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子牙山遍照院 渾沌堂主人雑記  {大日本国終焉日記 }

半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

アメリカも、無駄な日本への駐留を止めるようで・・・

京の風 より

上記文抜粋
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ペリー元国防長官「北朝鮮が核を保有することに成り、(米軍の)任務はさらに重大に。しかし、普天間や他の沖縄の基地でなければ果たせないという問題ではない。日本人や日本政府にとっての政治的問題。米軍は占領しているわけではなく、招かれてここにいます」


2017年9月11日(NY時間)。 この日は、一大転機になりました。

 日本のアホメディアは、「フリン」と「O-157」ばかりでしたが。

元国防長官のウイリアム・ペリー氏が、13日、沖縄の那覇を訪れ、以下の発言です。同氏は、日本に、1853年にやってきて、開国を迫った、あのペリー提督の子孫です。

朝日新聞デジタルから。http://www.asahi.com/articles/ASK9F744JK9FUTIL068.html


「軍事上、沖縄の位置特別でない」 ペリー元米国防長官

木村司、上遠野郷   2017年9月14日00時47分

* 混迷を深める米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の返還・移設問題。県内移設の条件つき返還合意で、中心的な役割を担った当時の米国防長官、ウィリアム・ペリー氏(89)が21年ぶりに沖縄を訪問。13日、朝日新聞と地元紙のインタビューに応じた。

◎特集:沖縄はいま
 ――初めて沖縄を訪れたのは、沖縄戦の終結直後と聞きました。

 1946年、私は初めて(陸軍兵として)沖縄に来ました。エンジニアとして、島の復興に関わる地図づくりに携わりました。拠点は、名護の近くのテント。それから何回か沖縄には来ましたが、その一つが、普天間に関わる大きな決断がなされた時でした。普天間の移設について、どういう選択肢があるのかということを考えるためのものでした。

 ――普天間返還で日米が合意した96年以来、21年ぶりの沖縄。返還が進んでいない普天間や、辺野古に立たれた感想を

 非常に失望しています。

 ――普天間問題の解決策は「辺野古が唯一」との考えをいま、どう受け止めていますか。この20年間、沖縄県民世論は6、7割が反対で推移しており、県外移設を求める声も根強くあります。

 この間のすべての出来事を知っているわけではないので慎重にお答えしたい。

沖縄の米軍は、北朝鮮が日本を攻撃したときなどに、日本を守るための任務を担っています。96年時もそうでしたし、今日では、北朝鮮が核を保有するようになり、その任務はより重要になっています。

 問題は、沖縄以外の場所で、その任務を遂行できるかということですが、軍事的には、普天間やほかの沖縄の基地でなければ、任務が果たせないということではありません。

 これは、政治的経済的な問題であり、主に日本人や、日本の政府にとっての政治的問題です。

 米国が決めることではありません。米軍は、日本を占領しているわけではなく、招かれてここにいます。

 米国も、日本の政治的課題には…  (朝日のデジタル記載の公開は、ここまで)

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 悪がどこにいるか、分かってきましたね。

 今、口曲がりの誰かさんは、鼻クソ野郎 と呼ばれ出したようです。、

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抜粋終わり


おなじく より

上記文抜粋
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明日15日(金)羽曳野で応神祭。今、宇佐の神格は混乱中ですが、誉田八幡では「ヤマトタケル」が人類に向けて復権?。


時代は、継体(オオド)の息子、欽明(ヒロニワ)のとき、勅命で、羽曳野の地に、ホンダワケのための誉田宗廟(こんだそうびょう)の神殿を造らせた。その後、568年、大分の宇佐を訪ねた大神比義が、ホムダワケを八幡神と認めた。

その宇佐に、ホンダワケ=八幡神の社殿を造れと勅を出したのが聖武(首皇子)で、即位の翌年、725年だった。

今、宇佐神宮は、原発推進派の神社本庁の直轄になってしまったが、はて、そこを皇室(国体)の神威としている日本の神社界で、イノチと繋がる神事ができるのか?

八幡神であるホンダワケの骸は羽曳野にあり、この地は、白鳥となった、ヤマトタケルの羽を引き寄せたところ。

「ヤマト」とは、何か? 神武の和風諡号は、「カムヤマトイワレビコ」だった。

 これと、皇祖神アマテラスはどんな関係?  さらに、「太一」とは?

特に、なぜ、北燕の鞍が、なぜ、この御陵で、出土したのか? 

  北魏には北燕出身の馮太后。 そこと、前秦苻氏の関係は?



(私の予定)

 明日は、午前11時から、大阪で、里山交流会。

    午後6時から、羽曳野で、ホンダワケ(八幡神)の世界史的意義を話します。

    午後8時から、応神祭。

明後日は、梅田で、午後1時半から、なんでもしゃべろう会。

   こちらは、別途、案内します。

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抜粋終わり


> 北魏には北燕出身の馮太后。 そこと、前秦苻氏の関係は?

北燕の祖の慕容 垂 ウイキが、ヒスイの戦いのあと、逃げた皇帝符堅を、長安近くまで護衛してから、東に行って北燕を建国した。
奸雄でもあるが、それなりに筋を通す立派な人でもあった。慕容垂

>王猛が慕容垂排除を苻堅に進言した理由は「慕容垂は聡明で龍や猛獣は飼いならすことはできず、いつかは自立する」と見越していたためとされる。苻堅は取り合わなかったが、淝水の戦い後に王猛の懸念は現実となり、慕容垂は前秦から自立していった[10]。ただし慕容垂自身は苻堅に恩義を感じていたとされ、苻堅が生存している間は群臣から即位を勧められても常に拒否したという[8](実際、淝水の敗戦で逃げる苻堅を自軍に収容した際も殺さなかった。また実弟の慕容徳が暗殺を進言してきた時も拒否したという)。


前秦と北燕と北魏とは、なにかつながりがあるようにも思える。

あと王猛{王莽ではないよ}も意外と大事かも知れな気がする。


お読みくださりありがとうございます。

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