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半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

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ニュースの深層 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
人が「病む」のは、属している組織が「病んでいる」から

患者だけが病むことはあまりない

熊谷:今年、イギリスに視察に行って、主に精神障害の方の回復をサポートする取り組みをしている施設を見学したんですが、とても印象に残ったことがあります。

その施設では「その人が病むのは、むしろその人がこれまで置かれていた組織が病んでいたからだ」「その人が置かれている組織の構造に介入して、変えることの方が重要だ」といっていたのです。だいたいその患者だけが病んでいることはあんまりないと。

小野:なんだか相模原の事件にリンクしますね。

熊谷:最も目立って困っている人だけを問題視し、その人に直接介入するだけでは意味がなくて、その人を取り巻く組織の構造を変えていくことで、間接的に困っている人の回復を支えていこうという取り組みを見てきたんです。

小野:それは精神障害だけじゃなく、いろんな面で言えますね。電通の過労死自殺とか、会社でうつになるのは、その組織自体に人をうつ病にさせる歪みがあるからで、その人が退職したところで、組織自体が変わらない限り、また新たに入ってきた人も同じことを繰り返す可能性がある。

熊谷:その中でいくつか組織を変えるためのポイントが、発表されていたんですが、例えば一つとして「責める文化をやめる」こと。

何か失敗をしでかしたり、規範から逸脱したりするような振る舞いをした人を責めることが習慣化しやすいのですが、そいった逸脱はありのままにシェアする。

そのときにどういうことが本人の中で起きていたとか、どういう前後関係があったのかということをみんなでシェアすることを、文化にしていかなければいけない。それが組織としてのパフォーマンスも上げるんだとおっしゃっていました。

小野:先生の著書『つながりの作法』の中ですごく印象的だったのが「個人が自力で変えられる部分と、変えられない部分を知って共有する」っていうことです。それってまるっきり健常者も同じだと思うんですよね。

自分で変えられる部分と、そうでない部分が把握されていれば、適切に援助を頼める。育児、介護など、ワンオペで苦しんでいる人たち、あるいは「何かしんどいな」と感じている人たちが、そういう場があれば少しは変わるのではないかと思うのですが……。

なかなか今の社会ってそれを言語化する場がないですね。把握したところで、じゃあどうすればいいの、という。次につながらない。

熊谷:以前、私が「依存先の分散が大事だ」とメディアで発信したときにいただいたコメントの中に「依存先が分散できる人と、そんなにすぐに分散できない人がいるから、そう言われても困る」というレスポンスがありました。

それはそのとおりだと思う一方で、私のメッセージの宛先を誤解されているなと思ったところがあって。私はそれを「個人の責任のもとで分散せよ」と言っているわけではなく「組織であったり社会であったり国家であったりがそういう仕組みを作れよ」という意味で発信していたんです。

小野:私も誤解していました。そういうことが可能な社会にしてほしいってことですよね。

熊谷:そこらへん、やっぱり個人主義がみんなの前提になっちゃっているなと感じます。「みんな、依存先を努力して増やそうぜ!」ってなると、なんか変な自己啓発的な文脈になっちゃうというか、新たな課題が個人に課せられるような。

小野:確かに依存先の用意まで自己責任なのかとなったらしんどくなりますよね。

これから必要なのは「個人ができないことをできるように引き上げてゆく」形の支援というよりは、そのイギリスの精神障害者施設のように、もっと国や行政などの第三者によって「個人でできる部分・できない部分を可視化して、できない部分はどうやって互いに埋めてゆく、依存しあってゆくか」という支援の方なのかなという気がしますが、実現するのには時間がかかりそうですね。

能力主義を助長する、パラリンピックの怖さ

小野:障害者支援に関しては、2020年にパラリンピックが来ることもあって「障害者への理解を深めよう」とメディアでも盛んに取り上げられるようにはなっているけど、なんかすごく表面的だと感じてしまいます。

「どういう支援の仕組みが必要なのか」とか、当事者の方が困っていることなんかは、全然まだ共有されてないんだなって。「がんばってる障害者」ばっかり取り上げられて。

熊谷:オリンピックもそうなんですが、共通しているのが能力主義というか、勝ち負けっていうんですかね。「何かの能力を持つことが良いこととされるゲーム」を礼賛することが、かえって個人のしんどさを助長するんじゃないかという。

依存症の当事者研究で言われていることの中に、「依存症に陥る人は自立心が強い」というのがあります。

小野:え、そうなんですか!?

熊谷:例えば、小さい頃、ネグレクトだとか、虐待的な環境で育っていて、人に依存してはいけないということを両親との関係から学習した人たちこそ、過剰な能力主義っていうんですか、自分で能力を高めて、ひとに依存せずに生きていけるようにならねばという、思考に陥りやすい。

でも、そこまで実際に人間は強くないので、何らかのドーピングを必要としてしまう。薬物の力を借りて能力を高めて理想像に近づく生き延び方は、とても健気なものです。

小野:なんとなく想像できます。「ウルフ・オブ・ウォールストリート」でディカプリオが金融業界の王になるためにめちゃくちゃ覚せい剤キメて仕事する、みたいな感じですよね。

熊谷:一方で、とってもよく似た語りがアスリートのしんどさからも出てきていて。一見するとなんのつながりもなさそうな、健康で華々しく活躍している人たちが、能力主義のしんどさというか、依存先のなさのしんどさで苦しんでいる。オリンピック・パラリンピックは下手をするとある意味では能力主義的な規範を助長するんじゃないかという危惧はあります。

小野:「障害者でもがんばれる」みたいな感じですもんね。

熊谷:あんな立派な障害者がいるみたいなね。

小野:そうですね。私、去年すごく印象的だったのが、オリンピックで吉田沙保里選手が決勝で負けてリングから降りたときの第一声が「お父さんに怒られる」で、号泣されていて、凄く怖いなと思って。これ、めっちゃ人に言いづらいんですけど。

熊谷:引きますよね。

小野:引きました。本当に。ぞぞぞ、ってしちゃって。吉田選手を批判したいわけでは決して無くて、あんなに能力が高く、世界の頂点にいる人ですら共依存モデルを採用しているんだなっていう。でもあれは日本的には感動的なシーンなんでしょうね。

熊谷:少なからず、みんな引いたと思いますけどね。率直に。

小野:いや、Twitterを見てても「引いた」っては意見あんまり見つからなかったです。むしろ「負けて日本の恥さらしだ」みたいなことを言っている人がいて、アホかって思ったりしましたけど。

これって、先生が受けていた「健常者と同じ動きを出来るようにしよう」というリハビリと同じ原理ですよね。外部から別の規範を持ってきて、そこに全力であわせようっていう。

熊谷:人から与えられた規範に合わせるのではなく、試行錯誤する中で「できること・できないこと」を切り分け、受け入れながら、自分なりの規範を身につけてゆくことが必要だ、ということが社会全体で知れ渡らないとなかなかそこから抜け出せないですよね。自分の身体に根ざした規範のデザインというか。そういうことですよね。

小野:親子型の「共依存モデル」って、ドラッグとしては最強っていうか、能力を引き出す覚せい剤としては最高のキマり方をすると思うんですけど、その代わり体と心がボロボロになるよっていう。

熊谷:「規範を身につける」ことに関しては、私自身も、試行錯誤し続けています。

小さい頃は健常者と同じようになるべきという規範を内面化してリハビリしていましたし、いまだに翻弄され続けていて。一人暮らしをはじめた頃に一瞬そこから抜け出したのですが、でも仕事を始めたらまたそうも言っていられないとかですね。

診療行為をする上で規範的に振る舞わなければ困る、というところで壁にぶつかったりとか、いろいろな過程があって試行錯誤してきたのですが。


高齢化が多様性社会を実現するカギ

熊谷:あとは最近でしたらやっぱり衰えですかね。若かった頃の規範や身体性と、年を取ったときの身体性って自ずと違うわけですけど、その変化にともなって規範の組み換えをしないといけなくなったりとか。

経験としては、規範の組み換えを文字通り体の痛みとして感じたりだとかですね、そういう経験をずっとしてきたので、偉いことは言えないというか、いつもまっすぐに身体性に基づいた規範を立ち上げられたわけではないというか、紆余曲折っていう感じですね。

小野:老いが来て規範を組み替えなきゃっていうのはどんなひとにも当てはまることですけど、規範の組み換え、もとからある規範にずっとしがみついているとツラいっていうか、今の社会がそうなってしまっているなというのはありますよね。

老いのことは本の中で書かれていて、私も納得しながら読んだんですけど、30過ぎて感じることもあるので。どんなひとであれ老いると、依存先を規範の組み換えと共に増やさないとやっていけなくなりますよね。

熊谷:うちの親世代なんかを見ると、そのしんどさに直面しているというか、仕事からリタイアしたりして、身体もどんどん動かなくなっていって、年をとると組み換えが困難になったりしたりですね、ようやくなんかこっちに近づいてきたなという感じを今持ってますね。

小野:出来ることが減ると気持ちがわかってくる。

熊谷:最近、ようやく対等になった気がします。親の老いというのは恵みですね。元気な親ほど困った……。

小野:いい加減引退してくれっていう。

熊谷:そろそろ人の世話ばっかりせずに「自分の世話しなよ」って思いますけどね。

小野:じゃあむしろ高齢化が進むことは、マイノリティにとって優しい世界になるかもしれないっていうチャンスがあるんですかね。

熊谷:みんなそう思ってますね。これはチャンスであると。もちろん可能性としては危ないほうに行くことも充分考えられるんだけれど、潜在的にはチャンスです。今、認知症の方が精神病院に入院させられる機運が高まっていて、それは他人事ではない。

小野:そうなんですか。

熊谷:親や自分が認知症になったとき、精神病院に入院するのか、それとも地域で暮らし続けられるのかという問いを、これから「マジョリティ」の人たちが突きつけられる。

これまで、精神障害者たちは「精神病院に入院しなくても地域の中で回復していけるんだ」というモデルを先取りして作り上げてきたんですが、そこに、これから多数派の高齢者たちがその問題にぶち当たります。

小野:「多数派」として括られていた人々が、細かく分解されていくと、「あれ、誰も多数派じゃなかったじゃん」と気づかされる。そこで、それぞれ必要とすること、できることできないことがあるっていうのが相互に理解できるようになるといいのかな。

熊谷:そうですね。みんなが当事者研究すればいいのかもしれない。自分たちの可変性の限界みたいなことを考える機会が必要なのかなと思います。それぞれどんな人にも「変えられる範囲と、いかんともし難い範囲」があって、その境界線をさぐり続けるしかないのですから。

小野:そこを研究したらいいんだよっていう発想、なかなか聞かないですもんね。

熊谷:そうなんですよね。研究というと、パフォーマンスをあげるためのものっていうイメージを持たれがちですけど、むしろ「変えられない範囲の研究」というか。

小野:「依存して心地良い範囲」と「ここまでは自分で出来た方が心地良い範囲」が、どんな人にもきっとある。先生はこれまで、介助される側として肉体的に実感される機会が多かったと思いますけど、そうじゃない人たちだって絶対あるはずですよね。

自分が社会に近づくではなく、社会を自分に近づける

小野:先生が現代ビジネスの読者に向けてメッセージを送るとしたらどうなりますか?

熊谷:どんな層が読まれているのですか?

小野:30〜40代の男性読者が多いですね。

熊谷:同世代ですね。

小野:しかも、年収800〜1000万円以上の層の人たちも読んでます。

熊谷:……ちょっと慎重な書きぶりが要りますね。同世代だから偉そうなことを言うわけにもいかないんですが……。でも、それこそ、分かち合うって意味では、バブル崩壊がちょうど大学入るか入らないかぐらい。

私もイケイケどんどんの時代を幼少期過ごしてきていますので、高校生ぐらいまでは右肩上がりの物語をお腹いっぱい吸収してきたので、やっぱり未だに自分の中にある右肩上がり観ていうか、努力しなきゃみたいな、そして努力したら良いことがある、そういうのはこびりついていることは自覚していますね。

それが何度となく襲ってきて、小さい頃はリハビリでも「どんどん努力してやれば健常者になれる」という機運の中で過ごしてきて、で、「ああ、どうやらそうならないらしい」ことに早々に気づいたりとか。

30代過ぎた頃に、衰えが痛みとして襲ってきたりですとか、なんとなく障害があったお陰で、もしかしたら若干早めに、矛盾のようなものに気付いたと。

熊谷:じゃあ努力することを全否定するかというと、そんなこともありません。当事者研究をやっていると、真面目さってとても大事で、やっぱり自分の可変性の限界を知ることは、安穏として出来るものではないんですよね。

まずは規範に基づいてやってみて、ああやっぱりここはできなかったんだということを受け入れ、ゆっくり痛みを伴いながら規範を更新していくという繰り返しですので……。

脱規範とか脱成長みたいなイメージとは若干違うというか。立ち向かってはいっているんですが、常に柔軟であろうとするというか、できなかった場合、そこを受け入れていくっていう。可変性の境界線を知るというプロジェクトは、柔らかさと努力の組み合わせというんですかね。

小野:外から押し付けられた規範に無理して合わせ過ぎるとしんどいから、そうできない部分も認めて、それはそれとしてどう工夫するか……みたいなことは、共通して言えそうですね。


熊谷:少なくとも、弱者・強者だとか、マジョリティ・マイノリティ関係なく、そういう社会を一緒に作っていけたら良いなとは思いますよね。

小野:新しい規範が作り出せるでしょうかね。

熊谷:そうですね。みんな軋み始めているというか、ズレを感得し始めてはいるように思うので、私一人がどうこうできるような話ではないですけど、組み変わるだろうとは思いますよね。もちろんハラハラしますけど。

小野:先生が「自分が社会に近づくのではなく、社会を自分に近づける」っておっしゃってたのがすごく大胆だなと思って。そんなことが本当にできるかしらって思っちゃうんですけど……。

熊谷:障害者運動の高まりは、それ以前の状況が「極端に社会規範に自分を合わせなければ」という状況だったので、アンチテーゼがどうしても必要だったというか。そして、この半世紀、それを地道に実現させてきた。その先人たちの歩みを止めるわけにはいかないですし、多数派の人々にとっても水先案内人になると思います。

小野:そうですね。「自分を責める」文化にいる私たちにはちょっと思い切りが必要ですけど、障害者だけでなく、他の分野の人もそういうふうに堂々と言えるようになったら、また違ってきますよね。

女性の働き方に関することだとか、育児についての課題とか、男性の働き方のしんどさだとか、全て含めて、今自分が置かれているしんどい状況を、責任を押し付けるという形ではなくて「社会が変われ」って言えるようになるっていうのは重要ですよね、きっと。

・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり

社会が変わることで、自分だけでなく皆が幸いになるのならもっと言うべきではないのか

「自分を変えろ」といっても、自分だけ変わっても実は苦痛の質が変わっただけに過ぎないことが多い。


>これまで、精神障害者たちは「精神病院に入院しなくても地域の中で回復していけるんだ」というモデルを先取りして作り上げてきたんですが、そこに、これから多数派の高齢者たちがその問題にぶち当たります。


これって面白い・・・・


本当は、年金を「黙っている」財務・厚生官僚でなく、早くに気づけば、もっと楽にいけたのに・・
年金よりも簡単な話なのにね・・・


>そうですね。「自分を責める」文化にいる私たちにはちょっと思い切りが必要ですけど、障害者だけでなく、他の分野の人もそういうふうに堂々と言えるようになったら、また違ってきますよね。


本当は「自分を責めて自分が変わることで、周囲・社会を変える」という観点があったのだが、それを「個々人に物事の事象を投げ捨てて、逃げ続ける」っていう自己責任論。
これは最後は自分に返ってくる・・・

そもそも「他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ 」のにね・・・

お読みくださりありがとうございます。

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