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仏教哲学では「名称と概念は相互に必然的関係が無い」という言葉の性質を「名と義の客塵性」と呼ぶそうだ。これはソシュールの言うシニフィアン(能記)とシニフィエ(所記)の結びつきの「恣意性」とほぼ同じ意味ではないだろうか。名称は社会の約束事だが、基本的にある名称で何を指すかは恣意的だ。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月17日
「名と義の客塵性」は論理学が発達した唯識学派で言われた説のようだが、恐らく1500年以上前の段階で20世紀初頭にソシュールが到達した見解を唱えていたのは驚くべき事である。ソシュール研究家の丸山圭三郎氏が中観派などの仏教哲学を参照するのも頷ける次第である。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月17日
「名と義の客塵性」はよく考えると当然である。「名」は文字=視覚や音=聴覚。義=概念は単なるイメージではないがある種の表象である。視覚と聴覚と表象という異質なものを同じものとして結び付けているので、これは約束事以外の何ものでもない。だからこそ同じ表記で多様な概念を表す事ができる。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月17日
ここから導き出される一つの教訓は、外来語がいかなる文脈で日本語として用いられているか?である。名=表記は外来のものでも、義=概念は日本古来のものである場合も多い。言葉の由来を考えるには、「名」と「義」にまず分けて、名と義どちらが外来なのか、又は両方なのか、を見極めていくとよい。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月17日
名と義を区別しないまま検討すると、基本的に日本は最初文字は大陸から輸入したので、日本語=漢語となってしまう。オリジナルは外にありそこから流れてきたという一種の「流出説」である。だが、表記と概念を区別すると、表記とそれが示す概念や事物は別々の由来を持っている場合があるのが見える。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月17日
簡単に言うと表記を同じくするある単語があった場合にもそれは必ずしも同じ概念を意味するとは限らない、という事である。例えば「神道」という表記は易経の観の卦の彖伝では「宇宙の霊妙な作用」という意味である。それが日本では古来の民族宗教の意味になる。表記は支那由来でも概念は違う訳である。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月17日
古代仏教が何故「名と義の客塵性」などという難しい議論をしたかは、恐らく対象への執着を引き起こす最大の原因を言葉=概念だと観察したからだろう。仏教は「執着を滅すると苦が消える」と説く。執着は感覚器官と感覚対象の接触から生じるが、それにもまして「言葉=概念」が大きな原因をなす。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月17日
金銭欲を例に挙げる。硬貨や紙幣を単に視覚や触覚で感受しただけでは金銭欲は生まれない。それら諸感覚を統合する「カネ」という概念があって初めて金への欲望が生じ、強化される。「カネ」という概念があるからこそ実際に硬貨や紙幣が眼前に無くても「欲」は持続される。「概念」が煩悩を引き起こす。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月17日
約束事に過ぎない言葉=概念を実体視し、概念に対応する事物が実体として存在するという思いが執着を強化する。逆に言葉の実体視が弱まると執着も弱まる関係にある。「名と義の客塵性」は言葉の表記と概念の結びつきに必然性は無いと示す事で言葉の実体視を超克する目的で説かれたのだろう。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月17日
@kikuchi_8 神道的には概念に名前をなるべくつけないという方法でそれを避けて来ました。概念に名前をつけると必ずそれにとらわれる人が出ます。特に悪しきものに名前をつけないように気を付けてきました。今では外来語で悪しきものの名は瞬時に社会認知(肯定と誤られる)されます。
— 松窪 努 (@Federicopanini) 2016年7月18日
@Federicopanini その通りだと思います。「言霊(ことだま)」という思想はまさにそれだと思います。古代の日本人は言語が人間の意識に与える強力な作用を自覚していたのだと思います。名称を付けると、自ずとそれが意識の上で実体化して、大なり小なり人の言動を誘発します。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月18日
@kikuchi_8 ありがとうございます。神道の用語が語彙として日本語にほとんどないというのはそういうことからも理解していただけるかと思います。
— 松窪 努 (@Federicopanini) 2016年7月19日
@Federicopanini はい。そもそも「神道」は仏教と対比する「宗教」(この概念自体西洋的です)ではないと考えます。「神道」とは仏教渡来以前からの日本人の民族信仰や習俗、ものの考え方や世界観、生き方まで規定していた文化の総体と考えると和語=神道語と言えるかもしれません。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月19日
@Federicopanini 仏教側でも神祇信仰に敵対していません。それどころか、擁護する場合も多かったです。法然が専修念仏を始めた時、興福寺を筆頭とした顕密仏教の仏僧たちが法然を糾弾する「興福寺奏上」という文書を出したのですが、その中で「神祇不拝」を一か条として掲げています。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月19日
@Federicopanini 正統派仏教の方が神道に融和的で、専修念仏の浄土門は神道を拒否する傾向がありますが、一遍は神祇信仰を重視していました。日本において神道と仏教は総体的に共存していて、お互いの違いをやかましく言い合ったりして抗争する事はほとんどなかったと思います。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月19日
@Federicopanini 神道は特別な「宗教」として誰かが創始したものではないので、特別な宗教用語が無いのも当然だと思います。例えば、神道では「正直」を重んじますが、これは宗教教義というより正直であることを重んじる日本人の倫理観そのものです。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月19日
@Federicopanini 「赤き、清き、直き、誠の心」といいますが、これは誠実さ、清らかさ、実直さ、真心など平常な倫理観念そのもので、「神道用語」という特別な宗教用語ではありません。特殊な「宗教」としての「神道」を捏造した平田派はまさに「宗教」そのものでこれとは異質です。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月19日
@Federicopanini 「自然を敬い、祖先を敬い、正直に清らかに誠実に生きる」という日本人としての「当たり前の生き方」が仏教が渡来した時に「神道」と名付けられたのだと思います。神道を西洋の、キリスト教をモデルとする「宗教」という概念で解釈するのは難しいと思います。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月19日
@Federicopanini 長くなって申し訳ありません。神道に関する考え方をひとしきり述べさせていただきましたm(_ _)m結論と致しましては「神道」を「宗教」として考えるのは平田派と同じ誤謬に陥る可能性があると思います。儒仏道を包み込む日本人の感性そのものだと思います。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月19日
@kikuchi_8 詳しいおはなしをありがとうございます。神道の教義化ということは明治新政府が必要になって平田派のしくみを利用したのだと思います。ネットに沢山いる神道なかった派というのはこれをもってそれ以前には神道はなかったとするのだと思います。しかしながら
— 松窪 努 (@Federicopanini) 2016年7月19日
@kikuchi_8 こういった明治のような教義化は神道を破壊するものであったと思います。天皇陛下のなされる神事とはまた違ってわれわれ庶民のなかに生きる神道というものはそういったくくりではくくれないと思っています。
— 松窪 努 (@Federicopanini) 2016年7月19日
@kikuchi_8( 南都+禅宗の)旧教団の浄土宗に対する批判は加持祈祷を否定する浄土宗が勢力を増してきており商売あがったりになるという商圏あらそい権力あらそいであったと思います。また浄土宗の神祇不拝は神頼みとしての神祇不拝であって私が思いますにはこれは神道的にも間違えていると
— 松窪 努 (@Federicopanini) 2016年7月19日
@Federicopanini 当時の「顕密体制」ではどの寺院でも大なり小なり加持祈祷が行なわれていたのでそういう面もあるかもしれませんが、加持祈祷より学問仏教が中心の興福寺の貞慶が批判者の中心で、華厳宗の明恵のような清僧も批判しているので、理論上の理由も大きいと思います。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月19日
@Federicopanini 江戸時代初期に浄土宗の幡随意白道が徳川家康の依頼でキリシタンを教化する為に長崎に乗り込んだ時、道中伊勢神宮に参って対キリシタン戦の勝利を祈願したそうです。やはり時代が進むと浄土門でも神仏習合が普通に行われていたようです。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月19日
「概念」は欲望だけではなく憎しみ(対象の破壊を志向するマイナスの欲望)の発生・強化にも関係する。ある対象を持続的に憎むには単に五感で不快を感じるだけではなく、対象の名称とイメージを思い浮かべる事が不可欠である。基本的なメカニズムは欲望と概念の関係について述べた事と同じである。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月18日
感覚器官=眼耳鼻舌身意が感覚対象=色声香味触法に接すると受(感受)が起こり、受には快と不快があって、快には貪欲という執着が起こり、不快には嫌悪という執着が起こり、「煩悩」が発生する。ここで述べた「概念」は「意」と「法」に関係する。概念を浮かべる作用が意で、概念自体は法に含まれる。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月18日
「概念」が憎しみの発生・強化にも関係する具体例としてはグノーシス派が挙げられる。古代のグノーシス派は自分達が知覚・観察した限りの世の中の「悪」を全宇宙に一般化して「物質世界は悪」と断定し、「反宇宙二元論」を作った。「宇宙」「悪」という概念によって憎しみを増大させた訳である。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月18日
概念は、方便なのに、それに固執すると、煩悩になり不幸になる。
西洋文明は「初めにロゴスありき」である。「言葉=ロゴスが神であり、言葉が全てを作った」という所から始まる。言葉=概念は欲望や憎悪を生じ強化すると指摘したが、ロゴスを絶対視すれば必然的に巨大な欲望や憎悪が生じる。他者を殲滅して世界を一つにしようとする衝動はここから生まれたと考える。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月18日
東洋思想は全般的にロゴスを絶対視せず、むしろロゴスの限界を見極めててロゴスを相対化した「無分別」「寂静」を目指す傾向がある。代表例は荘子と龍樹である。荘子は巧みな寓話や比喩を使って言葉の限界を示そうとし、龍樹は言葉の論理を厳密に追求して概念と現実の矛盾を暴き出し言葉を相対化する。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月18日
安倍偽総理と三宅洋平氏を繋いで「左右両建構造」のサンプルを天下に示す安倍昭恵氏。
— 菊池 (@kikuchi_8) 2016年7月18日
老子 第1章
道の道とすべきは、常の道にあらず。
名の名とすべきは、常の名にあらず
固定する・決めてしまうと、それは道でも真理でもなくなる。
概念ができると、それはそれではなくなる・・・・。
お読みくださりありがとうございます。