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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
迷走記憶箱 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
私はそれらが示すのは「フェイクニュースが蔓延した世界」の到来だと受け止めた。ここで言うフェイクはオーウェルの「1984」的な世界であり、それがいまや資本主義と個人主義を通じて実現されつつあると考えている。
 フェイクニュースが蔓延する世界とは、真実が軽視される世界であり、強者は身勝手な嘘を振りまいて欲望を満たし、弱者は麻薬のような夢に溺れるか誰かを憎悪するように仕向けられた世界である。

 もともとそれらは人々の様々な欲望や弱さに付け込んで蔓延するが、なかでも特に日本は耐性が無いように感じる。理由は日本社会には一本筋が通った理念やモラル(あるいは信念)というものが欠如しているせいだろう。確かに思い返せば、私もモラルや理念というものを学んだ記憶も無ければ、社会で目にする事もほとんどない。

 例えば教育を通じて教えられたのは、良い学校でて良い企業に勤めろというような事や、規律や周囲に従うだの、疑問を考えるより前にまず従えとかいった事ばかりだ。そのどこにも「人としてどうあるべきか」とか「より良く(善として)生きる」とはどういう事かなどと学ぶ機会は無い。そして家庭や社会においても教えてくれる場は無い。
 他国では宗教がこの部分をサポートするのかもしれない。だが日本社会では宗教がモラルとしての役割を果たす場面がなく葬式(死者を弔う儀式)以外に出番が無い。

 この「モラル(高い理念)」が存在しない事が実質的に社会の上限を定めている。たび重なるハラスメント、次々に表に現れる偽装、ネットで自由に発言できるようになった途端に溢れるヘイトや中傷など、これらはあるべくして現れたものだ。
 そしてこういった多くの問題が出ながらそれらの解決への道筋すらつけられない現状そのものが、まさに日本の限界、つまりは「今の腐った土台(文化)に建てられる限界」なのだと私は思う。

 そう考えて世界を見れば、西洋社会やアラブ社会には宗教というモラルがまだ生きており、彼らは葛藤をしながらも試行錯誤を続けているように見える。一方中国のような国では民間にある血縁主義というべきコミュニティがその代わりをしているように見える。いずれにしろそこには何らかの譲れないモラルのような物があり、そして葛藤しながらも取り組み続けている姿があるように思う。
 それはおそらく今の日本には無いものだろう。日本にはコミュニティというべきものがほとんど失われており、大衆化した悪意に対して対抗すうような術が亡くなってしまっている。より良く生きようと願うような人をサポートする社会も組織も法もない。


 将来への予測としてこの問題を考えたとき、私は日本については正直言って改善される見込みはないと考えている。より良く生きたい人は国を捨てるしかないように思う。
 だが海外がどうかというと西洋社会はまだ日本よりも望みはある。しかし危ういように感じる。イスラム国戦争から始まった難民問題などを解決するには、もう一段階ステップアップした理念のようなもの、そしてそれを実現に移すだけの知恵や法が必要だと感じる。


<余談1:テクノロジーに期待するもの>
 もしも画期的なテクノロジーが出てきて、結果としては「人が食う為に働く」事から解放されたら、私は新たなステージのようなものが搭乗するのではないかと思う。「生きる」事が保証された世界であれば、人は「より良く生きる」事を願う(あるいは競う)ようになるのではないだろうか?

<余談2:天皇が示すもの>
 日本には柱とも言うべきモラルが無いと述べると、だからこそ「天皇」でこの隙間を埋めようという話がすぐに出てくる。
 しかし天皇は私が述べた意味での柱になる事はできない。なぜならば天皇はなんの「モラル」や「理念」も持ち合わせていないからだ。そこにあるのは「(多くの者が願う)都合の良い解釈」だけである。天皇は神の代わりにもなれないし、法の代わりにも、良心の代わりにもなれはしない。それは日本人が昔から好んでやる誤魔化しのテクニックである。そしてなんの解決にも、救いにもつながりはしない。


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり

フェイクニュース以前に、フェイク歴史・フェイク国家なのだから話にならない日本。


>そのどこにも「人としてどうあるべきか」とか「より良く(善として)生きる」とはどういう事かなどと学ぶ機会は無い。そして家庭や社会においても教えてくれる場は無い。

然り。

>他国では宗教がこの部分をサポートするのかもしれない。だが日本社会では宗教がモラルとしての役割を果たす場面がなく葬式(死者を弔う儀式)以外に出番が無い。

そもそも神仏習合を破壊されて、寺子屋が学校に画一化され、ご臨終になった。


>この「モラル(高い理念)」が存在しない事が実質的に社会の上限を定めている。たび重なるハラスメント、次々に表に現れる偽装、ネットで自由に発言できるようになった途端に溢れるヘイトや中傷など、これらはあるべくして現れたものだ。
>そしてこういった多くの問題が出ながらそれらの解決への道筋すらつけられない現状そのものが、まさに日本の限界、つまりは「今の腐った土台(文化)に建てられる限界」なのだと私は思う。

>日本には柱とも言うべきモラルが無いと述べると、だからこそ「天皇」でこの隙間を埋めようという話がすぐに出てくる。
>しかし天皇は私が述べた意味での柱になる事はできない。なぜならば天皇はなんの「モラル」や「理念」も持ち合わせていないからだ。そこにあるのは「(多くの者が願う)都合の良い解釈」だけである。天皇は神の代わりにもなれないし、法の代わりにも、良心の代わりにもなれはしない。それは日本人が昔から好んでやる誤魔化しのテクニックである。そしてなんの解決にも、救いにもつながりはしない。


「天皇真理教」などモラルがそもそもない。無いモノの上に何も作れない。

参考 アヴァンギャルド精神世界 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・

日本の貧困化もサラリーマンの副業をも認める方向になってきた。貧困化の手始めは、社会進出の名のもとに女性を広汎に働かせることに始まり、次に副業をも認める。これぞ金の余裕のない貧困層の蔓延である。その一方で貧富の官民格差は広がる一方である。

仮想通貨やネットワークビジネスで、私利私慾のみをはかって蓄(たくわ)ヘた宝は烟(けむり)となって消えてゆく。

政治家にもマスコミにも、神とともに生きるなどというのは、金もうけのだしにしか見えず、『誠ひとつ』とか『神の心』では、何のメリットもないなどと思っている人が99%。

こうした土壌ではカルトに非ざるまともな宗教は育たないとも思える。

それでも日々坐る

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・・・・・・・・
抜粋おわり

あと

他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ 

だけどな・・・


追記 In Deep

上記文抜粋
・・・・・・・・・
「フェニックス」で総括されていきそうな2018年。その1月のいくつかの光景を懐かしみ、「これから」の示唆を思う

2018年1月24日 アイスランド上空に出現した「フェニックス」


・・・中略・・・・・

この頃も、いろいろとあった後に4月に熊本で地震が起きた年でした。

「フェニックスが飛び立つと、世の混乱が動き出す……」

というようなことを考えながら、今週のことを思い出したりしていました。



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・・・・・・・・
抜粋終わり


鳳凰が飛び、聖人が出現する。と中国の言い伝え。

「不死鳥は生焼けでは復活できない」







お読みくださりありがとうございます。
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