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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
あえて引用 指摘有れば削除します。

上記文抜粋
・・・・・・・・
人類の本性は暴力か平和か?—いじめ研究を用いて、どちらでもない第三のモデルを解明
文学部 内藤朝雄准教授



ポイント

■人類は、進化の過程で、環境に応じて平和相と暴力相の二相に変異する性質を獲得したと考えられる。
■二相に変異する主要単位は個人ではなく、複数個人のあいだで作動する心的メカニズムの連結のまとまり(IPS: Intrapsychic-Interpersonal-Spiral)であり、個人はこの中に埋め込まれて相変異する。
■これまで主要根拠とされた考古学や人類学の知見は完全ではなく、人間を特殊な集団生活のなかで激変させる実験が有用であるが、倫理的に許されていない。しかし学校のいじめをモデル現象として観察し、実験の代用とすることができる。
■人類のIPS二相性を研究し、平和相の状態が優位になるような環境調整を地球規模で行うことによって、人類の永続的平和につながるかもしれない。


・・・・中略・・・

つまり、人類は進化の過程で、環境に応じて、平和相と暴力相の二相のIPS( Intrapsychic-Interpersonal-Spiral: 一人一人の内側から、一人一人を超えて複数個人のあいだで作動する心的メカニズムの連結のまとまり)を後成的に展開させることができ、それに応じて個も二つの存在相をとることができる性質を獲得したという仮説です。
(掲載稿図3)。相変異する主要単位は個人ではなく、一人一人の内側から、一人一人を超えて複数個人のあいだで作動する心的メカニズムの連結のまとまり(IPS)であり、個人はこの中に埋め込まれて相変異すると考えられます。
ここで個人水準を構成要素とする従来の社会科学の基本枠組が、心的メカニズム、あるいは内的メカニズムを含むよう拡張されています(掲載稿図1)。
以上のような新たな考え方を生み出すためのモデル現象として、学校のいじめを採用し、人類のIPS二相性について研究を行いました。

なお本研究成果の掲載稿は以下のとおりです。
「学校の秩序分析から社会の原理論へ——暴力の進化理論・いじめというモデル現象・理論的ブレークスルー」佐藤卓己編『岩波講座 現代 8 学習する社会の明日』(岩波書店、2016年7月28日)

研究成果と今後の展望

学校のいじめをモデル現象として採用し、研究を行いました。それはたとえば次のようなものです。

【掲載稿事例1より】
「友だちと群れていると、こわいものがなくなる。気が強くなり、安心して暴走し、いじめが止められなくなる(男子生徒)。友だちに「あの人嫌い」って言われると、何かそれがうつってしまう(女子生徒)」

このような状況では、群れの場の情報(ムード)が人格統合や自他境界をとびこえ、人の心的メカニズムの作動系と内的モードを切り替えています。そしてそのように切り替えられた人たちが群れて場の情報が刻々と生み出され続けます。秩序と現実感覚が別のタイプにとってかわり、生徒たちは別の存在相に群塊(IPS)ごとひとまとめに変わります。
この変化を示唆する有用なマーカーとして、外部の世界では尊いとされる人格や人間の生命を、集団生活のなかできわめて軽く扱うようになる現象を用いることができます。

【掲載稿事例2より】加害生徒たちは被害者の自殺後、「死んでせいせいした」、「別にあいつがおらんでも、何も変わらんもんね」、「A(被害者)がおらんけん、暇や」、「誰か楽しませてくえるやつ、おらんと?」などと話した。A君の親にいじめの内容を話した生徒に「あいつが死なんで、こいつが死ねばよかった」と言った。被害者の通夜の席で棺桶をのぞきこんで笑った。別の生徒をいじめた。また別の学校のケースでは、加害生徒が他の生徒を「お前はB(被害者)二世だ。Bのように自殺しろ」と殴り続けた。

【掲載事例3より】いつもいじめられていた小6女児が「死ぬ」と三階から飛び降りようと窓から身を乗り出した。それを見た周囲は「飛び降りろ」と拍手喝采した。

このような人たちは環境が変化するとまた別の相に変異します。

【掲載事例4より】卒業生(19歳女性)は、いじめにふけり被害者を自殺未遂にまで追い込んだ学校時代を、まるで夢を見ていたかのように回想する。
「私たちにはホンの少しも罪の意識はなかった。それどころか、いじめる楽しみで学校に通っていたような面さえありました。冷たいようですが、〝かわいそう〟と思ったことは一度もありませんでした。/もちろん、今では当時のことを深く反省しています。クラスの他のみんなも私と同じ気持ちでしょう。〝なんであんなことをやったんだろう〟とフシギな気持ちです」。

この事例は、人類の二相説を支持する典型例です。
日本の19歳未満人口10万人あたりの殺人検挙者数は一人未満であり、人類史の中でも平和相の極限といってもよい状況です。その中で育った普通の少女が、学校で集団生活をするようになると、集団で他人を迫害死寸前まで追い詰めるいじめが楽しくなり、実際に被害者が自殺未遂にまでおいつめられたと知ってもなんとも思わないほどになります。

これは暴力相であり、しかも、ただ個人が変わるということではありません。一定の環境条件下で集まり、接触しあう社会状態が、個々の存在の内側からの変化をもたらします。こうして変化した個々の接触の集積から次の時点の社会状態が再産出されるポジティヴ・フィードバックのプロセス(IPS)の一部として、個が別の存在に変わるのです。そのため、本人も「フシギ」としか言いようがなく、そして学校を卒業し市民社会の秩序のもとで生活するようになると、また「フシギ」な仕方で平和相に戻ります。自分の内的状態を「フシギ」としか把握できないこの女性は、平和相と暴力相の二相を、トビバッタの相変異のように体験したといえます。
このような二相変異モデルで人間の暴力を考えることは、大きな希望となります。ついさきほどまで残酷さに満ちたIPS暴力相だったのが、条件を整えれば即座にIPS平和相になります。人類のIPS二相性を研究し、平和相の状態が優位になるような環境調整を地球規模で行うことによって、人類を永続的平和の段階に移すことができるかもしれません。
また、本研究ではもっぱら考古学や人類学的知見をもとに構築されてきた暴力に関する従来の進化理論と、いじめをモデル現象とした研究を統合して、新たな理論的進展をもたらす試みをいくつか行いました。

背景と補足説明

人類が大部分の時を過ごし、それへの適応を通じて、遺伝的形質が生み出されたと考えられる生活環境を、進化的適応環境といいます。それは狩猟採集の生活環境であると考えられており、研究者たちは、狩猟採集時代と思われる時期の考古学的発掘物(特に人骨)と、狩猟採集生活を送る人びとに関する人類学的知見から、人類の暴力性を知ろうとしてきました。しかし、状態の良い古い発掘人骨と、文明接触以前と期待される狩猟採集民の知見は、入手困難で希少であり、また、そこから描くことができる暴力に関する状態像が粗大かつ不安定で、ばらつきが大きくなっています。そして人類は地上にあふれているのに、暴力性に関する人類の普遍的な特徴を知るために、古い人骨や、砂漠やジャングルに残されたわずかな人間集団を探し回る現状があります。それはほとんどの現生人類が、進化の過程で遺伝的形質を獲得したとされる進化的適応環境とは大きく異なる文明的な秩序環境のなかで生活しているからだとされています。
所属社会の文明的な秩序環境を急激に剥奪し、小集団における接触密度および対人影響を極大化させた閉鎖的実験環境(あるいはその代用となる同等環境)において、短時間で劇的に出現する人間のラジカルな群性変化の観察を、人類の暴力性に関する有益な参考資料とすることができます。これを、第三の情報として考古学的資料と人類学的知見に加えることで、膠着状態にある人類の暴力性をめぐる議論に突破口を開くことができます。


掲載稿図1


掲載稿図3

・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


そもそも学校は「いじめを誘発させる」空間ではないのか?

その根本的な構造には何一つ手を付けず「命を大事に」とかいっても、無意味なのである。

無理やりに一か所に人間を集めて、なにか一つの「仕事」をするわけでなく、ただ生活をして、その中で「成績」を競い合う・・・。

てなにか不自然な場面であると思う。仕事は「共に共通の利益を追い求める」ってのがあるが、それも軍隊や近代工業化社会の特異な様相である。ただ集まって「時間をつぶす」ような場面にいると、だれか犠牲にして時間つぶしを行われるのは必然でもある。
「学習」といえど、はたして一日10時間ほど、無理に一か所に詰め込まれるのは、はたして、人間の自然に合致しているのか?

疑問である。

不自然な場面で「対応する」ために、「弱いモノをいじめる」という対処法を為していると思える。

川端裕人のブログ  より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・
民俗学者・岩竹美加子氏の論文「国家の装置としてのPTA」を紹介します2(入会、従属的な団体としてのPTA

民俗学の岩竹美加子氏による「国家の装置としてのPTA 」、最初のセクション「A小学校のケースから」から、引用しつつコメントをしていく。
「内なる異文化」を見据える民俗学者に、PTAはどのように映ったのか。
今回は、「入会」をめぐるセクションから。
ここでは、強制的な入会の問題と、PTAがとことん「従属的」な存在であることが述べられる。

大々的に引用しつつ、ぼくの実体験・取材体験に基づいたコメントをつけていく。
まずは、岩竹氏のお子さんが入学し、PTA会員になった際の強烈な違和感から。

 新入生の親に配られる『P.T.A.規約』を読んでも、活動の具体的内容はわからない。PTA会長の名で書かれた「PTA入会について」が加入申込書と共に渡される。そこには、PTAは「民主的に組織された団体」であり、「子どもが入学したら自動的に会員になるのではなく、本人の意思により入会していただく形をとっておりますが、PTAは大切な役割を担っていますので、全員入会される事が望ましい」ことが書かれている。



 岩竹氏が住んでいたのは杉並区。

 杉並区は、全区の区立小中学校のほとんどで、入退会が自由であると述べている希有な地域。

 しかし、この小学校PTAでは、せっかく任意性を伝えても、活動内容を伝えなかった模様だ。もったいない。
 とはいえ、PTAの活動はあまりに多岐にわたり、「ひと言で言えない」のが悩みなのだが。
 
 この場合、全員の入会を「望ましい」と感じているのは、PTA会長であり、加入前の非会員に、説明もなく「加入が望ましい」とするのは、やはり乱暴であろう。
 
 とはいえ、ほとんどのPTAでは、入会の任意性は明かされない。

 自動的に入会するのが当たり前になっているから、会の説明についても、テキトーに済ましてしまえる。
 だから、ここだけ読むと、むしろ、岩竹氏のPTAは「ずいぶんまし」にも感じる。

**************
 
 ちなみに岩竹氏は、入会確認書の「入らない」に○をして提出した。
 その直後──

副会長と名乗る女性から電話があり、冷ややかな口調で「全校で加入しないとなど言っているのはお宅だけ」で、「加入しないのなら、お子さんはPTA主催の催しに参加できない」と告げられた。参加できないというのは参加させないということであり、参加させないというのはのけものにするということである。それは、いじめの手法の一つであり、脅しでもある。


加入に関しては、選択肢があるかのような申込書を用意しながら、実際には選択はできない。また、入会しないと言っているのは親であるにもかかわらず、不利益は子どもに与えられる。いわば親の「身勝手」によって、子どもが困らされるという連帯責任的手法をとる。学校に「子どもを人質に取られている」という発言は、その後何度か聞いたが、これもそのケースであるだろう。


 ここで、重要だと感じるのは、まず、「参加できないというのは参加させないということであり、参加させないというのはのけものにするということである。それは、いじめの手法の一つであり、脅しでもある」という認識だ。

 そうだよな……あれを子どもがやったら、我々は「いじめはいかん」と言わなきゃならないところ。
 
 しかしながら、実は、入会時に「入らない」を選択した保護者が、まったく同じ文言で入会を事実上強要されたケースを同じ杉並区で聞いており、「任意加入を周知しても、全員が入るためのノウハウ」(いじめ手法を駆使したノウハウ?)を杉並区のPTAが発展させてきたのでは?という疑念にとらわれる。
 
「入会しないと言っているのは親であるにもかかわらず、不利益は子どもに与えられる」ことの不当性は、当たり前だが「入会しない親」ではなく、そのような仕打ちをする団体側にある。あまり当たり前のことなのだが、それがPTAでは見えにくいことを再確認。

 岩竹氏はのちに、この時、説得した副会長に関してこのように書く(「入会」のセクションではなく、もっと後の方だが、ここで紹介するのが相応しいと感じる)。

後になって聞いた話では、その副会長は態度が甘いとして硬派の役員から過去につるしあげを受け、精神性の下痢が止まらなくなった経緯があったという。
 つまり、抑圧されている側が、抑圧する側にまわるという構造がある……(中略)……その元副会長と2003年になって直接会う機会があった。会ってみるとその人は、意外なことに私の考えに理解を示し、PTAのあり方に疑問を持つ悩める母親の一人なのだった。


 抑圧されている側が、抑圧する側にまわるという構造!
 この分析の適切さときたら!
 
************

 結果的に入会した岩竹氏は、実際の活動を目の当たりにする中で、当初分らなかったPTA活動の内容を理解していく。

 その中で、PTAが非常に従属的な立場に置かれていることを見いだす。

地域組織に従属するPTA活動のあり方は、意図的なものである。たとえば、東京都小学校PTA協議会(都小P)のホームページは、「主催する事業はなるべく減らして、各地区の行事・事業の後援をさせていただこうと思っています」という考えを発信している。そこには、「滅私奉公」的志向が感じられ、PTAが本来目的としたはずのものとの乖離はあまりにも大きい。実は、主体性を持たず後援を主眼とする方向性は、PTAの歴史より長い。都小Pの発信は、社会教育の分野で1930年代を通じて強い影響力を持ち、連婦の系統と組織を体系化した片岡重助[1886-1962]の主張を想起させる。片岡は、「今日までの婦人会は単に事業のみに走ってその根底たる婦人の奉仕力を高めると言うことに無関心であった」が、これからは奉仕力を高めるべきだと説くのである。


 たしかに、多くのPTAでは主体的な事業が少なく、従属的なのだ。
  
 その年の会員が自発的に始めることなど皆無だし、「前例踏襲」を含めても、他団体に従属しない/依存しない事業は少ない。
 
 家庭教育学級のように、本来のPTA活動のキモともいうべきものも、自治体から予算がつき、委託事業となることで、逆に単なる義務と化すことがある。
 
 その背景に戦前、文部省が組織した連婦(連合婦人会)の系譜をみるのは岩竹氏の発見であり、この論文の目玉の一つなのだが、ここではこの程度で。
 
 なお、都小Pが「主催する事業はなるべく減らして、各地区の行事・事業の後援をさせていただこうと思っています」とするのは、岩竹氏の「読み」がやや滑っている感じがする(原文を確認していないので、確信は持てないが)。

 ここで言う各地区とは、区・市単位のP連をさしていると思われ、むしろ、個々のP連が、都小Pに従属的な立場で行う事業をすくなくしようとする意図とも取れる。
 
 また目下の東京都の教育委員会の施策の中で、PTAが主体的にかかわりうる余白があまりに少なく、緊急避難的に「主催する事業はなるべく減らし」となってしまったのかも、という邪推もする。

************

ともあれ、岩竹氏はとことん「従属的である」PTAについて、変われない理由ととしても、この従属性を挙げている。

2001年度のアンケートの回答を一つ引用してみよう。「私が学校に望んでいるのは、『安心して静かに学べる場』です。それすら危ぶまれているのに、町会とのつきあいのもちつきなどなくてもけっこうです。町ぐるみ運動会、バスハイクも歩こう会もラジオ体操も講演会もいりません。しっかりとした授業があり年1-2回の遠足があり、休み時間に子供達が仲良く遊べればいいのではないでしょうか。なぜそれ以上母親が時間をけずってPTAの仕事をしなければならないのかわかりません」。それは、会員同士の会話でもしばしば耳にする意見である。


会員の意見がどうであろうとPTAには手伝いをやめる権利、或いは手伝いの内容を変える権利はない。2002年度のPTA広報誌には、育成会行事のスリム化を図りたいが、PTAが育成委員会に付随した立場であることから、大きな改革はむずかしいことが書かれている。また、会長の話では、教育委員会が示してくる年間計画は、区内の小学校の計画の一端としてのものであり、A小学校だけ変える、或いは減らすことはできない、それは育成会行事に限らないという。


毎年事業内容についてのアンケートがあり、それを公開するというのは、ぼくは実はうらやましい。

ぼくが知っているPTAではそれを怖がってやらない。また、すったもんだの末にアンケートをとった上で、「いいとこ」しか公開しないこともある。

岩竹氏が引用している保護者の声は、非常に示唆に富むと思う。

学校での子ども生活について、「しっかりとした授業があり年1-2回の遠足があり、休み時間に子供達が仲良く遊べればいい」というのは、ミニマム(に近い)要望だと思うのだが、「しっかりとした授業」がままならないケースは、いつの時代にもあり、そんな時に、それをなんとかしようとする保護者側からの働きかけよりも、「町ぐるみ運動会」や「バスハイク」「歩こう会」や「ラジオ体操」や「講演会」に、労力を吸い取られるのは本末転倒だろう。

そして、「会員の意見がどうであろうとPTAには手伝いをやめる権利、或いは手伝いの内容を変える権利はない」というのは本当にそうだ。

これについては、本当にひどい実体験(身近な者の体験)を事例として持っており、身につまされる。

(つづく)



・・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり



なんというか、日本の「軍国化」は戦前・戦中とあったが、マイルド化・看板の掛け代えで「戦後」も続行して、完成したのであると思える。

一種の「マイルドスパルタ」が日本である。

スプートクニですら「日本の教育は厳しい」と書く。

上記文抜粋
・・・・・・・・・

ミレル氏
「ロシアにも日本にもひきこもり現象はあり、ひきこもりになる理由も似通っていますが、日本の方が早くひきこもりということを取り上げ、大きな問題として扱っていると思います。
日本は教育システムも厳しく、それについていけない子どもは、自分は完全な存在ではないとコンプレックスを抱いてしまいます日本では家庭内の問題を外に持ち込むことはしませんし、面子を守るということがとても大事です。例えそれが表面的なマスクであったとしてもです。

そういうマスクを被り続けることに疲れ、社会の圧力から脱していく人が出てきます。

私の考えでは、ヒッキーはロシアにそうは多くないと思いますが、自らの意思で社会と隔絶しようという人の例はたくさんあります。

そういう人たちの理由は、まず両親からの無理解・無関心です。

そして学校や学校のグループ、または自分が『こうあるべき』だと思っている基準や要求に、応えられないということも理由です

続きを読む: http://jp.sputniknews.com/opinion/20160914/2774651.html




・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり


何か厳しいか・・一切の逸脱、リタイヤ、路線変更を許されず、満員電車の中で延々と学習を続けるという、微妙でかつ深刻な強迫を受け続ける教育システム。


その中で鍛え上げられた「社畜・奴隷」は、異議も抵抗もせずに、放射能・悪政を甘受して死んでいく。

さらに「超奴隷・超社畜」になるために、青春の時間を捨てて「部活」という改造工場に身を投じて人でなしに進化する。

参考 共時的なものを感じる。 殺しやすくなると、自分の心を殺しやすくなる・・。 

日本を本当に一回終わらせないと、いけない。

教育・国家・社会・をリセット。明治を辞めて、もう一回自分で考え直さないといけない。



お読みくださりありがとうございます。
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無題
  • from 実家は浄土真宗 :
  • 2016/09/26 (17:31) :
  • Edit :
  • Res
ちょいと日本の学校教育において個人的に引っかかったことを2つくらい指摘。

・渡辺京二の『逝きし日の面影』ではないが、日本の大多数の庶民にとっては、今日に至る学校的価値観など、たかだか百数十年の歴史しかない。
・80年代後半を中心に、いわゆる管理教育を批判していた人々は、高い確率で同時に「欧米出羽守」でもあった。

だからあのくるくるパーマで欧米的な甘い雰囲気を醸し出していた小泉さんにいいようにされちゃうんじゃないの〜?と個人的に思うんだが??
Re:無題
2016/09/26 20:01
>ちょいと日本の学校教育において個人的に引っかかったことを2つくらい指摘。
>
>・渡辺京二の『逝きし日の面影』ではないが、日本の大多数の庶民にとっては、今日に至る学校的価値観など、たかだか百数十年の歴史しかない。
>・80年代後半を中心に、いわゆる管理教育を批判していた人々は、高い確率で同時に「欧米出羽守」でもあった。
>
>だからあのくるくるパーマで欧米的な甘い雰囲気を醸し出していた小泉さんにいいようにされちゃうんじゃないの〜?と個人的に思うんだが??


その通りですよね。

明治からそれが始まったのですから、それを終わらないと。

明治はやはり、無理と悪事の巣窟でした・・。

書き込みありがとうございます。
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