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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
国際秘密力研究 より

上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:キリシタン史観とNWO征略について

〇国際秘密力広告宣伝担当ハリウッドが遠藤周作の「沈黙」を映画化した。今の時期にキリシタンものの映画を作る意図はなんであろうか。まずは「長崎キリスト教関連遺産の世界遺産登録への援護」が思い浮かぶが。宣教師という侵略の先兵を美化する事で西洋の侵略行動を正当化する狙いも当然あるだろう。

ハリウッド映画のストーリーは「善意に満ちた主人公の西洋人が現地の可哀想な人々を助ける」という独善的なものが多い。これはイラクやリビア、シリアへの侵略などネオコンが他国に介入する時に演出する構図そのままである。宣教師=工作員を主人公にする映画でこの刷込みを強化する狙いも想定できる。

〇前にも書いたが、戦国時代に来日した宣教師はただの宗教布教者ではない。スペインやポルトガルの世界侵略と一体化していた諜報工作員である。彼らは鉄砲の火薬の原料となる硝石などを餌にして主に西国の大名を洗脳してキリシタン化させた。今で言うと傀儡政治屋を操るジャパンハンドラーズに相当する。

キリシタンは長崎の神社仏閣を悉く破却した。寛永年間に青木賢清という人物が諏訪神社(「長崎くんち」で有名)を再興するまで長崎の神社仏閣は壊滅状態であった。大村純忠は先祖の墓を壊し、大村では仏僧が虐殺された。イエズス会は長崎を軍事要塞化せんとした。キリシタン史観が無視する史実である。

〇「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産に選ばれ、後に除外されたものに「日野江城跡」がある。日野江城はキリシタン大名の有馬晴信が作った城である。日野江城は破壊した神社仏閣を築材に使って作られ、その石段には仏教徒の墓石が使われている。キリシタン大名とは本当にとんでもない輩だ。

〇神社仏閣を破壊する。領民を強制改宗させる。仏僧を殺害する。硝石欲しさに領民を奴隷として売る。神社仏閣を破壊した後の残骸や仏教徒の墓石を材料にして城を作る。本当にキリシタン大名とはとんでもない連中である。対日侵略者の走狗、売国政治屋の元祖である。「美化」するのは到底不可能だ。

〇キリシタン被害者史観を最初に作ったのは宗教学者の姉崎正治である。姉崎正治はその「功績」で博士号を与えられたという。何故か仏蘭西政府からも勲章を与えられている。姉崎は「帰一協会」という露骨な名前のNWO団体に関係し「三教会同」を推進した。「帰一」という言葉で姉崎の立ち位置が分かる。

帰一協会が推進した「三教会同」とは神道・仏教・キリスト教の融和一致を図るという憑依型戦術の典型である。後のエキュメニズム、宗教統一構想の走りのような運動である。帰一協会にはクェーカー教徒でメーソンの新渡戸稲造などが所属。日本でもかなり早い段階(明治時代)から宗教統一運動があった。

〇このように姉崎正治は「キリシタン史観」製造と「帰一協会」の宗教統一運動の両方に関係していた。この事から「キリシタン史観」は「宗教統一」と同様NWO征略の同一線上にある事が分かる。キリシタンの総本山のバチカンはエキュメニズムを推進しイスラエル元大統領と「宗教国連」構想をぶち上げた。

〇元イスラエル大統領のシモン・ペレスがローマ教皇に「宗教国連」構想を持ちかけた。バチカンはエキュメニズムを推進しているが「宗教」分野でのNWO征略を担当していると言えよう。キリシタン史観を作った姉崎正治が同時に「帰一協会」に所属し「三教会同」なる宗教統一運動を推進した事は示唆的だ。

〇帰一協会と三教会同。これは憑依型戦術」の典型例と言える。日本では明治時代からワンワールド化工作が行われていた。【帰一協会】https://ja.wikipedia.org/wiki/帰一協会【三教会同】https://ja.wikipedia.org/wiki/三教会同

国際秘密力は征服のターゲットとした国に工作員を派遣し現地の有力者を走狗とする。戦国時代におけるイエズス会宣教師とキリシタン大名。現代におけるジャパンハンドラーズと清和会一味。奇しくもCSISはイエズス会士が創設した。国際秘密力の今昔。連中の手口は何も変わっていない事が分かる。

〇宣教師に洗脳されたキリシタン大名は領民を奴隷商人に売り先祖の墓を暴き寺社を破却して伝来の文化を破壊した。ジャパンハンドラーズの手先として国民を痛めつけ売国と壊国に躍起になっている清和会一味はキリシタン大名と全く同じである。清和会の周辺はカルトだらけ。現代のキリシタン大名勢力だ。

〇ジャパンハンドラーズの拠点であるCSISは元々はイエズス会系のジョージタウン大学に付設の機関で創設者はイエズス会士のエドマンド・ウォルシュである。ウォルシュはナチスの地政学者カール・ハウスホーファーの弟子である。ここが派遣する工作員がハンドラーズ。戦国期の宣教師と同じ立ち位置だ。

〇戦国時代と現代。イエズス会→CSIS。イエズス会宣教師→ジャパンハンドラーズ。キリシタン大名→清和会一味。国際秘密力の対日侵略システムの今昔だ。細胞が入れ替わりつつも身体を維持相続していくように、個々の組織や工作員の様態は変化しつつもシステム全体の構造は変わらずに維持されている。

〇ジャパンハンドラーズを追及すると「陰謀論」とされるように、キリシタン大名の背後にイエズス会、ポルトガル、スペインの野心を疑うと「時の為政者の妄想」とされる。火消しの手口も全く同じ(当時の為政者が売国奴でなかった点だけが現代との唯一の違い)。事実を究明して破国際秘密力あるのみだ。

権力と利益の為に領民を奴隷商人に売り渡したキリシタン大名と私利私欲の為に国民を痛めつけ外国勢力に奉仕する清和会一味(周りをカルト勢力で固める)は同じである。思想的に洗脳され利益につられて走狗になった者達。秘密力の手口も不変。歴史を見ると今が見える。陰謀追及でも「温故知新」は大事。

〇「サイレンス」は長年かけて構想が練られた映画なのでプロパガンダ目的ではない、という意見もあるようだが、ハリウッドの映画制作は一映画監督の個人事業ではなく、必ずスポンサーありきである。スポンサーが金を出さないと映画は作れない。よってスポンサーの意向が反映されるのは当たり前と言える。

〇例えば「ダヴィンチコード」「天使と悪魔」というディスインフォメーション映画(「天使と悪魔」は「イルミナティ」について史実とは異なる描写をしていた)は元々はダン・ブラウンという一作家が書いた作品だが、それを映画化したのはハリウッドである。そこにプロパガンダ意図が入るのは必然なのだ。

〇伴天連追放令を読めば宣教師が何をしたか及びその排除の理由が分かる。【バテレン追放令】https://ja.wikipedia.org/wiki/バテレン追放令

〇九州攻めの折に秀吉が出した「天正十五年六月十八日付覚」という文書に「大唐、南蛮、高麗江日本仁を売遣侯事曲事、付、日本ニおゐて人の売買停止の事」とある。宣教師が奴隷貿易に関与していた事が分かる。宣教師は日本人を支那や南蛮、朝鮮に売り飛ばしていた。追放するのは為政者として当然だ。

〇伴天連追放令には「其國郡之者を近附、門徒になし、神社佛閣を打破らせ、前代未聞候」とあり、神社仏閣が破壊されていた事が分かる。「國郡在所知行等給人に被下候儀者、當座之事候」は長崎を勝手にイエズス会に寄進して教会領にされていた事を受けていると思われる。神社仏閣の破壊と領土侵略である。

以下は付論。

孔子は「志士仁人、無求生以害仁、有殺身以成仁」と言ったし、達磨は「無功徳」と言った。司馬遷は「天道是か非か」と嘆いたが、東洋的伝統では見返りを求めず道理を貫く事を重んじる。義士はたとえ刑場の露と消えても一片の悔いも残さない。キリスト教の伝統に由来する「沈黙」のモチーフとは異質だ。

形而上学的断定は安定しない。人間の固定的な分別・判断より現実の方が幅が広く多用でかつ常に変化しているからだ。「断定」は実は安定していない。常に動揺している。よって、何かを断定した絶対的教義への信仰が揺らぐのは当たり前なのである。逆に「囚われない」「こだわらない」は安定している。

〇「沈黙」のモチーフそのものに関して一言。暴力の脅威に直面しなくても形而上学的な断定に基づく「信仰」は常に動揺にさらされている。形而上学的断定は「こだわり」の立場である。こだわっても現実は多様で常に変化しているので完全に我が物とする(己の認識枠組に捉えきる)事はできない。

〇形而上学的断定とは常に変動する現実を己の認識の枠組みに完全に捉えきろうとする固執の立場である。固執は無常な現実と矛盾するから、原理的に言って必ず動揺するのである。無常を無常と知り、こだわらないようにできればかえって動揺が無い。何が起きても悠然と対処する者は断定・固執しないと思う。

〇「神の沈黙」などと言ってキリシタン信者が動揺にさらされるのは現実を絶対的な教義の枠組みで捉えようとするからである。宗教を神話や哲学と同様に現実の認識枠組や解釈方法の一つとして捉えるのならまだしも、絶対的な世界観として拘る以上いずれ現実との齟齬を来して動揺する運命にあるのである。

〇「神は助けてくれなかった」と嘆くのは「こだわり」「執著」の立場である。そういう雑念妄想をきっぱり捨て切ってからりと晴れた心境になれば、それが「救い」ではないかという気がする。「救い」への拘りすら捨てる。形而上学的な断定をあれこれ下して現実との齟齬に悩み呻吟するのは自縄自縛である。

無学祖元元兵に斬られんとする時「珍重大元三尺劍 電光影裏斬春風」と詠んだ。「斬るなら斬れ。電光が春風を斬るが如し」と。我が身に執着する普通の人間は中々ここまで至れないから悩み苦しむのであるが、あくまで一つの理想像として「沈黙」のキリスト教的前提を相対化するには十分な逸話である。

〇無学祖元は鎌倉時代に来日し北条時宗の帰依を受けた南宋の禅僧で、円覚寺の開山である。円覚寺の住職だった朝比奈宗源世界連邦運動を推進し、日本会議の前身「日本を守る会」を設立。頑として元兵に屈しなかった無学祖元とはえらい違いだ。憑依型戦術の魔手は様々な所に忍び寄っている事が分かる。

〇先日「形而上学的断定」について述べたが、さらなる考察を書く。

人間の「執着」「固執」の対象は識別されたものである。識別は主に知覚・表象・思考に分けられる。対象を識別した上で「執着」が生じる。逆ではない。「宗教教義」「形而上学」も表象や思考によって識別される対象である。しかも、絶対化されやすい為、知覚の対象に対する固執より強固になりやすい。

特定の形而上学に固執した者にはどうしても執着なり固執が生じやすい。彼らは我執が増長し、驕慢になり、他者を見下し、あるいは相互に争う。人間誰しも「世界観」を持つ。形而上学も一世界解釈としてなら分かる。しかし、己の世界観を形而上学として絶対化すれば自惚れと争いはほとんど不可避である。

物欲や金銭欲は意識されやすいが、「形而上学」への欲望は意識されにくい。物欲は主に知覚の対象に対して発生するが(「物」は概念的にも把握されるので表象や思考の対象でもある)、形而上学への欲望は表象や思考の対象に対して発生する。宗教や形而上学への狂信は金や権力への妄執と原理的には同質。

〇国際秘密力がオカルト思想を好む。彼らは金と権力のみならず形而上学にも執着している。最も貪欲で危険な集団。金と権力への執着が形而上学への固執を高め(金と権力の為にNWO推進)、形而上学への固執が金と権力への執着を強化する(NWO実現の為に金と権力を欲する)という関係にある。最悪だ。

〇一神教では偶像崇拝を禁ずる。「偶像」は知覚的に認識されるのに対し、一神教の「神」は現実にはイメージ(表象)や概念、言葉として認識される。知覚的対象と表象的対象の違いに過ぎないが、後者が偶像とされないのは、感性と知性を分けた上で後者を上位とするプラトニズム的伝統の影響だと思われる。

〇プラトニズム的伝統では認識世界を感性界叡智界に分け、後者をより根源的な知だとする。よって前者で把握される「偶像」より後者で把握される「神概念」を高度な認識だとする。しかし、どちらも「識別された対象」という点では変わりがない。両者に価値的序列を付ける思考は中東以西に顕著である。

唯識では認識された「対象」の「相(姿)」を「自相」と「共相」に分類。自相とは五感で認識された対象である。自相には言葉が伴わない。「リンゴ」で言うとリンゴの形、手触り、味など。共相とは概念的に把握された対象である。これには言葉が伴う。「リンゴ」という言葉は全てのリンゴに適用される。

〇だが、自相を共相として認識している場合が大半である。つまり「感性界と叡智界」というようにきれいに二分されていないという事である。知覚的対象を概念的に把握するのが大半の認識の実態である(この丸い酸っぱいやつを『りんご』として認識など)。廣松渉はこれを「対象の二肢的二重性」と言った。

〇「識のみ」とする唯識と認識された限りの「現相世界(現象世界)」から出発する廣松渉の認識論は構造的に似ている面がある。唯識の三性説と比較する。遍計所執性(概念仮構作用→概念の実体視)→物象化的錯視。依他起性(縁起)→事的世界観(四肢的構造連関)円成実性→実体の否定=物象化の超克。

〇「遍計所執性」とは認識した事物に対して言葉を付与して識=認識作用を離れてそれがその姿で存在すると見る=実体視するあり方である。「依他起性」とは「識」たる世界のあり方が縁起的に成立している事を指す。円成実性とは依他起性の上に実体を仮構せず、事象をありのままに認識するあり方である。

〇遍計所執性・依他起性・円成実性は別々の三つの事物があるという事ではなく、世界の認識の仕方が三つある、という意味である。あくまで「モノの見方」「認識論」的な観点である。自相(五感による知覚的認識)・共相(言葉による概念的認識)で言うと自相の上に共相を仮構しない認識が円成実性である。

〇論理学者の陳那(ディグナーガ)は有効な認識手段を現量(げんりょう)=知覚と比量(ひりょう)=推理に限定した。言葉が介在しない現量は自相のみを認識し、言葉が介在する比量は共相を認識する。間違って認識された場合は非量(ひいりょう)とされる。形而上学の仮構などは比量によってなされる。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/821845799407480832


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抜粋終わり

中論では「俺たちは、一切形而上的な命題はたてない」とか書いてあったようで。

>神社仏閣を破壊する。領民を強制改宗させる。仏僧を殺害する。硝石欲しさに領民を奴隷として売る。神社仏閣を破壊した後の残骸や仏教徒の墓石を材料にして城を作る。本当にキリシタン大名とはとんでもない連中である。対日侵略者の走狗、売国政治屋の元祖である。「美化」するのは到底不可能だ。

このようなやつが、どこが立派なのか。

下衆なだけ。


>「サイレンス」は長年かけて構想が練られた映画なのでプロパガンダ目的ではない、という意見もあるようだが、ハリウッドの映画制作は一映画監督の個人事業ではなく、必ずスポンサーありきである。スポンサーが金を出さないと映画は作れない。よってスポンサーの意向が反映されるのは当たり前と言える。


然り。

スポンサーが欲しい映画だから、作ってもらう・・・。

>〇形而上学的断定は安定しない。人間の固定的な分別・判断より現実の方が幅が広く多用でかつ常に変化しているからだ。「断定」は実は安定していない。常に動揺している。よって、何かを断定した絶対的教義への信仰が揺らぐのは当たり前なのである。逆に「囚われない」「こだわらない」は安定している。

これってその通りだよね。

「天皇」も「形而上学的断定」による信仰だから、狂信者が出てくる。安定しない。


>〇キリシタンは長崎の神社仏閣を悉く破却した。寛永年間に青木賢清という人物が諏訪神社(「長崎くんち」で有名)を再興するまで長崎の神社仏閣は壊滅状態であった。大村純忠は先祖の墓を壊し、大村では仏僧が虐殺された。イエズス会は長崎を軍事要塞化せんとした。キリシタン史観が無視する史実である。

>〇「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産に選ばれ、後に除外されたものに「日野江城跡」がある。日野江城はキリシタン大名の有馬晴信が作った城である。日野江城は破壊した神社仏閣を築材に使って作られ、その石段には仏教徒の墓石が使われている。キリシタン大名とは本当にとんでもない輩だ。


日野江城跡ってのは、耶蘇がいかに日本の仏神の信仰・生活を破壊したかってことの証拠みたいなものだからね。



お読みくださりありがとうございます。


追記
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