故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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桐生市いじめ裁判市民の会 より
上記文抜粋
・・・・・・・・
この国の教員の質
もともと教師の仕事には二面性がある。
ひとつは、子供の成長を助けるという側面。
もうひとつは、社会の要請にそって必要なことを教え込むという側面。
最初のポイントは、子供自体の意欲がなければ教育は成り立たないということと絡んでいる。
この点で、現在の早期教育は燃え尽き症候群、または無気力層を生むという社会現象を生み出している。
この点で、自分の成果達成を気にする教師たちは危険である。
次に、社会の要請とあった教育内容という点で、本当にグローバルに活躍できる人材を生み出しているかと言えばそうはいえない。
期待される人間像、そして公教育(国家教育)の目指すものが、初期には読み、書き、計算と愛国心教育であったことや、その次には
一部のエリートともの言わぬ労働力育成という目標が無理やり導入されたことで、現在の教育は歪められている。
一部の進学校を除き、進められているのはむしろ考えられない低学力生徒の育成である。これがないと、教師たちの再就職先でもある各種学校やボンクラ大学やインチキ学習塾の需要がなくなってしまう。実は文科省や役人もそこから利権を得ているから。
そして、見過ごせないのは、無理な教育。
これは有り余るほどの行事やコンクール、
競技をこなす雑炊学校に飽きた子供たちを統制するために必要なカポたち(看守または用心棒)として、知性の組織に入り込んできた、低学力教師が現場を蹂躙していることだ。
その顕著な例は、スポ根型の体育教師、彼らの多くは国体のメダル請負人として現場に入り込んでくる。
地方自治体のスポーツかかりなどもおいしい仕事である。
または通信制や教員免状を得て教育現場に入り込む者たち。言っておくがその全部が悪とは言えない。
しかしその脇道を通って教育行政を牛耳るようなことが各県で起きていると思われる。
ちなみに千葉県では不思議な現象がある。
日教組の右派の組合役員をした者が管理職に重用されるという不思議な現象だ。
もともと教員自体はもともとみな貧しく大した収入を得られるわけではない、しかし公務員になれて少しでも退職金を多くもらいたい。
そういったみみっちい人間が95%くらいだろう。
だから日本の教育は良くならないのである。
・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり
酔生夢人のブログ より
上記文抜粋
・・・・・・・
学校に行くのが死ぬほど嫌(いや)という生徒たち
「ライブドアニュース」の記事の一節である。
鎌倉市図書館のツィートが転載できなかったが、学校に、死ぬほど行きたくない子は図書館においで、というような内容である。これはいい呼びかけである。
実際、学校で習える程度のことは自学自習できるし、図書館には学校などよりはるかに膨大な「本物の知識」が詰まっている。図書館を「私の高校」とすればいいのである。
ところで、いじめとか、「学校が死ぬほど嫌(いや)」という問題について考えてみたいと思うのだが、今日は、その前提として、仮説だけ少し。
1)いじめをする子というのは、本人自身、周囲の状況から過大なストレスを感じており、その発散の手段がいじめである、ということ。
2)いじめ問題の最大のポイントは、「逃げ場」が無いと子供には感じられていることではないか、ということ。(上記の図書館は、その逃げ場として有効だろう。ただ、周囲の大人がそれを理解し、賛同してくれる必要がある。これは社会的運動に発展する可能性もあるのではないか。)
3)友人関係とは、子供社会における「日常の政治」でもあり、政治的交渉や立ち回りの苦手な子がいじめ被害者になる、ということ。つまり、弱者だから、ではなく、強者であっても、集団化したいじめに対抗するのは困難だ、ということ。
いじめ被害者への「強くなれ」という言葉は、概括的すぎる嫌いがあり、また、個人的努力を過信しすぎた言葉ではないか。もっと、集団システムとしての抑止政策が必要。つまり、「学校そのもの」を根本から変えることが、いじめ問題解決だけでなく、子供の幸福のために必要ではないか。
この3)に関して、少し前に書いた「夢の高校」を現実的に考察してみたい、と考えている。
つまり、「夢の高校」は学校から逃げる必要性を無くすという根本的解決策、「アジール(避難場所)としての市民図書館」は、現段階での緊急避難的な解決策、ということである。
(以下引用)
番組では鎌倉市図書館のTwitterアカウントがイジメに悩んでいる子どもたちに向けたツイートを紹介し、新学期が始まるにあたってのイジメや自殺問題について取り上げた。
その中で内閣府の調査として、1972年~2013年までの18歳以下の自殺者が、年間でもっとも多い日付が9月1日であることを紹介した。
VTR後に松本人志は、自身がイジメを受けていたわけでも、友達がいなかったわけでもないとしたうえで「8月の終わりからブルーになる」と、学生時代を振り返りながら一定の理解を示していた。
・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり
国営放送で、「ダメなら学校から逃げろ!」とニュースで公然と流すようになった。
これも変化の始まりだろうか。
少なくとも「学校」が「日本人奴隷化工場」の最大のカギであるから・・
それからの「逃避」を唱えるのは、かなり時代が移っているのかも知れない。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
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この国の教員の質
もともと教師の仕事には二面性がある。
ひとつは、子供の成長を助けるという側面。
もうひとつは、社会の要請にそって必要なことを教え込むという側面。
最初のポイントは、子供自体の意欲がなければ教育は成り立たないということと絡んでいる。
この点で、現在の早期教育は燃え尽き症候群、または無気力層を生むという社会現象を生み出している。
この点で、自分の成果達成を気にする教師たちは危険である。
次に、社会の要請とあった教育内容という点で、本当にグローバルに活躍できる人材を生み出しているかと言えばそうはいえない。
期待される人間像、そして公教育(国家教育)の目指すものが、初期には読み、書き、計算と愛国心教育であったことや、その次には
一部のエリートともの言わぬ労働力育成という目標が無理やり導入されたことで、現在の教育は歪められている。
一部の進学校を除き、進められているのはむしろ考えられない低学力生徒の育成である。これがないと、教師たちの再就職先でもある各種学校やボンクラ大学やインチキ学習塾の需要がなくなってしまう。実は文科省や役人もそこから利権を得ているから。
そして、見過ごせないのは、無理な教育。
これは有り余るほどの行事やコンクール、
競技をこなす雑炊学校に飽きた子供たちを統制するために必要なカポたち(看守または用心棒)として、知性の組織に入り込んできた、低学力教師が現場を蹂躙していることだ。
その顕著な例は、スポ根型の体育教師、彼らの多くは国体のメダル請負人として現場に入り込んでくる。
地方自治体のスポーツかかりなどもおいしい仕事である。
または通信制や教員免状を得て教育現場に入り込む者たち。言っておくがその全部が悪とは言えない。
しかしその脇道を通って教育行政を牛耳るようなことが各県で起きていると思われる。
ちなみに千葉県では不思議な現象がある。
日教組の右派の組合役員をした者が管理職に重用されるという不思議な現象だ。
もともと教員自体はもともとみな貧しく大した収入を得られるわけではない、しかし公務員になれて少しでも退職金を多くもらいたい。
そういったみみっちい人間が95%くらいだろう。
だから日本の教育は良くならないのである。
・・・・・・・
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抜粋終わり
酔生夢人のブログ より
上記文抜粋
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学校に行くのが死ぬほど嫌(いや)という生徒たち
「ライブドアニュース」の記事の一節である。
鎌倉市図書館のツィートが転載できなかったが、学校に、死ぬほど行きたくない子は図書館においで、というような内容である。これはいい呼びかけである。
実際、学校で習える程度のことは自学自習できるし、図書館には学校などよりはるかに膨大な「本物の知識」が詰まっている。図書館を「私の高校」とすればいいのである。
ところで、いじめとか、「学校が死ぬほど嫌(いや)」という問題について考えてみたいと思うのだが、今日は、その前提として、仮説だけ少し。
1)いじめをする子というのは、本人自身、周囲の状況から過大なストレスを感じており、その発散の手段がいじめである、ということ。
2)いじめ問題の最大のポイントは、「逃げ場」が無いと子供には感じられていることではないか、ということ。(上記の図書館は、その逃げ場として有効だろう。ただ、周囲の大人がそれを理解し、賛同してくれる必要がある。これは社会的運動に発展する可能性もあるのではないか。)
3)友人関係とは、子供社会における「日常の政治」でもあり、政治的交渉や立ち回りの苦手な子がいじめ被害者になる、ということ。つまり、弱者だから、ではなく、強者であっても、集団化したいじめに対抗するのは困難だ、ということ。
いじめ被害者への「強くなれ」という言葉は、概括的すぎる嫌いがあり、また、個人的努力を過信しすぎた言葉ではないか。もっと、集団システムとしての抑止政策が必要。つまり、「学校そのもの」を根本から変えることが、いじめ問題解決だけでなく、子供の幸福のために必要ではないか。
この3)に関して、少し前に書いた「夢の高校」を現実的に考察してみたい、と考えている。
つまり、「夢の高校」は学校から逃げる必要性を無くすという根本的解決策、「アジール(避難場所)としての市民図書館」は、現段階での緊急避難的な解決策、ということである。
(以下引用)
番組では鎌倉市図書館のTwitterアカウントがイジメに悩んでいる子どもたちに向けたツイートを紹介し、新学期が始まるにあたってのイジメや自殺問題について取り上げた。
その中で内閣府の調査として、1972年~2013年までの18歳以下の自殺者が、年間でもっとも多い日付が9月1日であることを紹介した。
VTR後に松本人志は、自身がイジメを受けていたわけでも、友達がいなかったわけでもないとしたうえで「8月の終わりからブルーになる」と、学生時代を振り返りながら一定の理解を示していた。
・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり
国営放送で、「ダメなら学校から逃げろ!」とニュースで公然と流すようになった。
これも変化の始まりだろうか。
少なくとも「学校」が「日本人奴隷化工場」の最大のカギであるから・・
それからの「逃避」を唱えるのは、かなり時代が移っているのかも知れない。
お読みくださりありがとうございます。
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後は体験学習の場所としてつかわれるぐらいだと思います。
>
> 後は体験学習の場所としてつかわれるぐらいだと思います。
あまりに、肥大化してしまった学校。
もし存続するなら、大規模な「ダイエット」がなければ・・・とも思います。
書き込みありがとうございます。