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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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しばやんの日々 より

上記文抜粋
・・・・・・・
浄土真宗の僧侶や門徒は、明治政府の神仏分離政策に過激に闘った…大濱騒動のこと


前回の記事で、あまりにも強引な明治政府の宗教政策に反対して、浄土真宗の僧侶や門徒たちが一揆を起こしたことに少し触れたが、今回はそのことについてもう少し詳しく記すことにする。

浄土真宗は、既成教団からの迫害を受けながら熱烈な布教を続けてきた経緯から、寺と信者の結びつきは固く、『神仏分離令』が出た以降の教団の危機を僧侶だけでなく門徒も共有していたことが大きいようだ。

神仏分離の動乱

臼井史朗氏の『神仏分離の動乱』に、東本願寺が『神仏分離令』に対する統一見解を全国の末寺に通達していることが紹介されている。

「先般神祇省再興、神仏判然ノ御所分被為在候ハ、朝廷排仏毀釈コレツトムト申触ラシ、下民ヲ煽惑動揺セシムル由、素ヨリ彼等、斯好生至仁、億兆一視ノ叡慮ヲ奉戴セザルノミナラズ、即チ宗門ノ法敵トモ謂ツベシ、仍テ教育説諭、便宜ヲ以テ、民心安堵、方向相定メ、作業相励可申様、門末教育可致旨、御沙汰候事」(『神仏分離の動乱』p164)

この通達の日付が記されていないのは残念であるが、東本願寺では早い時点から「排仏毀釈」が行なわれることを警戒し、このような施策を推し進めようとしている明治政府を「法敵」と考えていたことが分かる。

そして本山が怖れていた通りに、全国各地で寺の建物や仏像仏具の破壊がはじまった。

そして明治3年(1870)9月に、熱心な門徒の多い三河国碧海郡南部の鷲塚(現在の愛知県碧南市)の地に、平田篤胤門下の服部純という役人が赴任して来た。

臼井史朗氏によると、この役人はこのような手法で自分の仕事を進めようとしたことが、特に浄土真宗の信者(門徒)たちの強い反発を招くこととなる。

「お前たちは、先祖代々信じている宗旨のことだから、家でかくれて念仏を申すのは、まあ大目に見てやるとしても、天子さまのほんとうの御思召(おぼしめし)は、敬神崇祖にあのだから、朝夕の御つとめのときには、ゆめゆめ怠ることなくこの祈祷文をよめ…と厳命したのである。…
各村々をまわって、村民を残らずお寺に呼び集め、仏像は穢らわしいといって、正面の金障子をぴっちりと閉めきって、その前には涼み台を持ってきて、その上で、自分は萌黄色の道服を着て、こうした厳命をつたえてまわったのである。
なおその上、藩政改革のための費用だからといって、頼母子講*(たのもしこう)の金をとりたてて歩いたのであった。地主から下農水呑百姓にいたるまで、資産によって上中下の十一段に階級をわけて、金をとりたてたのである。
こうした、神仏分離令の名をかりた暴政に対して、民衆たちは、だまってはいなかった。ようやくにして反抗の気構えをするようになった。
明治維新の新政になったというのに、仏教を破壊し、念仏を禁止し、あまつさえ、重祖苛税を背負わせ、砂をかんでも金を出せとは、残忍苛酷な暴政である。…」(同上書 p.166-167)
*頼母子講:講の組織による民間の金融組合の一種。講員が掛金を定期間に出し合い,入札または抽籤で毎回そのなかの1人が交代で所定の金額を受取る。全員に渡し終えた時点で講は解散する。出し合った金で家畜や家財道具などを買入れ,交代に分与する方法などがある。

この服部純という役人が門徒たちに対し、朝夕のおつとめに読むことを強要した「祈祷文」というのは、次のようなものであったという。
「ウブスナカミノ オホマヘニ ヤスキヲコヒノリマヲスノリト、コノサトヲ スベマモリタマフ ウブスナカミノオホカミノ ミマエヲツゝシミウヤマヒ ヨノマモリヒノマモリニマモリ サイハヘトカシコミカシコミモ ヲガミタテマツル、」(同上書 p.165)
夜の守りと日の守りを産土神に請えというのは、真宗の門徒にとっては現世の利益を忌み嫌う教義に反する内容であったのだ。門徒たちは頭を抱えた。

「朝命に違背せざらんとすれば、祖師の教説に背き、地獄におちることとなり、祖師の教えを守ろうとすれば、朝命に背くことになる。一体どうせよというのだ…と、愚夫愚婦、無智文盲のわれらはどうすればよいのかと、檀那寺におしかける始末であった。」(同上書 p.167)

そして、明治4年(1871)2月に領内の寺院住職に対して召喚の命令が出されたという。集まった僧侶を前にして、服部純という役人はこう言い渡したという。

「本日、領内寺院一同を召喚したのは、外ではない。…大体において、寺院という所は、葬式を執り行うべき場所であって、坊主はその取扱人にしか過ぎないのである。
 ところがだ、当領内には、人民の割合にして寺が多く、したがって、坊主も多すぎるのだ。これはまったく無用のことであって…陛下の臣民にして、耕さずして食い、織らずして衣、遊手徒食致すことは、お上に対して、まったくもって恐入りたる次第である。したがって、領内の寺院は、夫々の方法を設けて、合併することに庁議で決した次第である。
 それについては、廃寺ヤ合寺ノ方法や坊主の取片づけに関して、庁議ばかりで一方的に決定しても迷惑もすることもあろうかと思って、皆を呼び出したのである。…」(同上書 p.168)

こう切り出してから12カ条御下問が発せられたのだが、内容は寺院の統廃合と僧侶の整理、檀家の配分が主な内容であり、住職たちに即決を求めたところ同意した寺院もあったというが、浄土真宗の住職たちのほとんどはこの場で即断することに強く抵抗したという。

そこでこの役人はこう切り返した。

「…この日本の六十余州を統治なされるのは、おそれ多くも畏くも、神の御末である天皇陛下なのだぞ…その陛下の勅諚でもって、廃寺合寺が仰せ出されているのに、本山に問い合わせねば返事ができないの、協議をしなければ、門徒に相談しなければ…とは何たることか。1カ寺の住職が、天皇の命令をうけるのに、本山も門徒もあるか…」(同上書 p.169)

真宗の僧侶たちは猶予して欲しいといくら頼んでも受け入れられず、3月20日を期限とし寺院の統廃合を実施することが厳達されたという。

僧侶たちはこの命令を不服として、3月8日に矢作村暮戸にある門徒の集会所に集まることとなったという。

石川台嶺

国立国会図書館デジタルコレクションに、昭和18年に出版された『桜井村史』が公開されており、PCで誰でも読むことが出来る。すこし引用させていただくが、ここに出て来る台嶺という人物は、この「大浜騒動(菊間事件)」の中心人物である蓮泉寺の石川台嶺である。

「…檄に応じて当日参会せる僧侶は百名程に達し、台嶺は菊間藩の廃仏を語ってこれが防止のため、同志の連判を求めたが三十余人の参加があった。そこで一同は白衣に墨染めの直綴を身にして、大濱の菊間藩出張所を指して暮戸会所を出発したのは翌九日の払暁近き頃であった。夜来の大雨で矢作川は叛乱し、行路困難なりしより道を転じて我が桜井村に到り、大字東町の法行寺に着いた時、数百人の門徒がこのことを探知し、蓑笠姿にて来集し、一行の僧侶を警護して大濱に随う情勢であった。更に米津の龍讃寺に着せし際には門徒の数は二三千人に達し、村内の竹藪はほとんど切尽されて竹槍が造られた。台嶺は形勢の不穏なるを見て同寺の本堂に立ち出で、廃仏の説明を尋ね之が延期を乞うを目的とし、一揆徒党に類する行動を慎むべきを説き、群衆の退散を求めた。然れども屡々(しばしば)達せられた維新以来の廃仏傾向の法令に脅かされ、少なからず不安を懐ける人心が計らずもここに爆発の機会に接したのであるから折角の説諭もその甲斐なく、鷲塚の蓮成寺に入りし頃には益々衆を加えて数千人の夥しきに至った。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042159/246

門徒たちの不穏な空気に驚いて、菊間藩の役人たちが鷲塚村の名主片山俊次郎宅に集まり、蓮成寺に何度か使者を送り出している。石川台嶺は菊間藩の反省を迫ったのだが埒が明かず、日没を迎えることとなる。再び『桜井村史』を引用する。文中の「杉山」という人物は、菊間藩の役人である。

大浜騒動

「…蓮成寺に待機の群衆は漸次殺気を生じて梵鐘を打鳴らすより僧侶は撞木の綱を断ちしも、忽ち繋いで乱打し、遂に片山方に押寄せて鯨波を挙げ垣を破って庭前に進出した。杉山等の五人は遂に抜刀して玄関に立ち出で忽(たちま)ち三四人に斬り付け、群集の開ける虚に乗じ、圍(かこい)を衝いて大濱に逃げ帰ったが、藩吏の藤間薫は後より逐える群集のため、背面より槍にて仆(たお)された。…菊間藩にては翌十日に四隣の各藩に加勢を請うるより西尾・岡崎・重原刈谷・西端は勿論、尾張藩よりも兵を出して鎮撫に力めしより、全く鎮静を告げた。
 小参事の服部純はこの騒動のため、事の容易ならざるを認むるとともに、最初の意気を失い、急使を京都の本願寺に遣わして鎮撫を請うた。十八日には…使僧が来たり、小参事より朝日を拝せしむることなく、神前の祝詞にして宗旨に背かば取やむべきこと、廃寺合寺を見合わすことを申し出たので、使僧等は此旨をもって国内を巡教せしより、廃仏毀釈の問題にして解決せる上は、他に何等の理由もなきこととて平静なるを得た。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042159/247

かくして廃寺合寺が中止され、僧侶・門徒たちの信仰は守られることになったのだが、民衆を扇動して権力に逆らい、役人の一人(藤間薫)を惨殺してしまったことの罪を免れることはできなかった。

後に首謀者たちは捕縛され、4月に岡崎城で裁判が行われ、12月28日に2名が死罪を宣告されたほか、僧俗あわせて40人に懲役刑などが申し渡されている。
そして、その翌日には、事件の中心人物であった石川台嶺は西尾町奥屋敷の刑場にて斬罪に処せられ、29歳の短い人生を終えたという。また、役人殺害の罪を一人で引き受けた榊原喜與七も37歳という若さで絞首刑に処せられた。

一方、長い間牢獄に繋がれて刑に服していた僧侶たちは、明治22年(1889)に大日本帝国憲法が発布されたことにともなう大赦によって、ようやく無罪放免されている。
その後、本願寺当局は大濱騒動の犠牲者たちを護法扶宗の功労者として讃え、その業績の顕彰に今も努めているという。



以前このブログで苗木藩の廃仏毀釈のことを書いた。ここでは藩知事の遠山友禄が率先して廃仏毀釈を徹底させ、領内の全寺院(15か寺)が廃毀され、石像石碑にいたるまで仏教的なものを一掃し、全領民を神葬祭に改宗させたのだが、この廃仏毀釈が最も激しく行なわれた時期が明治3年で、今回のテーマである大浜騒動の原因を作った服部純が菊間藩出張所に着任した頃のことである。
そして服部純という人物は、苗木藩の遠山友禄と同様に平田篤胤の国学思想の信奉者であり、もし三河大濱で真宗の僧侶や門徒たちが立ち上がっていなければ、この地域の多くの寺が強制的に廃寺にされていたとしてもおかしくなかったのである。

明治の廃仏毀釈の激しさを知らなければこのような騒動を理解することはなかなか難しいところなのだが、三河以外でも多くの地域で浄土真宗の僧侶や門徒が明治政府の宗教政策に反抗したことが、廃仏毀釈にブレーキを掛ける一因となったことは記憶に留めるべきだと思う。

前回の記事で、白山信仰の重要な仏像群がほぼ無傷で林西寺に残されているのは、石川県が浄土真宗の強い地域であることと無関係ではないだろうと書いたが、それは三河地区などで、真宗の僧侶や門徒たちが命懸けで明治政府の宗教政策を正そうとしたことだけが理由ではなさそうだ。

以前このブログで書いたのだが、東本願寺は文久3年(1863)には徳川幕府に1万両の軍資金を提供したり、慶応3年(1867)の大政奉還の後も、末寺の門徒、僧侶による軍隊を編成して、幕府の指揮下に入ることを申し出ているなど、一貫して佐幕派であった。戊辰戦争が始まってからはさすがに維新政府に軍費を献納したものの、薩長勢力を中心とする明治政府から教団が冷遇、あるいは弾圧される危機を強く認識し、この難局を乗り切るために東本願寺は明治政府に平身低頭し、政府に忠誠を尽くしている。



明治2年(1869)9月に、政府は東本願寺に北海道の開拓を命じ、明治3年(1870)2月に、当時19歳の新門跡・現如上人を筆頭に、僧侶や信徒178人が京都を出立し、ショベルカーやダンプカーや電動機具などがない時代に、人力で土を掘り、木を伐り、石や土を運んで、洞爺湖の東側から札幌に到る103kmにも及ぶ「本願寺道路」を完成させたのである。そして、その道路が、現在の国道230号線の基礎になったといわれており、工事の最大の難所と呼ばれた中山峠には、現如上人の銅像が建っているという。

浄土真宗は他の宗派よりも廃仏毀釈の被害が少なかったことを多くの識者が指摘しているのだが、この時代に教団を守るために僧侶も門徒も命懸けで努力した事実が通史などではスッポリ抜けてしまっているのは残念なことである。もしこのような努力がなされなければ、わが国はさらに多くの文化財や伝統文化をこの時期に失っていた可能性が高いと思うのだが、代々貴重なものとして守られてきたものを将来に残すために、命を懸けた人々がいたことをもっと知るべきではないだろうか。


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抜粋終わり


本当に易性革命が日本には必要ではないのか?

天皇を追放し、あるいは皆殺しにして、自分の権威・権力で立つ。

それからはじめないと、日本列島は放射能で死に絶えるだろう。


お読みくださりありがとうございます。
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