忍者ブログ
故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/04     03 < 10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  > 05
Admin | Write | Comment
P R
 逝きし世の面影  より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
「子供」を利用するやつは大嫌いだ

・・・・・中略・・・・



『手品(詐欺)の種明かし』(子供政治家橋下徹は嫌いだ)
あっと驚く大掛かりで奇想天外な手品でも、どれ程巧妙で大胆な詐欺でも同じで、常に騙しのネタ(原理)は馬鹿馬鹿しい程簡単な構造で、分かってしまえば『その程度のアホ臭い「子供騙し」だったのか』と、騙されていた人々が驚くほどである。
自分が今まで感じていた疑問点に対して簡単明瞭『まったく、その通りである。!』と明解に指摘している文章に出会うと、滅多に無いことなので実に嬉しい。
摩訶不思議な超難問に対する解決の糸口が、何でもない些細な出来事の中に隠されていることが良くある。 赤旗の外部有識者投稿コラム『波動』は、以前から思っていた事実を分かりやすく解説し素晴らしい出来上がり。

『「ぼく」への違和感』
『あの「従軍慰安婦発言」とその後の騒動については、既に多くのところで論じられているので今更改めて書くことも無いと思いつつ、かねてから気になっていたあの人の言葉使いについて少し考えてみた。
橋下徹大阪市長は大阪府知事時代からずっと、つまり政治家になってから一貫して自分のことを「ぼく」と言う。 もちろん公の場で、だ。
ええ歳して、知事が「ぼく」かいな。最初の頃の印象だ。 わたしの周辺で市長の「ぼく」をどう思うか聞いてみた。「まあ、タレント時代からですしねぇ」「もう慣れましたよ」「あれが親近感を呼んでいるのでは」と、あまり気にならないとの反応が多かった。
いやしかし、やっぱり違和感をぬぐえない。
試しに手元の現代新国語辞典で「ぼく(僕)」を引くと〈おとなが使う場合は、「私」よりもくだけた言い方で、対等または目下の者に向かって使う〉。 また広辞苑では〈今はおもに成人前の男性が同等以下の相手に対して使う〉。
辞書の説明を振りかざして「可笑しい」と指摘したいのではない。 橋下市長の「僕」は単に言葉使いの問題ではなくて、政治家としての姿勢に直結する根深い問題をはらんでいると思えてならないのだ。
囲み取材の最中に激高して記者を罵倒する。あるいは拗ねて「もう囲み取材は受けない」と打ち切る。気に入らない人間を「バカ」と罵る。自分を批判する相手を勉強不足と決め付けて「もっと勉強せよ」と言い放つ・・・。 ところ構わない感情の発露。自分は何でも知っているという全能感。
公人中の公人、政治家が公の場でみせる態度としては、わたしにはいずれも信じられないのです。 だがしかし、これが「成人前の男性」の態度ということなら合点がいく。あきらめる。 「ぼくは何も悪くない。悪いのはまわりなんだ!」と駄々をこねる子供がいたら、「まあまぼく、そういわんと。ちょっとおとなしくしとき」。そう言って終わるんですけどね。 相手は「大人」、それも強大な権力を持つ政治家なので、なだめ方わからないのです。』  
(6月16日赤旗「波動」 桜宮純一 在阪テレビ局報道記者)

『ピーターパンシンドローム(症候群)』
島崎藤村の『初恋』、まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき ・・・は少女の初々しい姿を描かれている。 未熟でまだ大人に成れないが最早子供でも無いモラトリアム状態の大事なキーワードは若い女の『前髪』で、少女だけではなくて少年も『前髪立ち』(元服前の少年が前髪を残している)など『大人に成る直前の子供』を表す象徴的な言葉として『前髪』がある。『大人に成れない』橋下徹は、以前は前髪を垂らしているのがトレードマークで『ぼくは何時までも子どもだ』と暗に主張していた。
大阪で好き放題に暴れまわった橋下徹だが、全国政党『日本維新の会』を立ち上げ最初の党首として引き抜こうとした(ヘッドハンティング)のが自民党元総裁の安倍晋三現首相だった。
ところが自民党総裁選前だったので、老舗の自民党に未練があった安倍晋三に断られ、次に橋下徹が目をつけた『全国区の有名人』が東京都知事の石原慎太郎。 橋下さんちのトオル君は『日本維新の会』の党首にと、わざわざ大阪から慎太郎に会いに行ったが、待ち受けていたのは慎太郎だけではなく老獪な平沼赳夫。
石原慎太郎と平沼赳夫という、日本を代表するエスタブリュッシュメントの(昭和の妖怪的な)『老人パワー』の前では、何時もなら無敵のトオル君の『子どもパワー』の威力が半減、まったく効き目がなく完敗。東京に向かう橋下徹は何時ものトレードマークの前髪立ち(正しくは前髪垂らし)だった。ところが、石原と平沼に恥ずかしい子ども姿を厳しく注意されて、 なんと、帰りは前髪を上げて自分のおでこを晒していたが大笑い。 以後は前髪を上げて現在に至っているが、トオル君が改めるべきは前髪ではなくて歳相応の大人としての言動である。 子ども以上だが大人未満でどちらでも無い不思議なモラトリアム状態を最大限利用していた橋下徹だが、今回は完全に壁にぶちあたり身動きが出来ないが自業自得である。

『子どもは大嫌いだ』
皆さんは御自分が子供だった時のことを完全には覚えていず、『過去の事実』ではなくて『こうであって欲しい』との願望を優先しているから『子供は嘘をつかない』とか『悪いことはしない』『無垢である』などと勘違いする。
事実は正反対ですよ。
羞恥心や責任感などを明確に自覚している子供を連想してください。 他人を思いやる心が有る子供。自分を相対化して見れる子供などは、大人とは大違いで極少数の例外でしかない。 自分のことしか考えず、恥じも外聞もない。 判断は周りの大人(親や教師)など権威有る存在に丸投げしているのが子供の真の姿であり、大人から比べれば決定的に劣った存在で有るにも拘らず、イジメ問題の続発と深刻化から判るように、自分よりもっと弱い存在に対しては実に残酷である。
無垢な子供は神話であり事実ではない。
長い時間と努力でやっと社会性の有る大人が出来上がる。 その逆(無垢な存在が段々と劣化して大人になって仕舞う)では絶対にない。 疎開先では都会者は例外なく苛められるが家財全部を米軍の機銃掃射で失い着たきり雀、我が家は誰よりも貧乏だった。隣の家では餓死者まで出るような有様。飢えと寒さで弱っている幼い子供に対して何も知らないくせに親の受け売りで『アカだ』『貧乏人だ』と平気でイジメを行うのが子供である。
『子供達を責めないで』の‏伊武雅刀ではないが、 私は自分がまだ小さかった時から無知で卑劣で鈍感で残酷な子供が大嫌いだったが、橋下徹のように子どもを装い悪事を働く大人は最悪な存在で許される限度を超えている。
(抜粋)


『極左暴力組織の危険なアンティファ(ANTIFA)のTシャツを着たグレタ・トゥーンベリ』

少女を象徴する長い髪や三つ編み姿のグレタ・トゥーンベリさんの着ていた”Antifa"のTシャツについて本人は「借りただけ」と説明しているのだが、・・・アンティファ(ANTIFA)とは極端な反政府極左運動組織であり、日本の反ヘイトスピーチの『しばき隊』とは大違いで、暴力を容認するネオナチの相似形の危険極まる過激組織だった。(ナチの鍵十字と同じ意味で、アンティファのTシャツを公開の場所で着て、「借りただけ」で済む話ではない)
★注
科学的にインチキな『地球温暖化』から、何時の間にか無難な『気候変動』に変えているが、気候とは必ず変動するもので『年を取った高齢者』や『頭痛で頭が痛い』のようなもの。台風の目の中に突入して測った世界最低気圧は870hPaで40年前の台風20号。74年前の日本敗戦時の枕崎台風856hPaの方が低いが、当時は台風の目に突入出来なかったので非公式記録。(気象観測は最近の数十年で飛躍的に技術や装備が進歩した。1日先の天気さえ正確に判断できない気象学者が100年単位で予測するなど笑止)
最近の30年間の台風など天気が比較的安定していただけで、温暖化が喧伝される1970年代以前の方が伊勢湾台風、室戸台風、第二室戸台風など超巨大台風が次々発生。遙かに気候変動は激しかった。

『もっと危険なフクシマ原発』
大雨被害の台風19号で二階自民党幹事長は党本部の緊急役員会で『予測されていたことから比べると、(被害は)まずまずに収まった』と語っている。(台風はフクシマと直撃したが原発の被害が小さいの意味か?)


パキスタン北西部の辺境地域で30年以上も女性教育を実践している日本人女性の『オバハンからの気まぐれブログ』

最年少の17歳のノーベル平和賞(2014年)のマララ・ユスフザイですが、パキスタンでは物凄く冷めて受賞を捉えた人が多かった。騒いでいたのは英米日が中心だったのではないのか?
日本では「パキスタンの保守派がマララを嫌悪している」 あるいは「中間層がマララを嫌悪している」と報道されていたが、パキスタンの人々は狭量のゆえにマララを嫌悪しているのではない。 
自伝「私はマララ」をきちんと読んだ知識層こそがマララを・・・というか、その背後にあるものと、反イスラーム的な表現が随所に見られることにパキスタンの人々は嫌悪感を示したのだろう。
マララが武装勢力に襲われ撃たれた時に乗っていたというスクールバス(トヨタのハイラックス)は荷台の床から荷台を覆っている幌の最高部までが150㎝、立って乗る人のために幌の天井部分に持ち手が4つ付いているから天井までの高さは実質140㎝。荷台の車幅は140㎝、荷台の奥行きは240㎝で、荷台の面積は畳2畳分よりやや広いくらい。
パキスタンの小中学生が通学に使うスクールバスと称する乗り物はスズキの軽トラか、ハイラックスに幌をかけ、ベンチ式の椅子を設置したものだ。
自伝「私はマララ」によれば、ここに2人の襲撃者が乗り込んで来て、「どいつがマララだ?」と聞き、ピストルを撃ったとなっている。 襲撃者が2人、スクールバスに乗り込んだら、最初に乗り込んだ襲撃者の立ち位置は荷台の真ん中に近く、車の天井までの距離を考えると襲撃者は当然やや屈みこむ。
マララと襲撃者との距離は、顔を接しておりピストルを持った手は伸ばさなくとも目の前にあった。 マララに対する脅迫、あるいは嫌がらせの意味で銃撃をするのであれば車外からでも出来る。大の大人がピストルを握った手を伸ばせば、荷台に乗りこまなくとも、荷台の真ん中あたりに坐っているマララに銃口は50~60㎝の距離にまで近づけられるのだから。
わざわざ車内に乗り込み、マララと顔が触れるほどの距離にまで近づいて3発も撃ったにもかかわらず、「あの程度の傷」で済んだのには、確実に殺そうとする意思はなく、むしろ確実に軽傷にするための至近距離だと知り合いは言う。また他の報道関係者の一人は「マララを撃ったのはゴム弾」であったと言い切っている。
第一、コルト45を至近距離で撃ち、弾が首を通過、鎖骨で停まっていたとは、どんな粗悪なコルト45であり、弾を使用したのだろうか。
パキスタンの人々は、まずスクールバスに乗り込んだという襲撃者2人の立ち位置と、マララの坐っていた位置を想像し、また粗悪すぎるピストルと粗悪な弾に大きな疑問を持ったのだろう。「オカシイ」、これには何か裏がある筈だと。
近年のノーベル賞は政治的な意味合いのものが多いので、「政治的」なものであると理解し、マララの果した役割(世界の人々に、未就学児童、特に女児の就学について考えさせたという意味合いで)は、評価される。2014/10/28
(抜粋)


・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・
抜粋終わり

> 私は自分がまだ小さかった時から無知で卑劣で鈍感で残酷な子供が大嫌いだったが、橋下徹のように子どもを装い悪事を働く大人は最悪な存在で許される限度を超えている。

同感。

私も反吐が出る・・・

人間って過つ生き物だ。過剰に責める気はない。

でもこのような糞ガキは、結局は反省も後悔もせず、残酷に他人を喰っている。

まさに天皇だ。


餓鬼の具現化。それが天皇であり、糞ガキである。


お読みくださりありがとうございます。
PR
Comment
Name
Title
Mail(非公開)
URL
Color
Emoji Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
Comment
Pass   コメント編集用パスワード
 管理人のみ閲覧
<< BACK  | HOME |   NEXT >>
Copyright ©  -- 渾沌堂主人雑記~日本天皇国滅亡日記 --  All Rights Reserved

Designed by CriCri / Material by White Board / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]