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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
国際秘密力研究 より

上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:破グノーシス主義。両建の一角であるグノーシス一派を斬る。

〇最近方々で「グノーシス」という言葉を目にする事が増えた気がするのでグノーシス主義について分析しておく。グノーシス主義は「認識論上の錯誤から生まれた形而上学」というのが吾人の分析である。人間の心の問題を物質の問題に転嫁したのである。物質に対する「欲」の問題を「物質が悪い」とした。

〇何かを認識して反応を起こす事から人間社会の善悪の問題が生じる。この認識論的な仕組みを錯認して「何かを認識して起こす反応」ではなく「認識された何か」を「悪」だと見誤った訳である。泥棒が物を盗むのは泥棒が物を認識した時に起こした「欲」の問題であって盗まれた「物」自体が悪いのではない。

〇グノーシス主義者は人の心の問題を全て外界に投影するので「物質世界は悪」と断定する。それに対して人の心は外界である物質世界とは違う「霊」の世界なので無条件に善と断定する。このように「心を正す」「心を統御する」という方向性ではなく認識対象である「物質世界」を悪と断罪する方向性になる。

〇このようにグノーシス主義は「物質世界は悪」と断定する「反宇宙的二元論」なので「世界を破壊する」という恐ろしい虚無思想に繋がりかねない危険性を持っている。「グノーシス派」を名乗る裏権力の一派はこのグノーシス主義の破壊的側面を人工芝工作のイデオロギーとして利用しているのだと分析する。

〇「グノーシスが~」と異様に絡まれた事があるが、「一神教を批判しているからグノーシス派は善玉」という事にはならない。一神教勢力とグノーシス勢力は両建と考えるべきである。グノーシス派を名乗る勢力は具体的に言うと英国系や仏蘭西系の石屋であろう。例えばクロウリー一派の「グノーシス教会」。

〇プロ又は紐付き系の陰謀追及界では大抵、猶太・基督教の側に立ってグノーシス主義を叩くか、グノーシス主義の側に立って猶太・基督教を叩くかのどちらかである。「どちらも批判」はない。ここでも「両建」の認識が重要となる。両派閥が結局ワンワールドに誘導している事を見抜き両方批判すべきである。

〇今挙げた「一神教派VSグノーシス派」両建構造はウヨサヨ抗争と基本的に同じである。一神教だの、グノーシスだの、何だか思想的に「高度」に見えるので幻惑されやすいかもしれないが、やっている事は左右両建抗争と同じなので、気後れする必要は全くない。重要なのは基本的な仕組みを見抜く事である。

〇グノーシス主義をここまで批判するとまた敵を増やした事であろう(笑)陰謀追及に於いては批判対象が偏り過ぎると両建工作に嵌められてしまう恐れがある。一神教(猶太・基督教など)、神秘主義(グノーシス主義など)、理性主義(ボルシェビズム、フェビアン主義など)の全思想派閥を分析・批判すべき。

〇形而上学は大抵認識論的な錯認から生じると考えている。「認識論的な錯認」は「認識論的な吟味の不足」や「人間の認識能力を超えた判断を下す」事を主な原因として生じると思う。認識の機構を十分に吟味しないままで、しかも認識・経験し得る現象を超えてあれこれ断定するから様々な形而上学が生じる。

〇「グノーシス・カトリック教会」を作ったアレイスター・クロウリーは猛烈に基督教批判をしているが、基督教とクロウリーのオカルト思想は外面的権威(「造物主」という概念)を絶対化しているか、内面(「真の意志」という概念)を絶対化しているかの差に過ぎない。認識論的考察を飛ばした独断である。

〇基督教の「外面実体主義」(外面に実体を想定する主義)に対するクロウリーの「内面実体主義」(内面に実体を想定する主義)の関係は、自然を超越する所に「神=実体」を想定する基督教や猶太教の思想に対して「自然」が「神=実体」だとしたスピノザの関係に比せられる。実体を設定する点では皆同じ。

〇汎神論も一神論もそれを信じている者にとっては単なる理論以上の「信仰対象」です。理論的に厳密に究明する事と具体的な個々人の内面を尊重する事は両立します。順番の問題でも二択でもありません。「信仰」を強いられず、物事を自由に批評できる世の中でありたいものです。
「汎神論も一神論も、理論は理論に過ぎない。キリスト教もユダヤ教も、生きて、信じてこそ価値あるもの。理屈述べる前に、自らの信仰を生き、自らがしんじるように、相手の信仰を尊ぶことを覚えましょう。」

〇「理論は理論に過ぎない」と言うが「理論」を甘く見過ぎている。「理論」は自分の命を投げ出したり、他者の命を奪う所まで人間を駆り立てる事がある。誰かが製造した「理論」を注入された人間はその「理論」のプログラム通りに動くようになる。だからこそ陰謀追及上「理論」の解析は重要なのである。

〇例えばマルクス・レーニン主義や毛沢東主義は歴史上最も大量の人間を殺害した「理論」の一つである。宣教師が教えた教理はキリシタン信者を「殉教」を至上の喜びとする程にまで仕立てた。「理論」は単なる「理屈」以上の感情価を帯びた「世界観」であり、人間の情念を掻き立て死地に赴かせる事もある。

〇主体的に選び取った「理論」なら「行動原理」と言い得るが、洗脳的に刷込まれた「理論」なら人間をロボット化する「作動原理」だと言える。しかも「主体的に選び取った」ように見えて、実は巧みに刷込まれたものだったりする場合があるので余計に厄介である。常に自分自身の思考を点検する必要がある。

〇特定の教義を信じるという意味での「信仰」が世の中の根本だという断定は基督教社会に由来する考えだと思う。東洋的伝統では信仰より道徳を重視する。加えて道徳の中身自体を自由に批評して吟味し得る自由が保障されるべきである。日本人はそうやって自ずと生成した「道理」という感覚を重んじてきた。

〇「グノーシス主義は心の問題を物質の問題に転嫁させた」と書いたが、「心の問題」と言っても「個人の心の問題」とは限らない。「心」とは単なる個人の内面だけではなく共同主観もある。共同主観が約束事として社会的制度を作っている。そもそも人間は社会の中で内面を形成する(言語の習得が典型)。

〇制度も人間の心に依存して成立する以上「心の問題」と言えない事はないが、「心に還元する」事は出来ない。Aに依ってBが存在するからと言って「Aを知ればBが分かる」という事にはならない。だから還元主義では分からない。人間の心理に依存するとはいえ、社会や制度にはそれなりの独自の存在性がある。

〇だから心理学と社会学は分かれている。「心の問題」と言うと何でも個人の心の問題に還元する誘導もあるので念の為に書いた。「物質が悪い」というのは論外の形而上学だが「社会のせいにするな。全ては自分の心次第」という誘導もある。陰謀などの社会問題は物質の問題でも「自分の心」の問題でもない。

〇世の中は持ちつ持たれつの関係性(これを究明するのが「科学」)で成り立っているので「全ては自分の心次第」というのは論理的に成り立たない考えである。物とも心とも言えぬ「社会」という領域がある。自己責任論は権力(犯罪)者が自らの責任を回避して一般庶民に責任を押し付ける為の便法である。

〇唯識は心を「依他起」即ち「他に依って起る」とする。「あらゆる対象が心理的現象(感覚・表象・思考)として現れる」という洞察と「全ては自分の心次第でどうにでもなる」という独我論的断定は全く異なる。自分の心自体が思い通りにはならない訳である。例えば視覚・聴覚は意思とは無関係に生起する。

〇もしグノが責任転嫁しない教えだとすると「自分の心の制御に責任を持つ」という考えを受け入れないといけなくなるが、それだと「物質=悪」と断罪する解釈はおかしいという事になる。霊肉二元論に基づき精神=善・物質=悪と断定する以上「精神は間違う事がある」という前提とは論理的に矛盾が生じる。

〇グノーシス主義者は批判者をキリスト教だと決めつける傾向あり。「思想」が絡むからといって別に「高度」な話ではない。ウヨクが論敵をサヨク、サヨクが論敵をウヨクとレッテル貼りするのと全く同じである。両建の片割れは批判者を敵対派閥の人間だと決めつける。キリスト教とグノーシス主義は両建。

〇グノーシス思想の研究者によるとグノーシス思想は古代猶太教及び原始基督教の周辺に成立した思想群との事である。元々猶太教・基督教の周辺に成立した思想群なので猶太教・基督教を強烈に意識している訳である。だから批判者が全て耶蘇に見える。地中海・オリエントの域外は全く見えていない訳である。

〇グノーシス思想とは「人間則神」論である(※この「神」とは超越者概念なので我が国で言う「神」とは全く異なる事に注意)。外在的な猶太教・基督教の「神」を人間に内在するものと捉えた「人間至上主義」である。超越者概念・実体概念を外に置くか内に置くかの違いに過ぎない。だから両建同根である。

〇原始仏典に「世の中の美しい物はそのまま存在する。問題はそれに対する欲望や執着である。」という趣旨の事が書いてあったと記憶する。これはそのままグノーシス批判として読める。吾人の認識論的考察はこれと同じである。「キリスト教の貼り付けたレッテル」とはそれこそ愚かなレッテル貼りであった。

〇理論的な批判に対して感情的に反発し「キリスト教が貼り付けるレッテル」などと決めつける「グノーシス主義者」の姿を見て宗教の一種だと再確認した。これまでに何度も遭遇した宗教信者やカルト工作員と全く同じ反応だった。あれが「グノーシス」なら「グノーシス」とやらも大した事が無いと言えよう。

〇信じる気があるとかないとか説得するとかしないとか言っていたので、その点を見てもやはり宗教と同じだと思った。相手が信じていようとなかろうと道理や論理に基づいて説得し、事実なら受け入れざるを得ない。そういう営みが哲学だとすると先方が言う「グノーシス」が哲学でない事は明らかであろう。

〇もし宗教でなく哲学であれば「物質に対する欲の問題を物質が悪いと錯認した」という指摘に対してレッテルを貼り付けるなど感情的に反発する事無く「欲望は肉体に属する。肉に属する欲望は霊魂とは無関係」とかなんとかと応答すればよい。それをどう実証するの?というツッコミはさておき問答にはなる。

〇さすれば今度はこちらが「欲望は心で感じるのでは?肉体に属する欲望を心で感じるという事は精神と肉体が画然と分かれているというグノーシス思想の前提が崩れる」などと再応答する。こうやって問答が続いていくのがあるべき哲学的議論の姿だと考える。盲信者とはこういう冷静な議論が成り立ちにくい。

〇「心の問題を外部に責任転嫁してるのってキリスト教の方」というG氏のエアリプに応答する。「の方」ではなく「も」なら同意。キリスト教は人間の心の問題を「十字架で処刑された一人の男を信じる事で解決できる」とする。戦国~江戸時代の日本人の失笑を買った幼稚な教理である。新井白石も呆れた。

〇それに比べるとグノーシスの教理はまだしも一見「話せる」感はある(実際にはグノーシス主義者は基督教原理主義者と同じく「話」が通じないのだが)。だが、それとて検証不能な形而上学的世界観に基づいている点ではキリスト教の幼稚な教理とどんぐりの背比べである。だから耶蘇とグノを破両建する。

〇基督教では心の問題を「悪魔」のせいだとする。人間は原罪を負った存在なので人間には善性の根拠はないとも。このように善も悪も外在的なものとして表象する。ここには「自己の心に責任を持つ」「自己統御」という考えは出てこない。「悪魔を払う為にひたすら造物主を信じる」という信仰の世界に陥る。

〇これに比べるとグノーシスの「肉体は悪」「物質は悪」はいくらか脱神話化していると言えるが、心の問題を外界に投影している点では同じ。400年前の日本人が一笑に付した基督教の教理よりはグノーシス思想の方がまだしも論じるに足りる。だからわざわざ分析した。逆に感謝して貰いたいくらいである(笑)

〇「グノーシス主義は知識を重んじる」と言うが迷信や形而上学、作り話の類にも膨大な「知識」がある。肝心なのは「検証に耐えて正しいと確かめられた知識であるか否か」である。グノーシス思想の教理は形而上学であり基督教のそれと同様、正しいと確かめられた「知識」ではない。ここにすり替えがある。

〇「自立と真実に向かう事がグノーシス主義のテーマ」とするが、真に自立と知識の尊重を言うならグノーシス主義すら相対化せねばならない。認識対象としての教理に執着している(仏教で言う、見解への執着=見取)間は対象に依存しているので「自立」した状態にあるとは言えない。「法すら執着するな」。

〇知識や理論は執着し依存する対象ではなく、執着せず依存せずに使いこなすべき道具である。極端な反知性主義である基督教への反動からかグノーシス派は知識崇拝と言ってよい状態にあるが、知識も執着するとかえって人間を奴隷にする。実際、基督教の教理も言葉や表象で作られた「知識」の塊なのである。

〇どんなに迷信的な宗教教義といえども言葉≒概念でできている以上「知識」である。肝心な事はその「知識」が検証に耐えて妥当性を確かめられているかどうかである。そして一端妥当性が確かめられても常に吟味の対象としてその「正しさ」を検証する柔軟性も大事である。そうしないと思考の硬直化を招く。

〇理論についても似た事が言える。理論の考察を軽視する者に限って特定の理論に囚われている場合がある。重要なのは「理論を知っているか、知らないか」という事ではなく理論に「とらわれない」事である。各種理論を十分に考察して性質を見極めると鑑識眼が鍛えられ理論に対する執着がかえって無くなる。

〇対象の性質を理解する事で対象への幻想が消え執着を離れる。これは陰謀追及上役に立つ資質である。陰謀追及上、様々な思想的なトラップの類が仕掛けられているからだ。最近の「グノーシス派上げ」もそれだと睨み警鐘を鳴らした次第。各種の知識や理論を幅広く把握した上でとらわれないのが理想である。

〇原始仏教では「如実知見→厭離→離貪→涅槃(無執着)」というプロセスを繰り返し説くが、これは形而上学ではなく人間の認識のプロセスを観察した結果得られた経験則だと思われる。対象を厭い離れ対象への貪りを離れるには対象を如実に観察する事が有効だという経験則だろう。参考になる考え方である。

〇「基督教は思考停止」というのはちょっと違う。「思考停止」ではなく「思考誘導」と言う方が正確。洗脳とは思考が停止しているのではなく各種ドグマを思考対象として執着している状態である。本当に余計な思考が停止しているならドグマにかかずらわない。淡々と目の前の事をしっかり行うだけである。

〇グノーシス主義者は「グノーシス主義はキリスト教の思考停止の奴隷状態から救う」とするがキリスト教の教理という思考対象から引きはがしてグノーシス主義の形而上学という新たな思考対象に繋ぎ止めるだけになり結局は同じ事の繰り返しになる。思考対象への執着そのものを制御しないと結局は奴隷状態。

〇「グノーシス」の内容は空想に基づく検証不能な形而上学なので「知恵」の名に値しない。それによってキリスト教から「解放」されてもまた新たな精神的監獄に収容される。観念体系自体を相対化して、それらへの執着を離れなければ同じ事の繰り返し。各種東洋思想はそれ自体への執着を戒める点で良心的。

〇「基督教からグノーシス主義へ」という事の本質を的確に表現すると次の如し。スッタニパータ791「791 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、煩悩の動揺に従っている人々は、執著をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。」

〇西洋思想の枠内で基督教を批判したければグノーシス主義よりニーチェの方が参考になると思う。ニーチェは西洋形而上学の伝統を猶太教・基督教とプラトン哲学にまで遡って根底から批判している。それに比べるとグノーシス主義はプラトニズムと同様の西洋形而上学の枠内どころか重要な起源の一つである。

〇ニーチェ以降の西欧現代思想は基督教的枠組みを批判し相当程度相対化した。ニーチェと同時代人のマッハは基督教の「神」どころか「自我」「物質」という西洋哲学の伝統的な実体観まで排除した。基督教を批判するのに何故今さら実体観を引きずる古代思想を持ち出す必要が?というのが正直な感想である。

〇もっともニーチェは基督教批判では参考になるが力を賛美する西洋覇道的な心性を持っている所があるのでそこは差し引くべきである。過去の思想哲学は参考にできる部分だけを参考にするという姿勢で臨むべきである。全部鵜呑みにするのは危険。孟子が「書を全て信じるなら書は無い方がよい」と言う通り。

〇「キリスト教からグノーシス主義へ」というのは執着の対象が変わるだけで「見解への執着(仏教で言う「見取」)」自体は変わらず残るのである。その点、「川を渡ったら筏を捨て置くように、用が済めば法への執着すら捨てよ」とした釈迦の姿勢は良心的だと言える。各種思想哲学は参考に留めるのが安全。

〇キリスト教的な権威主義の転覆を掲げる者がキリスト教的な権威主義でマウンティングしようとするなど西洋の枠内では普通の事だ。反権力を掲げる者が権力に固執している事はよくある。例えば「民主主義を守れ」と叫ぶ横文字左翼は独善的で暴力的である。反権力に見せた強い権力欲の表れと言えるだろう。

〇グノーシス主義はこの世界を「デミウルゴス」という悪神が作った邪悪な世界と考えるので、既成秩序の転覆を目指す人工芝革命工作に好都合が面がある。既成秩序を全転覆させる否定の論理を持っているのである。これが人工芝革命工作組織が「グノーシス派」を名乗っても不思議ではない理由の一つである。

〇しかし古代のグノーシス主義は世界自体を邪悪なものと考え、そこからの解放を志向するので「世界を変える」という発想は持たない。古代のグノーシス主義者の意図は「物質世界からの魂の解放」なので「グノーシス主義による世界革命」というのは古代のグノーシス主義からは全く考えられない発想である。

〇イルミナティも同様。イルミ創設者アダム・ヴァイスハウプトはセネカの書簡を入門者のテキストに指定するなどストア主義の影響を受けていたが、古代のストア主義は「万物はロゴスの必然性に従い、運命が定まっている」という予定調和説なので人為的に世界を改造するという発想にこれまた結び付かない。

〇このように「グノーシス派イルミナティ」という組織名は古代思想そのものからすると色々おかしいのである。そもそもグノーシス主義とストア主義は宇宙観からして相容れない。前者は宇宙を悪だと考え、後者は宇宙はロゴスによって支配される善なるコスモスだと考える。秘密結社の連中は支離滅裂である。

〇結局、裏権力は古代思想から都合のよい部分を借りて世界の征服・支配を正当化するイデオロギーを製造していると言える。その源泉はシュメール・メソポタミア、エジプト、イラン、ギリシャなど地中海・オリエント世界の各種思想・宗教である。猶太思想もこの源泉(特にシュメールとエジプト)から出た。

〇裏権力は色々な思想哲学をごった煮して種々の「理論」を製造しているが、各種思想哲学の系譜を客観的に遡ればそのインチキが判明するので騙される事はない。裏権力は特定の「思想」によって導かれてるというより「世界支配」という「妄執」「執着」「欲望」に駆られていると捉える方が正解だと思う。

〇自分の身心(感覚や思考)を常に観察し続けて欲や怒り、妄想などに囚われないように気を付ける事が己を内側から守る最強の防御法だと考える。何から守るか?洗脳・心理操作、ドグマ、迷信・オカルト(救世主妄想、予言・預言・占いの類など)、メディアが刷込む価値観、宿命論(「NWOは不可避」等)等々

〇人間の心は「①感覚や思考で何かを認識し②快・不快を感じ③快には欲が、不快には怒りが生じる」という認識と反応の過程と捉える事ができる。何かを認識し、そこに欲や怒りを出すか否かが分かれ目になる。だからそこに気を付ける。無駄な反応を起こさないように制御する事が心理操作に勝つという事。

〇予断や色眼鏡を交えずにありのままに現象を観察する所に「知恵」があると考える。狭い世界観の中に閉じこもり異なる考えの者を排斥し拒絶する所に「知恵」はない。グノーシス主義者の言う「グノーシス」は単なる妄想的思考に過ぎない。怒りは観察力を鈍らせるので、すぐに怒る者は知恵者とは言えない。

〇自称「グノーシス」一派は異論者をブロックして己らの殻に閉じこもる傾向がある。自分たちの世界観に閉じこもり、その世界観を脅かす存在を認識からシャットアウトしてその世界観を守ろうと必死に執着する。まさにカルト。例えばこの認識のメカニズムをありのままに観察する事が「知恵」の名に値する。

〇西洋神秘主義者は「認識力を拡張して通常の感覚では見えないものが見えたら偉い」という前提を持っている。薬物や脳の異常で「通常の感覚では見えないものが見え」たりするのである。それが「偉い」と考えるのはア〇らしい。何を認識しても対象に執着して引きずり回されたりしない事の方が重要である。

〇「見えないものが見えた」と言って執着するのはある意味モノに対する執着するより厄介で危険かもしれない。モノに対する執着は現物がないと何とか諦めもつきやすいが、現物が無い幻覚や空想に執着すると際限がないからである。カルト盲信者が只の守銭奴以上に「怖い」感じがするのはこれが理由である。

〇オウムが「超越世界」という気味の悪いアニメを作っていたようだが、西洋神秘主義者は通常の知覚経験を超えた異常体験を「超越」として執着している。だから時に薬物に手を出したりする。ニューエイジの理論家で神秘主義にLSDを取り入れたティモシー・リアリー(CIAの洗脳実験の協力者)がそれである。

〇アニメ業界や漫画業界にはG氏みたいな自称グノーシス主義者が多いのだろうか?確かにアニメ・漫画や映画、音楽(特にMV)などには様々な結社のシンボルや思想が埋め込まれている事が多い。どういう仕組みやルートで結社の影響がエンタメ業界に及んでいるのかについても改めて興味を持った次第である。

〇「グノーシス」とは「認識」という意味だが、自称グノーシス主義者は現実の現象をありのままに観察しようとしない。形而上学的な独断に執着しているのみである。吾人が考える「知恵」とは、現象を観察する事、欲や怒りなどの感情を統御する事、論理的に思考する事、他者の気持ちを慮る事、などである。

〇「無記」とは全く特別な事ではなく「断定できる事は断定し、断定できない事は断定しない」という当たり前の思考の原則に過ぎない。現象として経験・検証・確認ができない形而上学的命題などの断定できない事柄を断定する方がおかしいのである。各種思想工作員はこの「無記」をとりわけ忌み嫌っている。

〇「グノーシス」とは「認識」や「知識」という意味なのに現実の現象を認識しようとせず、根拠に裏付けられた「知識」を軽視する自称・グノーシス主義者。彼らの言う「グノーシス」とは専ら「人間は神である」等の形而上的世界観に関わる「認識」。西洋のオカルティストは「超感覚的認識」に執着する。

〇某人がグノーシス主義と仏教を付会していたが、原始仏教はグノと対照的な非形而上学的な現実的思考方法をとる。原始仏教に於ける「認識」とは人間を構成する五つの要素(五蘊=色受想行識)や認識を構成する12の範疇(眼耳鼻舌身意・色声香味触法)という知覚経験し得る現象を如実に観察する事である。

〇五蘊=色受想行識=肉体・感覚・表象・意思・認識(思考など)。十二処=眼耳鼻舌身意・色声香味触法=感覚・表象・思考など人間の認識作用と認識対象の全て。これら現実の現象を観察し無常・苦・無我という性質を如実に見る(如実知見)→厭い離れる(厭離)→貪りを離れる(離貪)→無執着(解脱)

〇観察できる現実の現象に関しては明確に「無常・苦・無我」と断定し、観察できない形而上学的命題については断定を避ける「無記」で臨む。両者とも無執着で対処する。これが原始仏教の現実的な思考方法である。これは信仰とは全く異なる極めて経験主義的で合理的な思考方法なので度々参考にしている。

〇このように形而上学的思考を無記で排し、経験・検証・確認し得る現実の現象のみに対象を限定して客観的に観察する方法を取る仏教の現実的思考法はグノーシス主義の形而上学的思考法とは全く異なる。グノーシス一派の最初の因縁付けが「仏教とグノーシス主義は同じ」というものだったので再度考察した。

〇西洋哲学ならエルンスト・マッハの思考方法の方が仏教の認識論に似ている。マッハは伝統的西洋哲学の「自我」や「物体」という概念の形而上学性を見抜き、純粋な経験から出発して科学を根底から再構築しようとした。現象世界は感覚要素の複合で成り立っているとし自我や物体という実体概念を排除した。

〇そう言えば自称・グノーシス主義者が「グノーシス主義を批判する者はそのうち消される」みたいな事を言っていた。そもそもこの手の発言をする時点でお里が知れる訳だが、一体どの筋が蠢いているのかは興味深く思った。やはりここ数年の「グノーシス派上げ」は組織的な人工芝工作の可能性がありそうだ。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1012743539967422465


(了)


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抜粋おわり

>〇「グノーシス」とは「認識」という意味だが、自称グノーシス主義者は現実の現象をありのままに観察しようとしない。形而上学的な独断に執着しているのみである。吾人が考える「知恵」とは、現象を観察する事、欲や怒りなどの感情を統御する事、論理的に思考する事、他者の気持ちを慮る事、などである。


天皇制的精神主義と同じに思える。

ていうかグノーシス主義は、洋風天皇制かな。

あるいは和風グノーシス主義が天皇制。

で、特攻で国土が放射能だらけでも平気だ。

てぼやいてみた。


お読みくださりありがとうございます。
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  • from 11 :
  • 2018/07/16 (15:06) :
  • Edit :
  • Res
>〇アニメ業界や漫画業界にはG氏みたいな自称グノーシス主義者が多いのだろうか?確かにアニメ・漫画や映画、音楽(特にMV)などには様々な結社のシンボルや思想が埋め込まれている事が多い。どういう仕組みやルートで結社の影響がエンタメ業界に及んでいるのかについても改めて興味を持った次第である。

京都の「烏丸通り」を思い出しました。(検索で烏丸せつ子に・笑)

>・鹿児島県にある旧烏丸産婦人科
2018年2月1日に発行された「官報」(号外第22号)で、 瓶に入れられてホルマリン漬けにされた胎児が15人発見されたことが報じられている。発見された場所は、鹿児島県にある旧烏丸産婦人科(鹿児島県鹿児島市松原町15-6)。

http://tokumei10.blogspot.com/2017/12/blog-post_90.html

この国の不思議さが此処にもありました。(みつけ・・た・よ)
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