忍者ブログ
半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

* admin *  * write *

[8088]  [8087]  [8086]  [8085]  [8084]  [8083]  [8082]  [8081]  [8080]  [8079]  [8078
<<09 * 10/1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31  *  11>>
京の風 より

上記文抜粋
・・・・・・・
どこまでも茶番(ポーズ)の安倍は『退場』しかない。今、中山恭子さんが怒っている。


こんにちは。

22日からの3日間、テレビ・新聞をじっと見ていたんですが、今日の午後、中山恭子氏が、小池新党と合流すると聞き、いよいよ始まった、と感じています。

1)高麗神社と天皇家

 この3日間、私が最大の関心をもってメディアを見つめていたこと、それは、20日に陛下が高麗神社を私的に参拝されたことを、どのように報道・解説しているかでした。

結論を言えば、在位中の天皇による高麗神社参拝は、日本国(大宝律令の制定、記紀の編纂)始まって以来であるという事実に、メディアはあまり反応しない。これは、その意味が分からなかったのか、それとも、あえて避けたのか、どちらかです。

陛下が私たち日本国民に突きつけた事実とは、

 高句麗の滅亡と日本国の成立が、きわめて強い関係がある、ということです。

 もっと、分かりやすく言えば、皇室の守り神とされる三足烏(ヤタカラス)は、高句麗の神紋でもあるというのは、一体どういうことか、です。

 神武東征で、大阪湾で敗れた後、神武が熊野に上陸したとき、なぜ、そこに、ヤタカラスがいたのか、です。

 この辺は私の勉強会では、神武とは架空の存在で、実際は、崇神の東征。これは、3世紀の中頃の事実だと何回も触れています。

 高句麗・百済・新羅で、新羅が半島を統一したが、高句麗も、百済も、その王族が日本列島に入ってきた。彼らを、受け止めながら、日本という、国家を形成した、その過程を、日本人は、大陸の中国人と共に、政治的には(公式文書では)ずっと隠してきました。

しかし、真相を知る人間は、どうしても、その血が騒ぎ出すのです。特に、その時々の、政治的な駆け引きや作為のなかで、大きな犠牲が生まれかねない場合には、「もう、これ以上、犠牲を作るな」と。

私には、今回の陛下の参拝が、実は大変、強い大きなメッセージで、

 「真実を知るものよ、感じるものよ、動き出せ」と、聞こえます。

 真実とは何か? 今、私たちが意識する「日本」「日本人」とは、実は1300年前に、古事記・日本書紀を元に固められた、「創られた政治的概念」だということ。これは、実際には、世界中からこの列島に来訪した多くの人間が、天皇という核を得た後、大陸半島と決別し、日本語の発展とその普及によって形成されたものです。しかし、明治になって中央集権を進めるときにこの統治体は激変し、天皇の赤子=皇民という政治概念がさらに強制され、それが対外的にも伸長する。特に、1910年から1945年までは、半島の人間も日本人として抱え込んでいたが、それを、戦後の日本は、国家(統治体)として、捨て去ってしまった。

 北は、戦前の「日本国」の統治姿勢をそのまま残し、先軍国家と成りながらも、アメリカの支配下になった日本に、その支配から脱出することを求め続け、

 南は、戦後日本の支配者のアメリカから、35年間の「日本」統治時代は、「日本」に同化させられ、民族の尊厳を失った屈辱の時代で、その恨みを晴らせ、と政治的刷り込みが繰り返された。

2)中山恭子氏は、本当にあきれ、怒っているのだろう。

 安倍晋三が2012年12月に再度、総理大臣に返り咲いたとき、戦後の日本がアメリカの支配下であることに何の反発もせずに、その状態のママで国家利益を前面に出して、対中、対北朝鮮、対韓国で、強気の姿勢を作りだした。そのとき、戦前の愛国・皇国思想を否定する朝日新聞や親中のNHKの姿勢を嫌う人間たちは、「日本会議」という組織に集まり、ヘッドの無くなった統一教会は安倍個人に取り憑いた。この布陣で、メディアの報道姿勢を変えさせ、内閣人事局をつくり、「安倍一強」体制を作った。

 この「安倍一強」が、本当に、日本の名誉を守り、国民のイノチを大切にしていたか? 国家の経営資源(人とマネー)を、きちんと生かしてきたか?

 アベノミクスは国家のカネを直接使って株価を引き上げたが、新自由主義グローバリズムのなか、日本国内では富の偏りを強めさせ、大半の人間の未来の希望をどんどん狭めていった。

 安倍晋三自身が政治的に名を挙げたのは、小泉内閣の2002年9月の訪朝で、当初は、拉致被害を認めない金正日に対し、強気の姿勢をとおしたことが、安倍の手柄と喧伝されたのが始まりだった。

事実は、このあと、5人の拉致被害者が帰国を果たしたが、そのとき、当時の外務省は、その5人を、再び北に戻す方針だった(これは、国家間の約束だった)のを、全身全霊で、日本国内に引き留めたのが、元外交官(ウズベキスタン大使)だった中山恭子氏だった。

 その中山恭子氏が、「日本の心」という政治団体を作って党首となり、第二次安倍政権を支援したが、2013年からの安倍晋三内閣を見て、その政策をどう見ていたのか?

 外交面は、ロシアとの領土問題に代表されるように、すべて失敗。カネのバラマキのみだった。

 そして、なによりも、北朝鮮については、まだ多くの拉致被害者がいるも関わらず、北朝鮮とアメリカとの間の緊張を高め、それを煽ることはしても、被害者を現実的に救出するという意志が、時間が経つにつれますます薄れ、最後は、国連で、「これまでの対話は、全く意味をなさなかった。圧力しかない」と言い放ってしまった。

 これは、その文言が、誰かが書いた原稿を読んだものにせよ、もう、政治家として、本気で、北朝鮮問題に、人間の尊厳、イノチの次元から解決する気持ちが、全くなくなった、と見切ってしまったのでしょう。

 結局、安倍は、すべてが、誰かが振り付けた「ポーズ」でしかなかった。全ては、茶番だった。

「日本」や、「日本国」、「日本精神」といっても、それは、自分の「格好つけ」と一部の人間の「利益」の爲の、都合のいい看板・格好つけのセリフでしかなかった。

5人の拉致被害者を、実際に、最後に取り戻した、最大の功労者であった中山恭子氏本人には、そう感じられたのでしょう。

 安倍の周りに集まった自称「愛国者」が、如何に、いい加減な、まがい物ばかりだったことか。

これが、彼女にとっての6年間だったのではないでしょうか?

そして、陛下からは、

 もう、インチキはおやめなさい。ヤラセは、終わりにしなさい。

 国家のありかたも、本気で、改変しなさい。 

こういう意志が示されたのでは、ないでしょうか? 

安倍晋三は、ことここまで至って、自分で解決する力は何も無く、もう逃げるしかないのでしょう。

父の晋太郎はこの日を予感したでしょうか? それが、ビッグママ洋子様のいう、「運命の子」? 

明日、衆議院の解散表明です。


・・・・
・・・・・・
抜粋終わり


中道を日本は失っている。

特に明治以降・・・・。

国際秘密力研究 より

上記文抜粋
・・・・・・・・
ツイートまとめ テーマ:日本及び東洋の精神文化の特質を考察する

〇仏教を初め東洋思想の特徴の一つが「大事なのは信仰より心法」だと思う。いざという場合に大事なのはいかにその時の心理状態を制御できるかだという洞察である。「傲り、貪り、怒りなど負の感情に囚われ過ぎるとろくな事が無い」という経験則でもある。信仰を第一とする西洋思想との大きな違いである。

〇西洋思想では信仰が何より大切とされるが、東洋思想では心法が核心となる。東洋思想の考えからすれば、仮に何かを熱烈に信仰していても、それによって貪りや怒りに囚われるなら本末転倒である。逆に特に信仰は持たなくても貪りや怒り、傲りを制した人は立派な人物なのである。後者の考えに理を感じる。

〇東洋思想は大体以下の立場と思う。何かを信仰する事の反射的効果で負の感情が制せられるなら、それはそれでよいとするが、それは信仰自体より負の感情が制せられている結果に価値を見る訳である。逆に、負の感情が制せられ人の道に適うなら無信仰で一向に構わず。だが信仰故に悪に走るのは許されない。

〇恐らく原始仏教などでは、熱烈な信仰故に怒りや貪りに満ちているなら、その信仰は否定される。信仰が一切なくても怒りや貪りを制しているなら、それは称賛される。信仰の良しあしなど形而上学的問題は「無記」とする。大事なのは現実の心や行為をいかにするか、のみとなる。東洋では心法・道義>信仰。

〇支那思想の学者が書いていたが、ヨーロッパが「神」を巡る系譜なら、支那では「道」を巡る系譜だと。「道」とは、原理、法則、規範等々様々なニュアンスがあると思うが、印度の「法=ダルマ」と近い概念だと思う。だから「道」を巡る支那の思想史は信仰ではなく倫理とか道義道徳が主題となっている。

〇信仰熱心だが内に深く恨みを抱き殺伐として事ある毎に他人に絡みつく人間と、信仰は持たないが己の怒りを制し他者に対する思いやりを常に忘れない人間がいるとしたら吾人は後者を尊敬する。西洋では信仰を持つ事自体を価値とするが、東洋では「道」即ち道理に適うを価値とする。東洋では道理>信仰。

〇西洋の「宗教」、東洋の「道」。「宗教」(この概念自体キリスト教をモデルとした西洋伝来のもの)は人間性を向上させるとは限らない。固定化された教義や世界観を絶対のものとして奉じるとむしろ人間性を歪めてしまう場合が多い。怒りや貪りを制する事、思いやりを持つ事。「道」はそれで十分と思う。

〇カルトやスピの妄信者が憎悪に満ちた攻撃を仕掛けてくる度に思うが「この者達にとって信仰が何の意味をなしているのか?」である。憎悪を制する事ができない、どころかたき火に薪をくべる様にさらに燃え立たせる信仰とは?憎悪を持つと苦しむ。無くすと苦は消える。信仰より道理の観察が重要と考える。

〇欲をかいたり、憎んだりすると心が苦しむ。欲や怒りを制御すると苦が減る。この「道理」に信仰が入り込む余地はない。何を信じようが個々の自由だが、己の中にある貪り、傲慢、怒り、恨みつらみ・怨念、そう言った負の感情を制する事が出来ない、逆に増長するような「信仰」は無意味で有害だと考える。

〇信仰など持たずとも貪りや憎しみを制する事ができるなら有意味である。信仰より道理の観察が重要である。日本及び東洋の伝統では、「宗教」「信仰」より「道」「法」「道理」を重視する。怒りを制する事が「和」の前提である。「怒り」は徳の全てを吹き飛ばす。よって思いやり、仁、慈悲の前提は忍耐。

〇古来日本においては特定の思想を教義的に固定化し絶対化するのを邪教化と見なしたのではあるまいか。神道にしろ仏教にしろ、どれか一つの宗派や流派が全体を制圧した事はついぞなかった。相互横断的ですらあった。日本人は宗教の奴隷にはならない。思想哲学は活用するもの。そう見なしてきたと思う。

〇日本では「宗教は怖い」というイメージがあるが、これは戦後の風潮ではなく元々日本人が持っていた感覚ではなかろうか。ここでいう「宗教」とは一神教的な絶対的な教義や世界観を固持して他を排斥する体系の事である。日本人はかかる意味での宗教は忌避するが神社にもお寺にもお参りする。普通の事だ。

〇西洋では宗教の土台の上に道徳が乗っているので、宗教や信仰を否定すると危険人物扱いをされがちな様だが、東洋では道=道理が根本なので宗教や信仰を否定しても虚無主義にはならない。また「道とは何なのか」についても決して一義的に固定化せず、神・儒・仏・道で自由に論議して思索・検討する風土。

〇印度でも支那でも自由思想家や諸子百家が百家争鳴。我が江戸時代においては「道」について、国学者、儒学者、仏僧などの間で活発な論議がなされていた。学問の方法論として実証主義が広く共有された。本居宣長の方法論は徂徠学を学んだ堀景山の影響。仏僧では慈雲が実証的方法で梵語や仏教学を研究。

〇日本や東洋では「道理>宗教」という土壌。その上、道理=道とは何たるか?についても一義的に固定化されず様々な見解があり相互に論議し合って検討した。絶対的な「宗教」が無いが故にこのような状況を可能とした。宗教や信仰をやかましく言うのはキリスト教徒の口吻を真似た西洋かぶれと思われる。

〇昔の日本人の心(古心)は固定化された宗教教義や思想哲学ではなく古人が詠んだ和歌や俳句などの中に見つかるのでは、というのが吾人の考え。自然や人事に接して喚起される情趣即ち「もののあはれ」をそのまま言葉として造形化した伝統文学。固定化した教義でも思想でもない「古人の心=古心」である。

〇西洋人は己の原点を聖書に求め、思惟形式の根源はギリシャ哲学にある。永遠の実在世界と現実の現象世界の二世界観に基づき現実の背後に想定するイデア(永遠の美など)を造形化するという志向の西洋伝統芸術。具体的な自然や人事の賛美や詠嘆ではなく、神やイデア又は抽象化された「人間」の賛美が主。

〇西洋では宗教が道徳や価値の土台なので宗教や信仰が否定されるとニヒリズムの危機が訪れる。ニーチェが突いた「神の死」の状況とはこの事。一方で西洋文明では反宗教の場合も徹底している。大東社・イルミナティ→共産主義の流れでは宗教を徹底破壊し、新たな宗教としての理性崇拝や共産主義を絶対化。

〇宗教原理主義者と反宗教原理主義者は酷似しているが両建である。後者は「宗教」という体裁をとっていないだけで特定の思想哲学や世界観を絶対化しているので「宗教」と同質である。革命仏蘭西は「理性教」、ソ連は「マルクス・レーニン教」の宗教原理主義国家だったと言えよう。「反宗教という宗教」。

〇この様に西洋文明は何事も両極端であり中庸とか中道が極めて希薄である。「両極の中間」という意味での中庸(アリストテレスが説いた中庸はこれ)はあるが、これも一つの固定的な断定である点で変わりない。東洋における中庸・中道は「中間」ではなく「適切」という意味。要するにバランス感覚である。

〇「破両建」の極意を「中道」だと考えるのは端的に両建(両極端)の反対が中道(適切)だからである。両極端(まさに両建)を避け、状況毎(ここで重要)に適切な判断を下す事が中道(道に中る)の原意。「適切な判断」とは「適切なポイントを見抜く」つまり「急所を突く」と言い換える事が出来る。

〇中道の中身は状況によるので固定化は厳禁。「両極の間の中間」という判断すら固定化の産物である。例えば火事の時の消火作業は「急ぐでもなくゆっくりでもなく中間」などと言ってられない。その状況では「冷静さを保ちつつ急ぐ」が適切な判断。その状況において最も適切な判断を下すのが中道である。

〇 陰謀追及では固定化は両建に取り込まれる危険を意味する。先ほどの例で言うと、火事の時に「冷静さは必要ない。とにかく急げ」「冷静にゆっくりとやれ」という両極端な判断に固執するのと同じである。どちらも適切ではないから結局火が燃え広がってしまう。両建とは不適切な両極に人々を二分する事だ。

〇両建戦術とは。火事の例で言うと、消火作業をする人たちに対して傍から「冷静さは要らない。とにかく急げ」とか、「冷静に慎重にじっくりゆるりとやれ」とか、両極端な指示を与えて「冷静さを保ちつつ急ぐ」というその状況での適切な判断を晦ませて鎮火を妨げる放火魔の手口、と言えるかもしれない。

〇印度では「ヒンドゥー教」と一口に言っても様々な流派があり教義内容は全く一定していない。だが、印度では形而上学的世界観の一致よりダルマ=行為規範(謂わば印度人が考える道理)の一致を重視するそうだ。だからダルマに従うなら無神論者をもヒンドゥー教徒として許容するとの事。道理>宗教の例。

〇ここでいう「宗教」とは西洋における猶太・基督教のように「絶対的な教義や世界観の体系」の意味。その点、印度人はかなり寛容である。印度人は歴史的に哲学的思弁が大変発達しているが、かといって特定の形而上学的世界観を絶対化する事はしていない。むしろダルマ=行為規範の順守を重視するようだ。

〇支那では知識人ほど西洋的な意味での「宗教」を軽蔑した。読書人たる士大夫たるものは他力的な「宗教」に依るを潔しとせず、という態度が強かったようだ。例えば章炳麟などは「依自不依他」と言った。だから支那知識人の間では禅が受け入れられた。その影響下に生まれたのが朱子学であり陽明学である。

〇日本では「宗教」より「道理」(=道)が中心である事は富永仲基の例で分かる。仲基は大乗仏典の研究において「加上説」を打ち出した事で有名だが、仏教だけでなく神道も儒教も否定し「誠の道」を唱えた。「道」の考察が中心。特定の宗教教義が絶対の社会なら仲基のような思想家は許容しえないだろう。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/781176498380087296


・・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり


おなじく より

上記文抜粋
・・・・・・・・・

ツイートまとめ テーマ:両建を破る=破両建の極意は「中道」にあり

〇「両建」への対処法は「中道」が答えだと思う。中道とは「どっちつかずの中途半端」ではない。「道に中る(あたる)」である。破両建の場合は両建の双方と背後者、構造そのものの急所を突く事である。中途半端どころか、ズバリ急所を突く徹底的な批判追及こそが破両建における「中道」である。

〇「両建」という分析がかなり広まってきたと感じる。両建分析の次に必要なのは「両建にいかに対処するか」の検討である。「巻き込まれるのを避ける為両建から距離を置き静観する」という選択肢がありえる。しかし、これでは単なる「分析」「評論」に終わり、「陰謀追及」になっていないと思う。

〇「両建の両肢(右と左等)から距離を置き静観する」だけとなれば、例えば「共産党も反対しているからTPPに反対するな」とか「安倍信者も横文字左翼を批判しているから人工芝批判するな」となり、結局「何も言うな」という結論になりかねない。 両建分析はかかる結論に導くものであってはならない。

〇両建への対処=破両建の正しい方針は「両建の両肢のどちらにも急所を抉る本質的な批判をし、両建構造そのものとそれを操作する背後者をまとめて叩く」だと考える。前述の例で言えば「安倍一味も横文字左翼もウヨサヨ茶番構造も背後にいるジャパンハンドラーズなどもまとめて徹底批判する」となる。

〇「両建だから」を逆手にとって「利用されるから、どっちも批判しないようにしよう」という誘導もありえる。「両建」という知見に乗じての趣旨のすり替えである。今後はそういう誘導もありうると想定し警戒しておきたい。「両建」ならあくまで全力で全方位を徹底批判追及あるのみだ。これ以外にない。

〇特定の言説に忍び込んで内部から趣旨をすり替える、というやり方はジャック・デリダの「脱構築」の手法を連想する。コンピュータ・ウィルスの様なやり方である。憑依型戦術による伝統破壊工作もそうだが、「両建」という知見の趣旨のすり替えについても警戒しておくに越したことはないと思う。

〇「両建を見抜き、巻き込まれない様にする」という観点のみでは次の二つの態度が導出され得る。①両建だからどちらも批判すべきではない②両建だからどっちも批判すべきだ〇まさに天地の差。両建を分析するのは何のためか?を常に問うておかないと①の様な思考誘導に嵌る恐れも無きにしも非ずと思う。

両建分析は陰謀追及の為である。静観する為ではない。陰謀追及とは祖国日本と世界に害悪をもたらす真の要因を見極め、摘出し、改善する事に貢献する為の営為である。ここを等閑に付すと両建の分析は「どうせ両建だから」と高所から論評するシニシズムに。両建の根源を叩く事に繋げないと意味がない。

〇「両建」というのは既に戦前の陰謀研究の文献にあった概念だが、Twitterの陰謀論界隈でこの言葉を広めたのはどうも自分のようだから、責任を持ってその趣旨を説明しておきたかった。両建の分析が「どうせ両建」というシニカルな態度を導くとしたらそれは不本意極まりないので原点を再確認した。

「中道」は「中ほど」「ほどほど」「中途半端」ではなく、「道に中る」「急所を突く」という意味である。破両建の指針はまさに「中道」だと思う。右だろうと左だろうと、西洋の各種思想派閥だろうと、ズバリ急所を突く。そして両建構造自体も主宰する背後者の急所をも突き、貫く。破両建のイメージだ。

〇単に距離を取って静観するだけなら両建戦術に嵌められる事は無いが陰謀を放置するだけの結果になる。全方位追及すれば両建戦術に乗せられるのを防止しつつ裏権力を叩く事が出来る。「両建に乗せられない」という消極的観点と「陰謀を追求する」という積極的観点が同時に必要である。車の両輪である。

〇両建への対処法として「中道=道に中る(あたる)=急所を突く」を挙げた。「急所を突く」為にはまずは急所を探さねばならない。ここが陰謀分析の要。例えば清和会一味なら朝鮮カルトやCSIS、ジャパンハンドラーズとの関係、横文字左翼なら海外の人工芝運動、NEDやソロス財団との接点等である。

〇「急所」とは両建の走狗達が世界全体の権力構造の中でどのような位置を占め、いかなる「役割」を担っているか、という点である。ISなら「欧米支配層が敵対国の倒壊に使うコマであり、また戦争惹起を正当化する敵役」という立ち位置がある。急所を突いたIS批判とはここをガンガン指摘する事である。

〇安倍一味批判の場合も同様である。「安倍は危険な極右政治家であり軍国主義者だ」という批判は完全に急所を外している。「安倍は愛国保守を偽装して保守層を騙し、あくまでTPPを推進するグローバリストでありTPPの先にFTAAPを見越しているワンワールド側の走狗」が急所を突いた批判である。

〇横文字左翼批判の場合は「拳マーク」が急所だろう。人工芝運動、オトポール、CANVAS、ジーン・シャープ、アインシュタイン研究所、色の革命、全米民主主義基金(NED)、ジョージ・ソロス、オープンソサイエティ財団等々がキーワードになる。ここに触らず「パヨク」を連呼しても無意味である。

〇右にも左にも本質的な急所がある。それを分析して探り当て、そこを徹底して突く。これが「両建の両肢を叩く」の意味である。そして、それらの急所から必然的に背後者との関係が視野に入ってくる。TPP推進にしろ、人工芝にしろ背後者抜きにはありえないからだ。ここで背後者への追及に踏み込む訳だ。

両建の走狗の急所を突く事は同時に走狗の背後者の追及に直結する。何故なら、両建の走狗の「急所」とは「走狗と背後者の関係」を意味する場合がほとんどだからである。例えば、ISの急所は「欧米支配層の傭兵であり、戦争マッチポンプ用の敵役」という事だが、これはもろに欧米支配層との関係を示す。

〇共産中国や北朝鮮の急所はイスラエルや英国との関係だろう。中国はイスラエルと長年軍事協力関係にあるし、英国は経済的に中朝と結びつきが強い。両建の走狗の急所はそのまま「背後者との関係」を意味している場合が多い。中朝を口を極めて罵倒してもこのマッチポンプ構造に触れなければ寸止めである。

〇米国の急所は実際に力を持っているのは米国という国家ではなく国際金融資本や多国籍企業、シオニストやネオコン、CSISなどシンクタンク、イエズス会人脈など複雑に入組んだ国際的な権力ネットワーク=国際秘密力だという事だろう。海兵隊将軍スメドリー・バトラーは米軍は資本家の用心棒だと証言。

〇国際秘密力の国家侵略手段は最近は主に2種類ある。直接軍事的に攻めるネオコン路線と、現地で反体制運動を組織して革命・クーデターを引き起こす人工芝路線である。この二つの路線は対立を偽装したり(ソロスのネオコン批判など)、複合的に組み合わせたりしている。リビア侵略は民衆デモ→軍事侵攻。

〇ネオコン路線の拠点はCSISやアメリカン・エンタープライズ研究所、ヘリテージ財団などのシンクタンクである。人工芝路線の拠点は全米民主主義基金(NED)やジーン・シャープが開設したアインシュタイン研究所、オトポール!の後身である「革命輸出企業」CANVAS、ソロス財団などである。

〇ジョージ・ソロスがブッシュ政権のネオコン政策を批判したように、ネオコン路線と人工芝路線は対立を偽装する事がある。「安倍一味VS横文字左翼」は「ネオコン路線VS人工芝路線」両建対立の日本における反映だと考える。国際秘密力の対日侵略の「両手」が安倍一味と横文字左翼ではないだろうか。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/783352671516319744



・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり



両建ての打破とは、偏らず、本当のこと・正気を追求し生きていくことである。

偽りで、自他を誤魔化さず、人を搾取する・騙すことを、許さないことであろう。


お読みくださりありがとうございます。


拍手[1回]

PR
この記事にコメントする
お名前
タイトル
文字色
メールアドレス
URL
コメント
パスワード   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字

管理人のみ閲覧可能にする    
カレンダー
09 2017/10 11
S M T W T F S
18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31
最新CM
ブログ内検索
プロフィール
HN:
忠武飛龍
性別:
男性
バーコード
P R
忍者アナライズ
忍者カウンター
フリーエリア
powered by NINJA TOOLS // appeal: 忍者ブログ / [PR]

template by ゆきぱんだ  //  Copyright: 子牙山遍照院 渾沌堂主人雑記  {大日本国終焉日記 } All Rights Reserved