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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
DEEPLY JAPAN  より

上記文抜粋
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一言でいって禍々しい

昨日あたり、ネトウヨが交通網も数日で回復、日本ってスゴイ!などというtweetなどの書き込みを組織的に行っていたが(8日あたりから書いてる人もいた)、誰も大きくは乗ってこない。

なぜなら、いまだに被害者の数さえ明らかでない中、あるいは増え続ける中、ぬか喜びするような不埒な人間はそうはいないからでしょう。ネトウヨのような崩壊メンタリティーの人ばかりではない。と、私としては、昨日一日このテーマを書こうか書くまいか迷っていたのだが、くだらなすぎて止めたくなったがやっぱり書いておこうと思い書いてみる。

私はこの政権は、一言でいって禍々しいと思ってる。是非そう考えたことを記録しておきたい。



世の中には、制定法に対する違反でなくても、守るべき法は他にもある。

例えば、お葬式にへそ出しの柄物の服を着て行ってはいけないという法の定めはないが、行けばつまみ出されるし、一生酷く軽蔑されるだろう。結婚式にも同じようにコード(規範)がある。

様々なコードの中には時代の変化、価値観の変化と共にどうでもよいものになるものもある。しかし、守られ続けているのなら、それはそれなりにコードそのものというより、コードをコードたらしめる趣旨が人々に共有されているからだろうと思う。葬儀の場合ならば、人を悼む、悲しんでいる人に心を寄せるといったことが目的とされるから、享楽的なものは排されるべきだという考えが暗黙裡に強く共有され、そういうものは着ない、そういう振る舞いはしないという規範に結実する。こうしたものの集積がその文化集団にとっての基層の価値観と呼ばれる。

で、今般の安倍政権はこのコードを踏み外したと私は思ってる。しかも、禍々しい邪気を振りまきながら。

7月5日、気象庁がただならぬ状況である旨を、ちょっと聞くと言い過ぎじゃないかと思うほどの表現で警告を発する中、宴会を開き、その翌日麻原他7名の死刑執行を行ったことは既に多くの人が不快感を示している。





これによって、7月6日はオウムの話題が報道の中で大きな話題を占めてしまったため、この日、主要メディアは水害が発生しそうであるとの注意喚起を十分に行う時間を割かれた。

朝からみっちり扱うべきはオウムではなくて、水害発生の恐れに対する注意喚起だった。くぼ地、低地のみなさん、2、3日家を離れる準備をしましょうと呼びかけるべきではなかったか。各局が時間をずらしてもいいから特番を組むべきだった。

気象庁はほとんど最大限の言葉を尽くして、これは大変なんだと叫んでいたのだから。

これを受け止めなかった他省庁、内閣府、各政治家、そしてマスコミは責められてしかるべき。



しかしそれだけではない。

私はもっと深いところで、彼らはとうてい正常でないという気持ちを持つ。

多くの人命が危機にされされるのではないかと多くの人間が恐怖している中、処刑を行うという行為は不埒であるというべきだろうと考えるからだ。

そんなの関係ないじゃん、と思う人もいるだろう思うし、これは制定法でも確立された慣習法でもないから、制定法による処罰の対象になるものでないことは私も理解する。

しかし、こう考えてみてほしい。

人々が止まぬ雨を気にかけ、なにやらこれはじいさまが言っていたような大雨になるのではないかと恐怖しつつ流れの速まる川を眺め、霧のかかる山に目をやる最中に、領主がこれみよがしに処刑を断行したとしたら、民は、うちの領主は狂っていると判定するのではないか。

どういう因果なのか、明示的な規律があるとも思わないが、それは多分、人の命が危険に晒され、多くの人々が我が身と見知らぬ他人の無事を祈る最中に殺生を行うことは、あり得ないものだと前提するからではなかろうか。

神事や仏事を行うまでの幾日か、それらの人々は潔斎などと呼ばれる行動を取ることがある。その主要部分として殺生を避けることが含まれる。具体的には多くの場合肉類を食べないということになるんだろうが、本来の趣旨は殺生を避けることだろうと思う。

なぜそれが大事なのか。通説はないと思うが、感覚的にはよくわかる。戦の最中のようなごく例外的な場合を除いて、血のついた手で祈ったところで神も仏も聞き届けないに違いないと庶民は思うからだろう。



もちろん、現在の政権はそんな慣習的なものに縛られるものはないという考えもあるだろう。近代法による統治はそこに関わらないという見解は支配的だろうし、それはそれで健全なのだろうとも思う。

しかし、この政権の今般の行動は不埒であると捉える人が日本中に私一人だとは私は思わない。そしてそれは権力を振りかざして下に向って従わせるために使うのでない限り、個人の見識の範囲だろうと私は考える。

何度でも書くが、人々が見知らぬ他人の無事を祈る最中に殺生を行う行為は、不見識であり、不埒、そして、この感情はおそらく世界中の多くの国と地域で理解され得るものであろうとも思う。



山本太郎が、災害の被害者の人たちの発見さえ済んでない昨日、国会がカジノ法案を審議入りさせたことを非難していたようだが、太郎は日本の現地民的な男の子だなと思った。許せないという感情を持っていると思う。

多分、他の野党の議員の人たちもそう言っているんだろうと思う。が、多くの場合慎重に言葉を選んでいるように見えるのは、相手が相手だけに、逆手に取られることを非常に心配しているのだと思う。それは、制定法が捉える法、裁判所が関与する法でないものによって国民を縛り付けたのが天皇を利用したカルト体制だったからだ。

ということで、ここは抑え目に行くしかないんだろうと思う。しかし、いずれにしても不道徳な政権が正常、あるいは、普通、common senseの範囲内に収まっていられるのか否かは不確かだ。そして、それを変えることすらできそうにない。

大変な世の中になったものだ。

それにもかかわらず、救援と復旧のための暑い中働いているくれてる、消防、警察、各役所の皆さん、インフラ関係者、自衛隊の皆さんを含む、誰かの愛する人を探し出すために、見ず知らずの誰かの安心と安全のために我が身を粉にして働いている多くの人々にお礼をいいたい。こういう人たちこそ私たちを不安から救い出してくれる、不埒な世の希望でさえあると思う。



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抜粋終わり

>それにもかかわらず、救援と復旧のための暑い中働いているくれてる、消防、警察、各役所の皆さん、インフラ関係者、自衛隊の皆さんを含む、誰かの愛する人を探し出すために、見ず知らずの誰かの安心と安全のために我が身を粉にして働いている多くの人々にお礼をいいたい。こういう人たちこそ私たちを不安から救い出してくれる、不埒な世の希望でさえあると思う。

天皇でも、総理でも、国体でもなく、そういうことが、本当は日本の国の根幹なのです・・。

>それは、制定法が捉える法、裁判所が関与する法でないものによって国民を縛り付けたのが天皇を利用したカルト体制だったからだ。

上記ブログの著者もようやく言及しだしました。

なにか私の苦労なり孤軍奮闘が少し報われてるような・・・


さらに禍々しいことを

弁財天 より

上記文抜粋
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ツイッターの検索結果でさかのぼれるのはせいぜい2009年くらいまでw。
こんなフィクションのはじまりは横田めぐみが新潟県で拉致された1977年11月15日だと思っている。
なぜ「久米裕」でも「松本京子」でもなく3番めの「横田めぐみ」なのか?拉致された昭和52年(1977年)11月15日。タイムラインから拉致犯人がふつうに判明
新潟県が臓器狩り殺人を繰り返してるのはたぶんカネの為だ。 わかってるだろうが、その臓器刈り殺人はそもそも原子力推進のリスク対策として西側諸国が推進しているものだ。 なので新潟県民は原発事故発生時には過酷事故対応に参加しなければならないこともわかっているだろう。 スジを通して貰いたい。臓器刈りと臓器売買の売り上げだけを目的にして原発の過酷事故対応をしないのなら、それは殺人だw。

君たち新潟県民はブラックスタートとブラックラン手順をマスターしなければならない。 なぜなら原発の過酷事故対応で被曝して傷んだ臓器に備えての臓器狩り殺人なのだから。
→半径30キロ圏内(UPZ)の住民は避難すべきではない
→ブラックスタートとブラックラン手順
なぜ何十年もかけて原発の安全装置をひとつずつ外していったのか。安全装置を天下りに換金しているようにも見えたw。 その答えは、惑星全体を放射能で汚染してしまば、もっと臓器売買の商売が繁盛すると思ったからだな。 そんな裏稼業の収入をマネロン(Silk Road 4.0)して天下りを継続していたのだ。
→1F1カバー撤去と「原発型自爆テロ」
JFK暗殺から始まりUK-ABWR、Brexitまでつながるw。
昭和63年(1988年)3月24日「柏崎6、7号機の着手を決定」
→柏崎刈羽6、7号機はJFK暗殺の原因になった「N炉(N-Reactor)」の後継
→UK-ABWRは柏崎刈羽67を改良したABWR

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抜粋終わり

新潟県知事選挙で、リベラル・市民系の反原発候補が負けた。

不正選挙もあるだろうが、このような「臓器狩り」があるかもしれない新潟県知事にはさせれないというのが、日本帝国の思惑。

でも彼女はある意味助かった。悪行に加担させられるのを免れた・・・泉田さんでも米山さんでも逃れきれなかったのだ・・・


神戸だいすき  より

上記文抜粋
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フルフォード情報には、期待外れが多かったので、今度こそ、大量逮捕と言われても、気持ちが踏みとどまる。
悲しいのは、自力で英語の情報を解読できないこと。
でも、やのっちさんのツィッターhttps://twitter.com/_yanocchi0519を見ると、世界では、変化は始まっているらしい・・・

あんまり腹が立つから、易で占ってみた。
安倍さんは8月末には、相当多くの告発を受け、訴訟の嵐に巻き込まれそう。天水証をえました。
フルフォード氏は、8月になれば大領逮捕が始まると煽っているけど、そうはたやすくなさそう。トランプの中間選挙は予断を許さないみたい。

その中で一番気を吐くのがジョン君だね。
習近平は、身を慎んでいる。

安倍さんは、どこから告発されるんだろう?
そういえば、なんとか人権裁判所がエリザベス女王を有罪にしたってニュースがあったよね。けど、女王はびくともしない。その程度かな・・・

それより、種子法で農作物が跳ね上がり、水道法で水道代が何倍にもなったら、生活できないよ・・・どうしたらいいの?
日本人の普通の人は、そんなに裕福じゃない。
貧乏人は死ねとしか聞こえない。
貧乏人は麦を食えといった大臣は、まだ、思いやりがあったわ。

ああータイが羨ましい。
東南アジアに逃げたいね。
タイでは、上の人が弱い人の味方だもの。

日本では上の人は、弱い人に腹の底では「死ね」と言いながら、表面いかにも善良ぶって、年寄りの手を握って、騙すのだから・・・底知れないほど暗い。

もうこうなったら、小沢一郎と小泉にともかくまかすしかなくなってきたね・・・


あーウンコ味のカレーと、カレー味のウンコと、どっちを食べたい?と言われている気分だけど。

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抜粋終わり

>日本では上の人は、弱い人に腹の底では「死ね」と言いながら、表面いかにも善良ぶって、年寄りの手を握って、騙すのだから・・・底知れないほど暗い。

ですは・・・これも天皇制である。

天皇制は、国民の生活・生命に、政治はなんら責任を持たないからね。参考

でもそういう鬼畜な社会・制度は天が許さない・人類が「天皇とその徒党の肉を喰らわん」とそれを求めて、殺しに来るだろう。

なぜそういうのか?

まあ私が諸葛亮兵法の影響を大変大きく受けているからであるかも。

福田晃市氏 訳 便宜十六策 より

上記文抜粋
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納言 第四
 納言の政(意見を聞く方法)とは、言われたくないことを忠告されても耳を傾け、下にいる人たちの考えを受け入れることです。
ですから、君主は忠告してくれる臣下をもち、父は忠告してくれる子をもちます。
正しくないときには忠告してもらい、良いところを伸ばし、悪いところを正します。
悪いところは、伸ばしてはいけません。
良いところは、抑えてはいけません。
悪いところを伸ばし、良いところを抑えるなら、その国は必ず危うくなります。

 そもそも君主が忠告を拒否するときには、忠臣(真心のある臣下)は考えを進言しようとしなくなって、邪臣(邪心のある臣下)が政治を好き勝手にします。
以上は国の害となります。

ですから、国のありようが道にかなっているときは、びしばしと発言し、びしばしと行動します。
国のありようが道にはずれているときは、びしばしと行動し、控えめに発言します。

上の人がなんでも聞くなら、下の人はなんでも言います。

ですから、孔子は目下の人に質問するのを恥じませんでしたし、周公は下賤なことをするのを恥じませんでした。
ですから、偉業を成し遂げ、歴史に名を残し、後世には聖人とされるようになりました。
 そういうわけで、雨漏りの水は下にあり、雨漏りを止めるには上の屋根を修理しなければなりません。上の雨漏りが止まらないなら、その屋根の下に住めません。(上がしっかりしていないと、下が困ります)。

察疑 第五
 察疑の政(疑わしいことを明らかにする方法)とは、朱と紫の色を見分け、宮と商の音を聞き分けるようなものです。ですから、紅や紫は朱色を乱し、淫らな音楽は正しい音楽を疑わしくします。乱れは遠くから生じ、疑いは惑いから生じます。
 物には違った種類のものがありますが、形には同じ表情のものがあります。白い石は宝玉に似ており、愚者は白い石を宝とします。魚の目は真珠に似ており、愚者は魚の目を取ります。キツネやムジナは犬に似ており、愚者はキツネやムジナを飼育します。かろは瓜に似ており、愚者はかろを食べます。
ですから、趙高は(自分に従わない役人を見つけるため)鹿を馬だと言いましたが、秦王はそれを疑問に思いませんでした。
范蠡は(呉王をふぬけにするため)越国の美女を献上しましたが、呉王はそれを誘惑だと思いませんでした。
計画が疑わしいと、どんな仕事もうまくいきません。仕事が疑わしければ、どんな成果もあがりません。

 ですから、聖人(すぐれた人)は、自分の考えによる意見を疑いの余地のないものだとはできません。必ずあの占いというものを信じ、その吉凶を占います。
『尚書』に「3人で占って、そのうち2人の解釈が同じであれば、それに従う」とあります。

しかし、大いに疑わしいものは、庶民にまで意見を求めます。
ですから、孔子は「賢明な君主による統治は、他人が自分のことを理解してくれないのを心配しないで、自分が他人のことを理解していないのを心配します」と言っています。
外国が自国のことを理解してくれないのを心配しないで、自国が外国のことを理解していないのを心配します。
下にいるが上にいる人のことを理解してくれないのを心配しないで、上にいる人が下にいる人のことを理解していないのを心配します。
身分の低い人が身分の高い人のことを理解していないのを心配しないで、身分の高い人が身分の低い人のことを理解していないのを心配します。

 ですから、男は自分のことを理解してくれている人のために死に、女は自分のことを喜んでくれる人のために化粧します。
馬は自分をむちうつ人のために走り、神は祈るひとのために霊験をあらわします。

 ですから、君主は、裁判を決め、刑罰を行うにあたり、よく見えていない点があることを心配します。
無罪なのに重く罰したり、
有罪なのに寛大にあつかったり、
強い者が言いのがれたり、
弱い者が悪く言われたり、
まっすぐな人が罪をかぶせられたり、
やりこめられた人が怨みを晴らせなかったり、
誠実なのに疑われたり、
真心をつくしているのに害されたりするのは、
すべて天の怒り、災難や暴力という損失、不幸や混乱という変事をまねきます。

 ただ賢明な君主は、裁判を行い、刑罰を決めるとき、その言い分を聞き、たとえば、ウソをついていないか、隠し事をしていないか、事実を曲げていないか、同情をひこうとしていないかなどをチェックします。
このときには、その行動を観察し、その動作を注視し、その声の調子を聞き分け、その目の動きを見つめます。
 ありようがびくびくし、声が切なく、来るのは速く、去るのは遅く、ふりかえってため息をつくようなら、これはうっぷんが晴らされずにいるのです。
 目つきを下にしてこっそり見つめ、おびえた様子でちぢこまり、あえぎながら聞き耳をたて、なにも言わずに考えこみ、なにか言っても適度でなく、来るのは遅く、去るのは速く、あえてふりかえろうとしないなら、これは罪を犯している人が免れようとしているのです。
 孔子は、言っています。「どのようにしているのか、どうしてそうしているのか、どうするのを楽しんでいるのか、それらについて観察すれば、相手はなにを隠せるでしょうか。相手はなにを隠せるでしょうか」

治人 第六
 治人の道(人を管理する方法)とは、感化によって人を導き、理由を言って示すことです。
ですから、経典に「人民に道徳と正義を明言すれば、人民は一緒に良いことを実行します。人民に良し悪しを明示すれば、人民はしてはいけないことを知ります」とあります。
太陽や月が明るいことから、万民はこれを仰ぎ見ます。
天地が広いことから、万物はこれに順応します。
そういうわけで、堯や舜といった名君は、遠くの異民族からも慕われました。桀王や紂王といった暴君は、国内の人民からも背かれました。

天が人を動かしたのではなく、上にいる人の感化によって人をそうさせたのです。

 ですから、人を管理するのは、ちょうど苗を育てるようなもので、まず雑草を取り去るようにします。
ですから、これから栄えていく国は国外に進出しますし、これから衰えていく国は国内を搾取します。
賢明な君主が管理するときには、人の心配となるもの、中央の役人、地方の役人について、知ろうと努めます。
ですから、「中央の役人は、なんでもしぼりとり、限度を知りません。人民から食料をしぼりとって、人民が食量の不足によって飢えるという事態になれば、反乱を生じさせます」と言われます。
 ただ農業を振興し、農作業のスケジュールを邪魔しないようにします。
ただ税の取り立てを少なくし、人民の財産をからっぽにさせないようにします。
このようであれば、国を豊かにし、家を安らげられるのも、当然ではないでしょうか。
 そもそも国を保ち、家を保っている人は、貧乏を心配しないで、安らがないことを心配します。
ですから、堯や舜といった名君の政治は、人民が互いに結びつくことを促進し、天の時(季節の変化)を活用し、地の利(大地の恵み)を分けあい、そうして凶作に備えるようにしました。秋に余分に実ったものを保管し、そうして不足したときに支給するようにしました。みんなに財産がゆきわたり、落とし物を拾ってもネコババせず、人民が路頭に迷うことはありませんでした。ですから、春秋時代の5人の覇者が活躍していたときは、不足している人は余分のある人から提供してもらっていました。それから今は、領主たちが利益を好み、利益については人民と争い、災害が次から次に起き、強者と弱者が争いあい、みずから農業(生産)に励む人が少なく、商売(流通)に励む人が多くなっています。人民は、浮き雲のようなもので、手も足も安らぎません。経典に「手に入れにくい金品を大切にしないことによって、人民に盗みを働かないようにさせられます。必要のない宝物を大切にしないことによって、人民の心を乱れないようにさせられます」とあります。
 各自がその職務をまっとうしてこそ、聖人の政治であると言えます。昔は、斉国の景公が君主だったときには、人民がぜいたくになり、礼儀作法を守らなくなることを心配しました。周国や秦国がよかったときには、見た目の美しさよりも中身のよさを優先し、人民にとって利益となることを支援しました。
 そもそも無益な道具を作り、無用な金品を集めていますが、金銀、宝石、真珠、翡翠、珍品、宝物は、いずれも遠くで産出されるものであり、これらは庶民が使うものではありません。錦繍(刺繍のある服)、纂組(刺繍のある帯),綺羅(美しい服)、綾?(きれいな服)、玄黄の衣帛(天地をデザインした豪華な服)は、庶民が着るものではありません。雕(全面の彫刻)、文(表面の装飾)、刻(四角い彫刻)、鏤(模様の彫刻)など、高度な技術のいる細工、完成させるのが難しい作業は、(それだけ時間がかかって農作業を行う時間を奪うので)農業を妨害します。輜?(四方に目隠しのある婦人用の馬車)の出入り、袍(綿入りの服)、裘(革の服)、索(繊細な帯)、?(貴族の下着)は、庶民が飾るものではありません。動物の絵を描いた大きな門、普通よりも高い塀、りっぱすぎる墓、財産をつぎこんでの贅沢は、庶民のいるところではありません。

 経典に「庶民が好むのは、ただみずから農業(生産)に励んで熱心に働き、質素にして節約し、そうして父母を養うことだけです」とあります。
人民をおさえるときは適度にきりもりするようにし、人民をかりだすときは礼儀にかなうようにします。
豊作のときには無駄に贅沢をせず、凶作のときには過度に節約をしません。ふだんから蓄えをもつようにし、そうして将来のために用意しておきます。

 以上の人民を管理する方法は、これまた季節のうつりかわりに合致したものではないでしょうか。

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・・・・・・・・・
抜粋終り


{諸葛亮 {三国志11}}

>ですから、孔子は「賢明な君主による統治は、他人が自分のことを理解してくれないのを心配しないで、自分が他人のことを理解していないのを心配します」と言っています。
>外国が自国のことを理解してくれないのを心配しないで、自国が外国のことを理解していないのを心配します。
>下にいるが上にいる人のことを理解してくれないのを心配しないで、上にいる人が下にいる人のことを理解していないのを心配します。
>身分の低い人が身分の高い人のことを理解していないのを心配しないで、身分の高い人が身分の低い人のことを理解していないのを心配します。

安倍政権やネトウヨ・保守の考え方と反対ですは。それが聖人・真っ当な人なのです。


>そういうわけで、雨漏りの水は下にあり、雨漏りを止めるには上の屋根を修理しなければなりません。上の雨漏りが止まらないなら、その屋根の下に住めません。(上がしっかりしていないと、下が困ります)。

上の天皇家が無責任で、安倍総統とそのお仲間のように無慈悲非道なら、下のモノ・庶民が頑張っても、如何もできない。

お金のトクリルダウンは、無いけど、悪事はトリクルダウンするものなのである。

さらにもう一発。

おなじく より
上記文抜粋
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教令 第十三

 教令の政(教示や命令の方法)とは、上にいる人が下にいる人の教えとなることです。 法律にかなっていないなら、言いません。
道理にかなっていないなら、行いません。

上にいる人の発言や行動は、他人が注目しているものです。
そもそも自分を甘やかして他人を教えるのは、「逆政(道理に背いた方法)」というものです。
自分を正して他人を教えるのは、「順政(道理に従った方法)」というものです。
ですから、君主は先に自身を正し、それからその命令を行います。自身が正しくなければ、命令は従われません。
命令が従われなければ、変事や混乱を生じさせます。ですから、君主としてのあり方は、教令(教示や命令)を先とし、誅罰(処刑や処罰)を後とします。
 人民を教えないで戦わせるのは、人民を捨てるということです。

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・・・・・・・・
抜粋終わり

>そもそも自分を甘やかして他人を教えるのは、「逆政(道理に背いた方法)」というものです。自分を正して他人を教えるのは、「順政(道理に従った方法)」というものです。

天皇は責任を取らん、官僚・政治家は反省しない。

のに、国家・天皇家の徒党が、庶民・多くの善良な人に、「きれいごと」「道徳」を教えても、言うこと聴くかよ・・・

>ですから、君主は先に自身を正し、それからその命令を行います。自身が正しくなければ、命令は従われません。命令が従われなければ、変事や混乱を生じさせます。ですから、君主としてのあり方は、教令(教示や命令)を先とし、誅罰(処刑や処罰)を後とします。

この国は、下を「糺せ」といいながら、自分は責任逃れや、酒池肉林。

変事や混乱しか起きない。

まあこれだけ、日本人がよく生き延びたものです。


おまけにこれをしたらマシになるかもしれないこと。

おなじく より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
以上をまとめると、五つの徳があります。

第一は、暴力を禁じ、戦争を止めることです。

第二は、賢明な人材を賞し、犯罪者を罰することです。

第三は、仁(良心)の実践を第一に考え、人びとを和気あいあいにさせることです。

第四は、主権を守り、功績をあげることです。

第五は、世を乱そうとするものを退け、他人をおとしめようとする悪口をうのみにしないことです。

以上が五つの徳というものです。

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・・・・・・・・・
抜粋終わり


お読みくださりありがとうございます。
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