故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
徽宗皇帝のブログ より
上記文抜粋
・・・・・・・・・・
「他人の金で生きている」という言葉の引き起こす憎悪と反発
ネットでたまたま見つけた「はてなブログ」の記事で、筆者は水野ひばりという女性らしい。
書かれている意見にすべて同意するわけではないし、引用ツィートが多すぎるのもわずらわしいが、編集して内容を変えるのも良くないだろうから、そのまま転載する。
我々が「他人の金で」に敏感に反応するのは当然の話で、人間は自己愛の動物だから、何よりも自分の生存を優先する。その生存に関わる自分の金や自分の所有物に手を出す人間を憎悪するのは当たり前の話である。生活保護の不正受給を憎む言説が広く同感されるのはそれが「自分のポケット(と妄想されているもの)に手を突っ込まれた」と感じるからだ。
で、この論者は「我々はみな他人の金で生きている」と主張するが、それは多くの人の感情を逆撫でするだけではないか、と私は危惧する。せっかく、「社会には所得再配分が必要だ」といいことを言っているのに、おそらくこの「我々はみな他人の金で生きている」という一言で、その他の言葉はすべて彼ら社会の大多数に拒否され、読まれることもなくなるだろう。
人間は理屈より先に感情で生きているのである。
なお、念のために言うが、私はこの筆者の意見にほぼ同意である。問題は論じ方なのだ。
我々が「他人の金で生きている」と言われることは、普通の社会人は最大の侮辱だと感じるのである。だからこそ私は「上級国民は他人の金で生きている」と上級国民を侮辱するが、「国民はみな他人の金で生きている」とは書かない。しかし、他人の援助(他人の金もその一つ)無しには実は我々の社会生活は成り立たない、というのも水野さんの言うとおりだ。ただそれを「我々はみな他人の金で生きている」と言われると、反発心しか引き起こさないだろう、という話なのである。
(以下引用)
2015-10-09
他人の金で生きて行くことはいけないことか?「富の再分配」と「扶養システム」~難民風刺画によせて
・・・・・中略・・・・・・
しかし、一連の騒動を見ていて、私はどうにも腑に落ちない点があった。もちろん、これが「シリア」だけでなく「難民」と呼ばれる人たち、あるいは「外国人」や「移民」と呼ばれる人たちへの差別表現にあたることは言うまでもないことなのだが…。
何が引っかかるのだろう。それでちょっと文言をもう一度よく読んで欲しい(というか、多くの人はこの数日間、飽きるほど見たと思うのだが…)。
「安全に暮らしたい
清潔な暮らしを送りたい
美味しいものが食べたい
自由に遊びに行きたい
おしゃれがしたい
贅沢がしたい
何の苦労もなく
生きたいように生きていきたい
他人の金で。」
特に前半部、「安全に暮らせること」や「清潔でいること」、「美味しいものを食べる」「自由であること」などは私なんかいつもそう思っている…というか、これらは基本的人権を満たすものとしてほとんど最低限必要なことだ。
(「美味しいもの」は具体的に「贅沢品」や「嗜好品」を示唆するものではない。少なくと物が美味しく食べられるということはその人が「健康だ」ということであろう)
「おしゃれが楽しめる」というのはどうだろう。いけないことだろうか?
特別お金をかけなくても工夫次第で「おしゃれ」を楽しむことは出来る。これは言ってみれば「自己表現が楽しめる権利」というものだ。もう少し判り易く言えば「表現の自由」である。
この文言で最も人の道徳観を逆なでするのは後尾の「何の苦労もなく生きたいように生きていきたい 他人の金で。」の部分だろう。
しかし、ここでも私は思うのだが「他人の金で生きて行くこと」はそんなにもいけないことなのだろうか?
冨の再分配と扶養のシステム
「贅沢は敵だ」という標語を誰もが聞いたことがあるだろう。これらは先の戦争において国民精神総動員という運動の名のもと、民衆に浸透していった標語だ。
「欲しがりません勝つまでは」なんてのもある。聞いたことがあるだろう。
どうだろう。その上でもう一度、件の風刺画の文言をよく読んで欲しい。
どこか似てないだろうか。似ていない?
いやいや、もっとよく考えて欲しい。似ている。似ているのだ、この二つは。
何が似ていると言えるだろうか。
ここでもう一度問いたい。
「他人の金で生きて行くこと」はいけないことだろうか?
本当に?
多くの皆さんは社会保険料というものを国に支払っているだろう。そして誰かを扶養したり、でなければ誰かに扶養されてるはずだ。
国民健康保険に入っているだろう?ひょんな時に怪我をしたり病気になった時に保険を使うわけだが、大抵の人が保険に入っている(皆保険)ので利用者は三割負担で済む。残りの七割は誰が払っているのだろうか?国が払ってる?毎月サラリーから天引きされてる?
違う。それは国の金でも毎月天引きされた自分の金でもない。他人の金である。
私たちはいざという時、他人の金の助けを借りて生きている。
年金だってそうだ。今、年金で食べている人は誰の金で食べている?他人の金だ。
老後年金をあてにしている人は何をあてにしている?他人の金をあてにしている。
もう少し言い方を変えると、私たちは互いに金を出し合って支え合って生きているのだ。
他人の金で生かしてもらい、また自分の金で他人を生かすこと。それが「社会」を構成することの意味であり、国が保障する社会扶助、扶養のシステムとは、言ってみれば「富を再分配」するシステムだ(色々と不都合があったとしても)。
障害者になったり、老後一人で立てなくなれば誰もが他人の金で暮らすことになる。が、それはある傾向的な状態により人の世話にならないと生きて行けない事実が可視化されただけで、そうでなくても、例えば健常者でも、若者だろうが中年だろうが、社会の中に生きているという、ただそれだけで、既にその人は自分の金で他人を生かし、他人の金で自分自身を生きているのである。
「他人の金で生きて行くことはいけないことか?」というより、そもそも国や社会の構成員である以上「他人の金で生きていない人はいない」のである。
件の風刺画の何が問題かというと、「難民」、「外国人」への排外主義や差別主義以前に、そこで「富の再分配」が真っ向から、堂々と否定されている、ということである。
そして「富の再分配が否定されている」という点において、風刺画は先の戦争で民衆をマインドコントロールした標語に「似ている」のである。
というか思想的には、ほとんど同一のものだ、と言っていい。
私が一連の騒動で最も違和感を持ったことは、「難民」が差別されていると言えば、それはそうなのだが、それ以前にそこで「富の再分配が否定されている」のに多くの人が風刺画は批判するものの、「富の再分配」には言及しないことだ。
いくら「難民が可哀想だ」の、「差別はいけない」だの言ってみても、要は「自分の金で人を生かす気があるのかどうか」ということだ。
自分の金で人を生かし、自分もまた他人の金で生きて行く、そんな気もないのに風刺画一枚批判したところで一体何になるだろうか(少なくとも善人でいられる)。
これは絶対的に民主主義の問題であり、国の問題であり、社会の問題である。
「差別」や「差別主義」は、なぜあるのだろう?
その理由は様々考えられるが一つは富を一極に超集中させることである。そして一部の者にしか富、資源による利益を与えようとしないことである。既得権益を守ること。そのために差別や差別主義は必要なのである。先の戦争では「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」という標語のもと、民衆の日用品までが戦争のための資源になった。
「差別主義者」と「非差別主義者」の闘いとは、言ってみれば「富を一ヶ所に集中させようとする者」と、なるべく「富を分散させ、均一化しようとする者」との闘いである。
ちなみに、かの「はすみとしこ」さんは、Facebookで「富の再分配」を否定している。
真面目に働いて、税金を納めている方々の税金が、その自称難民達に対する援助には使われるべきでは無い
日本人が支払った税金で何不自由無い暮らしを送っています。国民たる日本人は生活保護が受けられずに多数が餓死しているにも拘わらず、在日の14%以上が生活保護を受けています。
「生保バッシング」など好例だが多くの場合、差別主義、ファシズム、保守主義というものは「富の再分配」を否定する。冨の一極集中化を妨げるものをなるべくカットし、より合理的に、より効率的に富が一極に集中するよう社会システムを積み上げていくものである。
※なお件の風刺画を「はすみとしこ」さんは削除している。…と言っても情報化社会なのであって、件の風刺画は膨大なコピー群としてネットの海の一部を形成しており、なんて言うか、削除も何もないのだが…。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり
「富の再分配」をしたくないのなら、無政府の畜生になれば良い。
それとも俗世と縁切って仙人にでもなれよ!
国家てやつは程度の差はあれ、「富の再分配」機能があるから、続いてきた。
なにせどんな大帝国も貧しい人が大挙集まって暴走したら、つぶれてきた。
日本の前の敗戦もその面もある。
国家や社会の存続のためには、不可欠ならぬ機能である。
また「じぶんで稼いでいる」というが、それのために動いてくれる人、自分の両親・あるいは友人・家族。それにユーザーや他の無関係な人の助力や「妨害をしない」行為で、自分で稼げているのである。
自分の力だけで、「自分で稼いでいる」のではない。他者のお情けや必要で「稼げる」のである。
それすらわからない阿呆だらけになったから、放射能喰って早く死のう!って社会になったのである。
昔日の、特に江戸の以前の日本人なら、簡単にわかっていることを、知識と「計算」はできても、阿呆になった。
無駄教育でパーになったよな。
もう日本要らんは!
追記
自分の稼ぎだけでくっている。と思いあがるのが、片務性の思想。
人様のおかげで食べさせてもらっている。他人のお金でも生きさせてもらっている。とわかるのが双務性の思想。
当然、双務性の方がマトモです。
参考に
世界は一日でかわる より
同じく より
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
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「他人の金で生きている」という言葉の引き起こす憎悪と反発
ネットでたまたま見つけた「はてなブログ」の記事で、筆者は水野ひばりという女性らしい。
書かれている意見にすべて同意するわけではないし、引用ツィートが多すぎるのもわずらわしいが、編集して内容を変えるのも良くないだろうから、そのまま転載する。
我々が「他人の金で」に敏感に反応するのは当然の話で、人間は自己愛の動物だから、何よりも自分の生存を優先する。その生存に関わる自分の金や自分の所有物に手を出す人間を憎悪するのは当たり前の話である。生活保護の不正受給を憎む言説が広く同感されるのはそれが「自分のポケット(と妄想されているもの)に手を突っ込まれた」と感じるからだ。
で、この論者は「我々はみな他人の金で生きている」と主張するが、それは多くの人の感情を逆撫でするだけではないか、と私は危惧する。せっかく、「社会には所得再配分が必要だ」といいことを言っているのに、おそらくこの「我々はみな他人の金で生きている」という一言で、その他の言葉はすべて彼ら社会の大多数に拒否され、読まれることもなくなるだろう。
人間は理屈より先に感情で生きているのである。
なお、念のために言うが、私はこの筆者の意見にほぼ同意である。問題は論じ方なのだ。
我々が「他人の金で生きている」と言われることは、普通の社会人は最大の侮辱だと感じるのである。だからこそ私は「上級国民は他人の金で生きている」と上級国民を侮辱するが、「国民はみな他人の金で生きている」とは書かない。しかし、他人の援助(他人の金もその一つ)無しには実は我々の社会生活は成り立たない、というのも水野さんの言うとおりだ。ただそれを「我々はみな他人の金で生きている」と言われると、反発心しか引き起こさないだろう、という話なのである。
(以下引用)
2015-10-09
他人の金で生きて行くことはいけないことか?「富の再分配」と「扶養システム」~難民風刺画によせて
・・・・・中略・・・・・・
しかし、一連の騒動を見ていて、私はどうにも腑に落ちない点があった。もちろん、これが「シリア」だけでなく「難民」と呼ばれる人たち、あるいは「外国人」や「移民」と呼ばれる人たちへの差別表現にあたることは言うまでもないことなのだが…。
何が引っかかるのだろう。それでちょっと文言をもう一度よく読んで欲しい(というか、多くの人はこの数日間、飽きるほど見たと思うのだが…)。
「安全に暮らしたい
清潔な暮らしを送りたい
美味しいものが食べたい
自由に遊びに行きたい
おしゃれがしたい
贅沢がしたい
何の苦労もなく
生きたいように生きていきたい
他人の金で。」
特に前半部、「安全に暮らせること」や「清潔でいること」、「美味しいものを食べる」「自由であること」などは私なんかいつもそう思っている…というか、これらは基本的人権を満たすものとしてほとんど最低限必要なことだ。
(「美味しいもの」は具体的に「贅沢品」や「嗜好品」を示唆するものではない。少なくと物が美味しく食べられるということはその人が「健康だ」ということであろう)
「おしゃれが楽しめる」というのはどうだろう。いけないことだろうか?
特別お金をかけなくても工夫次第で「おしゃれ」を楽しむことは出来る。これは言ってみれば「自己表現が楽しめる権利」というものだ。もう少し判り易く言えば「表現の自由」である。
この文言で最も人の道徳観を逆なでするのは後尾の「何の苦労もなく生きたいように生きていきたい 他人の金で。」の部分だろう。
しかし、ここでも私は思うのだが「他人の金で生きて行くこと」はそんなにもいけないことなのだろうか?
冨の再分配と扶養のシステム
「贅沢は敵だ」という標語を誰もが聞いたことがあるだろう。これらは先の戦争において国民精神総動員という運動の名のもと、民衆に浸透していった標語だ。
「欲しがりません勝つまでは」なんてのもある。聞いたことがあるだろう。
どうだろう。その上でもう一度、件の風刺画の文言をよく読んで欲しい。
どこか似てないだろうか。似ていない?
いやいや、もっとよく考えて欲しい。似ている。似ているのだ、この二つは。
何が似ていると言えるだろうか。
ここでもう一度問いたい。
「他人の金で生きて行くこと」はいけないことだろうか?
本当に?
多くの皆さんは社会保険料というものを国に支払っているだろう。そして誰かを扶養したり、でなければ誰かに扶養されてるはずだ。
国民健康保険に入っているだろう?ひょんな時に怪我をしたり病気になった時に保険を使うわけだが、大抵の人が保険に入っている(皆保険)ので利用者は三割負担で済む。残りの七割は誰が払っているのだろうか?国が払ってる?毎月サラリーから天引きされてる?
違う。それは国の金でも毎月天引きされた自分の金でもない。他人の金である。
私たちはいざという時、他人の金の助けを借りて生きている。
年金だってそうだ。今、年金で食べている人は誰の金で食べている?他人の金だ。
老後年金をあてにしている人は何をあてにしている?他人の金をあてにしている。
もう少し言い方を変えると、私たちは互いに金を出し合って支え合って生きているのだ。
他人の金で生かしてもらい、また自分の金で他人を生かすこと。それが「社会」を構成することの意味であり、国が保障する社会扶助、扶養のシステムとは、言ってみれば「富を再分配」するシステムだ(色々と不都合があったとしても)。
障害者になったり、老後一人で立てなくなれば誰もが他人の金で暮らすことになる。が、それはある傾向的な状態により人の世話にならないと生きて行けない事実が可視化されただけで、そうでなくても、例えば健常者でも、若者だろうが中年だろうが、社会の中に生きているという、ただそれだけで、既にその人は自分の金で他人を生かし、他人の金で自分自身を生きているのである。
「他人の金で生きて行くことはいけないことか?」というより、そもそも国や社会の構成員である以上「他人の金で生きていない人はいない」のである。
件の風刺画の何が問題かというと、「難民」、「外国人」への排外主義や差別主義以前に、そこで「富の再分配」が真っ向から、堂々と否定されている、ということである。
そして「富の再分配が否定されている」という点において、風刺画は先の戦争で民衆をマインドコントロールした標語に「似ている」のである。
というか思想的には、ほとんど同一のものだ、と言っていい。
私が一連の騒動で最も違和感を持ったことは、「難民」が差別されていると言えば、それはそうなのだが、それ以前にそこで「富の再分配が否定されている」のに多くの人が風刺画は批判するものの、「富の再分配」には言及しないことだ。
いくら「難民が可哀想だ」の、「差別はいけない」だの言ってみても、要は「自分の金で人を生かす気があるのかどうか」ということだ。
自分の金で人を生かし、自分もまた他人の金で生きて行く、そんな気もないのに風刺画一枚批判したところで一体何になるだろうか(少なくとも善人でいられる)。
これは絶対的に民主主義の問題であり、国の問題であり、社会の問題である。
「差別」や「差別主義」は、なぜあるのだろう?
その理由は様々考えられるが一つは富を一極に超集中させることである。そして一部の者にしか富、資源による利益を与えようとしないことである。既得権益を守ること。そのために差別や差別主義は必要なのである。先の戦争では「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」という標語のもと、民衆の日用品までが戦争のための資源になった。
「差別主義者」と「非差別主義者」の闘いとは、言ってみれば「富を一ヶ所に集中させようとする者」と、なるべく「富を分散させ、均一化しようとする者」との闘いである。
ちなみに、かの「はすみとしこ」さんは、Facebookで「富の再分配」を否定している。
真面目に働いて、税金を納めている方々の税金が、その自称難民達に対する援助には使われるべきでは無い
日本人が支払った税金で何不自由無い暮らしを送っています。国民たる日本人は生活保護が受けられずに多数が餓死しているにも拘わらず、在日の14%以上が生活保護を受けています。
「生保バッシング」など好例だが多くの場合、差別主義、ファシズム、保守主義というものは「富の再分配」を否定する。冨の一極集中化を妨げるものをなるべくカットし、より合理的に、より効率的に富が一極に集中するよう社会システムを積み上げていくものである。
※なお件の風刺画を「はすみとしこ」さんは削除している。…と言っても情報化社会なのであって、件の風刺画は膨大なコピー群としてネットの海の一部を形成しており、なんて言うか、削除も何もないのだが…。
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・
抜粋終わり
「富の再分配」をしたくないのなら、無政府の畜生になれば良い。
それとも俗世と縁切って仙人にでもなれよ!
国家てやつは程度の差はあれ、「富の再分配」機能があるから、続いてきた。
なにせどんな大帝国も貧しい人が大挙集まって暴走したら、つぶれてきた。
日本の前の敗戦もその面もある。
国家や社会の存続のためには、不可欠ならぬ機能である。
また「じぶんで稼いでいる」というが、それのために動いてくれる人、自分の両親・あるいは友人・家族。それにユーザーや他の無関係な人の助力や「妨害をしない」行為で、自分で稼げているのである。
自分の力だけで、「自分で稼いでいる」のではない。他者のお情けや必要で「稼げる」のである。
それすらわからない阿呆だらけになったから、放射能喰って早く死のう!って社会になったのである。
昔日の、特に江戸の以前の日本人なら、簡単にわかっていることを、知識と「計算」はできても、阿呆になった。
無駄教育でパーになったよな。
もう日本要らんは!
追記
自分の稼ぎだけでくっている。と思いあがるのが、片務性の思想。
人様のおかげで食べさせてもらっている。他人のお金でも生きさせてもらっている。とわかるのが双務性の思想。
当然、双務性の方がマトモです。
参考に
世界は一日でかわる より
同じく より
お読みくださりありがとうございます。
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ですよね。
書き込みありがとうございます。