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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
読めないニックネーム より

上記文抜粋
・・・・・・・・
江戸時代の朱子学は偽物なので
注意ね。オリジナルにある「諫言」
という制度を意図的に抜いてるので
なるべくオリジナルを勉強した方が
いい。

まぁ、ドイツ人エンジニアも言ってた
けど、学問系で言うと日本人がやった
方が良いのはデータ・サイエンスとか
コンピューター・サイエンス、
マーケティングじゃなくて、
「ストラテジー」って奴。経営学の
中の分野の一つね。次点で「リソース
マネジメント(人事含む)」で、最後に
「組織論」。

組織論、コーポレート・ガバナンス
含むね。

横文字じゃない中国の古典から学ぶ
べきは「佞臣の排除」。日本組織は
これが多過ぎる。佞臣ってのはゴマ
擦りだけが得意で出世しやすい能力
には長けてるけど、組織には害しか
齎さない主君を拐かす悪党の事ね。
勿論、意図してやってるので犯罪者。

孫子のモデルの呉の孫武の伝記とか
が良いんじゃないかな?

中国人が描いた漫画で良いのが和訳
されてたと思うよ。
後、横山某の史記シリーズも分かり
やすくて良いかも。


アメリカ式の奴は文化が違い過ぎて
導入に躊躇する組織は多いと思うけど、
中国の古典なら同じアジア系だから
取り込み易いでしょ?

孫武の呉王の妾みたいなのを隊長に
任命して軍令を守らないから斬首
する逸話とか素晴らしいよ。
あれは呉王がその後「やり過ぎなんじゃないの?」と咎めるシーンが
あるんだけど、孫武が「だってアンタ
兵法を見せてくれって言ったじゃん」
って即答したのに対して、呉王が
反省して認めた所が重要。

孫武関連の逸話は孫武その人よりも
王様の方が兎も角優秀だったって
所が本当のキーポイント。

だから、息子の代以降になると途端に
調子が悪くなってくのよね……

そこもまた面白いんだけどさ。


横山史記も管仲編とか覇王(昔の中国版
アメリカ大統領みたいな制度)の
在り方と責務みたいなのを説明してる
エピソードとかが手っ取り早く学べて
良いと思うよ。

漫画から入って専門書に移行する
のが良いと思う。

中国の古典って今のハーバードで言う
「ケース・スタディ」って奴と
一緒なので、基本。

でも、ハーバードって言うと、
君達毛嫌いするでしょ?w


(ぐだトマトさんがリツイート
BusinessInsiderJapan?認証済みアカウント @BIJapan
12月5日

「抽象的でわかりにくそう」「面倒くさそう」との声が多数のデザイン思考

東大出身、元商社マンの漫画家がシナリオを担当)

ぐだトマト @pteras14
このデザイン思考の漫画、そんなに
良かったのか。読んでみるかな。

デザイン思考の漫画、サラッと読んで
みた。普通にデザイン思考を覚えて
落ちこぼれ店長がサクセスしてく
ストーリーなんだけどさ、EDが
所謂“本社の企画部への栄転”を
“謙虚な可愛い日本人?”理論で
主人公が断っちゃうのよね。
「ずっと奴隷のままでいいっす!」
みたいなw

まぁ、出る杭打たれ文化や脳鷹爪隠し
理論の大好きな如何にも日本ウケする
結末なんだけどさ……

お前さん、出世して経営者になって
こその「デザイン思考」だろ……
と。そもそも、日本企業のマネジメン
ト層に「思考」自体が無いのが問題
なんだからさ……

ぐだトマトさんがリツイート
中国故事名言bot? @koji_meigen_bot
12月7日
勝兵はまず勝ちて而る後に戦いを求め、
敗兵はまず戦いて而る後に勝ちを求む。(『孫子』軍形篇)

勝利を収める軍隊は、まず勝利の条件を整えてから戦をはじめる。
敗北を喫する軍隊は、戦を始めてから勝利をつかもうとする。


・・・・中略・・・


人物評価技術

『論語』

為政第二 026
http://www.niigata-ogawaya.co.jp/rongo3/s-02-026.htm
”〔 原文 〕  
子曰、視其所以、観其所由、察其所安、人焉廋哉。人焉廋哉。

〔 読み下し 〕
子曰わく、其の以す所を視(み)、其の由る所を観(み)、
其の安んずる所を察(み)れば、人焉(いずくんぞ)廋(かく)さんや。人焉んぞ廋さんや。

〔 通釈 〕
孔子云う、
「一にその人の行為をよく注意して視(み)る。
二にその行為の拠って来たる原因・動機を観(み)る。
三にその人がどんな所に安らぎを求めているかを察(み)る。
この様にすれば、その人の正体はすっかり分かってしまうものだ。どうして隠せようか」と。

〔 解説 〕

これが孔子流「人物鑑識法」ですが、この視る-観ずる-察するという方法は、孔子以来、人物を見抜く際の鉄則となったようでありまして、
史記(司馬遷(しばせん)による中国古代の歴史書)の魏(ぎ)世家(せいか)に、魏の文侯(ぶんこう)(戦国時代)に仕えた李克(りこく)という政治顧問が述べた「五観法」と云う有名な人物鑑識法があります。人物を見抜く上で現代でも立派に通用すると思われますので、以下に紹介してみましょう。

  一、「居ればその親しむ所を視る」
   *不遇の時にどんな人と親しくしていたかを見る。
   (付き合っている人達の人品骨柄を見れば察しがつく)

  二、「富めばその與(くみ)する所を視る」 
  *裕福になった時にどんな人やどんな物に金や時間を 割いたかを見る。
      (安んずる所・どこに安逸を求めているかが分かる)

  三、「達すればその挙(あ)ぐる所を視る」  
  *出世した時にどんな人物を推挙したか、どんな人を登用したかを
     見る。(本人の眼力が分かる)

  四、「窮(きゅう)すればその為さざる所を視る」 
   *窮地に陥った時に苦しまぎ0れに不正を働かなかったか、悪あがきを
しなかったかどうかを見る。 (為す所・節操の有る無しが分かる)

  五、「貧しければその取らざる所を視る」 
   *貧乏した時に邪(よこしま)な稼業に手を染めなかったか、餓鬼に
     ならなかったかどうかを見る。 (拠る所・志が分かる)

〔 一言メッセージ 〕
『人を見抜くには、行為・動機・安逸の三つを見よ!』

〔 子供論語 意訳 〕
孔子様がおっしゃった、「その人の人柄をつかむには、まず普段どんな行ないをしているかを見なさい。
次にどうしてそういう行ないをするのか? その理由を考えてみなさい。
最後にその人が一番好きなことは何か?を調べてみなさい。
この三つの方法で観察すれば、ごまかそうったってそうは行かないんだね」と。

〔 親御さんへ 〕

人と接していて、この人の意図はどこにあるのだろうか?どんな思惑があるのだろうか?と考えさせられたことはありませんか?私達は人を判断する際に、どうしても容姿や言語つまり、視覚や聴覚だけに頼って判断しようとしますが、どうもこれが間違いの元のようですね。

実は孔子もこれで失敗しているんです。容姿の方では、澹台(たんだい)滅明(めつめい)という人物が入門して来た時、余りにも容貌が醜かった為に「大したことはなかろう!?」と高を括っていたら、実は正道を貫く大人物であった。

言語の方では、宰我(さいが)の弁舌を信じて立派な人物であろうと思っておったら、行ないがデタラメで手が付けられなかった。澹台滅明も宰我も、これから論語に登場して来ますから、お楽しみに。殊に、宰我などは孔子にこっぴどく叱られています。

人を見抜くには、容貌や言語に惑わされず、
  一、日頃の行ないを注視する。
  二、その行為の拠って来たる動機を観取する。
  三、どんな物や事に安逸を求めているか(安らぎ楽しんでいるか)を
    観察する。

という三つの方法が有効なようです。”


・・・・・中略・・・・

”わざと間違った名づけの呪術への対策は、
孔子がすでに教えてくれている。
名づけの呪術は、
「人知を超えた確かめられないことの断定」
とセットであることが多い。
こちらも孔子は対策している。

孔子
「必ずや名を正さんか」
「適切な名前をつけよ」

「いまだ生を知らず、焉んぞ死を知らんや」
「死んだらどうなるか知らない」

「怪力乱心を語らず」
「人知を超えたものを語るな」

儒教も無記だし、スピリチュアル否定。

孟子の易姓革命論
「徳を失った王は王の資格を失っているから殺して良い」

孟子「トップがクズなら殺して良い」

支配層が無能だったりクズならぶっ殺してOKな儒教。
血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠。

儒教は両親や君主が間違っていたら子供や臣下が
「あなたは間違っている」って言いなさいって教え。
上に盲従せよという教えだと騙るプロパガンダに惑わされないように。

孔子
「たとえ鞭で打たれようとも親の誤りは正せ」

「三回諫言してもダメなら君主の元を去れ」

ボスが明らかに間違っているなら部下が苦言を呈さないといけないという
諫言も儒教の教義。

適切な名づけ、無記、易姓革命、諫言
を抜いたら儒教カルトであり儒教ではないので注意!
悪政用の万教帰一カルトは上記の悪政を防ぐ教えを抜いているのが特徴。
儒仏の道徳の破壊を実践中の支配層。
せっかく漢字圏に生まれたのだから中国古典を読まないと損だよ!


「儒教は上位者への盲従を説く」との誤解についての解説
https://togetter.com/li/664524
では原文と翻訳のセットで丁寧に解説されている。
一部抜粋。


・・・・中略・・・・・・・

・仏教については、
儒教との一部両者の一致論はあり、
棲み分けもあったが、基本的には儒教と対立。

儒教が仏教を批判する主要論点は次の三つ。

1仏教は社会的道徳や秩序をないがしろにする

2仏教は夷狄の思想であって中国文化や価値観に反する

3仏教はありもしない霊魂の不滅を説く(輪廻転生のこと)

もっとも軸になったのは1であって仏教が中国で思想的に問題になりはじめた当初から延々と反復されてきた。

仏教と対比したうえで浮かび上がる儒教の特質とは、
道家の場合と同じような道徳主義という面、
それに現世中心主義。
仏教の虚の思想に対する儒教の実の思想という対立。

(仏教は霊魂の不滅を否定している。
かといって無になるわけではないらしいのでややこしい。
霊魂は不滅の実体ではないと実体思想を否定)


・天に二つの太陽はなく、
土に二人の王者はなく、
家に二人の主人はなく、
尊者に二つの至上はない。(礼記)

父子関係と君臣関係の間に成り立つ忠と孝は万人が踏み行うべき実践道徳。

忠孝は世界中で見られた徳目。
忠孝を漫然と説くだけでは一般的現象であるにとどまり儒教の特質とはなりえない。

中国における孝の重さは格別であり、親殺しには可能な限りの厳しい罰が加えられた。
親や君に害を加える以前にそのたくらみが発覚しただけでも重い誅罰の対象になったのであって、
孝にそむくことは社会的かつ身体的な抹殺を意味し、
それがまた孝の重みを増した。
かかる中国において孝を否定する議論を見出すことは困難。
それゆえ、唐の禅僧の臨済(九世紀)が、あらゆる既成の価値観から脱却し
心に備わる仏性の自然な発露を実現させるため、
父母に会っては父母を殺し(臨済録)
と言ったのは比喩ではあれ極めて衝撃的なものであった。
この語から逆に孝が既成の価値の最たるものだと確認できよう。
なお仏教は中国社会に定着していく過程で、孝の思想を取り込んでいった。
中国で作られた仏教の経典、いわゆる偽経(疑経)である盂蘭盆経や父母恩重経は代表的。

・儒教の孝で父母を比較した場合、特に重要なのは父に対する孝。
禽獣は母を知るも父を知らず(『儀礼』)
母子は生物的関係であり、それのみでは人間の尊厳性は得られない。
父子関係はそこにさらに制度的規範性が加わっているのであって、そのことが重要。
孝は父子間の孝が軸であり、『孝経』では父子間の孝は君臣関係に転移できるとある。
ただ孝が生来の道徳であることの説得性を増すために母子関係が持ち出される例も少なくない。
しかしそれはどちらかといえば経書よりも説話など啓蒙書の類に著しく、
また後漢に中国に入った仏教が中国化していく過程で孝思想を取り入れていくのであるが、
その中で母子関係を強調するものが目に付く。
仏教は社会の一部分としての人間よりも、単独者としての個人を問題にするのであって、
生物的関係を制度的関係にスライドできる父子関係よりも、
実存的に向かい合う母子関係の方に目が行くことになったのであろう。
このことは儒教の父子尊重を補完する働きをもっているといえよう。

孝であれば忠であるならば、
孝である若者を登用すれば必ず忠義の臣になるということになるはず。
この考えを使って漢代に孝廉(こうれん)という推薦制度が行われた。
宮仕えをまだしていない地方の青年で孝行者を推薦させれば、確実に忠義の臣を得られるという発想。

・・・・・・中略・・・・


ぐだトマト? @pteras14
2016年10月15日
返信先: @pteras14さん

これにGHQ時代の
「真赤朝の歪んだ石屋思想」
明治/大正の
「薩長土肥式戦闘民族化」が
掛け合わさってより凶悪化してる
イメージ。)


・一般論としては中国では孝が優先されるのに対し、
日本では忠が優先される傾向が言われてきた。
中国で孝が優先する例としては、
君を何度も諫めて聞き入れられなければそのもとを去るが、
父の場合には泣いて従うという議論がある。

人臣としての礼は露骨に諫めないことである。
三度諫めて聞き入れられなければそこを逃れる。
子が親につかえる場合は、三度諫めて聞き入れられなければ、号泣してそれに従う。(礼記)

これは父子関係を先天的なものとして君臣関係に優先させる顕著な例。

(相手が親でも君主でも間違っていたら正すように言わないといけないのが儒教。
相手が君主など上司なら去れだから、臣下であることをやめよ、会社なら辞めよって教え)

忠孝を一致させようとした議論もなかったわけではない。
忠孝一致論は中国より日本で目立つ。
特に明治時代以後、天皇を頂点にする一君万民論のもとで、日本の美風として強調された。
天皇は日本国民の祖であり、同時に日本国民の主なのである。

忠孝重ね合わせ議論は、中江藤樹(十七世紀)のように孝でくくる場合と、
儒家神道のように忠に統括していく場合がある。
君主を三度諫めて聞き入れられなければそこを去るが、
親の場合には従うとすることについて、
儒家神道では天皇への絶対服従の立場から永遠の臣従を強調することさえある。(吉川従長)
この議論は、君のために不義も行い、そのために自分や子孫が汚名を受けても顧みないとする。
君とともに不義を行った結果身が亡んでも悔いないとする。
君が不義を続けていても、諫言はするが君には仕えつづけるものであって、
中国のように不義を行う君と決別するという議論を否定する。

忠孝一致論は幕末の水戸学にも見られた。
(会沢正志斎『新論』1825年・文政8年、
藤田東湖『弘道館記述義』-弘化3年(1846年))
また近代以降は日本儒教の枠として顕彰(功績などを一般に知らせ、表彰すること)された
中国には家族よりも広く宗族があるが、国家全体が一家族という発想はなかった。

(父子と君臣の違いは先天的か後天的か。
先天的の方が優先なら実の両親が天皇より優先だが明治政府に都合が悪い。
天皇教に儒家神道が関わる。
忠に統括なら支配に都合がいい。
孝が最優先でない日本儒教は支配に都合がいい。
日本儒教は儒教カルトっぽい。
儒家和風キリスト教。
悪をなす君主から去れ=従うなを消して凶悪化。
水戸学=儒教カルト。
国家全体が一家族+天皇絶対
=全体主義。


・・・・・中略・・・・・・


・諫言は儒教の重要要素。
もともと中国では天子の圧倒的尊貴を言いながら、
同時に臣下の権威が高く説かれることもある。
臣下が皇帝を教導したり諫めたりすることを認めるのも儒教の特色。
中国では諫官として専門の役職がおかれ、
これは官僚を監視する御史台とともに、宰相らの権力が及ばないのをたてまえとした。
中国では皇帝に直接ものを申せる官職が制度化されているのに対して、
日本では置かれなかった。
しかし諫言は日本儒教においても臣下の必須の義務とされたのであって、
日本の古代や中世において儒教が話題になるときは諫言が問題になる場合が目立つ。
近世でもこのような話がある。徳川家康にある家来が諫言したとき、家康はうなずいて聞いていた。
その家来が去った後、ある臣下がなぜあのような凡庸な内容に耳を貸すのか質問したところ、
家康はそれはわかっているが耳を貸す姿勢が重要だと答えた。
(室鳩巣、『先哲叢談』直諫は一番槍より難し)
儒教は王者が諫言を聞き入れる態度を求める。

ただ臣下全員が諫言していてはかえって無秩序になる。そこで家老職などの上位者だけが諫言すべきであるという議論もあった。
葉隠でも主君にもの申すには出世しなければいけないという現実的なところも見せているし、
近年の研究だと、葉隠には一方的な服従ではなく諫言によって主君を啓発する姿勢があるという。

( 峨骨@Chimaera925
2016年1月11日

葉隠は面白かったな。主君に好感持たれる顔付きになる為に蟄居して日がな鏡とにらめっこした作者。いつも爪を磨いて綺麗にして、血色良く見せる為の頬紅(チーク)はいつも懐に忍ばせておく等々、愛され武士になる為のテクニックや(女色より高尚とされる)男色のお作法なんか書いてあるし。
0件の返信 9件のリツイート 5 いいね

ストラテさんがいいねしました
峨骨? @Chimaera925
2014年4月28日
返信先: @Kohakunotamagoさん

@Kohakunotamago その武士道で有名な葉隠を何人が読んだ事あるんだろうな。武士道における衆道の心得とかも書いてあったけど身も蓋も無い話、「上司に愛される部下になる為の自己啓発」本だぞ。自分がサムライだとか言う奴らって男色家って事でOKなんだよな?
1件の返信 9件のリツイート 7 いいね
峨骨? @Chimaera925
2012年11月5日

名利薄き士は多分えせ者になって人を罵り、高慢にして益に立たず、名利深き者には劣るなり。今日の用にたたざるなり。  葉隠より
0件の返信 2件のリツイート 3 いいね
峨骨? @Chimaera925
2011年12月19日

アメリカ陸軍 サバイバル・マニュアル、スイス民間防衛、ロートレアモン全集、悪徳の栄え、論理哲学論、葉隠、SAS特殊部隊式・実践格闘術ハンドブック、我が闘争、ヒトラーとの対話 #他の人の本棚には無い本晒せ
1件の返信 4件のリツイート 2 いいね



また臣下から君主に働きかけるものとしては、
王者を教育する帝王学に儒教が使われたことも重要。
帝王学とは帝王に徳治政治を身に体させるものであって、皇帝にとっては重荷であった。
北宋の哲宗の教師であった程頤(ていい)、
南宋の寧宗の教師でもあった朱熹はともに皇帝からうとまれた。
ただ帝王がこのような教育を受けることは臣下たちにとっては好ましいことであって、
帝王学として朱子学などの道学は当時の士大夫たちにアピールしたのである。
儒教は単なる上位者への単純な服従を説く教説ではない。
君主への忠誠を要求しながら、同時に君主に対して諫言や教育を行い、
後述するように天災をもとに君主の反省を求める思想でもあった。

・殉死で言われる、二君に仕えずは文字通り二人の君主に仕えないことである。
中国での二姓に仕えず、つまり二つの王朝に仕えないことで意味が異なる。
中国ではきちんとしたお世継ぎがいるのに君主の死に殉死することは考えられないことであって、
お世継ぎが新たな君主になればそれに仕えていくことこそ忠。
明などでは皇帝や王の死に際し宮女を殉死させたことはある。

日本の儒者たちは必ずしも殉死に肯定的ではなかった。
山鹿素行は
「殉死して終わるのは容易であって世に多いが、
常に君を諫め戒めて君を助け民を救うのは困難。
ただ死ぬことは忠勤ではない。」と殉死をはっきりと否定。

厳格な朱子学者の山崎闇斎も同様に言う。
「色欲は女色のみではない。男色のわざわいは長い。…近頃いよいよ流行してきて、
追腹(切腹による殉死)する者が、それにつれて盛んになってきた。無見識なことである」(『大和小学』明倫第二)。

山本博文氏は、主君に対する殉死はそのために家がよい待遇を受けるようにという打算から来るいわゆる「あきないばら」ばかりではなく、
それ以上に積極的に死に赴いたという。
しかも君主に拝謁したこともない下級武士に多く、それは一種の男だてであったらしい。
有名な赤穂浪士も下級武士が多いように、よほど優れた君主でないかぎり、主君は身近にいるより距離があった方が忠誠の対象としてあこがれを持ちやすいという事情もあったかもしれない。

(君主と簡単に会えないほうがあこがれが増し、
身近でよく会うほど神っぽさが薄まるなら、
神は一切姿を現さず人間と接触しないのが最善となる。
実在しない神なら絶対に会えないので最適)


儒教は同性愛を否定する。
儒教における性愛では子を作り子孫を維持することが重要であるのに対し、
同性愛は子づくりと関係なく快楽を自己目的的に追及するからである。
儒教では子を作り子孫を維持することが孝。
儒者たちは意外なほど殉死に冷淡。
武士の慣習では男色は認められている行為であったが、
儒教はそれを否定し、また殉死があまりに情緒的で規律を破壊することに批判的だった。

山鹿素行の議論を読むと、主君個人より藩などの組織に対する忠誠が浮かび上がってくる。
このような例は江戸時代では他でも目につき、たとえば主君「押込」ということさえも行われた。
押込とは主君が無能あるいは非道ならば主君を押し込めて別の主君をたてるということであり、
重要なのはそれがある程度まで公認されていたことである。

室鳩巣
「君主にかわる人を選ぶときは親疎の別なく平生の行いを考えて善し悪しを決めるのは、
家老、頭分たる者が合議すべきことである」

伝・黒田長政
「子孫に至り、不義・放逸ばかりにうつつをぬかし、
諫めを聞き入れず、勝手気ままで掟を守らず、
みだりに財宝を費やす者があれば、
家老中申し合わせ、その者を退け、
子孫の内から人柄を選んで主君とし、国家を存続させるべき」

中国ではどうか。
黄宗義は君主の言うことに盲従するだけでは君主の僕妾であり、
公ということで仕えれば君主の師友であるとし、
古代の聖天子はは天下を私物化しなかったが、
後世の皇帝たちは天下を自己の財産と見なし歴代相続し続けたとまで言った。
王家にではなく公に対する忠誠心とでもいうものがある。
忠は組織や社会に向けられることもあったが、
さりとて君主の存在は必須の前提としているのであって、そこが近代政体とは異なる。
また君主という人格があってこそ忠に対する実感が持ちうるという心理があることも見逃してはならないであろう。

たとえば忠という道徳が成り立つうえでは、忠をめぐる歴史や物語が大きく貢献する。
これは世界共通であって、幾多の史書や叙事詩や悲劇、さらには美術や音楽が題材にしてきた。
このような物語は臣下と君主の情の通じ合いが前提となることが多いのであって、
忠の思想の説得力にはこの意味でも君主の存在が必須になる。
もし君主が不在で組織のみへの忠誠であれば、
それは例えば愛国心というような形となる。
愛国心は近代の産物と言われるが、「国」とは時の政権とか政治組織とかでは説得力は持ちえず、
国民とか国土とかを持ち出しても抽象的にすぎる。
その近代の政体であっても、象徴的であれ国王とかカリスマ化された指導者とか、
建国の物語や理念がこめられた国歌や国旗などの視聴覚に訴えるものが国と重ね合わされ、
忠のリアリティーが増す。

(君主が生身の人間でなくても、君主制は成立するってことじゃん。
民主主義も実質君主制。国が神にして君主)


・貞は男についても使用されたが、妻が夫に献身する道徳として定着した。
貞はフェミニズムで攻撃の対象になっている道徳であって、
それに先立ち明治時代で儒教批判を展開した福沢諭吉などは当然としても、
西村茂樹のような儒教に比較的好意的な人物も儒教の問題点として男尊女卑を挙げている。
福沢が批判したのは江戸時代の貝原益軒に擬せられた女大学であり、封建的女性観を端的に示すものとして名高い。
中国近代でも多数の貞に対する批判があるが、有名なものとして魯迅の「私の貞烈観」をあげておく。
儒教の現代的意義を説く論者もこのような女性観については修正の必要を認めている場合がある。

(お札に書かれる人ってロクなのがいないな。
 本人はまともでも身内や先祖が支配層側だったり。

諭吉の脱亜論は典型的な欧米の植民支配技術である隣国と仲たがいさせよを実行せよってことで、
欧米の利益のため。
しかも売春婦を輸出して金を稼げって天皇家に進言し、しかも採用される。
最低最悪だ。
全然女性を尊重していない。


・・・・中略・・・・・

書経に
「天はそこで禹(う)に洪範九疇(こうはんきゅうちゅう。九条の天地の大法)を賜った」
とあるが天帝が与えた具体的描写はない。
物言わぬ天は仏典や聖書やコーランの物言う神と対比すると特色がよくわかる。

天には天の神、天空、自然、自然界の理法という複数の意味が含まれる。
天に人格的要素が希薄なのは経書に神話が乏しいことにも現れている。
中国古代の神話世界を語る場合には『楚辞』や山海経だのが持ち出されるが、
正統的な儒教の経書にはきわめて少なく、おそらく古代信仰の残滓と思われる経書に時として見える神格の加護にしても、
体系化されて示されているわけではない。
中国古代で神話がなかったわけではなく、
ギリシャ・ローマや日本のように神話が体系化され経典化されなかったことが重要だという指摘があるが、
神話を儒教があまり必要としなかったのは確か。
明末に中国で布教したイエズス会の宣教師は
キリスト教の神と儒教の上帝を重ね合わせ、儒教と結んで仏教を叩こうとしたが、
それが可能だったのは儒教における神話の乏しさがキリスト教の聖書と儒教の経書の内容調停を比較的容易にしたからである。
儒教に神話が多ければ聖書の奇跡との内容のつじつまをあわせなければならなかったであろう。
天を統一的に説明するには天を超えた高次元の原理や神格を持ち出すのが自然に思えるが、
儒教ではそうしなかった。


(本当にイエズス会は仏教が嫌いだな。
キリスト教は反仏教という点で儒教と組めるから、
廃仏毀釈側に儒教・儒家神道勢力がいる)

天の機能で重要なのは、
天の意向で道徳内容が変更されることがないこと。
日常の道徳を順守することが天の実現なのであって、
いかなるときも天は道徳の内容の変更を要求することはない。
親への孝は天は絶対に否定しない。
キリスト教の神が親をも超えて命を降すのとは異なる。
天とはそれ自体が特別な意味を持つことよりも、
事物の自然な状態こそが理想的状態であること、
そして道徳とは人間にとっての自然な状態であることを権威づけるために機能している。
この自然は現状追認ではなく本来的ありかたとしてのもの。
自然が理想的状態である以上、
キリスト教の造物主のようなそれを超えたものは必要とされず、
イエズス会のマテオ・リッチは嘆じている。
天があるゆえに天より高次の神格は登場しえず、時に過度な宗教的要素が入り込む防波堤になる。

(形而上の教義を防止する策がすごい)

儒教の主流としては天人相関思想であり柱であるが、
天人分離を唱えた人もいる。
天神分離を唱えた荀子だが単純に天を無視するのではなく、
天を必要以上に人為に介入させない態度。
北宋の欧陽脩は天を過度に重視することを戒め、
続く王安石は天を敬いはするが政治原理とすることは否定。
例えば災害があるのが失政のせいだとすれば、
聖人天子である舜(しゅん)の御代に禹が黄河の氾濫を治め功績をあげたのはおかしいことになる。
禹が成人で完璧な統治をしていたのであれば黄河の氾濫という天災はありえないはずだからである。
天人相関思想が儒教の柱なのは、天子であることの根拠に天命が降ったということがあるのが大きい。
実際には武力統一でも理論上は天命を受けたことになるので、
天と人を切り離してしまうと天子たる正当性の保証を得難くなるからである。

天が具体的な災害を降して人間を譴責する思想
=天譴思想
=政治の良し悪しが自然の運行にまでも作用する思想は皇帝に警告を与えるきっかけを提供する。
自然界の天候不順はしばしば起こるのが普通で、
そのたびに政治のチェックを恒常化させることになるからである。
天を借りて野放図に広がる皇帝権力を抑制する効果も持った。


(人権は仏性とかグノーシスの内在する神性とかストア派の理性とかの言い換え。
人権はゴッドから与えられる。
人権人権うるさい世俗主義者=ライシテ教信者に言ったら発狂しそう。
国、人種、平和、自由、美とか
今の概念になったのは全部白人さんの世界でーすw

— なえなつ (@japan19890108) 2017年12月9日






・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


また続けるね。


お読みくださりありがとうございます。
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