故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
徽宗皇帝のブログ より
上記文抜粋
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組織への忠誠が悪を産む
「株式日記と経済展望」から転載。株式日記氏が引用した記事の前半は略。
「私の感想」の内容もいいのだが、せっかくのいい内容が最後の一段落で台無しである。株式日記氏は最近は安倍政権への忠誠を誓っているのか馬鹿なことばかり書いているが、日大や東芝の事例が安倍政権下の官僚の姿にそっくりだからこそ世間は騒いでいるのである。何をトチ狂って野党を攻撃する結論になるのか、せっかく書いた文章の論理が滅茶苦茶であり、九仭の功を一簣に欠くとはこのことである。
しかし、日本型組織(あるいはすべての組織)の病理(私はそれを「組織悪」と言っている)をかなり的確に描いているという点では評価できる。
(以下引用)
利益を水増しして「会社に貢献した」と達成感
まったく同じシーンに出会ったことがある。東芝の粉飾決算を取材していた2015年、私は都内の某所で東芝の原子力事業部門で働く現役の部長に会っていた。彼は匿名を条件に自分たちの部署でも決算を改竄し、利益を水増しした手法を明かした後、驚くべき発言をした。
「上に言われて利益を水増しした書類を提出したのですが、その時は罪悪感を感じませんでした」
ではどんな気持ちだったのか。
「むしろ、自分の部を守った、会社に貢献した、という達成感を感じていました」
悪質タックルを見舞ってベンチの戻った選手がヘルメットを撫でられたのと同じように、粉飾決算に手を染めた東芝のエリートサラリーマンたちも「グッジョブ!」と褒められたのだろうか。だとしたら、すべてが狂っている。
言い訳の仕方も東芝に酷似している
冒頭の回答の中で、負傷した選手に対する謝罪を求めた関学大に対して、日大側はこのように釈明していた。
「ルールに基づいた『厳しさ』を求めたが、指導者の指導と選手の受け取り方に乖離が起きていた」
「『あれぐらいやっていかないと勝てない。やらせている私の責任』(日刊スポーツ)という試合後の内田監督のコメントは、選手に『厳しさ』を求めて発したもの。反則行為を容認する発言と受け取られかねないものであり、本意ではないため撤回する」
言い訳の仕方も「チャレンジ」と称して社員に粉飾をけしかけたとされる東芝の経営陣とよく似ている。東芝は粉飾決算(東芝は「不正会計」と表現している)で被った損害の賠償を求めて西田厚聰、佐々木則夫、田中久雄の歴代3社長(西田氏は死去)と2人の財務担当役員を訴えている。この裁判の中で佐々木氏はこう主張している。
「社長月例(社長と事業部責任者の会合)において『チャレンジ』と称される目標の伝達が行われる場合もあった。その意味合いはコーポレートからカンパニーに対する努力目標であり、その必達が要求されるものではなかった」
田中氏も「チャレンジは『もっと頑張れ』という社長からの叱咤激励であり、経営者として当然の行為。それをしないのは経営者の怠慢」という旨の発言をしている。「『厳しくやれ』とは言ったが『相手に怪我をさせろ』とは言っていない」という日大の主張と酷似しているではないか。(後略)
(私のコメント)
日本型組織の恐ろしさは、組織に対する絶対的な忠誠を求めることであり、それが倫理に反することであっても「上官の命令は天皇陛下の命令だ」とされて、絶対の服従が求められることだ。ヤクザ組織ならそれでもいいかもしれないが非合法集団とされてしまう。
しかし日本大学や東芝が、なぜヤクザ組織化してしまうのでしょうか。それは終身雇用であり年功序列型の組織では、組織に対する絶対的忠誠が求められやすいからだ。私も銀行員時代に同じような感じを持ったが、上司の命令に「そこまですることもないのでは」と思うことが多々あった。
日本型の組織では、有能である事よりも組織に対する絶対的忠誠が求められており、上司の命令に逆らえばその組織にいられなくなる恐れも出てくる。なぜ日本型の組織ではそれほど上司や組織に対する忠誠が求められるのでしょうか。それは会社内の倫理と一般社会倫理にズレがあっても気がつかないからだろう。
日大のアメフト部や東芝などの事件は、このような問題が顕在化したからわかりますが、アメフト部の監督や東芝の社長などは絶対化されてしまって、不正な事を指示されても「それはおかしい」とは言えない雰囲気ができてしまう。
財務省の文書改ざん事件でも同じことですが、佐川局長から指示されれば不正でもそれは行われてしまう。日本では組織防衛が正当化されて不正が行われても処分がされない事があるようだ。文書の改ざんは違法行為なのに内容の変更はないとして起訴されない。
日大のルール違反のタックルも、東芝のチャレンジも、財務省の文書改ざんも不正な事に変わりがない。しかし組織防衛のためということで組織内部では正当化されてしまう。それが外部に漏れて問題化すれば、日本人は初めてそれが「不正」だと気がつくのだろうか。
日大も東芝も財務省も、一種の閉鎖された社会であり、一般社会倫理と組織内倫理にズレが生じても気がつかなくなってしまうことがあったようだ。やっている本人がそれが組織の為という正当化された行為と思い込んでしまう。
記事においても、「上に言われて利益を水増しした書類を提出したのですが、その時は罪悪感を感じませんでした」「むしろ、自分の部を守った、会社に貢献した、という達成感を感じていました」という発言が書かれていますが、まさに狂っている。しかもみんな狂っていて誰もが気がつかない。
日本全体も海に囲まれた閉鎖された社会になりがちですが、トップが狂ってしまうと歯止めが利かなくなり暴走しやすい体質を持っている。
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抜粋終わり
徽宗皇帝さんの指摘したダメなとこは削除して載せました。
>日本全体も海に囲まれた閉鎖された社会になりがちですが、トップが狂ってしまうと歯止めが利かなくなり暴走しやすい体質を持っている。
孟子が「敵国が滅びると、自分の国も亡びる。緊張が無くなり堕落して破滅するから」
みたいなことを言っている。
日本は、閉鎖社会に近い「ガラパゴス」なので、外圧なりに対応して自分を変えれない・綱紀粛正できない。
でも、もう、グローバル化ならぬ、情報と人の行き来の拡大化が技術の発達で止まらない。
ので、ある意味での日本人の変容は、必須に思える。
ガマパゴスで、奴隷化されてきた・・・特に明治以降の日本人。
もうそれは通用もしないし、このままではいられない。
「君主・上司のいうなりの臣下は、不肖の臣下。親の言いなりの子供は不肖の子供」という。
言いなりでは、上の過ちは糺せず、そのまま心中しかないのだから、諫言・反抗も、組織なり、家族の生存には、反乱・諫言は、有効な方策なのである。
素直で従順なだけでは、ただのロボットで人間ではないのである。あるいは愛が無いのである。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
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組織への忠誠が悪を産む
「株式日記と経済展望」から転載。株式日記氏が引用した記事の前半は略。
「私の感想」の内容もいいのだが、せっかくのいい内容が最後の一段落で台無しである。株式日記氏は最近は安倍政権への忠誠を誓っているのか馬鹿なことばかり書いているが、日大や東芝の事例が安倍政権下の官僚の姿にそっくりだからこそ世間は騒いでいるのである。何をトチ狂って野党を攻撃する結論になるのか、せっかく書いた文章の論理が滅茶苦茶であり、九仭の功を一簣に欠くとはこのことである。
しかし、日本型組織(あるいはすべての組織)の病理(私はそれを「組織悪」と言っている)をかなり的確に描いているという点では評価できる。
(以下引用)
利益を水増しして「会社に貢献した」と達成感
まったく同じシーンに出会ったことがある。東芝の粉飾決算を取材していた2015年、私は都内の某所で東芝の原子力事業部門で働く現役の部長に会っていた。彼は匿名を条件に自分たちの部署でも決算を改竄し、利益を水増しした手法を明かした後、驚くべき発言をした。
「上に言われて利益を水増しした書類を提出したのですが、その時は罪悪感を感じませんでした」
ではどんな気持ちだったのか。
「むしろ、自分の部を守った、会社に貢献した、という達成感を感じていました」
悪質タックルを見舞ってベンチの戻った選手がヘルメットを撫でられたのと同じように、粉飾決算に手を染めた東芝のエリートサラリーマンたちも「グッジョブ!」と褒められたのだろうか。だとしたら、すべてが狂っている。
言い訳の仕方も東芝に酷似している
冒頭の回答の中で、負傷した選手に対する謝罪を求めた関学大に対して、日大側はこのように釈明していた。
「ルールに基づいた『厳しさ』を求めたが、指導者の指導と選手の受け取り方に乖離が起きていた」
「『あれぐらいやっていかないと勝てない。やらせている私の責任』(日刊スポーツ)という試合後の内田監督のコメントは、選手に『厳しさ』を求めて発したもの。反則行為を容認する発言と受け取られかねないものであり、本意ではないため撤回する」
言い訳の仕方も「チャレンジ」と称して社員に粉飾をけしかけたとされる東芝の経営陣とよく似ている。東芝は粉飾決算(東芝は「不正会計」と表現している)で被った損害の賠償を求めて西田厚聰、佐々木則夫、田中久雄の歴代3社長(西田氏は死去)と2人の財務担当役員を訴えている。この裁判の中で佐々木氏はこう主張している。
「社長月例(社長と事業部責任者の会合)において『チャレンジ』と称される目標の伝達が行われる場合もあった。その意味合いはコーポレートからカンパニーに対する努力目標であり、その必達が要求されるものではなかった」
田中氏も「チャレンジは『もっと頑張れ』という社長からの叱咤激励であり、経営者として当然の行為。それをしないのは経営者の怠慢」という旨の発言をしている。「『厳しくやれ』とは言ったが『相手に怪我をさせろ』とは言っていない」という日大の主張と酷似しているではないか。(後略)
(私のコメント)
日本型組織の恐ろしさは、組織に対する絶対的な忠誠を求めることであり、それが倫理に反することであっても「上官の命令は天皇陛下の命令だ」とされて、絶対の服従が求められることだ。ヤクザ組織ならそれでもいいかもしれないが非合法集団とされてしまう。
しかし日本大学や東芝が、なぜヤクザ組織化してしまうのでしょうか。それは終身雇用であり年功序列型の組織では、組織に対する絶対的忠誠が求められやすいからだ。私も銀行員時代に同じような感じを持ったが、上司の命令に「そこまですることもないのでは」と思うことが多々あった。
日本型の組織では、有能である事よりも組織に対する絶対的忠誠が求められており、上司の命令に逆らえばその組織にいられなくなる恐れも出てくる。なぜ日本型の組織ではそれほど上司や組織に対する忠誠が求められるのでしょうか。それは会社内の倫理と一般社会倫理にズレがあっても気がつかないからだろう。
日大のアメフト部や東芝などの事件は、このような問題が顕在化したからわかりますが、アメフト部の監督や東芝の社長などは絶対化されてしまって、不正な事を指示されても「それはおかしい」とは言えない雰囲気ができてしまう。
財務省の文書改ざん事件でも同じことですが、佐川局長から指示されれば不正でもそれは行われてしまう。日本では組織防衛が正当化されて不正が行われても処分がされない事があるようだ。文書の改ざんは違法行為なのに内容の変更はないとして起訴されない。
日大のルール違反のタックルも、東芝のチャレンジも、財務省の文書改ざんも不正な事に変わりがない。しかし組織防衛のためということで組織内部では正当化されてしまう。それが外部に漏れて問題化すれば、日本人は初めてそれが「不正」だと気がつくのだろうか。
日大も東芝も財務省も、一種の閉鎖された社会であり、一般社会倫理と組織内倫理にズレが生じても気がつかなくなってしまうことがあったようだ。やっている本人がそれが組織の為という正当化された行為と思い込んでしまう。
記事においても、「上に言われて利益を水増しした書類を提出したのですが、その時は罪悪感を感じませんでした」「むしろ、自分の部を守った、会社に貢献した、という達成感を感じていました」という発言が書かれていますが、まさに狂っている。しかもみんな狂っていて誰もが気がつかない。
日本全体も海に囲まれた閉鎖された社会になりがちですが、トップが狂ってしまうと歯止めが利かなくなり暴走しやすい体質を持っている。
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・・・・・・・
抜粋終わり
徽宗皇帝さんの指摘したダメなとこは削除して載せました。
>日本全体も海に囲まれた閉鎖された社会になりがちですが、トップが狂ってしまうと歯止めが利かなくなり暴走しやすい体質を持っている。
孟子が「敵国が滅びると、自分の国も亡びる。緊張が無くなり堕落して破滅するから」
みたいなことを言っている。
日本は、閉鎖社会に近い「ガラパゴス」なので、外圧なりに対応して自分を変えれない・綱紀粛正できない。
でも、もう、グローバル化ならぬ、情報と人の行き来の拡大化が技術の発達で止まらない。
ので、ある意味での日本人の変容は、必須に思える。
ガマパゴスで、奴隷化されてきた・・・特に明治以降の日本人。
もうそれは通用もしないし、このままではいられない。
「君主・上司のいうなりの臣下は、不肖の臣下。親の言いなりの子供は不肖の子供」という。
言いなりでは、上の過ちは糺せず、そのまま心中しかないのだから、諫言・反抗も、組織なり、家族の生存には、反乱・諫言は、有効な方策なのである。
素直で従順なだけでは、ただのロボットで人間ではないのである。あるいは愛が無いのである。
お読みくださりありがとうございます。
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