忍者ブログ
故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
2024/04     03 < 10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  > 05
Admin | Write | Comment
P R
社会科学者の随想 より

上記文抜粋
・・・・・
敗戦そして引き揚げ体験にみえる「旧日本帝国臣民側の被害者意識一辺倒」,その影に隠してきた在日外国人問題の原点,在日韓国・朝鮮人の実在


【戦争における被害者意識に埋もれてしまった加害者意識】

【天皇が免罪されたのだから,ましてや臣民に罪はないし,罰を受ける筋合いもない】



 ①「春秋」(『日本経済新聞』2016年8月21日朝刊1面)

 70年前,こんな歌い出しの歌謡曲が大ヒットした。♪ 波の背の背に ゆられてゆれて…… ♪ 。田端義夫の「かえり船」である。どこへ帰るのか。もちろん内地だ。戦争が終わっても,簡単に引き揚げ船に乗れたわけではない。もの悲しい旋律が留守家族の胸を揺さぶった。

 ▼ 戦後50年,60年,70年……。メディアは切りのよい年だけ大騒ぎしがちだ。戦後71年の今年は「戦後疲れ」の感がなきにしもあらずだ。戦後80年をきちんと迎えられるか不安になる。そこで提案だ。今年は1946年,来年は47年。1年ごとにスライドして振り返ってはどうだろうか。記憶に残すべき戦後はたくさんある。
 補注)戦後が70年もつづき,さらに80年にもなって,それを迎えるといったふうな「戦後意識」が,日本社会・日本人にはありうる(?)というのである。たしかにそうであるかもしれない。そのことは,在日米軍基地をみれば即座に納得いくことがらでもある。戦後(敗戦後)はいまだに,少しも終焉していない。この認識は,日本国内のあちこちにある外国軍が専有する基地群をみれば,視覚的にも理解しやすい。

 ▼ 70年前のいまごろは新憲法づくりがヤマ場を迎えていた。大日本帝国憲法改正案が衆院を通過したのは8月24日。その後,貴族院で修正されたため,あらためて衆院に戻され,最終的に成立したのは10月7日のことだ。原案をつくったのはGHQ(連合国軍総司令部)だが,議事録を読むと審議過程で結構あちこち手直しされた。

 ▼ 12月にはソ連軍に足止めされていた樺太(現サハリン)からの最初の引き揚げ船がようやく函館港にたどり着いた。「かえり船」がロングセラーになったのは,外地に留め置かれた人がいかに多かったかの裏返しともいえる。戦後になってから異郷の土となった人の無念はいかばかりだったか。これも戦争の一断面である。

 --本日のこの記述から抽出する問題が,その「引き揚げ」である。敗戦したけれども,旧大日本帝国がまだ隆盛な時期,海外のあちらこちらに進出(侵出?)していった日本人・日本民族が,1945年8月15日以降は一気に,母国・故国である日本本土の4つの島に戻り出したのであった。

 また,敗戦後にできた日本国憲法については,これがまったくの「全面的に〈押しつけられた〉憲法」ではなく,旧憲法の改正として「審議過程で結構あちこち手直しされた」と説明されている。『日本経済新聞』2016年8月22日朝刊「〈18歳プラス〉池上 彰の大岡山通信 若者たちへ,核巡り揺れる憲法解釈-米副大統領の『失言』」でも,同様な指摘がなされていた。この解説記事から途中の段落を引用しておく。
    日本国内には,日本国憲法は米国によって押しつけられたという「押しつけ憲法論」があり,「だから憲法改正が必要だ」というのが,安倍晋三首相をはじめとする自民党保守派の持論でもあります。バイデン発言は,こうした論者の主張を裏づけるものでしょう。 (中略)

 日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)のマッカーサー最高司令官が,日本に対し憲法草案を渡して憲法改正を促したことは事実です。しかし,それを日本側が書きなおし,帝国議会で審議して日本独自の憲法にしたのも事実です。
バイデン副大統領画像
 出所)画像はバイデン副大統領,http://blog.goo.ne.jp/eh2gt72w/e/b6684184a75d29f0c582810cf941bbe1

 そうした議論が日本国内にあることを,バイデン氏はしっているのか,どうか。きっとしらないのでしょうね。この発言が日本国内にどんなハレーションを引き起こすかにも無頓着でしょう。実は,バイデン副大統領がおそらくしらない事実があります。

 「核保有国になりえないと謳った日本の憲法」というのは不正確なのです。というのも,日本の歴代内閣が,「防衛のための必要最小限の実力であれば核兵器をもつこともできる」という見解をもっているからです。
「安倍晋三首相をはじめとする自民党保守派の持論」は,ほかならぬ観念論にもとづく〔それも歴史に関する基本知識を欠いた〕日本国憲法の批判(非難)を,得意=基本とする立場に立っている。安倍晋三をはじめ同類の彼らは,日本国憲法に関する本格的な解説書を1冊でも目を通せば判るような「敗戦後史の事実」すら,実はしりたくないのである。

 自分たちの想いに対してであれば,なんでも都合よく歴史を解釈したい。だが,都合の悪い事実をどのように始末しておいたらよいのか,こちらのほうに関する詮議・対策が足りない。というか,そのために必要な知恵そのものがもともと備わっていない。


 ②「〈天声人語〉むのたけじさん逝く」(『朝日新聞』2016年8月22日朝刊1面)

 人類史を1日にたとえれば,戦争が始まったのは 23時58分58秒から。それ以前はずっと戦争などなかった。全人類が本気になりさえすれば,戦争は必らず絶滅できる。

 ▼ そう訴えて101歳まで走り続けたジャーナリストむのたけじ(本名・武野武治)さんが亡くなった。戦争の愚や人生の妙を縦横に論じ,味わい深い箴言(しんげん)を残した。

 ▼ 「終点にはなるだけゆっくり遅く着く。それが人生の旅」「死ぬ時そこが生涯のてっぺん」。1日長く生きれば1日なにか感じられる。老いをくよくよ嘆かず,人生を楽しもうと呼びかけた。
むのたけじ画像
 出所)http://blog.goo.ne.jp/hanamiduki87/e/0746207060cd3ae71e8293f27ee3e1f7
 ▼ 終戦を迎えた日,自身の戦争責任をとりたいと朝日新聞社を退社した。反骨のジャーナリストと慕われたが,「反骨はジャーナリズムの基本性質だ」と原点を見失いがちな後輩たちを戒めた。

 ▼ 戦中の新聞社であからさまな検閲や弾圧などみなかった,危ういのは報道側の自主規制だと指摘した。「権力と問題を起こすまいと自分たちの原稿に自分たちで検閲をくわえる。検閲よりはるかに有害だった」。彼の残した言葉の良薬は昨今とりわけ口に苦い。お前は萎縮していないかと筆者も胸に手を当てる。
 補注)このあたりは,最近における安倍晋三政権に対するマスコミの萎縮ぶりを示唆している。

 ▼ 「ボロを旗として」「定本雪と足と」「希望は絶望のど真んなかに」。著作を貫く一徹さは特筆に値する。沸き立つときも沈むときも集団に流されやすい日本社会で,揺れのないその言葉はなにより頼もしかった。ふるさと秋田で30年筆をふるった新聞「たいまつ」の名そのままに,戦争絶滅の願いに全身を燃やしつづけた。

 --同じ日の朝日新聞社会面には「むのたけじさん死去 ジャーナリスト 101歳,『戦争絶滅』訴え」という見出しの記事が出ていた。なかほどの段落からつぎの部分を引用する。この段落に付けられた小見出しは「従軍原点・つねに弱者の立場」であった。
    むのさんは,終戦の日の8月15日を特別な日と考えていなかった。「365日の生活の中で考えつづけないといけない」。その日おこなわれる黙祷(もくとう)にも反対で,「声を張り上げよう」と訴えた。新聞記者時代は中国やインドネシアなどに従軍。普通の人びとが,相手を殺さないと殺される現場を取材しつづけた。「臣民」の名で「やらされた」人ばかりで,「やった」人がいないことが戦争責任をあいまいにし,いまも近隣諸国と緊張関係が続く原因だと指摘した。
 この引用中で止目するのは『「臣民」の名で「やらされた」人ばかりで,「やった」人がいないこと』であり,だから『戦争責任をあいまいにし,いまも近隣諸国と緊張関係が続く原因だと指摘した』というところである。それではなぜ,旧日本帝国の敗戦後においては,そういう歴史の展開になっていったのか。それは「終戦」といわれる「敗戦」後の,日本社会の意識構造のありように原因があるとみられる。

 1941年12月8日,日本軍が真珠湾を奇襲攻撃した戦果は,同月19日なってつぎのように報道されていた。大本営発表がまだ事実にもとづいていたときの新聞報道である。この半年あとからは大本営発表はデタラメの代名詞の時代になるが。(画面 クリックで 拡大・可)
『朝日新聞』1941年12月19日1面

 ③「〈戦後の原点〉帝国の解体 植民地支配の記憶の中で」(『朝日新聞』2016年8月28日朝刊20・21面見開き画面での記事)

 “日本の歩みを振り返るシリーズ「戦後の原点」” は今回,植民地帝国の解体をとりあげます。海外の版図を失った日本は復興と経済成長をなしとげますが,その一方で戦争と植民地の記憶は風化していきました。しかし,過去は容易に消え去ることなく,対話を迫りつづけています。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可だが,さらに手元で,画像の比率を拡大してみれば,ほぼ鮮明に写る)
『朝日新聞』2016年8月28日朝刊20面21面画像
註記)この画像資料の題名は「植民地支配の記憶の中で」。
なお,引き揚げ者の「総数」では,前後する記述中と
数値で食い違いが出ているが,ここではあえて詮索しない。

 1)軍艦島めぐる溝,埋めたくて-韓国-

 繁華街には「居酒屋」の看板があふれ,書店には日本の作家の翻訳本が並ぶ韓国。だが,1910年から1945年まで続いた植民地支配の負の記憶は,色濃く残っている。名前を日本風に変えさせられ,多くの人たちが戦争遂行のため意思に反して動員された苦しみは,若い世代にも教育や報道を通して伝えられている。ソウルの三育大学で日本語を学ぶ金 江(キム・ガン)(25歳)もそうした1人である。

 高校時代,日本のテレビドラマ「ドラゴン桜」をみて日本に興味をもった。それまで日本は悪者という認識だった。だが,日本文化にはまり,これまでに20回ほど訪日した。コンビニに入ると,店員がおつりのお札を数えながら渡してくれる親切さに感動した。「実際に接すると,悪い国という気がしなかった」。日本をどう考えたらよいのか。頭が混乱した。

 昨夏,日本で開かれた交流プログラムに参加してみた。日韓の大学生約30人が共同生活し,経済問題から食文化まで英語で語りあった。プログラムが終わるころには,「人として会えば,うまくやっていけるんだ」との思いに満たされた。ところが,思い出の写真が,日本の友人のフェイスブックにアップされて,驚き,戸惑った。そのなかにプログラムの出発地長崎市の軍艦島(端島炭坑)で撮った写真があった。笑顔でVサイン。韓国側の合流前,日本側参加者だけで訪れていたのだった。
(画面 クリックで 拡大・可)
『朝日新聞』2015年5月9日朝刊3面 『朝日新聞』号外2015年5月4日
 註記)左側は『朝日新聞』2015年5月9日朝刊の記事から借りた「写真」。右側は,5月4日に『朝日新聞』が出した号外である。この号外は軍艦島の写真をとくに大きく配置していた。
 軍艦島は「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして昨〔2015〕年,世界文化遺産に登録された。韓国は朝鮮半島出身者が強制労働させられた場所が含まれると反発。韓国内でもさかんに報道されテレビで「監獄島」と紹介されるなど,負の歴史の象徴として一気に認知された。生存者もメディアに証言している。

 崔 璋燮(チェ・ジャンソプ)(86歳)は10代半ばで軍艦島に連れてこられた。危険な作業で,天井が崩れて埋まったこともある。食事は主に豆の搾りかすだった。取材に「思い出したくもない恨めしい島だ。そんな遺跡を観光地にして利益をえるなんて,あってはならないことだ」と話した。

 日本政府は,労務動員は日本人にも適用された国民徴用令による戦時徴用で,当時は合法だとの立場だ。世界遺産の登録では,日本が見学者らに「歴史を理解できるような措置を講じる」と約束し,事態を収めたが,日韓の認識のギャップはあまりに大きい。軍艦島での写真をみたとき,金は,仲良くなった日本人の学生のことを,「彼らは歴史をしらないだけで,悪気はないんだ」と思ってはみたが,「距離が縮まった」との感覚は揺らいでしまった。
軍艦島白黒写真
出所)軍艦島の白黒写真,感じがよく表現されている1葉,
http://okamuseum.seesaa.net/category/22115853-1.html

 今〔2016〕年8月,今度は韓国で開かれた交流プログラムで,金は思い切って,軍艦島を発表のテーマに選んだ。両国での軍艦島へのイメージと主張を整理して伝え,意見を交わした。議論は,予定の2時間がきても尽きなかった。しかし,未来志向の関係を築くには,まずは客観的な資料を探すべきだという点と,「情報案内所を設けて,両面の事実をしらせるべきだ」という提言には,参加者の広い合意がえられた,と振り返る。

 「昨年この発表をしていたら,韓国側の参加者もみることになるフェイスブックに軍艦島の旅行写真は載らなかったかもしれませんね」。溝は完全に埋まることはないだろうが,すこしずつ埋めていくことはできる,と考えている。

 --軍艦島の向こう側になにがみえるのか? 

 2)「孤児はあなたたちの中にいる」-中国-

 敗戦前後の中国大陸の混乱のなかで,親と生き別れた多くの日本人の子どもたちがいた。中国の養父母に育てられた彼ら残留孤児たちは,日中のはざまに生きることを強いられた存在だ。昨夏,日本に永住帰国を果たした孤児らが,戦後70年を機に養父母への感謝を伝え,日中友好に役立ちたいと,かつて暮らしていた中国を訪れた。「日本人は嫌いだ。父を日本人に殺された」。慰問先の北京市内の高齢者施設で,1人の高齢の中国人男性が大声をあげた。孤児たちは下を向き,会場は静まり返った。
= 参 考 画 像 =

 ここに紹介するのは,満州国出身の漫画家,赤塚不二夫が体験した引揚げの場面,その一コマである。指摘するまでもないが,当時の苦労を思いだして赤塚が描いた『マンガ:イラスト』である。

 不二夫流にいうと,母親と4人の子どもが大きなリュックサックを背負って,引連船に向かうときの,こういう格好などもあったのだ!(この図は,中国引揚げ漫画家の会編『ボクの満州-漫画家たちの敗戦体験-』亜紀書房,1995年,37頁より)。
赤塚引き揚げの姿 
 この絵の下には,こういう解説が付いていた。

 「でっかいリュックを背負って,おふくろにしっかりとつかまって奉天駅〔現在の瀋陽駅〕まで歩いた」。

 「おふくろの服にぼくがしっかりつかまって,そのぼくに妹の寿満子(すみこ)がつかまって,綾子を背負った寿満子に宣洋(のりひろ)がつかまって歩いたね」。

 日本に引揚げて,綾子を「大和郡山に連れて帰ってきて,寝かせて30分後にフゥーって死んじゃったの」(中国引揚げ漫画家の会編,前掲書,38頁)。
〔記事本文に戻る→〕 京都市から参加した残留孤児,金井睦世(75歳)の心には,子どものころに抱いた罪悪感がよみがえった。親族が日本人に殺された同級生が多く,学校で旧日本軍の行為を伝える映画や授業があると頭が痛くなった。「自分が日本の罪を背負っているかのように感じた」あのときの思いだった。孤児たちのほとんどは敵国の子どもとしてさげすまれ,いじめられた経験がある。日本が中国を侵略した歴史を国の代わりに背負わされた。

 しかし,日本では旧満州国や残留孤児の存在さえしらない人が少なくない。日本語が不自由な彼らが口を開けば「どこの国の人」と聞かれ,「中国から帰って来た残留孤児」と答えても,けげんな顔をされる。金井はこういう。「日本の人たちにはもっと戦争の歴史をいってほしい。そうでないと私たち孤児もいないことになってしまう」。

 東京都内に永住して19年の宮崎慶文(70歳)は孤児の歴史をしってもらおうと演劇3部作を制作中だ。孤児が生まれた経緯を描く「孤児の涙」と養母の愛を伝える「中国のお母さん」はすでに完成,公演を果たした。いまは「私はだれですか?」にとり組む。

 日中政府が認める約2800人の孤児のうち半数以上は身元が未判明だ。老境を迎えつつある現在も,父母や自分の名前さえわからない。その心の叫びをせりふとして,脚本につづる。「父母を返して」「名前を返して,戸籍を返して」「孤児はあなたたちの中に,あなたたちのそばにいる」。「帝国の記憶」が欠落した日本社会で,自分たちの存在と戦争がもたらしたものを懸命に訴えている。

 --残留孤児の存在を,大東亜戦争の本質面としっかりむすびつけて考えられる人は,どのくらいいるのか? 敗戦後の日本国内には戦災孤児という子どもたち(浮浪児とも呼ばれていた)が大勢いた。結局のところ,あちらも不幸,こちらも不幸であることに変わりはなかったものの,その不幸のかたちはそれぞれに異なっていた。当時,双方の境遇に追いこまれた人たちは,現在生きていてもすでに相当の高齢になっている。

 3)ふつうの人の言葉,残す-南洋群島-

 強烈な日差しと,湿った風。観光地として人気のあるサイパンやパラオなど赤道以北の南洋群島は,敗戦まで約30年,占領・委任統治で日本が支配していた。開拓民が入り,日本人街ができた。太平洋戦争では米軍との激戦地となり,サイパン最北端の崖からは,民間人がつぎつぎに身を投げた。

 写真家の橋口譲二(67歳)がこの地を訪れたのは,1996年のこと。日本人と日本をしろうと国内を歩き,写真を撮ってきた。戦後も日本に戻らなかった人や,帰国しても再び戦前に暮らした土地へ戻った人がいるとしり,取材していた。
ひとりの記憶表紙画像
 南洋のほかインドネシアやタイなど11の国や地域で暮らす86人から話を聞き,写真を撮った。うち10人分の話をまとめた単行本『ひとりの記憶』を今〔2016〕年1月,文藝春秋から出版した。最初の取材から20年経っていた。

 橋口がサイパンで会った金城善盛は当時73歳。島でサトウキビを栽培していた家族のなかで,兵隊で日本にいた自分だけが生き残った。「骨も拾っていないから」と1970年に,妻と3人の子を日本に残して故郷へ戻った。10年のつもりだったが「日本に帰ったって仕事なんかない」と考え,とどまった。日本の家族から絶縁状が届いたという。

 金城が生業としている観光ガイドの仕事に同行してみると,自身と戦争のかかわりを口にしない。「自分の不幸を他人に認識してもらおうなんて,できない」という答えが返ってきた。「歴史は時の権力者によって書かれる。ふつうの人たちの言葉と姿をそっと差し出して記録に残したい」と橋口。ありきたりの戦争体験談にならないように,その人の雰囲気や暮らしのリズムに目を凝らす。「あなたのことを教えてください」と向かいあい,その日の朝ご飯を必らず聞いた。

 橋口と同じように,人生に戦争がはさまれた人たちに流れた時間を書き留めたのが,シンガー・ソングライターの寺尾紗穂(さほ)(34歳)である。現地で日本語を話すお年寄りから話を聞き,沖縄や八丈島にゆかりのある人たちを訪ね,2015年に『南洋と私』を刊行した。
寺尾紗穂画像
出所)https://camp-fire.jp/projects/view/1819

 きっかけは,「山月記」でしられる戦前の作家・中島 敦だった。南洋に勤務したことのある中島の全集を読んで,寺尾は現地の子どもが日本語で学ばされていたことをしる。「どうしてしらなかったのだろう」。衝撃を受け,調べ始めた。いまはパラオについて執筆する。「南洋を『楽園』『親日』とくくる見方は一方的だ」と指摘する。

 国に殉じよと個人を呑みこんだ戦争が終わったあと,個人が個人をとり戻して生き直すことは戦後の原点だったはずだ。橋口と寺尾。世代の違う2人だが,ともに南洋からその戦後の原点を問い直している。
 補注)第1次大戦において日本は連合国側から参戦し,ドイツに宣戦布告,戦った。その結果として日本は1922〔大正11〕年,旧ドイツの植民地であったニューギニアの地域のうち赤道以北を委任統治することとなった。赤道以南地域はオーストラリアおよびニュージーランドが委任統治した。

 4)「日本に翻弄」李 香蘭に思い重ね-旧満州-

 日本は1932年,中国東北地方に傀儡(かいらい)国家,満州国をつくった。中国人からすればとうてい受け入れられない国だったが,1人の日本人女優が懸命に「日満親善」を演じ,その澄みわたるような歌声と美貌が中国人の心をとらえた。「李 香蘭」として活躍した山口淑子(1920~2014年)だ。遼寧省瀋陽近郊で生まれた。父は国策会社の南満州鉄道で社員に中国語を教えていた。その父から中国語を学び,流れるように話せるまでになった。

 1938年に満州映画協会の女優としてデビュー。中国人女優というかたちで多くの映画に出演,歌手としても大人気だった。戦後,「中国人で民族を裏切った」罪で処刑されかかったが,日本人だと分かり,釈放され帰国した。日本の国策宣伝を担った象徴的な存在であるにもかかわらず中国での評価はいまでも高い。

李 香蘭の半生表紙 「中国東北部の年配の中国人はみな,その美しさを覚えていますよ」。山口と藤原作弥(79歳)の共著『李香蘭-私の半生-』(新潮社,1987年)を中国語に訳した林 暁兵(70歳)は話す。1988年に遼寧省で出版された中国語版は当時としては異例の12万部に上ったという。

 林は「日本の中国侵略を潔く謝罪した日本人」と山口を評価する。後年は日本のテレビで活躍。参院議員を3期務めた。1992年には日中国交正常化20周年を記念して,その半生を描いたミュージカルも中国で上演された。死去のさい,中国外務省のスポークスマンは「戦後,中日友好に積極的な貢献をした」と哀悼の意を示した。

 日本の植民地だった台湾でも人気は高かった。ドキュメンタリー映画『李香蘭の世界』を昨〔2015〕年制作した台湾人監督,陳メイ君は「ずっと両親がファンだったから,私も小さいころからしっていた」。台湾を舞台にした映画『サヨンの鐘』の挿入歌「台湾軍の歌」は,悲哀さと懐かしさをもって,戦後も長く歌われたそうだ。

 林は「中国人にとって,李 香蘭とは(日本に)利用された人なのだ」。日本の侵略に翻弄された中国の人びとは,彼女の姿にみずからの思いも重ねたのではないか,という。

 5)日本の降伏時,660万人が海外に

 1945年,ポツダム宣言を受諾して日本が降伏したとき,軍民あわせて約660万人の日本人が海外にいた。敗戦により,日本の主権の及ぶ範囲は,本州,北海道,四国,九州と周辺の諸島に限定された。アジアに広がった勢力範囲は,急速に収縮した。翌年に入り,旧支配地域にいた人びとの引き揚げが本格化した。
 補注)この660万人という数値は,戦争によってすでに死亡していた軍人たちを含まないものと受けとっておく。戦争では軍人(軍属も合わせて)だけで約230万人が犠牲者になっていた。
第2次大戦犠牲者図表
出所)http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5227.html
(画面 クリックで 拡大・可)

 朝鮮半島や旧満州,南洋,そしてアジアに広がった戦場から。飢えや病気に苦しみ,なかには逃避行で自決に追いやられた人びともいた。1946年は植民地を支配した帝国が戦後日本へと移行した原点の年だった。1970年後の視点で振り返ると,それは日本と周辺諸国との間に,より深い溝が刻まれた年でもある。米国の占領下で復興を果たし,日米安保体制のもとで高度経済成長の波に乗っていく日本と対照的に,朝鮮半島をはじめとするアジアの国々は,戦争など時代の荒波にもまれつづけた。

 1949年夏,当時の吉田 茂首相は,占領軍最高司令官マッカーサーあての書簡で,すべての在日朝鮮人の本国送還を望む考えを伝えた。食糧事情の悪さと犯罪率の高さを理由に挙げている。そこには過去を切り捨て,白紙から国造りを考える意識がうかがえる。

 その後,朝鮮戦争は日本経済を復活させる「朝鮮特需」につながり,東南アジアへの賠償も日本の投資や市場獲得と結びついた。実利優先,現状肯定の雰囲気のなかで,戦争や植民地支配の過去はむしろ忘却されていった。経済大国への道は,和解や相互理解を伴うものではなかった。(記事引用終わり)

 6)昨日〔2016年8月28日〕の記述内容との関連

 さて,昨日〔8月27日〕の本ブログにおける記述のなかには,以上に深く関連する〈ある1節〉があったが,これについては少しあとで再言することにし,さきに記述しておくことがある。

 --敗戦のときまで海外に居て暮らしていた日本の人びとは,その後,そのほとんど大部分が引き揚げという「歴史の体験」をさせられるハメになっていた。だが,日本の本土上においては,その逆流の動きもあった。しかも,問題としてのこの「歴史の事実」にはあまり触れたがらない。

 やはり昨日の記述中に出ていた表を参照してみよう。これは朝鮮(韓国)関係の「1国分だけでの数値」である。2百万人前後は日本国内に居たと推定される「朝鮮人のうち(約)140万人」ほどが,それもそのほとんどが “いまの韓国の地域” に戻ったのである。
在日人口推移
 大日本帝国は完敗した。軍隊が敗北しただけでなく,国民(臣民・庶民・大衆)の日常生活までもが,じかに戦争に巻きこまれ,家の男たちの多くが戦争に引っぱられ,最後の時期になると,海軍では戦艦武蔵や大和の乗員(戦闘員)には,40歳前後の海軍兵曹(上等兵・一等兵・二等兵の階級のことだが,この兵隊の階級では〈老兵〉に相当する人たち)までも,召集を受けて乗りこんでいたという。

 要は,日本人・民族はみなが,あの戦争でひどい目に遭ったというわけである。敗戦を機にその想いはますます強まるばかりであった。それでも,わが夫・わが息子などが,戦場から生きて還ってきて〔引き揚げてきて〕くれれば,当時なりにまだまだそれだけでも妻や母にとっては,たいそうな「幸せ」であったといえなくもなかった。

 日本本土は,オキナワ県以外は戦場にはならなかったけれども,さんざん空襲を受け,海岸近くの工業地帯ではアメリ海軍戦艦からの艦砲射撃もくわえられ,ヒロシマ・ナガサキには原爆まで落とされた。この敗戦国となった日本の「残された」国土に,当時海外に出ていた660万人もの同国人が引き揚げてきたのである。

 敗戦直後の日本は食いものにさえことかく時期が何年もつづいていた。戦時体制期においては,朝鮮(韓国)から大勢の男たちが日本に大勢駆り出されたり:強制連行されたりして,強制労働に使われていた。だが,戦場で死ぬことなく母国に帰れた〔引き揚げられた〕日本人側にしてみれば,敗戦を契機に,自分たちの動きとは逆方向に朝鮮人の人口が流れていた事実じたいを,まともに観察できる余裕などなかった。

 ともかく,自分たちはあの戦争の被害者なのであり,ひどい目に遭った,辛い目を味わったという被害意識ばかり高まっていた時期が,昭和20年代前半期における日本国民の平均的な意識であった。

 1950年6月25日,北朝鮮が韓国に戦争をしかけてきた。隣国の半島が戦乱状態に陥ったけれども,日本の経済はそれまで青息吐息であった産業経営には,千載一遇の好機が与えられた。特需が惹起され,好景気が到来した。

 経済企画庁『経済白書-日本経済の成長と近代化-』1956年がその結びで,1955年を区切りにして「もはや戦後ではない」と書いたところ,その後,この言葉が流行語になった。「1人当りの実質国民総生産(GNP)」が,1955年には戦前の水準を超えたというのが,そのように解説した事情・理由であった。

 さて,本日の記述をここまでおこなったところで,つぎのような昨日の記述を再掲する。
 社会学者の樋口直人・徳島大学准教授は「西欧では移民や難民など最近移ってきた人々が排斥されるが,日本で最近台頭してきた排外主義では,100年前から同じコミュニティーで暮らしてきた人が対象になるのが特徴だ」と分析する。
樋口直人画像
  出所)http://blog.goo.ne.jp/ngc2497/e/0e0890e0bc65bb7a1a40b0dbcbd3ca11
 戦前,日本は朝鮮半島で同化政策を進め,戦争遂行のための動員もした。敗戦後は,国籍選択の機会を与えぬまま同地出身者から日本国籍を奪ったかたちだ。「元国民」とどう共生するかの課題はいまに残されている。

 〔とりわけ〕「直視したくない歴史を体現しているからこそ,在日の人びと排斥対象にされる」と樋口さんは話す。歴史をめぐる首相談話も変容した。

 韓国併合100年にあたる2010年の菅 直人首相談話は「36年に及ぶ植民地支配」と明記し,反省と謝罪を述べた。戦後70年の安倍談話は,「植民地支配」を批判しながらも,誰がどこで支配をおこなったのかは明示しなかった。
 欧米における他人種差別や異民族偏見は,盛んに意識・議論される日本であり,学術的にも各種の議論がおこなわれている。しかし,ことが在日韓国・朝鮮人の問題となると「まるで他人事:よそごとみたいな観察の姿勢」を採る日本人が少なくなかった。

 樋口直人が触れたように「直視したくない歴史を体現しているからこそ,在日の人びと排斥対象にされる」日本社会のあり方:対応・姿勢が,いまだに問題の基盤として残されている。それは,けっして好ましくない社会的姿勢や意識のあり方である。

 けれども,いまごろになってもなおあらためて,あるいはまた新しく登場するかたちで,なにやかやと「在日差別の動向」が,どす黒い様子にまみれながら,日本社会のなかで渦を巻いてもいる。自分たちが歴史から受けてきた被害を切実に訴えたいのであれば,自分たちの歴史が同時に創ってきた「加害の歴史」にまで思慮の及ぶ歴史観が確保されてこそ,均衡のとれた事態の認識も獲得できるはずである。

---------------------



・・・・・
・・・・・
抜粋終わり

>「直視したくない歴史を体現しているからこそ,在日の人びと排斥対象にされる」と樋口さんは話す。歴史をめぐる首相談話も変容した。



直視すれば、戦いに勝てる。

直視しないと、敗北する。


日本は敗死したいのか。



お読みくださりありがとうございます。
PR
Comment
Name
Title
Mail(非公開)
URL
Color
Emoji Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
Comment
Pass   コメント編集用パスワード
 管理人のみ閲覧
<< BACK  | HOME |   NEXT >>
Copyright ©  -- 渾沌堂主人雑記~日本天皇国滅亡日記 --  All Rights Reserved

Designed by CriCri / Material by White Board / powered by NINJA TOOLS / 忍者ブログ / [PR]