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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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国際秘密力研究 より

上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:裏権力の思想は全て「実有の見」(実体観)。裏権力の思想攻勢に対処する為、日本及び東洋の先人の思考に学び、兵法(方法論)を練磨する。
【ツイートまとめ:「イルミナティの教義」についての考察。「キリスト」「ルシファー」「金星崇拝」等々、要するに結局は只の「実有の見」(実体観)に過ぎない。一言で片付く。】
https://kokuhiken.exblog.jp/29878203/

に続く考察です。



〇「実有の見」(実体観)とは、人間の認識可能領域を「現象」と呼ぶ場合、生成変化する現象自体又はその背後に形而上的な「常住不変の実体」を想定する見解である。認識可能な現象は常に生成変化するし、現象の背後に常住不変の実体があるか否かは確かめようがない。後者には無記で対処するのが合理的。

〇論語に曰く「知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す。これ知るなり。」「怪力乱神を語らず」と。無記もこれに通じる。儒仏に共通する健全な経験主義的姿勢である。経験的な認識による検証や確認が可能な現象について根拠に基づいて断定し、断定不可な事柄については断定しない着実な姿勢である。

〇認識可能な現象については根拠を調べて断定する事が可能。認識不可な事柄については断定しない無記の姿勢。認識可能な現象は無常だと確認できるので実有ではないし、現象の背後の常住不変の実体の有無は断定できない。経験に反する又は経験の範囲を超えた形而上学的独断を「実有の見」と古人は呼んだ。

〇裏権力や結社の思想は様々あるが、どんなものであれ「実有の見」(実体観)に過ぎない。よって、この要点を押えておけば恐れるに足らず。注意点は「実有の見」を破るとは「実無の見」という別の独断を立てる事ではないという事である。「知るを知ると為し、知らざるを知らずと為す」無記で対処する。

〇無記は「断定できる事を断定し、断定できない事は断定しない」という当たり前の態度に過ぎない。「実有の見」に対して「実無の見」を立てるのではない。「実無の見」もまた「無」を実体視する実体観であり実有の見の一種=独断。認識可能な現象は常住不変か否か確認可能、認識不可な事柄は断定不可能。

〇まとめる。裏権力・結社の思想は一言で言うと全て「実有の見」。実有の見とは①認識可能な現象を常住不変の実体と見たり②現象の背後に常住不変の実体を想定する見解。①は経験的に観察できるので客観的な根拠に基づきその真偽を検証する。②は経験的に観察・検証できないので断定せず無記で対応する。

〇江戸時代に発達した日本独特の儒学の思考(古学派)では朱子学の形而上学的な傾向に対して経験主義・現象主義的な傾向が特徴的である。例えば中庸の「未発の中」を朱熹は「性」「理」としたのに対して、古学派の山鹿素行は「喜怒哀楽という感情が発する以前の心理状態」という風に現実的に解釈した由。

〇古学派は山鹿素行、伊藤仁斎(古義学派)、荻生徂徠(古文辞学)と幾つか種類がある。仁斎は論語と孟子を重視。世界を生成発展する一つの活物と捉えた。日本古来のアニミズムに通じる。徂徠は「道」を抽象的理念ではなく「聖人が作った制度」と捉えた。思想は異なるが反形而上学的な傾向が共通する。

〇朱子学は古学派などに比べると形而上学的傾向があると言われるが、現象から遊離した西洋的形而上学とは全く異なる。朱子学は「気」(現象。あらゆる物事)に内在する「理」(法則)を極める事を目指すので科学的な思考に通じている。実際、江戸時代の朱子学者は科学や実学に関心を示す者も多かった。

〇国学者の本居宣長は元々荻生徂徠の古文辞学系の儒学を学んでおり、その文献実証主義的な姿勢に影響を受けているそうである。儒学を排斥するかに見える国学の方法論は古文辞学に由来している(耶蘇化した平田派は別)。反形而上学的な方法論は江戸時代を通じて学派の違いを超えて広く共有されていた。

〇日本人として西洋奥の院から押し寄せてくる思想攻勢・思想工作に対処する為には日本及び東洋の先人の思考方法に学び参考にするのが有効だと考えている。裏権力・秘密結社員とは全く異なる思考方法がそこにあるからである。これが個人的に考える対裏権力の「兵法」である。探求と工夫を続けて参りたい。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1069076789341827072

(了)


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抜粋終わり


おなじく  より

上記文抜粋
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ツイートまとめ:「イルミナティの教義」についての考察。「キリスト」「ルシファー」「金星崇拝」等々、要するに結局は只の「実有の見」(実体観)に過ぎない。一言で片付く。

〇「イルミナティの教義の根幹を隠している!」という無茶苦茶な言い掛かりを付けられた。自分は「イルミナティの教義の根幹」を知っているという前提でである。根拠も論拠も挙げずに断定的な結論のみ。この時点で変。言う所の「イルミナティの教義」とは「キリスト=ルシファー=金星神」というもの。

〇「イルミナティの教義」以前に「イルミナティ」の定義が先決。定義もせずに「イルミナティの教義」を断定するのはカルト的。「イルミナティ」は①1776年にアダム・ヴァイスハウプトが創設した近代イルミナティと②裏権力の総体又はその中核に位置する集団を指す場合の2種類の定義があると見ている。

〇①の近代イルミナティのシンボルは知恵や理性を象徴する「ミネルヴァのフクロウ」である。ミネルヴァとはギリシャ神話の女神アテナである。アテナは戦と知恵の神とされる。啓蒙主義結社の近代イルミナティは理性や啓蒙の象徴として「ミネルヴァのフクロウ」をシンボルとして採用したのだと思われる。

〇近代イルミナティに関してはミネルヴァ(アテナのローマ版。ローマはギリシャ神話をそのまま自らの神話とした)である。ミネルヴァは金星神ではない。金星を象徴するのはヴィーナス(アフロディーテ)である。「イルミナティは金星神崇拝」と言う場合のイルミナが近代イルミナでない事は明らかである。

〇②「裏権力の総体又はその中核に位置する集団」を「イルミナティ」とする場合。彼らの教義の根幹を「金星神=光明神の信仰」とするのは、間違っているとは言えないが雑すぎる。その程度の事が「イルミナティ教義の根幹」なのだろうか。その「金星神」とは一体なんなのかを詰めないと全く説得力がない。

〇地中海オリエントに於いては金星神は大体「女神」である。イナンナ、イシュタル、アフロディーテなどである。エジプトのイシスの元にあるのがシュメールのイナンナだそうなので、イシスを含めてもよいだろう。地母神である。一方のキリストはホルスやミトラなどの男性の太陽神に原型があると思われる。

〇キリストのイメージの原型は金星を象徴する中東の女神というより明らかにホルスやミトラなどの中東の男性の太陽神である。前者はマリアのイメージの原型であろう。その辺の歴史的過程を飛ばして、いきなり「キリスト=ルシファー=金星神」が「イルミナティの教義の根幹」とするのは論として雑すぎる。

〇一方で黙示録でイエスが「明けの明星」を名乗っている事もまた事実である。この事から基督教では金星を「イエスの星」とするそうである。神智学系では「イエスは金星人」と言っている。つまりイエスと金星の結びつきを隠すどころか公然とアピールしている。「イエス=金星」は基督教側の主張という事。

〇「キリスト=金星」は基督教や神智学の主張である。実際に「イエス 金星」「キリスト 金星」で検索すると基督教やオカルト界隈のページばかり出てくる。神智学信者でUFOで有名なアダムスキーはイエスは金星人と言った由。「キリスト=金星」は裏権力が隠したい「教義の根幹」どころか彼ら側の主張。

〇このように「キリスト=金星」は基督教や神智学の主張である。「ルシファー」も「明けの明星」だが、これ自体基督教が作った観念である。よって「キリスト=ルシファー=金星神」というのは丸ごと基督教の枠内にある主張である。これを「イルミナの根幹の教義」と強調する事自体裏権力側の工作と疑う。

〇新約聖書の黙示録のみを根拠に「キリスト=ルシファー=金星神」と断定するのは、むしろ基督教に近い立場なのではないだろうか。新約聖書という文献に信頼を置き過ぎているからである。金星神だけ強調するとホルスやミトラなど中東の太陽神との関係がぼかされていまう。それが狙いなのかもしれない。

〇一方、裏権力人脈が金星を強烈に意識しているらしい事も事実である。石屋33階級アルバート・パイクは金星を象徴するルシファーを崇拝したらしい。「理性」の象徴に光明神を持ってくるパターンもある。抑々「ルシファー」の由来が問題である。旧約聖書では「明けの明星」はバビロン王の象徴としている。

〇神智学ではヒンドゥー教に由来する「サナト・クマラ」を金星神として崇拝する。これが天台宗から神智学に鞍替えした鞍馬寺に「魔王尊」として祭られている。「金星から来た」という設定である。神智学系のオカルト思想ではアダムスキーのように「イエスは金星から来た」と主張する。全て同系統である。

〇「「イエス=金星」に触れないのでイルミナティ側だ!」という無茶苦茶な言い掛かりを付ける者自身が「イルミナティ側」だと自己暴露している。「イエス=金星」と主張しているのは基督教系や神智学系ばかりだからである。基督教では「金星はイエスの星」でオカルト界隈は「イエスは金星人」と言う。

〇キリストに関しては裏権力側が嫌がるのは金星神ではなく太陽神との関係であろう。後者を隠す為に金星との関係を強調している可能性もある。金星信仰の分析も重要ではあるが、新約聖書の記述だけを根拠に「金星神信仰」を「イルミナティの教義の根幹」と断定するのは雑過ぎる。もっと詰める必要があり。

〇そもそも裏権力や結社のインサイダーでもないのに「〇〇の教義の根幹はこれだ」と自信満々に断定できる事自体おかしい。裏権力を外部から分析する陰謀追及者としては根拠を積み重ねて論証する他はない。それなのに「こうだ」と断定するのはインサイダーや工作員、カルト、ほら吹きの類としか思えない。

〇その実、裏権力の「神」が金星神でも太陽神でも大差はないのではないだろうか。それらを実体視しているか否かの方が哲学的に本質的な問題である。「イルミナティの教義の根幹」が金星であってもなくても、実体論である事に変わりはない。実体論を論理的に破れば、どんな「教義」だろうと同じ事である。

〇鈴木正三の破吉利支丹の「実有の見を専らとして、念慮識情を増長し、天地の作者を造り立て、輪廻の業を重ねて、 是を成仏道とおもへり」という批判はキリシタン以外にも当てはまる。実有の見=実体論。「輪廻の業」は仏教色を離れもっと一般的表現をすると「悪行」(ワンワールド征略はそれ)である。

〇「実有の見を専らとして、念慮識情を増長し」とは「「実体(他に依らずそれ自体で存在する独存体)」を立てる(特に形而上学的実体)→実体に執着する→執着に基づく行為を起こす→よくない結果を招く」という認識論的な過程を示している。「実有」「実体」に金星神を持ってきてもこなくても同じ事。

〇「実体」とは言葉が示す概念を形而上学的な実在と見たものである。「実有の見」とはそのような物の見方を指す。現代的には「実体観」。実体は言葉と不可分の関係なので「実有の見」(実体観)を持つと「念慮識情を増長し」つまり言語を伴う思考活動が紛糾し、それに伴って欲や怒り等の感情が増幅する。

〇「実有の見を専らとして、念慮識情を増長し」の逆が「空・無相・無願」の過程である。事物現象を実体と見ない(空)ので認識対象が実体視されない(無相)。対象を実体視しないので対象に対する執着が無い(無願)。唯識では心から遍計所執性=実体観を取り去るのが円成実性。菊池さんが追加
「中観派などが「空・無相・無願=三解脱門」と言う。如何にも抹香臭い仏教用語みたいだが、実際は認識論的過程を示している。①「空」を理解する。②認識対象が実体=自性として立ち現れなくなる(無相)。相は姿・対象。③対象を実体視しないので対象に対する過剰や欲や怒り、執着が無くなる(無願)。」https://twitter.com/kikuchi_8/status/1039905278152531968

〇結社の「教義の根幹」が「金星神か否か」などはまだまだ表層的な事である。「金星神」というのも心が作ったイメージである。そう言う意味で信仰のあり方は認識の仕方を反映している。よって「教義の根幹」を究明するには認識論的考察が有効だと考える。教義を作るのは思考などの認識作用だからである。

〇「教義」は思考の「結果」である。思考は教義の「原因」である。原因を見ないと結果の性質は分からない。よって「教義」を知るには「思考」を分析する必要がある。「教義」は思考が生み出した産物、生きた思考の「残りかす」みたいなものである。なので思考自体を分析する認識論的考察を重視している。

〇裏権力の思想工作は「実有の見」を次々に作りたてる事だと言える。「デウス」「一者」「理性」「物質」などである。表層的に「〇〇神か否か」という事ばかり追いかけていたのでは「教義の根幹」に辿り着けない。真の「根幹」は教義ではなく思考。教義を次々に生み出す思考の型、パターン、類型である。

〇「将を射んとする者はまず馬を射よ」と申す。本当の意味で「根幹」を破るには表層的な「〇〇神信仰」「〇〇教」「〇〇主義」等々の「教義」以上に、それらを次々に生み出す「思考」を分析する必要がある。思考には型・パターンがある。それを見破れば、次々に新手が出るあらゆる思想工作に対応できる。

〇「裏権力の思想工作は「実有の見」を次々に作りたてる事」と書いた。裏権力には一神教・神秘主義・理性主義の三大思想派閥ありと分析。一神教では「造物主」を実有(実体)とする。神秘主義では「一者」を実有とする。理性主義では「理性」を実有とする。観念論は精神を、唯物論は物質を実有とする。

〇仏陀は「苦」ではなく「苦の原因」を無くせと説いた。苦の原因が無くなれば苦も無くなるからである。それと同じで「教義の根幹」を暴くには「教義」以上の教義の原因である「思考」を分析すべきである。思考には型がある。思考の型が同じだと新たな教義を作っても似たようなものしかできないのである。

〇思考の型が同じだと、思考が作る教義や思考から生まれる行動も似てくる。例えば平田篤胤はキリシタンから「実有の見」を取り入れた。その結果、平田派は明治初期に廃仏毀釈という戦国時代のキリシタンと類似の行動を取った。当時、平田派は「耶蘇士」と呼ばれたそうである。この見方は間違っていない。

〇認識の領域を眼耳鼻舌身意・色声香味触法とすると「教義」は「法」に分類される。「法」は「意」(思考など)の認識対象。認識対象である以上、五感の対象と同じく執着の対象となる。対象を「実体」と見ると執着心が増幅する。これが「実有の見を専らとして、念慮識情を増長し」の意味だと解釈できる。

〇平田派は切支丹の「デウス」の「造物主」観念を密輸入して「天御中主神」に当てはめた。思考の型が類同化した結果、平田派は切支丹と似たような行動を取った。これは表層的な教義は違っても、その背景をなす思考の型(この場合は実体観)が同じであれば、そこから生じる行動も似てくる事を示している。

〇前述の如く眼耳鼻舌身意・色声香味触法の内、「教義」は「意」の認識対象「法」である。五感である眼耳鼻舌身が色声香味触を感受すると快・不快を感じ、そこから欲や怒りが生じ、それが増長すると執着になる。思考である意と法も同じである。教義も執着の対象になる。五感の欲と同じく行動を誘発する。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/1039915149627281409


(了)


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抜粋終わり


参考に

そういえば、日本には、比叡山・高野山・五山・鎌倉五山・根来寺・足利学校って、中世にあって、近世も昌平黌や各藩校に、懐徳堂とか適塾とか加わってあって思想も研鑽されていた・・。




お読みくださりありがとうございます。
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プロメテウスとビーナスのキメラ神
  • from ローレライ :
  • 2018/12/03 (05:52) :
  • Edit :
  • Res
プロメテウスとビーナスのキメラ神を崇拝するご都合信仰。
Re:プロメテウスとビーナスのキメラ神
2018/12/03 20:17
>プロメテウスとビーナスのキメラ神を崇拝するご都合信仰。

同感。

書きこみありがとうございます。
無題
  • from 日々 :
  • 2018/12/04 (11:05) :
  • Edit :
  • Res
〇「将を射んとする者はまず馬を射よ」と申す。本当の意味で「根幹」を破るには表層的な「〇〇神信仰」「〇〇教」「〇〇主義」等々の「教義」以上に、それらを次々に生み出す「思考」を分析する必要がある。思考には型・パターンがある。それを見破れば、次々に新手が出るあらゆる思想工作に対応できる。

『天皇』教 も 方便ということ

天皇という言葉を使わずとも 真、まことのアクが浮いて来ていますから

500年、1000年のチャンス到来、
天皇という言葉の取り扱いは 逆効果のときと。

天皇という言葉を逆手に取る時

天皇という言葉を一捻りして 人々の思考に言葉を投げ 喚起をおこす ・・・ 次にコマをすすめましょう。
(天皇という言葉=悪 で使うと 相手の思うツボ)
Re:無題
2018/12/04 18:38
天皇=善という意識が強い社会なので、それにゆさぶりには「天皇=悪」は有効です。

が固執すると、その天皇閨閥にひっくり返されることになる・・・

てのは用心します・・・

が、天皇も「悪」があるのは必至なので、まあ用心用心・・


書き込み有難うございます。
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