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子牙山遍照院 渾沌堂主人雑記  {大日本国終焉日記 }

半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

やはり「天皇制」こそ、日本の最大の悪である。「人間の不平等」は社会を破壊するボディーブローである。

シュタイナーから読み解く神秘学入門  より

上記文抜粋
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ネット情報の活用法 その1350

「しくじり先生」という番組は毎回見ているのだが、「日本のお笑いはオワコン」といった脳科学者の講義をみた。自分でお笑いをつくりだす能力に著しく欠ける私がお笑いを評論するのもお笑い沙汰なのだが、日本のお笑いがオワコンなのではなく、テレビ局が上下関係を重視して、時の政権に忖度してお笑いを自粛するのがオワコンといいたかったのだろうと、解釈した。

 改憲の答弁に「読売新聞を読んでください」といったアホ総理は、泣きじゃくって世界的に有名になった地方議員ほどのお笑いの北のミサイル並みの題材なのに、何も取り上げないのは非常に残念である。

 せめて、「読売新聞を読めない人はどうすればいいのでしょうか?」とか、「漢字が読めない総理はしっかりと読んでいるのか、ここでテストさせてください」との切り返しがほしいと思うのは私一人だけだろうか?

 憲法よりも御用ゴミ売り新聞が大切なアホ総理の無責任発言は、フランス革命の要因となった「空腹ならケーキを食べればいいじゃない」というマリーアントワネットの発言とされた人類の最低おバカ発言として記録されるだろう。

 脳科学者は物質的な脳でしか話せないので、自称霊科学者であるつもりの私が霊魂の解釈から弁護しようと思う。他の人を笑わせるのは苦手だが、他の人と違う考えをするのは得意だからである。

 日本では、権威に歯向かったり、厳粛な空気の重い雰囲気を壊すお笑いはタブーである。それは葬式で悲しくなくても、悲しい表情をしなければならないし、決して歯をみせてはいけないのと同じである。

 これはお笑いだけではなく、この国では古くから、お上に盾突くことはタブーで死罪とされてきたからで、特にキリスト教が禁止されたのは、古くからの伝統的な教えを壊されるのを何よりも怖れたからである。

 反抗者を死罪にして斬首しても、あの世から祟られるのを畏れて、鎮魂するために弔いの神社を建てるほどおそれてきた国民性といってもいいだろう。

 それはお上に盾突いて死罪になった代表というべき平将門のイメージが独り歩きしているのもそのせいといえるだろう。

 この国には、相手を考える思いやりという美徳があるが、それが行き過ぎて騙すゴミのように権威の提灯持ちを進んでやったりして、個人攻撃や弱い者虐めをするのをよくみかける。

 そして、この国には、業界にそれぞれ天皇がいて、その悪口や茶化しを公にいうことは侮辱ととられる風習がいまだに根強く残っているのである。つい最近もそれを言った芸人の発言が問題視された。

 ナイナイの岡村氏が、茶道をお笑いにしようとして、茶道の先生から説教されたというような本人は真剣だが、お笑いの話もあるし。

 つまり、お笑いの問題ではなく、そのようなお笑いの需要が少なく、お笑いに寛容ではなく、お笑いがまだ平等に市民権を得ていないのが問題なんである。

 比較の問題ではないが、しかしまだ北よりも遥かにマシかと思われるが、北化しているようにみえる。

 さて、日本のお笑いについて考える話だったが、何度もいうが、私は人を笑わせるのは苦手だが、お笑いをみるのは得意というか大好きなので、コメディは人並み以上にみてきたという自負心はある。

 日本ではやはり三谷幸喜氏が最高のお笑いクリエイターに思うし、彼の作品はほとんど見たし、笑わされた。北野映画では、子どもを連れて親に会いに行く作品は大笑いしたし。他にも漫画から出たテルマエロマエも面白かったし、最近のピコ太郎の世界的ヒットでもわかるように、日本のお笑いはオワコンではなく、まだまだ可能性が眠っているだけで、日本の国内では需要が少ないのが問題なんだと思う。

 人がなぜ笑うのかといえば、人智学からわかるが、笑うことで自尊心を高めるからである。笑いの簡単な例を出せば、ライターで火をつける文明人が、マッチで火をつける非文明人に優越感をもつようなものだからである。

 この国には、つねに上層が下層を笑う優越感をもたないといけないようなルールがある。だから、笑いも、上の人が笑ってから、下が笑うというような、笑いにも上下関係があり、米国のテレビから始まった観客の笑いを入れる技術を、巧く日本に輸入してから、この国にも笑いの需要が増加したといえるだろう。

 しかし、昭和の家庭では、ドリフの笑いについては下品で、家庭教育に影響があるとして、子どもには見せない家庭も多かったし、そもそも笑いを下品と上品に見分けられるほど大衆がお笑いに精通しているわけでもないほど、お笑いの需要が低レベルであったことは確かである。

 子どもにとってみれば、親から禁止されるほど密かに闘争心がわくともいえ、隠れてほとんどがみていたようである。だから、当時の子どもは隠れキリシタンならぬ、隠れドリフタンなんであった。逆に文部省選定など糞くらえという子どもも多かった。


 だから、この国の住人がお笑いを求めないのが問題で、上下関係を重視しすぎて、過労死になるよりも、もっと生活にお笑いを求めるべきに思われる。

 脳科学者の舌足らずで、誤解を生んでいるが、ピコ太郎のヒットでもわかるが、この国だけに拘らずに、海外にはお笑いの需要があるはずなので、特に米国だけでなく、お笑い需要開拓のために、南米やアフリカなどに行って、お笑いで商社をつくって、お笑い外交してもいいのではないか、と思うわけである。

 それには特に、海外での日本人のイメージというのを考えるべきに思う。昔、米国の「サタデーナイトライヴ」というお笑い番組で、ブルースブラザースで有名なジョンベルーシが、サムライデリカテッセンっていうのをやっていたが、見る人によっては、日本人を茶化していると捉えるかもしれないが、私は大好きだったし、大笑いした事がある。

 日本人を笑うだけでなく、エディマーフィがいかにもアフリカからきたイカレタ恰好のミュージシャンに扮し、「白人を手当たり次第殺しまくる」と過激な音楽を歌ったりするのもあったし、とにかくサタデーナイトライヴは過激さを売り物にする笑いだったのを記憶している。

 サタデーナイトライヴではないが、日本人のイメージは、メガネに出っ歯でカメラをもって集団で歩くというのもあったが、それは、日本でも、ポンチョをきたメキシコ人や、昔の長髪の丁髷をした中国人の「○○アルネ」の言い方など、どこの国にもある虚飾で、ゆるキャラの一種と考えればよくわかる。

 しかし、この国では白人の真似をするときに鼻を高くする恰好をするとクレームが入るし、どうもお笑いへの寛容さに乏しいように思える。

 確かに人生を真面目に生きるのも大切だが、休憩時間というのも必要で、神様は休息日を指定しているわけで、何より、笑いは、人間だけに与えられた特権なのだから、動物は笑いにみえる鳴き声もあるが、笑っているわけではないのだから、人間に生まれたのだから、大いに笑いを楽しむべきである。

 私自身は、もちろん、日本の笑いも大好きだが、特に80年代の米国の笑いが好きで、ファミリータイズのような、古くは「奥様は魔女」のソフトな笑いで育ったので、米国の多様な笑いを求める需要の違いなどを比較してみるのがよいと思う。

 米国には差別的で過激な笑いもある位に自由で、それは芸人の問題というよりも、国民性の問題にあると思う。日本人は笑うのをまだどこかハシタナイと思っている節があるし、職場で笑い声は禁止な雰囲気もある。

 それに関東は保守的で、関西の進取の気性を嫌い、関西弁のせいか、関西人をどこかお笑い芸人のようにみるイメージもどこか残っている。東西のお笑いの違いは明らかである。東京は特に笑いに慣れていない。

 というわけで、笑いについては、米国との比較がわかりやすいので、パックン氏の話が参考になるので以下に紹介する。

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 「まず名刺を配って」マルチタレント・パックンのキャリアを支えた日本の慣習
 

 http://logmi.jp/126289


 具体的には、アメリカのお笑いには3つの基本形があります。政治的なネタ、性的なネタ、そして、田舎者のネタです。時々、奇跡的にそれらが一緒になることがあります。ビル・クリントン政権のことです。3つの条件が完璧にそろったネタです。しかし、日本ではこれらのネタは規制されています。性的なジョークを言ってはいけません。政治的なジョークもダメです。これらのネタを生業とする芸人は、非常に少ないです。彼らは、小さなステージで、観客を前にしてネタをします。テレビに出ることはありません。その理由は、後ほどご説明します。



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 ピコ太郎のPPAPは足し算だが、引き算版、もしくは入れ替え版もでてきてほしいと個人的には思って期待している。

 例えば、爆笑問題が、漫才でやっていた北のキムと米のトラを交換しても、同じって感じで、あんまり需要ないかもしれないが。昔、ミュージシャンのPVで、米のレーガンと、ソ連のフルシショフだったか、プロレスさせたのもあったしなぁ。お笑いサーカス、オリンピックなんてあっていいと思うが。




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抜粋終わり

>そして、この国には、業界にそれぞれ天皇がいて、その悪口や茶化しを公にいうことは侮辱ととられる風習がいまだに根強く残っているのである。つい最近もそれを言った芸人の発言が問題視された。

天皇制こそ、日本列島の最大の癌・悪である。

その除去が、日本人の再生の最短距離である。

>この国には、つねに上層が下層を笑う優越感をもたないといけないようなルールがある。だから、笑いも、上の人が笑ってから、下が笑うというような、笑いにも上下関係があり、米国のテレビから始まった観客の笑いを入れる技術を、巧く日本に輸入してから、この国にも笑いの需要が増加したといえるだろう。


上層を下層を笑うって、「馬鹿にする笑い」だと思う。

それって、「対等」でないので、結局は糞みたい・・・お追従か侮辱になる。それは個々人を傷つけ社会を破壊しかねない。

その一辺倒になりがちなので、「日本のお笑いはオワコン」っていうのは「危機感」からいうと間違いではない。
http://www.geocities.jp/kaysak864/liuxiu/42.htm 

上記文抜粋
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平等思想の源泉・戦場とユーモア

 こうした劉秀の平等観はどこからきたのか。
 一つは戦場である。戦場では皇帝といえども将軍に従わなければならないとされているのだ。皇帝であるより、将軍として戦場に生きた劉秀は、法律に将軍の姿を見て、そこに万人が従わなければならないと考えたのかもしれない。
 優れた将軍は兵と同じ待遇でなければならないとされる。食事も兵士と同じでなくてはならず、すべての兵士が休むまで休んではならないのだ。そしてその通りに、皇帝でありながら兵士と同じく自ら武器を取って戦ったのが劉秀である。皇帝であるよりもまず将軍として生きた劉秀は、平等であることこそが人の能力を最大に発揮できることを知っていたのである。

 またこれは劉秀自身の天性も関係する。ジョークを好む劉秀であるが、ジョークというものは、言う人間と聞いて笑う人間が平等であることを前提とした行為だからである。怖い上司のジョークでは追従して笑うことしかできないし、ネタにされた人間が反論できない場合も、ジョークは嫌がらせや皮肉になってしまう。ジョークを心から楽しむためには話す相手と対等でなければならないのである。劉秀にとっては、自らが楽しく生きるため万民は平等でなければならないのである。

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抜粋終わり
{太字は私の編集}

>一つは戦場である。戦場では皇帝といえども将軍に従わなければならないとされているのだ。皇帝であるより、将軍として戦場に生きた劉秀は、法律に将軍の姿を見て、そこに万人が従わなければならないと考えたのかもしれない。


日本の天皇は戦わなかった。ので、「平等を強制される戦場」に立たなかった。
天皇も名将っていないよね。

また「天皇」だけ例外視され、「陣中は、天子の言葉を聞かなくていい。将軍の命令を聴け」という風にならない。
革命が起きて、「天皇も人間」とはならなかった。特に明治以降の「天皇の絶対神聖化」は敗戦後も「天皇もただ一人の人間」にならず、その悪弊は保存されたままだった。それが民主国家のはずが簡単に「官僚・財閥の専制国家」になっている原因に思われる。

十楽の 浮世の中を たづぬべし 天皇さへも さすらひぞある 天皇寺・御詠歌

これすらもう、忘れ去っているのだろう・・。

「平等の笑い」が無いところは、「人間の平等」がなく、社会の破たんの始まりなのであると思う。


>ジョークというものは、言う人間と聞いて笑う人間が平等であることを前提とした行為だからである。怖い上司のジョークでは追従して笑うことしかできないし、ネタにされた人間が反論できない場合も、ジョークは嫌がらせや皮肉になってしまう。ジョークを心から楽しむためには話す相手と対等でなければならないのである。

ジョークは、平等であってこそ、面白い。

日本という社会にはそれが弱い。そういう意味で「民主主義」も「お笑い」も「日本」の破滅の危険水域になっていると、私は思う。





お読みくださりありがとうございます。

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