故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/03 02 < | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 | > 04 |
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東海アマブログ より
上記文抜粋
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洗脳 その1
1992年、黎明期の日本新体操界で、ひときわ輝きを放った山崎浩子が、桜田淳子に次いで統一教会に入信し、広告塔になったことは、日本社会に衝撃を与えた。
すでに、当時、統一教会による詐欺的な資金集めによる被害者が激増し、狂信カルトとして、その名をとどろかせていた。
合同結婚式とは、「血分けの儀式」と称して、文鮮明教祖が新婦と性交した後に、見ず知らずの、教団側が用意した相手と結婚するシステムのことで、教会の広告塔になるような女性に対しては、見栄えのいい相手が用意されるが、大半の日本女性は、嫁の来手がない韓国の農村部の中高年男性の配偶者(性奴隷)として送り込まれるのである。
ひとたび韓国農村に入ったなら、韓国儒教の因習に従って、その家の奴隷として尽くさねばならず、日本に帰還することも、両親に連絡をとることさえ絶対に許されない拘束状態だといわれ、こんな日本女性たちが6千~1万名もいるという。
http://aszxcv.blogspot.jp/2011/09/blog-post.html
http://the-soliloquy-of-ishikawa-quon.blog.jp/archives/1064999000.html
http://hayabusa2.blog.fc2.com/blog-entry-113.html
http://www.asyura2.com/10/senkyo87/msg/287.html
山崎浩子は、その後、周囲の努力もあって、洗脳から覚めて自分を取り戻すが、経緯は、ここに詳しく書かれている。
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/05160505/?all=1
この洗脳経過を山崎浩子が涙ながらに語ったことから、統一教会の洗脳作戦は、巨大な凋落、破綻を来すことになる。それまでの爆発的な拡大の勢いが失われ、悪質な洗脳カルトとして、社会的な糾弾を浴びる結果となった。
そして、日本社会全体に「洗脳」の意味を議論させる契機ともなった。
私は、先に統一教会の洗脳手口について、私自身が経験した事実をブログに書いた。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-341.html
「洗脳」は、決して遠い他人の偶発事故ではない。戦前では、日本人の大半が「神州不滅・日本国民総玉砕」なんて正力松太郎の作った標語に洗脳され、450万人という莫大な数の日本人が第二次大戦の犠牲になった。
竹槍でB29の爆撃に立ち向かってみたり、焼夷弾の火をバケツで消せと言ってみたり、どう考えても常軌を逸した異常な精神主義が蔓延したのも洗脳の成果であった。
こうした精神主義は、戦後、スポーツ界に広く残渣が残って、膝を取り返しのつかないほど壊してしまう「ウサギ跳び」の強制など、どれほど悪弊を残したか分からない。
正力が会長を務めた「大政翼賛会」は「お国のために私有財産を寄付しろ」と強要してまわり、指輪や貴金属などを供出させられ、寺の釣り鐘でさえ奪われたが、戦後、それらは返還されることもなく、日本軍の担当供出担当関係者に、いいように強奪された。
一部は正力や岸信介らA級戦犯が米軍を買収して釈放される資金にも流用されたといわれる。
警視庁警備局長だった正力松太郎が、関東大震災直後、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れ、娘たちを強姦して回っている」という完全なデマをメディアに拡散したことで、それを真に受けた下町の自警団が、通りすがりの在日朝鮮人を次々に虐殺して、総数で6000名を超える在日朝鮮人が殺された事件も、洗脳殺戮事件といえるだろう。
正力は、戦後、読売新聞社の社主となり、大衆を洗脳する手段としてのメディア、プロ野球やテレビ放送を生み出した他、核兵器製造のための原発も導入している。
ナチスが「障害者は国を停滞させる」と宣伝して、ドイツの障害者40万人をガス室で殺害したT4作戦も、国家的な洗脳といえるだろう。
いずれも、洗脳から覚めた人々は、自分たちの行ったことの残虐性に死ぬまで打ちのめされ続けた。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-331.html
「勝ち組」という太平洋戦争における日本の敗戦を絶対に信じない海外入植組がいて、彼らは戦後も、敗戦を口にした人々を虐殺して回った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E3%81%A1%E7%B5%84
戦後には洗脳が解けたのか?、といえば、実は、未だに日本国民の大半が、ひどい洗脳を受けたままである現実を理解しなければならない。
「洗脳」とは何か?
アヒルの卵を孵卵器にかけて殻を割って誕生したとき、目の前にいる動くものを、雛たちは「親」と思い込む習性がある。
だから、雛たちは、孵卵器前にいた人間を親と思い込んで、どこまでもついて回る。そうしないと不安なようにプログラムされているからだ。
これを生物心理学では「刷り込み」と呼んでいるが、人間でも同じで、生まれて育ってゆく過程で、目の前にある環境が自分を支えている存在と思い込み、それに忠誠を示そうとするのは、自己防衛本能の一種であるかもしれない。
別の言い方をすれば、人は、親離れして、世間でもまれるうちに、善悪の判別を身につけ、自分にとって、社会にとって、何が良いことなのか、価値判断の基準を作り出す。これが「洗脳されていない」自然な姿である。
しかし、なかには、他人の言葉に簡単に騙され、「儲かる」とか吹き込まれて有り金を渡してしまって、財産を奪い取られてゆく人も少なくないし、周囲の意見に対して、どうしても自分の判断が追いつかないで、自分を見失う人もたくさんいる。
あるいは、病的に他人の意見に盲信してしまう人もいる。
「社会を良くするんだ」と決意し、朝原教祖の指示に盲従して人殺しをしてしまう人もいるし、「日本が好きです」とか言いながら、日本社会を根底から破壊する安倍晋三を支持して喜んでる人もいる。
あなたは洗脳されていないのか?
「洗脳されている」と言わねばならない、もっとも典型が、「天皇制」と「死刑制度」であり、そこから派生した学歴権威主義である。
天皇を永遠不滅の絶対的存在と勘違いしている人は、日本国民の過半数もいるかもしれない。
「天皇様」といえば「神様・仏様・キリスト様」なんて神頼みに並ぶ存在として刷り込みを受けてしまっている人が極めて多いのである。
ところが、よく考えてみれば、あなたの受けた理科や生物の学校教育の常識から考えれば、天皇が生物学的人間にすぎないことが、分かりすぎるくらい分かるはずだ。
天皇はウンコしないのか? しなければすぐに糞詰まりで死んでしまう。庶民のようにエッチしないのか? しなければ子供は産まれてこない。天皇は一回に千食、食べるのか? 一食しか食べられないよ。天皇は一度に千人と話せるのか? 一人しか話せないよ。
つまり、天皇は我々庶民と何一つ変わらない「タダの人」であることくらい、あなたの常識からすれば分かりすぎるくらい分かっているはずだ。
それなのに、なぜ特別扱いするの? その理由はいったい何なのだ?
よほどの屁理屈好きでもないかぎり、まともに述べることのできる人などいない。
せいぜい、「明仁・美智子夫妻が極めて誠実で、親しみが持てる」とか、科学的根拠とは無縁な、感覚的で適当なことを言うしかないのである。
真実を言えば、特別扱いする本当の理由は、「特別扱いせよ」と洗脳されているからである。
このことを理解していないで、自分で正当化してしまっている人たちが、狂信的な恍惚を伴った天皇制支持者となってゆく。
元号など天皇制を神格化する以外何一つ役に立たない有害無益な存在であって、元号を国民に押しつけている行政自体が、ダブルスタンダード暦に伴う有害性に困り果てて、実は西暦だけを使っている。
印刷配布される元号は、いちいち西暦を翻訳して印刷するのである。これも天皇制への洗脳を守るためだ。
なぜ、行政が天皇制を守ろうとするかというと、天皇制は「国家への忠誠教育」の柱であって、「愛国心=国を守ること=天皇を守ること=行政に従うこと」と都合良く論理化されている事情による。
天皇制を容認する歴史上・社会上・物理上・生物上の根拠など何一つないことは社会常識の問題なのである。
そこにあるのは、洗脳による宗教的な情念だけである。
あなたの会社の社長が、権力を利用して、突然、「自分は天皇と同じだから無条件に崇拝せよ」とあなたに強要したなら、あなたは、どのように感じるだろう?
不合理な違和感と反発を感じるはずだが、そのあなたが天皇制だけを、無条件に受け入れている理由は何なのか、きちんと考えるべきである。
天皇制に迎合するあなたは、幼い頃から「天皇は特別な存在である」と洗脳されているにすぎないのだ。
これはアヒルの幼鳥たちが親について回るのと同じ「刷り込み効果」である。
それが証拠に、幼いうちから天皇制への「刷り込み洗脳」を受けていない外国人たちは、天皇に対して何の敬意も持たず、「タダの人」にすぎないことを知っているし、特別視する日本人に異様さ、強い違和感を感じている。
まあ、外国でもタイやマレーシア、イギリスやオランダなどでも封建時代の名残を引きずった元首制度が残されていて、元首に対する崇敬が宗教的に存在している国もあるわけだから、日本もそのうちの一つと民俗学的に理解されるわけである。
イスラム諸国の、ムハンマドに対する観念的束縛よりもマシなように思われているかもしれない。
しかし、近代資本主義国家の基礎理念が「合理性」であり「金儲けの自由」であることを思えば、グローバリズムの理念と真っ向から衝突する概念でもあり、こうした君主制については、あちこちで衝突を繰り返すことになる。
これを書いている2018年5月19日は、イギリスでハリー皇子が米女優と結婚するということで大騒ぎになっているらしい。
「なんで彼らが特別扱いされなければならないの?」
と疑問を感じている人も大勢いるだろうし、交通規制やメディアの大規模な露出に不快感を示す人もいるだろう。
天皇制について、もっともまずいことは、天皇という虚構にすぎない権威を作り出していることで、その現実から、人間には先天的な、犯しがたい序列があると思い込まされ、「すり込まれて」しまった人々が大勢出ていることである。
また、こうした合理性のない、つまり現実に根拠を持たない差別観念が、人々を惑わせ、無数の精神障害を生み出していることにも気づかねばならない。
天皇制に対する無条件の信仰が、学歴や出自などの権威主義のウソを助長する基盤になってしまっている。天皇がエライなら、権威ある東大も、巨大企業の社長もエライ、権威が真実よりも上位であるという、ひどい勘違いをもたらしているのである。
本当は、天皇制だって、「タダの人」にウソの権威をかぶせて、神様に仕立て上げただけのことで、万世一系のはずの天皇家の血統は、少なくとも4回は、まったく頃なる集団によって血統が変えられている。
最近では、明治維新の際に、北朝正統=孝明天皇が暗殺され、南朝正統を主張する維新勢力によって、大室寅之祐という人物が、明治天皇に化けている。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-332.html
だとすれば、明治以降の天皇は、偽物ということになり、天皇が神格化されて、それを利用した国家主義が幅をきかせて450万人の日本人が残酷に殺されていった関係を、もう一度、見直す必要があるのだ。
天皇制が、本当に日本社会に必要なのか
必要なら、その理由は何か? 天皇制が日本社会に何をもたらしているのか?
今は、それを根底から問い直さねばならない時代なのである。
次回は、洗脳と死刑制度について
・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり
>せいぜい、「明仁・美智子夫妻が極めて誠実で、親しみが持てる」とか、科学的根拠とは無縁な、感覚的で適当なことを言うしかないのである。
>真実を言えば、特別扱いする本当の理由は、「特別扱いせよ」と洗脳されているからである。
同感。
>なぜ、行政が天皇制を守ろうとするかというと、天皇制は「国家への忠誠教育」の柱であって、「愛国心=国を守ること=天皇を守ること=行政に従うこと」と都合良く論理化されている事情による。
>天皇制を容認する歴史上・社会上・物理上・生物上の根拠など何一つないことは社会常識の問題なのである。
>そこにあるのは、洗脳による宗教的な情念だけである。
>あなたの会社の社長が、権力を利用して、突然、「自分は天皇と同じだから無条件に崇拝せよ」とあなたに強要したなら、あなたは、どのように感じるだろう?
>不合理な違和感と反発を感じるはずだが、そのあなたが天皇制だけを、無条件に受け入れている理由は何なのか、きちんと考えるべきである。
その通りである。
おなじく より
上記文抜粋
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洗脳 その2 死刑制度
「悪いやつは殺して当然?」
新潟で、少女殺人事件が起きた。7歳の少女が殺され、遺体を線路に置かれて電車が轢いたことでバラバラにされてしまった。
犯人は逮捕されたが、小林燎という近所の青年だった。見るからに好青年という印象で、とても犯罪者には見えない。
私の新潟の親戚も、大半が小林姓なので、身内が犯罪を犯したような、やりきれない気分である。
ネットでは、死刑を望む声が多い。2004年に起きた奈良女児誘拐殺害事件も、同じ小林で名は薫といったが、死刑判決を受け、2013年執行された。
本人は、幼い頃から劣悪な家庭環境で、学校でもイジメを受け、性格がひずんでいった。自分が人権を蹂躙されながら育ったために、他人への人権蹂躙にも加害意識が乏しかったのだ。
公判中に、自分は宮崎勤や宅間守のようになりたいと語ったそうだ。宅間も宮崎も幼い頃から劣悪な人間関係に苦しんだことでは似たところがある。
営利誘拐殺人・保険金殺人では、吉展ちゃん事件以降、罪が重くなり、一人殺害でも死刑判決になるケースが増えた。このケースでは営利誘拐以上の、家族への脅迫の悪質性が考慮されたようだ。
被害者一名での死刑判決は、戦後13例あるが、いずれも悪質性が評価された。
アムネスティによると、世界全体でみた場合、死刑廃止国・執行停止国の合計は139カ国、残置国は58カ国となっている。先進国か否かに関わらず、死刑制度を維持している国が少数派であることがわかる。
とりわけ、世界をリードする立場の文化的「先進国」と評価される国家で、死刑制度を実行しているのは、日本とアメリカだけであるが、アメリカでは20州が死刑制度を廃止している。
韓国では1998年以降、死刑執行は凍結されている。この意味では、日本だけが文化的レベルが著しく劣っていることになる。
大衆レベルで、9割の人たちによって死刑制度が支持されているという意味では、日本の場合、事態は深刻である。
死刑制度を国家の道徳的視点から見れば、キリスト教の影響があっても、「罪を憎んで人を憎まず」といった姿勢こそ先進国に値する思想であり、罪を犯した者は処罰されるべきという報復思想は、明らかに後進的であり、文化程度の低い国家であると評価されることになる。
欧米にはキリスト教思想の影響によって死刑が否定されているという指摘もあるが、日本だって仏教では死刑を推奨しているわけではなく、実際に平安時代には死刑制度が廃止されたこともあった。
死刑を必要としたのは、仏教でも神道でもなく、実は国家運営上都合のよい思想として中国から移入された儒教(朱子学)だったのだ。
したがって、日本で多くの死刑執行が行われたのは、戦争大好きの武家政治の期間であった。明治以降も、この意味では儒教=武家の司法といってもよい。
日本における死刑制度は、法務省が「処罰感情」という名目で、「報復=復讐」思想を前面に押し出して、「国家が被害者の代理として加害者に報復してやる」という先進国としては実にお粗末な感情論によって推進しているわけだが、そもそも日本の司法制度の基礎を築いた牧野英一による刑法思想は、今よりもはるかに優れたもので、当時の植民地であった韓国や台湾においても、牧野式刑法論は、今なお受け継がれ、その後劣化してしまった日本よりも優れた刑法理念として運用されている。
http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/59/tuchi/tc.htm
牧野英一は、刑法を感情に堕すことはなく、報復主義に貶めなかった。刑法は報復処罰のためにあるのではなく、国家の運営、民衆の幸福の追求のためにあるのだから「罪を憎んで人を憎まず」の思想が根底にあった。
罪を犯す理由は、教育の乏しさにあるのであって、責任は国家にある。ゆえに刑は教育刑でなければならない。しかし、どうしても教育の対象にならず国家国民に害をなすものは死刑を用いるというような内容であったと思う。
死刑制度を残したのは、まだ明治が、江戸時代の儒教思想から抜け出せていなかったせいであろう。
現代司法は、明治に牧野英一が導入した教育刑思想を廃棄し、感情的な報復刑に後退させ、貶めている現実を恥ずべきである。
国家は感情で運営されてはならない。理性でのみ運営されなければならないのだ。
日本司法が、安易な報復刑主義=復讐代理人的な陳腐な刑法運用を行っている理由は、基本的に、官僚たち政治家たちが高圧的な「お上意識」に陥り、民衆に対して権威を振りかざし、恫喝的な姿勢で「従わねば殺す」という下劣な発想で対応しているからである。
こうして、権力を畏怖する愚かで臆病な大衆もまた、社会の規範を、「悪人は排除されるべき、殺すべき」といった下劣な感情主義に洗脳され、貶められているのである。
そこには、国家の未来、子供たちの未来を守り、よりよき社会を展望するという理性的発想は存在せず、為政者の権威と利権を守るために、「従わぬ者は殺す」という恫喝しか存在しない。
子供たちの未来を守ろうとする理性など、どこにもない、ただ復讐感情だけがある世界に恥ずべき下劣な思想で運営されている刑法なのである。
こんな愚かな政府であるなら、それを畏怖する国民も愚かに染まってゆく。
犯罪に対処する発想は、報復・復讐だけ、なるべく残酷に殺せば、それを恐怖して凶悪犯罪も減るだろうという、まるで安倍政権のトリクルダウン発想に似た陳腐な屁理屈を振りかざして、死刑制度推進に染まってゆくのである。
「死刑制度に洗脳された人々」
報復主義が世の中に蔓延していったのは、おそらく1990年代ではないだろうか?
私の知る限り、死刑制度を全国民の9割が支持している今と比較して、1980年代には、死刑制度を支持する国民は半分以下であったような記憶が残っている。
1980年代は、自民党と社会党の弁証法的なバランス政治が確立されていた時期で、民主主義や人権に関心を持つ人も多く、社会全体とりわけ底辺の社会が、今とは比較にならないほど豊かであったから、人々の心に余裕があった。
司法における処罰判例も、現在と比較すれば、ずっと緩やかで、人殺しでも7年程度の懲役ですみ、社会は処罰よりも「更生」に目を向けていた時代であった。
「人間というものは失敗するものだ」との経験則から、人の失敗を全身全霊で咎めまくる愚かな人物も少なかった。
船井幸雄が「短所是正法」を否定し、「長所伸展法」を推奨しはじめたのも、この頃だ。
失敗を咎めるだけでは何一つ良いものが生まれない。人間的長所を褒めながら失敗の原因を探って問題を解決すれば、やる気を失わずに前向きに事態を進めることができる。
「人は叱って意気消沈させるのではなく、長所を褒めて大きく育てるものだ」
というのが船井式長所伸展法の要旨であるが、刑事事件における犯罪者への対処法だって、基本的姿勢は同じでなければならない。
牧野英一は、犯罪を犯す理由は無知によるものだから、まずは教育から始めなければならないと教育刑主義の基本理念を提唱した。
牧野式では、刑務所は人格改善施設であり、さまざまな教育の結果、まっとうな人間として社会復帰させることが原則である。決して、人格も肉体も消滅させる場所ではないのである。
懲罰よりも更生こそが刑法の主眼でなければならなかった。
1990年以降、日本社会が大きく変わり、国家主義が戦前復帰の様相を帯びてきたのは、日本会議を結成した中曽根康弘や谷口雅春、文鮮明といった人物が、日本の復古主義、極端な右傾化を実現していったからである。
人々に有無を言わさず国家の命令に従わせ、戦争にあっては臆せずに命を投げ出す者が「期待される人間像」であり「愛国心の発露」であると考える連中だった。
このとき、彼らは日本人の洗脳を強く意識して大規模に計画を遂行していった。
大衆が理性をもって社会を判断することをやめさせ、感情だけで行動するような人間性になるような洗脳教育を行い始めたのである。
人々から思考能力を奪い「愛国心」だけをすり込ませる教育こそ彼らの理想であった。
例えば、正力松太郎が導入したプロ野球、そしてプロサッカーも、徹底的な勝敗優先主義にし、勝ち負けだけにこだわる発想を洗脳していったといえるだろう。
学校教育においても、合理的な根拠を思考する習慣をやめさせ、上から言われたことを忠実に実行する奴隷のような人間だけを評価するようになった。
幼いうちから競争社会に叩きこみ、人間に序列をつけ、いつでも序列上位に向かって無条件に突進するような盲目的人物こそ、国家の必要とする人材とされたのであり、競争に勝つことだけを至上とするプロスポーツは、そうした洗脳にうってつけだったのだ。
メディア、報道は、いつでも競争の勝者を賛美し、底辺で社会を支えている貧しい人々を人生の敗者であるかのように扱い、電通の支配するメディアに洗脳された人々は、本当に社会を支える大切な底辺の人々を軽視し、差別するようになっていった。
犯罪者は人生の敗者であり、社会の落伍者であり、惨めに死んでゆくのがふさわしいと考える者が増えた。
ましてや死刑囚に同情する者はいなくなり、残酷な死を願うだけの人々が増えた。
犯罪者を更生させるなど国家の無駄であると考える若者が増え、犯罪者だけでなく障害者にまで敵意を露わにして、障害者を殺戮する者まで現れたのである。
死刑制度に疑問を呈したり、反対する者(例えば私)に対しても、激しい敵意が浴びせられるようになった。
徹底的に嘲笑されディスリスペクトの標的とされるようになった。
失敗した人を更生させないで、徹底的に非難し、叩き潰す。社会を底辺で支えている者たちを蔑視する。自分だけが社会の利権にあぐらをかく人生を享受したい。
こんな若者ばかりになった日本社会が、この先、いったいどうなるのか?
本当の問題は、実は死んでからにあるのだが、次回に譲ろう。
死刑になっても人は肉体が死ぬだけで魂は死なないとすれば何が起きるのか?
・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり
死刑制度容認と天皇制は関連がある。
そもそも「冤罪」はどうするのか?死刑を冤罪で執行したら、誰の罪なのか。
そもそも死刑を宣告した判事や、死刑になるように調べた検事・警察官も「殺人罪」を行ったことになり、場合によれば、彼らも死刑になるべきではないのか?
そういうことを「天皇は完全無欠」ということで誤魔化し、それを死刑と行政は保管してきたのではないのか?
99パーセントの有罪率も「天皇とその臣下の無謬性」とかもあるだ。
まさに「天皇」という洗脳から抜け出ないと、日本人は、人間として、一市民として生きれない。
今はまだ「高級奴隷」である。
脱天皇・滅天皇制・死刑制度廃止。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
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洗脳 その1
1992年、黎明期の日本新体操界で、ひときわ輝きを放った山崎浩子が、桜田淳子に次いで統一教会に入信し、広告塔になったことは、日本社会に衝撃を与えた。
すでに、当時、統一教会による詐欺的な資金集めによる被害者が激増し、狂信カルトとして、その名をとどろかせていた。
合同結婚式とは、「血分けの儀式」と称して、文鮮明教祖が新婦と性交した後に、見ず知らずの、教団側が用意した相手と結婚するシステムのことで、教会の広告塔になるような女性に対しては、見栄えのいい相手が用意されるが、大半の日本女性は、嫁の来手がない韓国の農村部の中高年男性の配偶者(性奴隷)として送り込まれるのである。
ひとたび韓国農村に入ったなら、韓国儒教の因習に従って、その家の奴隷として尽くさねばならず、日本に帰還することも、両親に連絡をとることさえ絶対に許されない拘束状態だといわれ、こんな日本女性たちが6千~1万名もいるという。
http://aszxcv.blogspot.jp/2011/09/blog-post.html
http://the-soliloquy-of-ishikawa-quon.blog.jp/archives/1064999000.html
http://hayabusa2.blog.fc2.com/blog-entry-113.html
http://www.asyura2.com/10/senkyo87/msg/287.html
山崎浩子は、その後、周囲の努力もあって、洗脳から覚めて自分を取り戻すが、経緯は、ここに詳しく書かれている。
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/05160505/?all=1
この洗脳経過を山崎浩子が涙ながらに語ったことから、統一教会の洗脳作戦は、巨大な凋落、破綻を来すことになる。それまでの爆発的な拡大の勢いが失われ、悪質な洗脳カルトとして、社会的な糾弾を浴びる結果となった。
そして、日本社会全体に「洗脳」の意味を議論させる契機ともなった。
私は、先に統一教会の洗脳手口について、私自身が経験した事実をブログに書いた。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-341.html
「洗脳」は、決して遠い他人の偶発事故ではない。戦前では、日本人の大半が「神州不滅・日本国民総玉砕」なんて正力松太郎の作った標語に洗脳され、450万人という莫大な数の日本人が第二次大戦の犠牲になった。
竹槍でB29の爆撃に立ち向かってみたり、焼夷弾の火をバケツで消せと言ってみたり、どう考えても常軌を逸した異常な精神主義が蔓延したのも洗脳の成果であった。
こうした精神主義は、戦後、スポーツ界に広く残渣が残って、膝を取り返しのつかないほど壊してしまう「ウサギ跳び」の強制など、どれほど悪弊を残したか分からない。
正力が会長を務めた「大政翼賛会」は「お国のために私有財産を寄付しろ」と強要してまわり、指輪や貴金属などを供出させられ、寺の釣り鐘でさえ奪われたが、戦後、それらは返還されることもなく、日本軍の担当供出担当関係者に、いいように強奪された。
一部は正力や岸信介らA級戦犯が米軍を買収して釈放される資金にも流用されたといわれる。
警視庁警備局長だった正力松太郎が、関東大震災直後、「朝鮮人が井戸に毒を投げ入れ、娘たちを強姦して回っている」という完全なデマをメディアに拡散したことで、それを真に受けた下町の自警団が、通りすがりの在日朝鮮人を次々に虐殺して、総数で6000名を超える在日朝鮮人が殺された事件も、洗脳殺戮事件といえるだろう。
正力は、戦後、読売新聞社の社主となり、大衆を洗脳する手段としてのメディア、プロ野球やテレビ放送を生み出した他、核兵器製造のための原発も導入している。
ナチスが「障害者は国を停滞させる」と宣伝して、ドイツの障害者40万人をガス室で殺害したT4作戦も、国家的な洗脳といえるだろう。
いずれも、洗脳から覚めた人々は、自分たちの行ったことの残虐性に死ぬまで打ちのめされ続けた。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-331.html
「勝ち組」という太平洋戦争における日本の敗戦を絶対に信じない海外入植組がいて、彼らは戦後も、敗戦を口にした人々を虐殺して回った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E3%81%A1%E7%B5%84
戦後には洗脳が解けたのか?、といえば、実は、未だに日本国民の大半が、ひどい洗脳を受けたままである現実を理解しなければならない。
「洗脳」とは何か?
アヒルの卵を孵卵器にかけて殻を割って誕生したとき、目の前にいる動くものを、雛たちは「親」と思い込む習性がある。
だから、雛たちは、孵卵器前にいた人間を親と思い込んで、どこまでもついて回る。そうしないと不安なようにプログラムされているからだ。
これを生物心理学では「刷り込み」と呼んでいるが、人間でも同じで、生まれて育ってゆく過程で、目の前にある環境が自分を支えている存在と思い込み、それに忠誠を示そうとするのは、自己防衛本能の一種であるかもしれない。
別の言い方をすれば、人は、親離れして、世間でもまれるうちに、善悪の判別を身につけ、自分にとって、社会にとって、何が良いことなのか、価値判断の基準を作り出す。これが「洗脳されていない」自然な姿である。
しかし、なかには、他人の言葉に簡単に騙され、「儲かる」とか吹き込まれて有り金を渡してしまって、財産を奪い取られてゆく人も少なくないし、周囲の意見に対して、どうしても自分の判断が追いつかないで、自分を見失う人もたくさんいる。
あるいは、病的に他人の意見に盲信してしまう人もいる。
「社会を良くするんだ」と決意し、朝原教祖の指示に盲従して人殺しをしてしまう人もいるし、「日本が好きです」とか言いながら、日本社会を根底から破壊する安倍晋三を支持して喜んでる人もいる。
あなたは洗脳されていないのか?
「洗脳されている」と言わねばならない、もっとも典型が、「天皇制」と「死刑制度」であり、そこから派生した学歴権威主義である。
天皇を永遠不滅の絶対的存在と勘違いしている人は、日本国民の過半数もいるかもしれない。
「天皇様」といえば「神様・仏様・キリスト様」なんて神頼みに並ぶ存在として刷り込みを受けてしまっている人が極めて多いのである。
ところが、よく考えてみれば、あなたの受けた理科や生物の学校教育の常識から考えれば、天皇が生物学的人間にすぎないことが、分かりすぎるくらい分かるはずだ。
天皇はウンコしないのか? しなければすぐに糞詰まりで死んでしまう。庶民のようにエッチしないのか? しなければ子供は産まれてこない。天皇は一回に千食、食べるのか? 一食しか食べられないよ。天皇は一度に千人と話せるのか? 一人しか話せないよ。
つまり、天皇は我々庶民と何一つ変わらない「タダの人」であることくらい、あなたの常識からすれば分かりすぎるくらい分かっているはずだ。
それなのに、なぜ特別扱いするの? その理由はいったい何なのだ?
よほどの屁理屈好きでもないかぎり、まともに述べることのできる人などいない。
せいぜい、「明仁・美智子夫妻が極めて誠実で、親しみが持てる」とか、科学的根拠とは無縁な、感覚的で適当なことを言うしかないのである。
真実を言えば、特別扱いする本当の理由は、「特別扱いせよ」と洗脳されているからである。
このことを理解していないで、自分で正当化してしまっている人たちが、狂信的な恍惚を伴った天皇制支持者となってゆく。
元号など天皇制を神格化する以外何一つ役に立たない有害無益な存在であって、元号を国民に押しつけている行政自体が、ダブルスタンダード暦に伴う有害性に困り果てて、実は西暦だけを使っている。
印刷配布される元号は、いちいち西暦を翻訳して印刷するのである。これも天皇制への洗脳を守るためだ。
なぜ、行政が天皇制を守ろうとするかというと、天皇制は「国家への忠誠教育」の柱であって、「愛国心=国を守ること=天皇を守ること=行政に従うこと」と都合良く論理化されている事情による。
天皇制を容認する歴史上・社会上・物理上・生物上の根拠など何一つないことは社会常識の問題なのである。
そこにあるのは、洗脳による宗教的な情念だけである。
あなたの会社の社長が、権力を利用して、突然、「自分は天皇と同じだから無条件に崇拝せよ」とあなたに強要したなら、あなたは、どのように感じるだろう?
不合理な違和感と反発を感じるはずだが、そのあなたが天皇制だけを、無条件に受け入れている理由は何なのか、きちんと考えるべきである。
天皇制に迎合するあなたは、幼い頃から「天皇は特別な存在である」と洗脳されているにすぎないのだ。
これはアヒルの幼鳥たちが親について回るのと同じ「刷り込み効果」である。
それが証拠に、幼いうちから天皇制への「刷り込み洗脳」を受けていない外国人たちは、天皇に対して何の敬意も持たず、「タダの人」にすぎないことを知っているし、特別視する日本人に異様さ、強い違和感を感じている。
まあ、外国でもタイやマレーシア、イギリスやオランダなどでも封建時代の名残を引きずった元首制度が残されていて、元首に対する崇敬が宗教的に存在している国もあるわけだから、日本もそのうちの一つと民俗学的に理解されるわけである。
イスラム諸国の、ムハンマドに対する観念的束縛よりもマシなように思われているかもしれない。
しかし、近代資本主義国家の基礎理念が「合理性」であり「金儲けの自由」であることを思えば、グローバリズムの理念と真っ向から衝突する概念でもあり、こうした君主制については、あちこちで衝突を繰り返すことになる。
これを書いている2018年5月19日は、イギリスでハリー皇子が米女優と結婚するということで大騒ぎになっているらしい。
「なんで彼らが特別扱いされなければならないの?」
と疑問を感じている人も大勢いるだろうし、交通規制やメディアの大規模な露出に不快感を示す人もいるだろう。
天皇制について、もっともまずいことは、天皇という虚構にすぎない権威を作り出していることで、その現実から、人間には先天的な、犯しがたい序列があると思い込まされ、「すり込まれて」しまった人々が大勢出ていることである。
また、こうした合理性のない、つまり現実に根拠を持たない差別観念が、人々を惑わせ、無数の精神障害を生み出していることにも気づかねばならない。
天皇制に対する無条件の信仰が、学歴や出自などの権威主義のウソを助長する基盤になってしまっている。天皇がエライなら、権威ある東大も、巨大企業の社長もエライ、権威が真実よりも上位であるという、ひどい勘違いをもたらしているのである。
本当は、天皇制だって、「タダの人」にウソの権威をかぶせて、神様に仕立て上げただけのことで、万世一系のはずの天皇家の血統は、少なくとも4回は、まったく頃なる集団によって血統が変えられている。
最近では、明治維新の際に、北朝正統=孝明天皇が暗殺され、南朝正統を主張する維新勢力によって、大室寅之祐という人物が、明治天皇に化けている。
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-332.html
だとすれば、明治以降の天皇は、偽物ということになり、天皇が神格化されて、それを利用した国家主義が幅をきかせて450万人の日本人が残酷に殺されていった関係を、もう一度、見直す必要があるのだ。
天皇制が、本当に日本社会に必要なのか
必要なら、その理由は何か? 天皇制が日本社会に何をもたらしているのか?
今は、それを根底から問い直さねばならない時代なのである。
次回は、洗脳と死刑制度について
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抜粋終わり
>せいぜい、「明仁・美智子夫妻が極めて誠実で、親しみが持てる」とか、科学的根拠とは無縁な、感覚的で適当なことを言うしかないのである。
>真実を言えば、特別扱いする本当の理由は、「特別扱いせよ」と洗脳されているからである。
同感。
>なぜ、行政が天皇制を守ろうとするかというと、天皇制は「国家への忠誠教育」の柱であって、「愛国心=国を守ること=天皇を守ること=行政に従うこと」と都合良く論理化されている事情による。
>天皇制を容認する歴史上・社会上・物理上・生物上の根拠など何一つないことは社会常識の問題なのである。
>そこにあるのは、洗脳による宗教的な情念だけである。
>あなたの会社の社長が、権力を利用して、突然、「自分は天皇と同じだから無条件に崇拝せよ」とあなたに強要したなら、あなたは、どのように感じるだろう?
>不合理な違和感と反発を感じるはずだが、そのあなたが天皇制だけを、無条件に受け入れている理由は何なのか、きちんと考えるべきである。
その通りである。
おなじく より
上記文抜粋
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洗脳 その2 死刑制度
「悪いやつは殺して当然?」
新潟で、少女殺人事件が起きた。7歳の少女が殺され、遺体を線路に置かれて電車が轢いたことでバラバラにされてしまった。
犯人は逮捕されたが、小林燎という近所の青年だった。見るからに好青年という印象で、とても犯罪者には見えない。
私の新潟の親戚も、大半が小林姓なので、身内が犯罪を犯したような、やりきれない気分である。
ネットでは、死刑を望む声が多い。2004年に起きた奈良女児誘拐殺害事件も、同じ小林で名は薫といったが、死刑判決を受け、2013年執行された。
本人は、幼い頃から劣悪な家庭環境で、学校でもイジメを受け、性格がひずんでいった。自分が人権を蹂躙されながら育ったために、他人への人権蹂躙にも加害意識が乏しかったのだ。
公判中に、自分は宮崎勤や宅間守のようになりたいと語ったそうだ。宅間も宮崎も幼い頃から劣悪な人間関係に苦しんだことでは似たところがある。
営利誘拐殺人・保険金殺人では、吉展ちゃん事件以降、罪が重くなり、一人殺害でも死刑判決になるケースが増えた。このケースでは営利誘拐以上の、家族への脅迫の悪質性が考慮されたようだ。
被害者一名での死刑判決は、戦後13例あるが、いずれも悪質性が評価された。
アムネスティによると、世界全体でみた場合、死刑廃止国・執行停止国の合計は139カ国、残置国は58カ国となっている。先進国か否かに関わらず、死刑制度を維持している国が少数派であることがわかる。
とりわけ、世界をリードする立場の文化的「先進国」と評価される国家で、死刑制度を実行しているのは、日本とアメリカだけであるが、アメリカでは20州が死刑制度を廃止している。
韓国では1998年以降、死刑執行は凍結されている。この意味では、日本だけが文化的レベルが著しく劣っていることになる。
大衆レベルで、9割の人たちによって死刑制度が支持されているという意味では、日本の場合、事態は深刻である。
死刑制度を国家の道徳的視点から見れば、キリスト教の影響があっても、「罪を憎んで人を憎まず」といった姿勢こそ先進国に値する思想であり、罪を犯した者は処罰されるべきという報復思想は、明らかに後進的であり、文化程度の低い国家であると評価されることになる。
欧米にはキリスト教思想の影響によって死刑が否定されているという指摘もあるが、日本だって仏教では死刑を推奨しているわけではなく、実際に平安時代には死刑制度が廃止されたこともあった。
死刑を必要としたのは、仏教でも神道でもなく、実は国家運営上都合のよい思想として中国から移入された儒教(朱子学)だったのだ。
したがって、日本で多くの死刑執行が行われたのは、戦争大好きの武家政治の期間であった。明治以降も、この意味では儒教=武家の司法といってもよい。
日本における死刑制度は、法務省が「処罰感情」という名目で、「報復=復讐」思想を前面に押し出して、「国家が被害者の代理として加害者に報復してやる」という先進国としては実にお粗末な感情論によって推進しているわけだが、そもそも日本の司法制度の基礎を築いた牧野英一による刑法思想は、今よりもはるかに優れたもので、当時の植民地であった韓国や台湾においても、牧野式刑法論は、今なお受け継がれ、その後劣化してしまった日本よりも優れた刑法理念として運用されている。
http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/59/tuchi/tc.htm
牧野英一は、刑法を感情に堕すことはなく、報復主義に貶めなかった。刑法は報復処罰のためにあるのではなく、国家の運営、民衆の幸福の追求のためにあるのだから「罪を憎んで人を憎まず」の思想が根底にあった。
罪を犯す理由は、教育の乏しさにあるのであって、責任は国家にある。ゆえに刑は教育刑でなければならない。しかし、どうしても教育の対象にならず国家国民に害をなすものは死刑を用いるというような内容であったと思う。
死刑制度を残したのは、まだ明治が、江戸時代の儒教思想から抜け出せていなかったせいであろう。
現代司法は、明治に牧野英一が導入した教育刑思想を廃棄し、感情的な報復刑に後退させ、貶めている現実を恥ずべきである。
国家は感情で運営されてはならない。理性でのみ運営されなければならないのだ。
日本司法が、安易な報復刑主義=復讐代理人的な陳腐な刑法運用を行っている理由は、基本的に、官僚たち政治家たちが高圧的な「お上意識」に陥り、民衆に対して権威を振りかざし、恫喝的な姿勢で「従わねば殺す」という下劣な発想で対応しているからである。
こうして、権力を畏怖する愚かで臆病な大衆もまた、社会の規範を、「悪人は排除されるべき、殺すべき」といった下劣な感情主義に洗脳され、貶められているのである。
そこには、国家の未来、子供たちの未来を守り、よりよき社会を展望するという理性的発想は存在せず、為政者の権威と利権を守るために、「従わぬ者は殺す」という恫喝しか存在しない。
子供たちの未来を守ろうとする理性など、どこにもない、ただ復讐感情だけがある世界に恥ずべき下劣な思想で運営されている刑法なのである。
こんな愚かな政府であるなら、それを畏怖する国民も愚かに染まってゆく。
犯罪に対処する発想は、報復・復讐だけ、なるべく残酷に殺せば、それを恐怖して凶悪犯罪も減るだろうという、まるで安倍政権のトリクルダウン発想に似た陳腐な屁理屈を振りかざして、死刑制度推進に染まってゆくのである。
「死刑制度に洗脳された人々」
報復主義が世の中に蔓延していったのは、おそらく1990年代ではないだろうか?
私の知る限り、死刑制度を全国民の9割が支持している今と比較して、1980年代には、死刑制度を支持する国民は半分以下であったような記憶が残っている。
1980年代は、自民党と社会党の弁証法的なバランス政治が確立されていた時期で、民主主義や人権に関心を持つ人も多く、社会全体とりわけ底辺の社会が、今とは比較にならないほど豊かであったから、人々の心に余裕があった。
司法における処罰判例も、現在と比較すれば、ずっと緩やかで、人殺しでも7年程度の懲役ですみ、社会は処罰よりも「更生」に目を向けていた時代であった。
「人間というものは失敗するものだ」との経験則から、人の失敗を全身全霊で咎めまくる愚かな人物も少なかった。
船井幸雄が「短所是正法」を否定し、「長所伸展法」を推奨しはじめたのも、この頃だ。
失敗を咎めるだけでは何一つ良いものが生まれない。人間的長所を褒めながら失敗の原因を探って問題を解決すれば、やる気を失わずに前向きに事態を進めることができる。
「人は叱って意気消沈させるのではなく、長所を褒めて大きく育てるものだ」
というのが船井式長所伸展法の要旨であるが、刑事事件における犯罪者への対処法だって、基本的姿勢は同じでなければならない。
牧野英一は、犯罪を犯す理由は無知によるものだから、まずは教育から始めなければならないと教育刑主義の基本理念を提唱した。
牧野式では、刑務所は人格改善施設であり、さまざまな教育の結果、まっとうな人間として社会復帰させることが原則である。決して、人格も肉体も消滅させる場所ではないのである。
懲罰よりも更生こそが刑法の主眼でなければならなかった。
1990年以降、日本社会が大きく変わり、国家主義が戦前復帰の様相を帯びてきたのは、日本会議を結成した中曽根康弘や谷口雅春、文鮮明といった人物が、日本の復古主義、極端な右傾化を実現していったからである。
人々に有無を言わさず国家の命令に従わせ、戦争にあっては臆せずに命を投げ出す者が「期待される人間像」であり「愛国心の発露」であると考える連中だった。
このとき、彼らは日本人の洗脳を強く意識して大規模に計画を遂行していった。
大衆が理性をもって社会を判断することをやめさせ、感情だけで行動するような人間性になるような洗脳教育を行い始めたのである。
人々から思考能力を奪い「愛国心」だけをすり込ませる教育こそ彼らの理想であった。
例えば、正力松太郎が導入したプロ野球、そしてプロサッカーも、徹底的な勝敗優先主義にし、勝ち負けだけにこだわる発想を洗脳していったといえるだろう。
学校教育においても、合理的な根拠を思考する習慣をやめさせ、上から言われたことを忠実に実行する奴隷のような人間だけを評価するようになった。
幼いうちから競争社会に叩きこみ、人間に序列をつけ、いつでも序列上位に向かって無条件に突進するような盲目的人物こそ、国家の必要とする人材とされたのであり、競争に勝つことだけを至上とするプロスポーツは、そうした洗脳にうってつけだったのだ。
メディア、報道は、いつでも競争の勝者を賛美し、底辺で社会を支えている貧しい人々を人生の敗者であるかのように扱い、電通の支配するメディアに洗脳された人々は、本当に社会を支える大切な底辺の人々を軽視し、差別するようになっていった。
犯罪者は人生の敗者であり、社会の落伍者であり、惨めに死んでゆくのがふさわしいと考える者が増えた。
ましてや死刑囚に同情する者はいなくなり、残酷な死を願うだけの人々が増えた。
犯罪者を更生させるなど国家の無駄であると考える若者が増え、犯罪者だけでなく障害者にまで敵意を露わにして、障害者を殺戮する者まで現れたのである。
死刑制度に疑問を呈したり、反対する者(例えば私)に対しても、激しい敵意が浴びせられるようになった。
徹底的に嘲笑されディスリスペクトの標的とされるようになった。
失敗した人を更生させないで、徹底的に非難し、叩き潰す。社会を底辺で支えている者たちを蔑視する。自分だけが社会の利権にあぐらをかく人生を享受したい。
こんな若者ばかりになった日本社会が、この先、いったいどうなるのか?
本当の問題は、実は死んでからにあるのだが、次回に譲ろう。
死刑になっても人は肉体が死ぬだけで魂は死なないとすれば何が起きるのか?
・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり
死刑制度容認と天皇制は関連がある。
そもそも「冤罪」はどうするのか?死刑を冤罪で執行したら、誰の罪なのか。
そもそも死刑を宣告した判事や、死刑になるように調べた検事・警察官も「殺人罪」を行ったことになり、場合によれば、彼らも死刑になるべきではないのか?
そういうことを「天皇は完全無欠」ということで誤魔化し、それを死刑と行政は保管してきたのではないのか?
99パーセントの有罪率も「天皇とその臣下の無謬性」とかもあるだ。
まさに「天皇」という洗脳から抜け出ないと、日本人は、人間として、一市民として生きれない。
今はまだ「高級奴隷」である。
脱天皇・滅天皇制・死刑制度廃止。
お読みくださりありがとうございます。
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「このお金はたまたま入手した宝くじが高額当選したから入ってきたお金だ。つまりはあぶく銭だ。しかし、あぶく銭でも使いようはあります。あなた達からお金を借りた人の代わりにこのお金をわたしたいんだ。」
これをやってもなんの問題もないならばこんなことをいいつつお金を渡したい。
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>「このお金はたまたま入手した宝くじが高額当選したから入ってきたお金だ。つまりはあぶく銭だ。しかし、あぶく銭でも使いようはあります。あなた達からお金を借りた人の代わりにこのお金をわたしたいんだ。」
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> これをやってもなんの問題もないならばこんなことをいいつつお金を渡したい。
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同感。
書き込みありがとうございます。