故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
教育ポルノ。あるいは自覚せざる精神的レイプ集団= 学校教育。
上記文抜粋
・・・・・・・・・・
いじめ研究の第一人者が問う、日本の学校が染まる「全体主義」の核心 内藤 朝雄
・・・・・中略・・・・・・・・・・
若林らは、人に暴力をふるって楽しむ嗜虐者たちを異常視しない。逆に、自分に暴行を加える迫害者(およびその勢いに同調する学級集団)をはっきりと「敵」、「悪」、「赤の他人」と認識する女子中学生の方を異常視する。
そして、自分に暴力をふるい、苦しむのをながめて楽しむ加害者たちを、共に生きるクラスの仲間とみなして自発的に「寄せつけ」、学級集団の大いなる共生に順応するよう「性格の問題」を直すのが、治療の目標であるとしている。
まるで集団レイプされている人に、「気持ちよくなれず、加害者を寄せつけないあなたは精神医学的に問題がある。こころとからだの底から加害者と<共に響きあって生きる!>ことを受け入れようとしない冷感症を治療する」、と言っているようなものだ。
若林らがしていることは、旧ソ連の精神科医が共産主義に逆らう人を精神病とするのと同じである。
上で紹介した文章を読めば明らかに、若林らがE子を異常視する判定ポイント(精神医学的に正常と異常を分ける基準点)は、E子の存在が深部から<学校のもの>になっているかどうかである。
若林らは、こころとからだの深いところから<学校のもの>になって共に生きようとしない、E子のまつろわぬこころを医療の対象とする。学校の生徒でありながら、学級集団に染めあげられないE子は、精神科で治療しなければならない。
若林らの精神科医および精神医学指導者としての言動は、精神医学が学校の色に染め上げられた局面を鮮やかに示している。
・・・・中略・・・・・
日本の学校にみられる極端な集団主義教育のどこが人間にとって有害なのか。それは、距離なしで魂を擦りあい開きあう共生が、魂に無理やり突き込まれることである。
上記典型例が示す児童青年精神医学は、このような魂のレイプが痛いのではなく、きもちよくなるように治療する。心を閉ざすのではなく、泣いて同情されてクラスにきもちよく抱かれるように援助する。ときには脳に作用する薬物を使ってさえ、学校を人間に適応させるのではなく、人間のしくみを学校に適応させようとする。
・・・・・・中略・・・・
一人ひとりの人間は、こころとからだの深いところから<みんななかよし>のものになって、大いなる学校生命が生き生きと躍動するための材料だ。
「学校らしい」共生を離れた個人それ自体は鴻毛(羽毛)のように軽い。個人の命や健康よりも、みんながこころとからだの深いところからクラスのものになって共生する、全体のかたちの方が尊い。
この教育的に美しい群れのかたち(いわば教育の国体)は、個人が勝手に「ともだち」から距離をとることによって、そこなわれてしまう。
6歳児が睡眠時驚愕症になるほど校内で虐待され続けたことよりも、個人(被害者)が、ともだち(加害者)と「なかよく」融け合う関係を拒否することの方が、学校のコスモロジーのなかでは残念なことだ。
だから教頭は、母親に面と向かって言ったのだ。「残念です」と。
大いなる全体のための材料の分際で、個人が勝手に「ともだち」と距離をとるなど、ありえないことだ。そんなことをしたら、大いなる全体が壊れてしまうではないか。たとえ死んでも心が壊れても、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、みんなで・なかよし・おともだちをしなければダメじゃないですか。お母さん、こんな自分勝手をされては困りますよ。ほんとうに「残念です」。
これが、教頭が本当に言いたかったことである(ただし、自分がやっていることを知る勇気はないであろう)。
教頭は「やさしさ」なるものを大切な価値とみなしている。しかし、個人に対しては、ぞっとするほどやさしくない。
精神に変調をきたすほど虐待された6歳児が、身をすくめ、襲いかかり痛めつける加害者を避けるのは、ちいさな生き物としてのけなげな自己保存反応だ。これをもって、教頭は「残念です」と言う。
脳が教育という阿片に浸されると、ここまで冷酷になることができるという見本といってもよい。
それと同時に、この同じ人物は、群れた子どもたちが感情と感情を響きあわせ、その渦の中から大いなる全体(集合的生命としての「学校らしい」学校)を生み出す、感動材料としての「やさしさ」を何よりも大切にする。
この教頭の言動は、一人ひとりを大切にするやさしさと、個を超えた大いなる<みんななかよし>を生み出す感動材料としての「やさしさ」のちがいを、くっきり浮き上がらせる。
学校の集団生活では、個のやさしさは群の「やさしさ」に変じ、個の食事は群れの給食儀式になり、個の声や笑いや涙は群の声や笑いや涙に置き換えられていく。
群れの「やさしさ」は個のやさしさとは異なり、集団心理・利害権力政治の材料になりやすい。
・・・・中略・・・・
そのため、学校に行かない、学校の集団生活にあわないという理由で、人のこころを変える治療をしたり、精神を変える薬を飲ませたり、精神病院や施設に収容したりすることがある。
くりかえすが、これは旧ソ連の精神科医が、共産主義にまつろわない人を精神病院に入れて治療するのと同じことである。
精神分析、「分裂病」、境界例・自己愛障害、軽症なんでもうつ病、そして発達障害など――精神医学の分類、位置づけ、操作のセットは、ときどきの流行でうつり変わっていく。
これら流行の枠組は、次の新しい流行まで適用範囲を拡大しつづけ、多かれ少なかれ誰にでも当てはまる人間類型のようなものになるころに、飽和し、飽きられ、次の流行があらわれる。
・・・・中略・・・
特に20世紀後半、先進諸国は、人口の多くを占める中流階級を中心として、残酷を嫌い、人間の尊厳を中心とする、リベラル・デモクラシーによる市民社会の絶頂へと進んでいった(現在それが、世界同時後退ともいうべき様態で破壊されつつある)。
いじめ、児童虐待、教員による暴力、セクシャル・ハラスメント、ドメスティック・バイオレンスなど、今まで電柱のシミのように「あたりまえ」すぎて目の前にあっても見えていなかった<人間の尊厳に抵触する項目>が、次々と問題化されるようになる。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり
>大いなる全体のための材料の分際で、個人が勝手に「ともだち」と距離をとるなど、ありえないことだ。そんなことをしたら、大いなる全体が壊れてしまうではないか。たとえ死んでも心が壊れても、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、みんなで・なかよし・おともだちをしなければダメじゃないですか。お母さん、こんな自分勝手をされては困りますよ。ほんとうに「残念です」。
漫画蒼天航路{164話}で
「袁紹は 最強にして 最も袁紹らしい軍の容を作りあげた つき従う者はみな 袁紹を畏れ敬い心酔し すべての者が 袁紹と同じ顔になった
あの 袁紹の顔をした45万の人間が いずれも 恥じず悪露例らず そして 袁紹のように 心の闇を持たぬのなら こちらには戦う術もなるなるが
はたして 人とは そういうものか!?」
{曹操 三国志10}
と曹操が独白する場面がある。
なんか日本の教育とか、組織の思想を、批判しているような感じに思える。
心の闇もなく、ただ「全体のために」「レイプされる」のを「喜ぶ」
それが日本のいつの頃からか、それを当たり前にしてきた。
それを「異」というものが、いじめられ、障碍者にされ、抹殺されてきた・・・・
袁紹が結果滅んだように、前の日本も、一度滅んだ・・。
また同じ道を行きつづけて、死滅・消滅へ突き進むように思える。
「心の闇」を曹操は許仲康には、「可憐な洟垂れ姑娘{くーにゃ}」と言っている。
{許チョ 三国志11}
またおなじく蒼天航路{その157}で
「まるで 袁紹と 同じだな 文醜
おまえという人間を 武と智で割れば きれいに割り切れて 残るものがない」
「おまえたちには 心の闇がない」
「心の闇が無い者は 圧倒的に 強い」
と言うセリフがある。
この「圧倒的な強さ」って、明治以降の日本人のありように思う。
あるいは戦後日本経済の強さ・・・
でも
「しかし 俺を破り俺のすべてを奪える人間とは 俺以上に 心の闇を持ち 俺を惹きつけて やまぬ人間だ」
とさらに曹操は言葉を続ける。
心の闇が無い者の怖さ・・・のも感じる。
さらにまた別の回{その179}で
「率いてくるのは 足が速く 特に信仰心が篤い者を2千だ」
「こちらの心情も 無性に露わにしたくなる
俺の心情を乗せて 耐え得るのは 心にぶ厚い衣をまっとっている者だけだろう」
心情に寄り添っても、自己を失わず、洗脳されず、闇{逆説的な光かもしれない}を保ち得るのは、それだけ個々の心情なり意思なりを持ち得る人間ではないのか。
そうでないと{その185}にある
「己の身を第一におく このあまりに早い 降伏の決断 これこそ利を中心に繋がる 袁紹と家臣の関係を なによりも物語るものだ。」
と賈クが、解説しているが、このようになる。なんか敗戦直後に日本をみるようだ。
オチは無いけど。
なんかやっぱ「天皇制日本」の滅亡って必至なんだろうな・・・
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
・・・・・・・・・・
いじめ研究の第一人者が問う、日本の学校が染まる「全体主義」の核心 内藤 朝雄
・・・・・中略・・・・・・・・・・
若林らは、人に暴力をふるって楽しむ嗜虐者たちを異常視しない。逆に、自分に暴行を加える迫害者(およびその勢いに同調する学級集団)をはっきりと「敵」、「悪」、「赤の他人」と認識する女子中学生の方を異常視する。
そして、自分に暴力をふるい、苦しむのをながめて楽しむ加害者たちを、共に生きるクラスの仲間とみなして自発的に「寄せつけ」、学級集団の大いなる共生に順応するよう「性格の問題」を直すのが、治療の目標であるとしている。
まるで集団レイプされている人に、「気持ちよくなれず、加害者を寄せつけないあなたは精神医学的に問題がある。こころとからだの底から加害者と<共に響きあって生きる!>ことを受け入れようとしない冷感症を治療する」、と言っているようなものだ。
若林らがしていることは、旧ソ連の精神科医が共産主義に逆らう人を精神病とするのと同じである。
上で紹介した文章を読めば明らかに、若林らがE子を異常視する判定ポイント(精神医学的に正常と異常を分ける基準点)は、E子の存在が深部から<学校のもの>になっているかどうかである。
若林らは、こころとからだの深いところから<学校のもの>になって共に生きようとしない、E子のまつろわぬこころを医療の対象とする。学校の生徒でありながら、学級集団に染めあげられないE子は、精神科で治療しなければならない。
若林らの精神科医および精神医学指導者としての言動は、精神医学が学校の色に染め上げられた局面を鮮やかに示している。
・・・・中略・・・・・
日本の学校にみられる極端な集団主義教育のどこが人間にとって有害なのか。それは、距離なしで魂を擦りあい開きあう共生が、魂に無理やり突き込まれることである。
上記典型例が示す児童青年精神医学は、このような魂のレイプが痛いのではなく、きもちよくなるように治療する。心を閉ざすのではなく、泣いて同情されてクラスにきもちよく抱かれるように援助する。ときには脳に作用する薬物を使ってさえ、学校を人間に適応させるのではなく、人間のしくみを学校に適応させようとする。
・・・・・・中略・・・・
一人ひとりの人間は、こころとからだの深いところから<みんななかよし>のものになって、大いなる学校生命が生き生きと躍動するための材料だ。
「学校らしい」共生を離れた個人それ自体は鴻毛(羽毛)のように軽い。個人の命や健康よりも、みんながこころとからだの深いところからクラスのものになって共生する、全体のかたちの方が尊い。
この教育的に美しい群れのかたち(いわば教育の国体)は、個人が勝手に「ともだち」から距離をとることによって、そこなわれてしまう。
6歳児が睡眠時驚愕症になるほど校内で虐待され続けたことよりも、個人(被害者)が、ともだち(加害者)と「なかよく」融け合う関係を拒否することの方が、学校のコスモロジーのなかでは残念なことだ。
だから教頭は、母親に面と向かって言ったのだ。「残念です」と。
大いなる全体のための材料の分際で、個人が勝手に「ともだち」と距離をとるなど、ありえないことだ。そんなことをしたら、大いなる全体が壊れてしまうではないか。たとえ死んでも心が壊れても、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、みんなで・なかよし・おともだちをしなければダメじゃないですか。お母さん、こんな自分勝手をされては困りますよ。ほんとうに「残念です」。
これが、教頭が本当に言いたかったことである(ただし、自分がやっていることを知る勇気はないであろう)。
教頭は「やさしさ」なるものを大切な価値とみなしている。しかし、個人に対しては、ぞっとするほどやさしくない。
精神に変調をきたすほど虐待された6歳児が、身をすくめ、襲いかかり痛めつける加害者を避けるのは、ちいさな生き物としてのけなげな自己保存反応だ。これをもって、教頭は「残念です」と言う。
脳が教育という阿片に浸されると、ここまで冷酷になることができるという見本といってもよい。
それと同時に、この同じ人物は、群れた子どもたちが感情と感情を響きあわせ、その渦の中から大いなる全体(集合的生命としての「学校らしい」学校)を生み出す、感動材料としての「やさしさ」を何よりも大切にする。
この教頭の言動は、一人ひとりを大切にするやさしさと、個を超えた大いなる<みんななかよし>を生み出す感動材料としての「やさしさ」のちがいを、くっきり浮き上がらせる。
学校の集団生活では、個のやさしさは群の「やさしさ」に変じ、個の食事は群れの給食儀式になり、個の声や笑いや涙は群の声や笑いや涙に置き換えられていく。
群れの「やさしさ」は個のやさしさとは異なり、集団心理・利害権力政治の材料になりやすい。
・・・・中略・・・・
そのため、学校に行かない、学校の集団生活にあわないという理由で、人のこころを変える治療をしたり、精神を変える薬を飲ませたり、精神病院や施設に収容したりすることがある。
くりかえすが、これは旧ソ連の精神科医が、共産主義にまつろわない人を精神病院に入れて治療するのと同じことである。
精神分析、「分裂病」、境界例・自己愛障害、軽症なんでもうつ病、そして発達障害など――精神医学の分類、位置づけ、操作のセットは、ときどきの流行でうつり変わっていく。
これら流行の枠組は、次の新しい流行まで適用範囲を拡大しつづけ、多かれ少なかれ誰にでも当てはまる人間類型のようなものになるころに、飽和し、飽きられ、次の流行があらわれる。
・・・・中略・・・
特に20世紀後半、先進諸国は、人口の多くを占める中流階級を中心として、残酷を嫌い、人間の尊厳を中心とする、リベラル・デモクラシーによる市民社会の絶頂へと進んでいった(現在それが、世界同時後退ともいうべき様態で破壊されつつある)。
いじめ、児童虐待、教員による暴力、セクシャル・ハラスメント、ドメスティック・バイオレンスなど、今まで電柱のシミのように「あたりまえ」すぎて目の前にあっても見えていなかった<人間の尊厳に抵触する項目>が、次々と問題化されるようになる。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり
>大いなる全体のための材料の分際で、個人が勝手に「ともだち」と距離をとるなど、ありえないことだ。そんなことをしたら、大いなる全体が壊れてしまうではないか。たとえ死んでも心が壊れても、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、みんなで・なかよし・おともだちをしなければダメじゃないですか。お母さん、こんな自分勝手をされては困りますよ。ほんとうに「残念です」。
漫画蒼天航路{164話}で
「袁紹は 最強にして 最も袁紹らしい軍の容を作りあげた つき従う者はみな 袁紹を畏れ敬い心酔し すべての者が 袁紹と同じ顔になった
あの 袁紹の顔をした45万の人間が いずれも 恥じず悪露例らず そして 袁紹のように 心の闇を持たぬのなら こちらには戦う術もなるなるが
はたして 人とは そういうものか!?」
{曹操 三国志10}
と曹操が独白する場面がある。
なんか日本の教育とか、組織の思想を、批判しているような感じに思える。
心の闇もなく、ただ「全体のために」「レイプされる」のを「喜ぶ」
それが日本のいつの頃からか、それを当たり前にしてきた。
それを「異」というものが、いじめられ、障碍者にされ、抹殺されてきた・・・・
袁紹が結果滅んだように、前の日本も、一度滅んだ・・。
また同じ道を行きつづけて、死滅・消滅へ突き進むように思える。
「心の闇」を曹操は許仲康には、「可憐な洟垂れ姑娘{くーにゃ}」と言っている。
{許チョ 三国志11}
またおなじく蒼天航路{その157}で
「まるで 袁紹と 同じだな 文醜
おまえという人間を 武と智で割れば きれいに割り切れて 残るものがない」
「おまえたちには 心の闇がない」
「心の闇が無い者は 圧倒的に 強い」
と言うセリフがある。
この「圧倒的な強さ」って、明治以降の日本人のありように思う。
あるいは戦後日本経済の強さ・・・
でも
「しかし 俺を破り俺のすべてを奪える人間とは 俺以上に 心の闇を持ち 俺を惹きつけて やまぬ人間だ」
とさらに曹操は言葉を続ける。
心の闇が無い者の怖さ・・・のも感じる。
さらにまた別の回{その179}で
「率いてくるのは 足が速く 特に信仰心が篤い者を2千だ」
「こちらの心情も 無性に露わにしたくなる
俺の心情を乗せて 耐え得るのは 心にぶ厚い衣をまっとっている者だけだろう」
心情に寄り添っても、自己を失わず、洗脳されず、闇{逆説的な光かもしれない}を保ち得るのは、それだけ個々の心情なり意思なりを持ち得る人間ではないのか。
そうでないと{その185}にある
「己の身を第一におく このあまりに早い 降伏の決断 これこそ利を中心に繋がる 袁紹と家臣の関係を なによりも物語るものだ。」
と賈クが、解説しているが、このようになる。なんか敗戦直後に日本をみるようだ。
オチは無いけど。
なんかやっぱ「天皇制日本」の滅亡って必至なんだろうな・・・
お読みくださりありがとうございます。
PR
Comment