。



ただ、自分の感じたことを他者も同じように感じるのか、あるいは、全く反対されてしまうのか、確かめてみたい誘惑にかられてしまう。よって、全体の書評というのではなく、ポイントを絞って、私の思うところを少しずつ書いていこうと考えるに至った。取り敢えずその第一弾として(第二弾がいつになるかはわからないが)、リリースしておきたい。今回は、本書をビジネスマン、経済人の立場で読むとどういう感想が出てくるのか、という観点で書いたことをまず最初に述べておきたい。





◾️ 二層構造



東氏は環境認識として、今の世界は、かつてのような右翼/左翼の対立図式には収まらなくなってきており、あるのは、『グローバリズム/リバタリアニズム』と『ナショナリズム/コミュニタリアニズム』の二層構造で、リバタリアンには動物の快楽しかなく、一方、コミュニタリアンには共同体の善しかないため、このままでは妥協点は見いだせず、もちろん普遍的な他者も現れず、思想的にも解決の糸口が見いだせない、とする。



これは、実際ビジネスの現場を見ていても痛感することで、この二つを統合する活動ができればビジネスとしても理想的なはずなのだが、現状では如何ともしがたい。グローバルビジネスは、もちろんずっと以前から行われていたわけだが、かつては企業のグローバルな活動と国家との関係が一体化して分離していなかった。そのような幸福な時代は確かにあった。特に製造業の場合、国内で生産したものを海外にも輸出していた時代には、海外への輸出=国内生産の増大=雇用の増大/賃金の上昇、だったからだ。



だが、資本が自由に移動するようになり、金融の自由化が進み始めると、そうはいかなくなった。国内の労働コストが上昇すれば、当然コストが安い国に進出したり、そういう国にある会社のとの取引を増やすのはビジネスとしては当然だし、そうしなければ、株主等のステークホルダーから厳しく問い詰められることになる。だが、それは国内の空洞化を招くことになるから、国内の従業員や地域との関係はギクシャクせざるをえない。旧来の製造業にしてそうだから、初めから無国籍性の高いIT企業など、雇用どころか国家に収めるべき税金もタックスヘイブン等を利用して可能な限りセーブする。これも評判は悪くても、合法の範囲内であれば、合理的な企業行動の範疇と言うしかない。





◾️ 動物化する経済人



戦後の日本企業は、まさに『エコノミックアニマル』という蔑称を頂戴したが如く、必ずしも評判が芳しいとは言えない面もあった。本書でも指摘されているように、シュミット*2もコジューヴ*3もアーレント*4も皆一致して(すなわち近代西洋思想の頂上にいるヘーゲル的成熟をベースとする限りは)、グローバリズムの到来を『人間ではないもの』の到来と位置付けており、経済の拡大は人間の消滅につながると考えていた。では、このような指摘を経済人がまったく意に介していなかったのかと言えば、少なくとも私の知る限り事はそれほど単純ではなく、『人間ではないこと』の居心地の悪さを十二分に感じ、その矛盾の解決のために一身を持って格闘し、思想として昇華しようとした経済人が少なからずいたことを私たちは知っている。



かつては日本にも、松下幸之助、あるいは本田宗一郎のように、企業活動は国家を支え、雇用や安価で豊富な商品の提供を通じて社会にも貢献すると高らかに宣言して、実際その通りになる、という幸福な時代があった。そのような経済人は国家にとっても尊敬に値する人物であり、経済学は国民を豊かにする学問と考えられていた。その高度な統合を目指してこそ、一流の名に値する経済人との認識もあったと思う。株主以外のステークホルダーにもバランスよく目を配り、海外進出した場合でも、進出先の現地社会との折り合いをつけることに腐心し、信頼や尊敬を勝ち得た傑出した経営者を少なからず日本も持つことができた。



米国企業でも地元との信頼関係を勝ち得ることが市場でのブランド価値を上げることに直結していると信じられていたから、企業がかなりの持ち出しを覚悟の上で、地域コミュニティに貢献することを当然のこととして実行していた(ブランド価値向上のための投資、との認識を持ち得た)。ところが、昨今ではその米国企業を中心に、そのような活動に資金を配分するくらいなら、ロビーイングに精を出して、企業に有利な法律制定を目指せ、というような方向に株主の関心が向かっている。



明らかにこのままではまずいのだが、真面目に考えても答えがでないからと、今では開き直ってそのようなことは考えないようにしている経済人は多い。いわば、自ら『動物』となることで内心の矛盾を顕在化しないようにしているとさえ言える。いや、それでも、そのような自覚がある経済人/経営者はかなりレベルが高い『人間』というべきかもしれない。実際には、『経済人は収益向上に専心することこそ最大の社会貢献』と無邪気に(本気で)述べている経済人の方がマジョリティだろう。彼らには、日本企業が幸福でいることができた環境が激変して、引き裂かれるような環境に放り出されていることの自覚がないし、その意味でまさに『動物化』している。環境さえ良ければ、『収益が一番』を唱えていれば良かったのだろうが、環境が激変した今でも同じようなお題目を(思考停止して)唱えている様は、まさに『動物』であり『自動機械』に見えてしまう。



だが、今でも少なからず存在する、『人間』であることをやめない(やめたくない)経済人は何を究極の目的として、活動していけばいいのか。もちろん、経済人/企業人であるからには、利益の極大化が一方の目標であることを否定するものではないが、 それだけしか目標として示せないとすれば、貧しさの中から立ち上がってきた、後続の新興国企業のエネルギーに長く抗することは難しいと言わざるをえない。人はパンだけを求めて生きているのではない。東氏が取り組むような、21世紀の現実の中で心身を引き裂くグローバリズムとナショナリズムの相克を乗り越える思想を構築していくことは、実のところ(気づいているかどうかは別として)、経済人/企業人にとってこそ危急の課題となっている。





◾️ 企業コミュニティに代わるもの




さらに言えば、特に日本企業にとって非常に深刻な問題は、グローバリズムを推進すればするほど、企業内コミュニティが維持できなくなる点だ。特に日本の場合、地域コミュニティが崩壊して、西洋のような宗教コミュニティも一般的ではないため、特に戦後はそれを肩代わりする擬似コミュニティとしての企業コミュニティの役割は非常に大きいものがあった。だがそれが衰微するにつれ、グローバリズムに反対するナショナリズム/コミュニタリアリズムがこの日本でも大きな勢力として浮上することになった。困ったことに、今では企業として成功を目指すその方向には、旧来のコミュニティを温存できる余地は少ない。これに代わる『地球市民』という類のコミュニティを夢想する取り組みは、まさに東氏が指摘するように、思想家のネグリとハートが共著『帝国』で提示した『マルチチュード』*5のような概念の中に新秩序を見出す方向に逢着することが多い。特にインターネットで世界中を接続することができる現代では、それによって動員し繋がることができれば、ネットの力で理想的な自己組織化が起きてくるという類の、ロマン主義的な自己満足を語る論者が大量に出現することになった。だが、それがあまりに都合の良い『空想』であることは、時間の経過とともに明らかになりつつある。下手をすると、動員された人々があっという間に衆愚化して、辺境なナショナリストや、逆に夢想的な左派の、筋の悪いコミュニティの中に取り込まれてしまいかねない。昨今ではそれゆえにネットコミュニティを忌避する人も増えてきている印象さえある。



では、そうではない第三の道を選択したい人(東氏の言う『観光客』)は、何を拠り所にして生きればいいのか。東氏は、『家族の概念を再構築、あるいは脱構築して、観光客の新たな連帯を表現する概念に鍛え上げられないか』と考えている、という。ただ、自身述べている通り、この『家族』という概念は昨今では、非常に誤解を招きやすいため、このままでは使えない。だが、消去法で絞り込んでいくと、家族(あるいはその変種である部族やイエなど)くらいしか残らないと嘆く。その絞り込みの過程は、私には非常に重要な前提条件を可視化しているように見えるので、ここに引用しておく。



まず、階級は使えない。それは共産主義の理論とあまりに深く結びついており、そしてその理論は歴史的使命を終えているからである。土地も使えない。だれもがネットワークを介して全世界とつながることができるいま、主体の拠りどころを特定の地理的な領域に求めることには無理がある。血や遺伝子も使えない。それは人種主義への道だ。ジェンダーは粗すぎる。それは人間を数種類にしか区別しない。思想信条に基づく結社や趣味の共同体は、そもそもアイデンティティの核にならない。それらへの所属は自由意志で変更可能だからだ。自由意志に基づいた連帯は自由意志に基づきたやすく解消される。それがマルチチュードの弱点である。このように考えていくと、個人でも国家でもなく、自由意志で変更が可能ではなく、そして政治的連帯に使えそうな拡張性を備えた概念としては、もはや家族(あるいはその変種である部族やイエなど)ぐらいしか残らないのだ。  
『ゲンロン0』P210より




◾️ 候補としての家族



東氏は、まだ家族の哲学について十分に考えがまとまっていないとしながら、その『概念を脱構築、あるいは高次元での回復』された『家族』について、留意すべき三つの論点をあげている。



1. 強制性

家族は自由意志ではそう簡単には入退出ができない集団であり、同時に強い『感情』に支えられる集団でもあり、合理的な判断を超えた強制力がある。



2. 偶然性

すべての家族は偶然の産物で、本当の意味で選ぶことができない。



3. 拡張性

日本の『イエ』など血縁より経済的な共同性を中心として、養子縁組によって柔軟に拡張が可能な組織だった。家族の輪郭は、性と生殖だけではなく、集団と財産だけでもなく、私的な情愛によって決まることもある。時に種の壁すら超えてしまう(犬や猫も家族になりうる)。



今回私が述べてきた文脈で言えば、日本企業は自らをしばし『家族』に例え、経済的共同性を超えた連帯性と強制性を併せ持ち、『イエ』的な秩序と情愛による凝集力を持つ独自の集団とし、さらには永遠性を成員に感じさせる、いわば共同幻想の主体となっていた。そういう意味では、東氏の言う三つの要素がすべて盛り込まれ、機能していたとも言える。



だが、かつての経済環境において最適であり最強と言えた、日本の『企業一家』は、もはやそのまま維持することは難しくなりつつある。だが、それに対する郷愁もあってか、現政権は、家族回帰を志向し、あまつさえ、それを元に憲法の修正にまで手をつけようとしている。個人的には、この現政権の提示する思想には素直に共鳴することは難しいが、動機の源泉について理解することはできる。少なくとも、アイデンティティの拠り所を再構築することの重要性の認識は共有しているとも言える。



ただ、この『家族の哲学』の形成は非常に厄介で骨の折れる作業になりそうだ。そもそも合意形成が可能なのだろうか。というのも、前提に、論理を超えた、感情(情愛、憐れみ等)があり、人間が合理的に辿りつくことができない偶然性(人間を超えた存在の領域)がある等、論理的思考を超える概念が中核にある『家族』を論理や哲学で語り、合意を得ることは大変な難事業に思える。場合によっては一種の宗教的信念のぶつかり合いになるのではないか。安易に良いところ取りをすることも難しいように思える。



だが、21世紀の経済人として生き、競争に伍していくるためには、仮説であっても、アイデンティティの問題を内的に処理できる哲学を持つことは必須のように思える。現行の企業経営者にとっては、早急に、従来の企業コミュニティに代わる『企業家族』を見つけていくことが課題と感じたかもしれないが、今の日本にとっては、それほど単純な問題ではないように見える。むしろ、一旦は旧来の企業組織を解体して、個人や新『家族』をベースに再構築するくらいの徹底した再編が不可欠なところに追い込まれているというべきではないのか。



現段階では、古い東アジア共同体の原型をとどめている中国の家族制度のほうが、上記でいう所の『家族』としての機能が生き残っているように見える。そういう意味でも21世紀は日本より中国の勢いが良くなりそうに思えるし(すでにそうなっている)、それでも日本企業のプレゼンスをあげたければ、中国の家族制度にはない日本の家族制度の優位性としての柔軟性(中国では血縁を日本のように養子等で代替することは原則できない)を効果的に生かして、日本らしい『家族』を再構築してアイデンティティの拠り所を確立することは、何にも増して緊急課題であるように思える。だから、東氏には是非、この家族の哲学の洗練にも早急に着手して欲しいと、『ゲンロン0』を読み終わった時に何よりまず最初に感じた。



東氏の立場で言えば、本書を日本経済や企業の再生のために読むというのは、おそらく誤読であり、誤配に満ちているということになるだろう。だが、そのような誤読も誤配も、有益に思えるのが本書のもう一つの懐の深さだと思う。経営を思想として最後まで追求していた、ピーター・ドラッカーや、マーケティングを社会の良い意味での再構築の手段に昇華させようとしている、マーケティング界のカリスマ、フィリップ・コトラーに、本書を読ませて感想を聞いてみたいと本気で思うし、その領域を自分の次のライフワークにできないものか、夢想を掻き立ててくれる。但し、これは、すでに誤読を超えて、個人的な幻想の世界なのかもしれない。





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抜粋終わり


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