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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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 七転八起のブログの力!   より

上記文抜粋
・・・・・・
家康の江戸への遷都の謎!?森林・エネルギーと武士の大量リストラから見た歴史 (「日本人」 - みや
2016/12/31 (Sat) 23:43:37

家康の江戸への遷都の謎!?森林・エネルギーと武士の大量リストラから見た歴史、、、。 (「日本人」の研究!)
http://cpt-hide-cook.seesaa.net/article/445400457.html


2016年12月31日

家康の江戸への遷都、、、。
歴史を知っている後世のものから見れば、
そんなもん当たり前のように思う。

しかし、当時の人から見たらどうだったのか?

関ヶ原の戦いの前哨戦、多くの大名が上杉征伐のため
東に向かった。

そして、江戸周辺のみすぼらしさを見て、愕然としたという。

それほど、関東エリアというのは、まだまだ未開の地、、、。

便利で華やかな関西圏を捨て、江戸に居続け、関東圏の開発を
続けた家康の考えはいったいどういうものだったのか?

私も歴史マニアであるが、武村公太郎氏の著書
「日本史の謎は地形で解ける」を読んで、
目からうろこが出る思いであった。



関西を嫌った家康


 なぜ、家康はあの江戸へ戻ってしまったのか?」
この問いのエネルギーからの回答が
ページの図2である。


 この図は、巨木の伐採圏の遷移を示している。図のタイトルの
「記念構造物のため」でわかるように、宮廷、寺院、城などを建造する
巨木の伐採の時代変遷である。
 巨木の伐採場所や伐採時期は、寺社に保存されている縁起で特定できる。
それらを丹念に調査して作成した図である。
 これによると、」平安遷都したころの巨木の伐採圏が、淀川流域と
みごとに重なっている。
 さらに安土桃山時代の頃には、伐採圏が近畿から中部、北陸、中国、四国と
急速に拡大していった様子がはっきりとわかる。
 東京大学名誉教授の太田猛彦氏によれば「最初に建築材の巨木の伐採が入る。
それに続き燃料材の採取。その後に農民による焼き畑利用などが進む」という。
 この図2によって、単に巨木伐採の広がりだけが分かるのではない。人口の
増加と文明の発展、それに伴う森林消滅と山地荒廃の広がりを透かして見る
ことができる。
 家康が関ヶ原で戦っていた頃、木材の需要は関西圏の森林再生能力を
超えていたことが図2からわかる。当時、大阪で約40万人、京都でも
40万人の人口であったといわれている。少なく見積もっても、関西圏で
年間800万本の立木が必要であった。これは関西の産地は荒廃せざるを得ない。
すでに室町時代の後半、京都の東山や比叡山は荒廃していたと伝えられている。
 山地の荒廃が進展すると、雨のたびに養分を含む表層土壌が流出し、森林再生は
困難となっていく。兵庫県の六甲山、滋賀県の田上山がその代表である。
昭和年代までこれらの山々は、荒れるにまかせ放置されていた。
 1938年7月、梅雨前線豪雨と六甲山各所で崩壊が発生し、大規模な
土石竜が発生した。この災害は谷崎潤一郎の小説『細雪』でもとりあげられて
いる。神戸、芦屋市に土石に埋まり700人の人々が死亡した。この災害は、
400年前の秀吉の大阪城築城に伴う森林伐採のツケであった。
 徳川家康は関西の産地荒廃を目の当たりにしていた。家康はこの関西を嫌った。
1590年に家康は秀吉によって江戸へ移封されたが、そこで見たものは
日本一の利根川流域の手つ数の森林であった。目にしみいるような緑は
利根川流域の未来の発展を告げていた。家康は利根川の江戸を選択した。
 これが「なぜ、家康が江戸に戻ったのか?」の問いに対するエネルギーの
観点からの答えである。
 強力な権力を確立した江戸幕府は、木材供給基地を利根川・荒川流域だけに
とどめなかった。幕府直轄の木材基地を日田、木曽、飛騨、秋田、蝦夷と
全国に広げた。江戸幕府は、文明のエネルギー負荷を日本列島全体へ広く
薄く分担させることに成功した。全国各地から江戸に向かう大型船の船底には
大量の木材が積み込まれた。
 こうして日本全土から江戸へエネルギーが注入されたことにより、100万人と
いう当時の世界最大の都市・江戸の出現が可能となり、徳川幕府260年の
長期政権が保たれた。
・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
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なるほどね~。

世界の歴史上でも、エネルギー源である森林がなくなってしまって、
滅びた文明がいくつもあるという。

関ケ原あたりの日本の最大の政治課題は、有り余った兵士のリストラを
どうするのか?

秀吉の大陸進出も、現実問題、そのあたりが非常に強く絡み合ったいる。

秀吉軍団を見てみれば、日本一の上昇志向集団だ。

例えば、自分の部下に自身の領地を半分与えても
「秀吉様が、必ず新しい領地を与えてくれるはずだ」
という感覚が当たり前のようにあった。

では、そのあたりしい領地とは、どこにあるのか?

外国しかない。

そんな上昇志向集団が、大きく方向を転換して、
大リストラしたのであるならば、たちまちに混乱して
しまったであろう。

しかし、大陸進出も失敗した。

そして、大衆の間も厭戦ムードになってきた。

そこで起こったのが、秀吉の跡目騒動である
関ヶ原の戦いだ。

戦争に明け暮れ、上昇志向の政治体制からの大きな
政治体制の大転換、、、。

新しいフロンティアがない以上、有り余った兵士の大リストラが
必要である。

社会全体として、それらの有り余った人材の雇用先として、
国内での新天地の開発しかない。

江戸初期では、日本の歴史上、飛躍的に新田開発が進んだ。

その最大の場所が、関東であったとも聞く。

そういう意味でも、エネルギー的に限界のある関西圏では、
ダメだったのかもしれない。

もし、家康が大阪に生き続けたら、西日本の森林は
荒れ放題、、、。

それが政治不信となり、大きな混乱が起こったのかもしれない。

大坂の陣とは、ある意味、俺もいつかは大名になるという
日本全国の浪人たちの野心を捨てさせる戦いであったともいえる。

もし、家康が大阪に居続け、秀吉のように豪華な生活を続けながら
より一層森林が荒れ放題になれば、大阪の陣はあれだけの規模で
収まっただろうか。

今回の真田丸の感想を多くの人に聞いても、
大半の人が幸村の生きざまに共感を受けていたようだが、
全体から見れば、家康のすごさというのは
計り知れない。

今の日本人の基礎を作った江戸時代、、、。

この江戸時代につちかったことが、これからの世界に
どれほど必要か、そう思えば、その基礎を作った家康が
もう少し評価されてもいいような気がする。



・・・・・
・・・・・
抜粋終わり



家康は、守成を完全に見つめていた偉大な為政者だ。

>戦争に明け暮れ、上昇志向の政治体制からの大きな
政治体制の大転換、、、。

>新しいフロンティアがない以上、有り余った兵士の大リストラが
必要である。

>社会全体として、それらの有り余った人材の雇用先として、
国内での新天地の開発しかない。

>江戸初期では、日本の歴史上、飛躍的に新田開発が進んだ。

>その最大の場所が、関東であったとも聞く。


光武帝のすごさは、「戦いながら軍縮をした」ところにあると思う。

参考 

参考 2

清朝末期の譚嗣同は
「光武帝は、統一戦争後に、余剰軍人の問題がなかった。そのことを書かない史官は無能だ」
とかいう記述を書いている。

参考より

・・・・・・・・・


チンギス・ハーンやアレクサンダーなどは、占領した面積は広大だが、倒した敵軍総数は多くないのだ。対して劉秀は、中国という人口の密集地域で、農民反乱という人数の多い敵と多く戦い、部下の将軍が苦戦したとき最期の段階に劉秀が出てきて相手を降伏させることが多かった。朱鮪、赤眉、隗囂などは劉秀が後から来て大量に降伏させているのだ。
 ただし劉秀は他の名将に比較して、敵を殺さないところに特徴がある。例えば、戦国時代の名将白起は百五十万人近くを破り、そのうち約百万人を殺しているが、対して劉秀は、二百万の十分の一程度の二十万人が戦場で戦死したと見られるものの、半数の百万人は降伏させて、自軍に編入したり帰農させているのである。一人の将軍が降伏させた総数の人類史上の世界記録であるのは疑いようがない。
 これは劉秀は、兵力が少ないことから包囲殲滅線をやらずに、敵を疲労させて降伏に持ち込むのを基本にしていたからである。城攻めにおいても力攻めは決してせず、相手の内応があるまで攻撃しないなど、敵味方の人命損失を最小にすべく注意していたのである。天下を治める皇帝として敵兵もまた自分の臣民であると考えていたからである。
劉秀はただ将軍としての実績が世界一があるだけではなく、軍事史を塗り替えた軍事思想の革命家でもある。まず一つは重装騎兵で敵陣を蹂躙する戦法を中国内地で初めて大規模に使ったこと。それまでの騎射中心のヒット&アウェー攻撃から騎馬突撃へと騎兵の用法が変化したのである。
 二つ目は、徴兵で大戦力を動員して一気に勝負を決める短期決戦の用兵から、精鋭の職業兵士による持久戦の用兵へと変えたこと。劉秀以前の戦争は、戦いの前に兵士を集めて将軍に与え遠征させるものだったが、劉秀以後は兵士は最初から将軍に直属していて、戦いの前から戦士として経験を積んだ人たちであった。これは古代的軍団から中世的軍団への変化であり、それは劉秀に始まるのである。
 その結果、劉秀の統一戦争はシュールな現象が発生した。秦豊の楚軍十万を岑彭が三万で、李憲の淮南軍十二万を馬成が四万で、張歩の斉軍二十五万を耿弇が五万で、公孫述の蜀軍三十万を呉漢と岑彭の八万で、徴姉妹の南越軍八万を馬援が二万で平定したのである。兵法では兵力は同数なら攻めるに足りぬが守るに十分と言われる。ところが劉秀の遠征軍は常に敵軍の数分の一でしかなかった。これは劉秀の武将が優秀であるというより、後漢軍と他の群雄とは軍事思想が異なる他の時代に所属していたということを意味する。後漢の天下統一は中世が古代を滅ぼした瞬間なのである。


・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋おわり


もう少し書くつもりだが、忘れてしまった。

が、どうも家康・あるいは天海は、光武帝を意識していたのではないのか?と思われる節もある。

久能山は、家康最初の埋葬地。日光は、家康の最終埋葬地。

ともに千手観音の聖地であったのです。

久能山に関して 参考

日光 中禅寺HP

28部衆という、眷属がいますよね千手観音さんは。ウイキ

建武二十八将で、光武帝は有名です。

参考 


他人とともに楽しむのはその楽しみも長いが、自分一人で楽しむのは長く続かずなくなるものだ 

ですは・・


なにかうまくオチが付きませんが、これにて。


今年もよろしくお願いいたします。




お読みくださりありがとうございます。

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