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渾沌堂主人雑記  {大日本国終焉日記 }

半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

ソウカ没落の予兆か・・・

中外日報 より

上記文抜粋
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忍性再考―忍性三骨蔵器と弥勒信仰
山形大教授 松尾剛次氏

2016年10月28日付 中外日報(論)

まつお・けんじ氏=1954年、長崎県生まれ。東京大大学院人文科学研究科博士課程を経て、98年から山形大教授。東京大特任教授、ロンドン大アジア・アフリカ研究所客員教授なども歴任。専門は日本仏教史、中世史。元日本仏教綜合研究学会会長。『勧進と破戒の中世史』『仏教入門』『忍性』など著書多数。


今年7月23日から9月19日まで奈良国立博物館(奈良市)で「生誕800年記念特別展 忍性 救済に捧げた生涯」(以下、「特別展忍性」と略記)が開催された。今月28日から神奈川県立金沢文庫(横浜市金沢区)でも開催される。私は、8月6日に奈良博での公開講座の講師を務めたが、予想外に多くの聴衆が集まり、入場制限がなされるほどであった。良観房忍性(1217~1303)に対する認知度が、以前よりは高くなってきたことを実感できたのは喜ばしい。しかし、まだまだ忍性の業績が人口に膾炙されているとは言いがたい。そこで、忍性伝を再考しよう。

忍性は、鎌倉極楽寺(神奈川県鎌倉市)を拠点として、ハンセン病患者の救済活動などを行った僧として知られるが、その存在は、師の叡尊の影にかすみがちで、過小に評価されてきた。「慈悲心が過ぎた」と叡尊が述べたように、どちらかというと教学的な発展に努力した叡尊に比して、忍性は社会救済活動に多大なる努力を行った。いうなれば、忍性は実践家で、叡尊とは異なる独自な役割を果たしたと考えられる。それゆえ、忍性独自の研究が必要とされるのだ。まず、忍性の略歴を復習しておこう。

生地は太子道沿い
忍性は、建保5(1217)年7月16日に大和国城下郡屏風里、現在の奈良県磯城郡三宅町屏風に生まれた。三宅町は、奈良盆地のほぼ中央に位置し、東境を寺川、西部を飛鳥川、西境を曽我川が流れる。とくに屏風は、聖徳太子が斑鳩宮から橘宮へ通った太子道に沿った地であり、屏風という地名は、道中の太子へ供御を奉るため屏風を立てたことに由来するという。このように、忍性は、聖徳太子信仰ゆかりの地に生を受けた。

貞永元(1232)年に、母の死に際して額安寺(奈良県大和郡山市)で出家し、官僧となった。官僧を離脱して叡尊の弟子となったのは、仁治元(1240)年のことであった。建長4(1252)年以降は三村寺(茨城県つくば市)、極楽寺など関東を中心に活躍した。とくに、ハンセン病患者救済活動は注目すべき活動といえる。

当時、ハンセン病患者は、最も穢れた存在とされていた。また、仏罰としてハンセン病に罹ったと考えられ(仏罰観)、人間にして人間に非ざる存在、すなわち、非人として忌避されていたほどであった。忍性らは、文殊信仰に基づき、非人は文殊菩薩が仮に姿をやつした人として救済したのである。患者を薬湯風呂に入れ、自らの手で垢をすり、食事を与えた。その一方で、仏教を教え、戒律護持を勧め、身体の元気な人には、道路の修理などを手伝わせた。忍性らの非人救済活動は、ハンセン病=仏罰とするなど、現在の我々の観点からすれば、間違った考えに基づいていたにせよ、彼らの献身的かつ慈悲の精神に基づく活動は、大いに賞賛されるべきものといえる。こうした救済活動により、鎌倉幕府・朝廷の保護を得て、鎌倉の港湾管理などを任され、極楽寺や金沢称名寺(横浜市金沢区)などが大発展を遂げた。

銘文の通りに発掘
ところで、「特別展忍性」の目玉の一つは、重文の三つの忍性の骨蔵器が一堂に会して展示されたことであった。忍性は、嘉元元(1303)年7月12日に鎌倉極楽寺で死去したが、弟子に遺言して遺骨を三分割し、極楽寺と竹林寺(奈良県生駒市)と額安寺の3カ寺に分骨することを命じた。それらの忍性墓から出土した骨蔵器が、三つ一緒に並んだのは史上初めてのことであった。それらは、錆によって青緑色がかっているが、美麗である。

昭和51(1976)年に、極楽寺の五輪塔の下から忍性の金銅製の骨蔵器が発掘された。それには銘文が刻まれ、極楽寺と竹林寺と額安寺に分骨されたことが記されていた。


昭和57(1982)年には、額安寺の忍性墓からも金銅製の水瓶型の骨蔵器が発掘された。さらに、昭和61(1986)年には、竹林寺から忍性の金銅製の水瓶型の骨蔵器が発掘された。額安寺と竹林寺から忍性の骨蔵器が発掘されたのは、極楽寺の骨蔵器の銘文から予想されたことであった。注目されるのは、額安寺と竹林寺の骨蔵器が全く同じ形であり、同一の鋳型で制作されたと推測されている。

ところで、ここで注目したいのは、なぜ忍性が遺骨を三つに分骨させたのかということである。従来は、律宗の祖として、叡尊・忍性らが尊敬した中国唐代の道宣(596~667)に倣ったと考えられている。確かに道宣伝には、「塔を三所に樹つ」(『律苑僧宝伝』)とあり、忍性がそれを意識していたことは考えられる。ではなぜ三所なのかという問題が残る。

その謎を解く確証はないが、私見では弥勒三会と関係するのではないか、と考えている。弥勒菩薩は、釈迦の滅後の56億7千万年後に、この世に弥勒仏として下生し、3回の竜華会を開き、第一会で96億、第二会で94億、第三会で92億の人々を救うとされる。それゆえ、墓所が1カ所では、墓所がなくなって、その三会に会えない可能性も考えて3カ所にしたのかもしれない。道宣は弥勒信仰を有していた。また、先の忍性骨蔵器には、「三会の暁を約す」と銘文があることから、忍性が弥勒信仰を有していたことは確実である。

叡尊に倣い分骨か
さらに、近年、貞慶の墓所と骨が、奈良県三郷町の持聖院から見つかり、貞慶墓所が笠置寺、海住山寺、持聖院の三つ所在したことがほぼ明らかとなった。貞慶が弥勒信仰者であったことは言うまでもない。それゆえ、弥勒三会信仰とそれらの三つの墓所は関係していると考えている。

とすれば、叡尊も3カ寺に分骨したのではないかと推測され、私は奈良西大寺、京都葉室浄住寺、伊勢弘正寺を想定している。奈良市の西大寺は言うまでもないが、叡尊の終生の活動拠点であり、浄住寺(京都市西京区)は叡尊の京都における、弘正寺(三重県伊勢市、廃絶)は伊勢における最大拠点であった。とりわけ、伊勢弘正寺には西大寺の叡尊塔と同じ塔高3・4メートルの巨大五輪塔(県指定有形文化財)がある。忍性は叡尊を慕っており、叡尊に種々の点で倣ったと考えられるからだ。その当否はともかく、三つの骨蔵器は叡尊教団の素晴らしい美術工芸遺品といえる。

いま一つの目玉は、鎌倉極楽寺の忍性菩薩坐像や同寺の本尊である重文の清凉寺式釈迦如来立像・十大弟子立像などの宝が、奈良博に来た点である。そうした極楽寺の仏像群は、めったに見られないものである。とりわけ、忍性像と興正菩薩叡尊坐像は、私自身も近くではっきりと見たことはなかった。「特別展忍性」による調査で、忍性像の頭部は鎌倉時代に遡ることが明らかとなった。極楽寺は、1303~08年の間に火災があったと考えられているが、嘉元4(1306)年4月に奈良で再造されて極楽寺に寄付された叡尊像と同じく、忍性像もその際に焼けて、再造されたものかもしれない。叡尊像の再造年から、火災の年も1303~06年とより限定できそうである。叡尊教団は清凉寺式釈迦像を本尊としたので、同様の像が数多く制作されたが、極楽寺の像はことさら優美で、優しい顔立ちである。個人的には大変気に入っている。

以上のような、特徴を持った「特別展忍性」であったが、それを機に忍性研究の重要性が再認識され、研究が深化することを願って、拙文を終えよう。

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抜粋終わり



忍性は、日蓮が噛みついたことで有名だが、そもそも異様に日蓮宗が興起するまでは、忍性のほうが有名だったのだ。

勝手に「権力に媚びる」という印象を植え付けて、日蓮を持ち上げたが、当時は、そもそも日蓮が危険すぎる思想{自分以外の思想を邪宗よばわりする}なので、ほぼ歯牙にもかかってなかったのである。


どうも明治以降に異様に日蓮宗を持ち上げて、忍性を腐して、日本仏教の総合智やリアリズムを貶めようとしていたのようだ。


でも、この数年・特に今年は、異様に忍性上げで、真言律宗の祖師たちの再評価が始まっている。



嘘・危険思想のソウカ・トウイツの力の衰退の兆候なのだろうか。



お読みくださりありがとうございます。

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