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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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ニュースの深層 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
いじめ自殺を隠蔽するとき、教育者が必ず口にする「異常な論理」

これを変えねば、いじめは消えない

内藤 朝雄 明治大学准教授 いじめ問題研究

何度でも伝えたい「いじめの構造」

逃げることができず、どこまでも追い詰めていくいじめ。生徒を「生徒らしく」するためだけの、些末でしつこい内部規則。いつも周囲の空気を気にして過剰同調し続けなければならない集団生活……。

学校という囲い込み施設の有害性は、何十年も社会問題になっているが改善されない。

学校や教育の世界を聖域扱いし、それを「あたりまえ」と思いこむ習慣が一般大衆に浸透しているからである。

そして、マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者、評論家や芸能人たちが、でたらめな現状認識と対策をまきちらし、一般大衆がそれを信じてしまうためでもある。

日本の学校、特に中学校の全体主義ぶりは、北朝鮮によく似ている。個人の市民的自由を奪い、人間を頭のてっぺんからつま先まで集団化してしまう。私たちは、学校や教育についての「あたりまえ」の感覚によって、そのことが見えなくなってしまっている。

「日本の学校から『いじめ』が絶対なくならないシンプルな理由」で、筆者は次の単純明快な正解を示した。

現状分析:①外部から遮断した閉鎖空間に閉じこめ、②強制的にベタベタさせる生活空間が、いじめを含む残酷と理不尽を蔓延させ、エスカレートさせている。

有効な対策:①反市民的な「学校らしい」秩序を許さず、学校を市民社会の秩序で運営させる。②閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせることをせず、ひとりひとりが対人距離を自由に調節できるようにする。

このことについては、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)で詳しく論じた。

主題のすりかえが起きている

日本の学校は地獄か…いじめ自殺で市教委がとった残酷すぎる言動」から今回まででは、茨城県取手市で起きたいじめ自殺事件と、それを隠蔽しようとしたと考えられる教育委員会のふるまいをもとに、次のことを行う。

①教委のふるまいとそれに対するメディアの反応を分析し、市民社会が教育に侵食され、別の種類の教育的な「あたりまえ」がまかり通ってしまう現状を示す。

②学校制度が強いる集団生活の中で、いじめ被害者が破壊されていく構造的なしくみを分析し、「閉鎖空間設定責任」という新しい考え方を提唱する。


これまで、いじめ自殺を隠蔽しようとする教委のふるまいを次のように分析した。

まず教委にとっての利害損得があり、それに応じて教育的なストーリーのなかから都合の良い素材を選び出し、いいわけとして組み立てる。

それは、オウム真理教教団が利益を図って行う殺人に、「ポア(魂を高いところに引き上げる慈悲の行い)」という宗教的な意味づけをするのと同じである(「日本の学校から『いじめ』が絶対なくならないシンプルな理由」)。

だが、オウム教団とは異なり、教委や学校関係者による意味づけは、人びとが教育を特別扱いする思考習慣に支えられて、社会に受け入れられてしまう。

そのため、教委や学校関係者(生徒や教員、校長など)は責任を問われることなく、通常ならば処分・処罰される行為をやりたい放題になる。

このとき、主題のすりかえが生じている。

つまり、教委や学校関係者が引き起こす悪や残酷に対し、何が問題であり、どうすれば適切に対処したといえるか、という<問いと答えのセット>そのものが、社会正義を主題とするものから教育を主題とするものへと、すりかえられている。

「信頼」ではなく、チェック機能を


今回の事件では、教委はいじめの隠蔽工作に手を染めていたと考えられる(くわしくは前回および前々回を参照)。これは、公共団体幹部グループによる重大かつ悪質な背任行為である。相応な処分は懲戒免職しか考えられない。

さらに教委によるこの背任行為は、遺族に対しては、名誉毀損(虐待デマの流布)や、これによって非人道的な精神的苦痛を与えた(虐待デマが子を失った遺族に対するものであることを考えてみよ!)可能性も含めて追及されるべきものである。

だが報道によれば、教委は処罰も処分も受けず、記者会見で「被害者によりそい、信頼を回復しながら次に向かっていくよう努めます」と語る。メディアも「不信」「信頼の危機」「信頼回復」といった報道を繰りかえす。被害者も「信頼が失われた」と語る。

メディアでは、「信頼を取り戻すにはどうしたらよいか」といった教育の問題へ主題がすり替わった。教委幹部たちは不正行為を行ったかどうかを追究されず、不信をまねいた過誤によって非難されるだけの人となった。

何か問題が生じたときに、合い言葉のように口に出される「教育(教委、学校)への信頼」が、社会正義によるチェック機構を働かないようにする。そして、教委や学校関係者の不正や残酷を免責し、教育関係者はどんな非道をはたらいても責任を問われないという事態を生み出す。


教育委員会や学校は、たとえば土建会社のような他の職種と同じものとみなさなければならない。

土建会社が談合や政治家への賄賂をしないと期待できるのは、社会正義の制度による厳しいチェック・システムがある場合だけである。土建会社が土建会社であるというだけの理由で土建会社への信頼を要求するような習慣は有害である。

それとまったく同じで、教育関係者が教育関係者であるというだけの理由で教育関係者を信頼するという習慣も、きわめて有害である(ここでは、チェック・システムが重要という一点に限って土建会社を比較対象にした)。

子どもを守るためには、そのような信頼をなくさなければならない。

重要なのは、教育(教委、学校)への信頼ではない。社会正義のしくみを確かなものにすることだ。

私たちの目標は、教委幹部も教員も生徒も悪をしたくてもできなくなり、そのうち大部分の人が悪をなそうとも思わなくなり、善人になってしまうような、うまくまわるシステムをつくりあげることだ。そのうえで、うまくまわっている程度に応じてそのシステムを信頼すべきなのだ。

信頼できるチェック・システムという観点からは、いじめを隠すと得をする利害当事者である教育委員会が、いじめ調査委を設置することを、即座にやめさせなければならない。これは暴力団が警察を設置するようなことだ。

「被害者によりそい、信頼を回復しながら次に向かっていくよう努めます」といったたぐいの教委の発言には、被害者を害しておきながら、きずな・よりそい・信頼関係をまくしたてるストーカーと<同じかたち>のおぞましさがある。

恐怖の「教育的ストーカー」論理

これまでの経緯を約すると、遺族は「あなたたち教委のことは信頼しない。もう関わり合いになりたくない。あなたたちは、私たちが虐待したから子どもが死んだというデマをまき散らして、いじめを隠蔽している」と訴えている。

これに対し、不正や加害をなしたと考えられる教委は責任をとろうとせず、「おれはおまえたち遺族との信頼を回復するぞ。教委(教育)への信頼を回復するのだ。おれはおまえたち遺族によりそうぞ」という内容の教育的ストーカー論理を、議会や記者会見で堂々と口にしているのである。

もちろん教委は、自己利益のために、遺族をどこまでも虫けらのように扱ってきた(教委が遺族をどのように扱ってきたかについては、前回と前々回を参照されたい)。

報道をみるかぎり、教委は本物のストーカーとことなり、ほぼ100%損得勘定で動いていると考えられる。乾いた保身のために利用する教育の論理が、べとべと粘りつくストーカーの論理と同じ形をしているのだ。

この乾ききった保身の利害計算と、粘りつく教育的お涙頂戴芝居をつなぎ合わせるコンビネーションは、もはや教育関係者の職能にもなっている。

なぜ校長は泣くのか

取手市のケースとは別であるが、このことを示す一例をあげよう。

いじめ調査の第一人者ともいうべき探偵の阿部泰尚によれば、校長たちは、不都合なことを表沙汰にしないでほしい、責任をのがれたい、という意向を暗に伝えるための<芸>として泣くことが多いという。もちろん、泣いても不誠実であることは変わらない。

阿部は次のように述べる。

「それにしてもなぜ校長先生という人たちは、あんなにも頻繁に人前で泣き出すのだろう。私の経験から言うと、依頼者である親御さんにいじめの調査資料を突きつけられた段階で、4割ぐらいの校長が泣き出す。特に警察沙汰になりそうな事案では、泣き出すことが多い。

(略)彼らが本気で泣いているとは思えない。(略)ことを荒立てないで欲しい。(略)穏便に事が運ぶように計らって欲しい。それを暗に伝えるために泣いている。というか泣いて見せる。…。校長が泣いた後でも実際に何もしない学校が多い」(阿部泰尚『いじめと探偵』p.p.168-171)

私たちの社会では通常、正当性が問題となるやりとりにおいて、責任ある立場の者が不祥事に目をつぶってほしいと泣くことは、否定的に扱われる。場合によっては嘲笑のまとになりかねない。泣くことは利益にならないので、多くの人はやらない。

不祥事を表沙汰にしないでほしいときに校長が泣くことが驚くほど多いとすれば、それは功を奏する見込みが大きいからである。

すなわち、「ここは教育の場である」と感じられる状況では、通常の公共的秩序が崩れて、不祥事隠蔽のために泣くことが功を奏するような別のタイプの秩序にとって代わられているということである。校長はそこにつけこんで泣く。

ここで重要なことは、私たちの社会がどうなっているかということだ。

この社会は、教育に侵食され穴があいている。不祥事でも校長が泣けば許される穴。教育によって市民社会のルールと人権が否定される穴。教育であれば暴力や全体主義が許される穴。

この穴が広がるにつれて、社会が別のタイプの不健全な秩序に飲み込まれてしまう危険が大きくなる。


「教育」なら何でも許されるのか

この穴がどれほどのものか、マス・メディアの報道スタイルから考えてみよう。

以下の思考実験が示すように、報道は、私たちの社会がどのような状態にあるかを示す指標として用いることができる。

もし、マス・メディアが先述のポアといういいわけを真実とみなし、「過度のポア」「行き過ぎたポア」と報道したとすれば、それは、私たちの社会がオウム真理教にひどく侵食されていることのサインであるといえる。

また、マス・メディアが暴力団による暴力犯罪を「過度の任侠」「行きすぎた任侠」と報道したとすれば、それは、私たちの社会が暴力団にひどく侵食されていることのサインになる。

もちろん、このような思考実験上のシナリオは、現実にはありえない。しかし、こと教育に関しては、このようなことは、あたりまえに起こっている。

NHKのドキュメンタリー番組『クローズアップ現代 なぜ続く〝いじめ自殺〟~こどもの命を救うために』(2017年7月18日放映)は、取手市教育委員会によるいじめ隠しを、背任行為ではなく、「過度な配慮」「行きすぎた配慮」と報道した。

このことは、上で述べた思考実験上のシナリオが実際に起こったと仮定した場合と同程度のひどさで、私たちの社会が教育に侵食され、市民の秩序が破壊されていることを示している。

このような、教育であれば何でも許されるタイプの報道は、これまでも繰りかえされてきた。「教育熱心のあまり」の「行きすぎた指導」と、あたりまえのように。

さらに教員による暴力犯罪は、「体罰」と呼ばれるので、被害者の方に何らかの「罰」を受けるにふさわしい落ち度があり、それに対して加害者が「教育熱心のあまりの行きすぎた指導」をしてしまったというストーリーで認識されるようになる。

そして、「先生がここまでやらざるを得なくなるぐらいなのだから、よほど困った生徒なのだろう」と暴力被害者の方に否定的な感情がむけられるようになる。

こうして「体罰」という誤称によって、教員からの暴力被害者は、レイプ被害者のように二重の被害をこうむることになる(ジャーナリストは、このような二次被害が生じるのを避けるため、教員による暴力犯罪に「体罰」という語を用いるのをやめなければならない)。

このようにメディア報道を指標として、私たちの社会が教育によって侵食され、市民の秩序が破壊されていることを見て取ることができる。

さらにこの『クローズアップ現代』の後半は、いじめの基本を外した相談系、受け止め系、教員の心がけ系の、無意味な対策の羅列である(上記NHKサイトを参照)。

無意味なことを、いじめ対策と称して意味ありげに並べ立てるのを見ると、そこまでして閉鎖空間に閉じこめて強制的にベタベタさせる特殊な学校制度を維持したいのかというのが正直な感想である。

「異常な論理」が「あたりまえ」に…

なぜ、極端な集団主義で悪名高い異常な日本の学校を、せめて先進諸国グループの普通の学校程度に変えるぐらいのことを、誰も提案しないのか(いじめは世界中どこにでもあるが、追い詰められる程度が格段に違ってくる)。

それは、番組を制作する側も含めて多くの人びとが、異常な学校の「あたりまえ」を常識として疑うことなく信じ込んでいるからだ。

また、この番組をつくった人たちは、いじめの主役は加害者の群れであり、加害者を抑制しなければ意味がないことを理解していない。「気持ちを受け止める」相談のあと、あいかわらず加害者に痛めつけられて自殺するということは、いくらでもある。

加害者を制止するか、被害者の生活圏から排除することができなければ、相談など無意味なのだ。学校を、法によって個人が守られ、加害者との距離を自由に調節することができる市民的な生活空間にする以外に、有効な対策はない。

筆者は冒頭で、マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者、評論家や芸能人たちが、でたらめな現状認識と対策をまきちらし、一般大衆がそれを信じてしまうと述べた。

この現状に対し、多くの人たちに次の寓話を読んでもらいたい。そして新聞・雑誌・テレビでいじめ対策を目にするたびに、思い出していただきたい。

ある国では、35歳から40歳までの人を強制的に収容所の監禁部屋に閉じこめて理想の共同生活をさせることにした。そのなかで、人びとは、狭い檻に閉じ込められたネズミのように、互いに痛めつけ合うようになった。人びとを監禁部屋に閉じこめること自体不当であり、収容所から開放するのが基本である。しかし、国は監禁部屋の生活を少しでも快適で健康的なものにしようと、壁紙を三日に一回変えたり、音楽を流したり、早寝・早起き・朝ご飯を推奨したりする工夫をし、それを国民にアピールした。国民はいつのまにか、監禁部屋に閉じこめること自体を問題にしなくなった。そして、監禁部屋で35歳から40歳までの人たちが、すこしでも「マシ」な生活になるような、些末で矮小な工夫がなされたことを、あたかも問題の解決に近づく努力であるかのように報道するようになった(拙稿「インターネットを用いたいじめや迫害をめぐる諸問題」加納寛子編著、内藤朝雄・西川純・藤川大祐著『ネットいじめの構造と対処』金子書房)。
マス・メディアや政府、地方公共団体、学校関係者、教委、教育学者、評論家や芸能人たちがやっているのは、こういうことだ。

マス・メディアの報道は、①世に影響を及ぼすと同時に、②一般大衆の思考や感情の習慣を示す指標になっている。

制作側は、一般大衆の思考や感情の習慣にあわせて番組をつくっていると考えられるからだ。

メディアの報道内容は、日本の市民社会がどのぐらい教育的な<別の現実>に侵食され、乗っ取られているかを如実に示す。

メディアと大衆のあいだには次のような悪循環が生じる。

メディアが大衆ウケするように企画を立てて、でたらめな教育論を流す→大衆のでたらめな「あたりまえ」が強化される→メディアはその「あたりまえ」にあわせて大衆ウケするように企画を立てて、でたらめな教育論を流す→大衆のでたらめな「あたりまえ」がさらに強固になる。

そしてメディアは、この悪循環のなかでつくられた企画どおりに発言する識者や芸能人を選択する。企画よりも水準が高い発言をする専門家は使われなくなる。


NEXT ▶︎ 学校制度そのものを変えよ

マスコミも加担している

筆者の経験を一つ紹介しよう。

【NHKの事例】
筆者のもとにNHKから出演依頼がきた。筆者はすぐに了承しますとメール送信し、スケジュールに日程を入れておいた。電子メールで送られてきた企画書には、驚くべきことが書かれていた。
「『いじめられた生徒は、なぜ話を聞いてくれる人がいないと自殺するのか?』と聞きますので、『気持ちを受け止めてもらうことが大切だから』と答えてください」。
それに対し筆者は、「話を聞いてもらえれば、いじめ被害者が自殺しなくなるなどということはありません。ひどいいじめをされて、話を聞いてもらって、その後で、相変わらず加害行為が続いて絶望し、自殺するケースはいくらでもあります。重要なことは、いじめ加害者の迫害を止めること。狭いところに閉じこめないことです」と電子メールで返答をした。
すると、まったく返事が来なくなった。放送日が迫っていたため連絡を入れたところ、「内藤さんの出演はとりやめになりました」とのことだった。
実際に放送された番組を見たところ、筆者の代わりになぜか同姓の元ボクサーが登場し、自分のいじめ体験を語った後、「いじめられている君の気持ちはわかるよ」といった心の話をしていた。


最近のいじめ報道では、限られた報道枠になにを押し込むかが、教委の言動関連にかたよっている。今回のいじめ自殺事件についての報道も、大半は教委の言動に関するものだ。

教委の背任行為に関しては、少ない報道枠で社会正義の観点から非難し、そのとおりであれば懲戒免職にすべきではないかと報じればよいだけだ。また、背任行為に対し法的な処罰規定をもうけるべしと簡潔に報じればよいだけだ。

報道枠の大部分は、子どもたちを苦しめているいじめと、それを歯止めなく蔓延させ、エスカレートさせている学校制度の改革に割くべきだ。

メディアは最も重要な①中島菜保子さんに対する集団加害の問題を無視し、②集団加害に教員が関与していたかもしれない問題を無視し、③集団加害が蔓延しやすい有害環境としての学校の問題を無視する。

そして、教委の言動に大量の報道枠を絞ったうえで、教委(教育、学校)への信頼が危機にあるとのストーリーで報じ、一般大衆がそれを「あたりまえ」に受け止める。問題の中心が正義から信頼にズラされたことに、だれも異をとなえない。気づきもしない。

一人の女子中学生が学校のグループによっていじめ殺されるという痛ましい事件が起きたのだ。いじめ殺すとは、「さんざん苦しめ悩まして殺す。苦しめ抜いて死なせる」(『日本国語大辞典』)の意である。

社会正義という点からは、菜保子さんをいじめ殺した加害者たちにも厳しく責任をとらせることが要請される。教育でごまかすことができるような問題ではない。

また、社会正義は、このような事件が起きる有害環境としての学校のしくみを分析し改善することを要請する。

もっとも重要なことは、菜保子さんは、学校で特殊な集団生活さえしなければ、追いつめられて死ぬはずがなかったということである。

また加害者のA子、B子、C子ら(場合によっては教諭も含まれる可能性がある)も、学校で特殊な集団生活さえしなければ、他人を死においつめる怪物になることはなかったということである。

学校の閉ざされた特殊な集団生活が、あたりまえの市民生活を送っていれば死ぬはずのなかった少女を遺体にし、怪物になるはずのなかった人を怪物にしたのだ。

・・・・・・
・・・・・
抜粋終わり


信頼を取り戻すにはチェック機能を発揮しないといけないが、それがないのが教育現場。

なるほど、モリカケが教育事案から出てきたのがよくわかるよね。


なぜ、教師は学校という制度が破綻した物であると認識できないのか。

極論すると、そういう「制度・システムを疑わせない」ためのこのような破たんした教育システムを行っている。

さらにいうと教育システムとしては破たんしていても洗脳・飼育装置としては、一程度成功しているのが日本の学校教育ってシステムだからだって言い得る。

なぜそこまで「制度・枠組・システムを信じさせる」のか?

それは国家・政府に従順な「人間」という奴隷・家畜の育成こそが、日本の学校教育の裏の至上命令であるから。
さらにいうと「天皇制」という政治制度としたら欠陥の屑なのようなのにそれを疑わせないための方策でもあると思える。


おなじく より

上記文抜粋
・・・・・・・・・
人格を壊して遊ぶ…日本で「いじめ自殺」がなくならない根深い構造

戦争中の全体主義を超えている…

なぜ「いじめ自殺」が後を絶たないのか? 「教育」なら何でも許されていいのか? 大反響となった「いじめ自殺を隠蔽するとき、教育者が必ず口にする『異常な論理』」につづき、茨城県取手市・中3女子自殺事件の核心に迫る。


「いじめ殺す」とは何か?

茨城県取手市・中3女子自殺事件のように、子どもが自殺に追い込まれ、いじめ殺されてしまうのは、逃げられず対人距離を調節できない閉鎖環境の効果が大きく関与している。

このような有害作用から子どもたちを守るために、閉鎖空間に閉じこめ強制的にベタベタさせる現行学校制度を見直すことを、公論の主題にしならなければならないのではないか。

ここでは、中島菜保子さんが学校のグループ(教員が含まれる可能性もある)によっていじめ殺された経緯から、閉ざされた集団生活のなかで、加害者がどこまでも加害を続け、被害者が内側から破壊されるしくみを考える。そして、国や自治体の「閉鎖空間設定責任」という新しい考えを世に訴える。

いじめ殺すとは、「さんざん苦しめ悩まして殺す。苦しめ抜いて死なせる」(『日本国語大辞典』)の意である。

資料は限られている。菜保子さんがグループに囲い込まれ、迫害され、壊されていった具体的な出来事についての報道は、教委に関する報道に比べて、とても少ない。

学校や教委は、生徒を外部社会の力に触れさせたくない。彼らを<自分たち教育のもの>にしておきたい。<我らの世界>で起きた残酷と不正を隠したい。当然、学校や教委は、生徒への直接取材をしないでほしいとメディアに強く要求する。

だからこそ、学校や教委が最もいやがることをしなければならない。

メディアは、学校と教委が子どもたちを<教育のなかの我らの世界>に囲い込んで隠蔽するのに対し、それをこじ開け、市民社会の公共性のもとに引きずり出し、照らし出さなければならない。それが社会正義の担い手としてのジャーナリズムの役割である。

菜保子さんがいじめ殺された経緯について、きちんと調査取材をして報じようとしたのは、筆者が知るかぎり週刊文春と産経新聞だけである。

以下、『週刊文春』2017年6月15日号と『産経新聞』2017年8月6日の記事から菜保子さんがいじめ殺された経緯を紹介する(二つの記事を要約しつつ合成しているが、まとまった文章をそのまま用いた箇所もある)。

「きもい」「うんこ」「クソやろー」

菜保子さんは、中3のクラス替え後、A子らのグループで行動するようになった。

進級直後の4月、「いやなクラスになった」と母にこぼしていた。

最初、素行の悪いA子と距離をとろうとしたが、「菜保子に無視された」と文句を言われ離脱できなかった。

そのうち、クラスメートの前で「きもい」「うんこ」「クソやろー」などと言われるようになった。

B子が4月まで交際していたA君のとなりに菜保子さんの席があり、二人が会話をすることがあった。それをB子が妬み、A子に伝えた。それから、いじめがさらにひどくなった。

A子が「行くよ」と命令すると、菜保子さんが「うん」と返事して、暗い顔でグループの後をついていく。A子が「早く来いよー、うんこー」と呼びつけていた。こういったことがしばしば目撃されていた。

女子トイレで菜保子さんだけが個室に入っていて、3人が外から「なんかくさくねえ?」「まだ出ちゃだめだよ!」などと言っていて、閉じこめられている様子だった。

グループは菜保子さんをトイレに連れて行き、授業に遅れるようにしむけた。しかも担任のT教諭の授業の前にことさら遅れていた。

たとえばA子は、トイレの前で「あんた、ちょっと持ってなよ」と教科書を持っているように命じ、菜保子さんが自分といっしょに授業に遅れていくようにしむけた。

このようなことが起きたとき、担任のT教諭は、A子らを叱らず、菜保子さんだけを生徒たちの面前で叱った。「前に来なさい。遅れた理由を言いなさい」などと言って、菜保子さんだけを叱るのだ。

同級生は、こういうことが5、6回あったと証言する。別の生徒は「中島さんを狙い撃ちにしている感じ」と証言する。

T教諭は生徒の好き嫌いが激しいことで有名な人物だった。A子はT教諭と良好な関係だった。

菜保子さんは部活動をしていなかった。理由は幼いころから続けているピアノのレッスンがあったためで、高校も東京都内の名門校への進学を希望し、それも叶えられそうな方向で進んでいた。

居残り授業に参加せずに菜保子さんが帰ろうとすると、T教諭は「ピアノばかりやっていても仕方がない」と怒った。母によると、三者面談の際、T教諭は「2学期の態度を見て志望校を一校に絞っていいかどうか、こちらで決めます」と言った。

T教諭について、ある同級生は「先生も中島さんに嫉妬している感じだった。A君と隣りあわせにした席替えで、B子さんが中島さんに嫉妬して激しくなったいじめだけど、それにT先生が加勢した感じ」と言う。

A君と菜保子さんの席を隣り合わせにしたのもT教諭だった。しかも席替えがあっても、A君と中島さんの席だけは不動で、こうした不自然な席替えが4回もあったという。

A子が菜保子さんを、離れていても「バンバン」と聞こえるほど叩いているのを、同級生が見ている。

〔PHOTO〕iStock
10月には、菜保子さんは「くさや」と書かれたメモをノートに貼られたり、「くさや」と声をかけられたりするようになった。

机の上に落書きがはってあったのを見つけた菜保子さんが、暗い顔で消していたのを複数の同級生が見ている。

「くさい」「くさや」といった悪口は、ほぼ毎日続いた。

音楽室で行われていた合唱祭の練習のさいにも、C子が菜保子さんを別の生徒の前に引っ張っていき、「この子、くさくない?」と言った。

あるとき、ピアノを弾いている菜保子さんが、A子らのグループとは別のクラスメートと楽しく話していた。そのクラスメートが「なお、すごいよね」と言っていたら、A子とC子が面白くなさそうに「えっ?えっ?何が?」と言った。

体育祭のバスケットボールのチーム決めのとき、A子らが相談して、菜保子さんを外すように仕組んだグーパーじゃんけんをした。菜保子さんは下駄箱のところで泣いていた。

A子とC子が「壁ドンごっこ」をして教室のドアのガラスを割った。菜保子さんは関与していない。しかし、非常勤講師、学年主任、T教諭、教頭らに次々と叱られた。菜保子さんは「A子とC子が割ったのに…」と言って泣いていたという。

様子がおかしいので母がT教諭に電話をした。

T教諭は、母に次のように言った。

「菜保子さんではないが、お友達がガラスを割った。割ったこともよくないが、その後の態度が悪かった。逃げようとした。3人のうち2人が逃げようとした」
「こうなった(ガラスが割れた)ことは、元に戻さないといけないよね、と菜保子さんに言いました」
「菜保子さんは何と言ってますか」

母「泣いています。関係ない、知らないと言ってます」

T教諭「泣いているということは本人も反省しているということです」

その後菜保子さんは「明日二人(A子とC子)ににらまれる」「学校に行きたくない」と言い、首を吊って死んだ。



毎日が怖い、自分が嫌い…

菜保子さんの自殺後、11月16日に両親がみつけた日記は次のようなものだった。

報道では、日記の内容がわずかしか紹介されていなかったので、テレビ(TBS「News23」(2017年5月29日放映)、NHK「クローズアップ現代」(2017年7月18日放映)など)の録画画面に映った日記から筆者がメモしたものを大幅に加えた。

「もうやだ…あんなに学校が楽しいって思ってたのに…たのしくない
気づかってばっかで自分がだせない。自分の性格もきらい。いやだ…
…がいなかったら、自殺してた。ありがとう。あと、ごめんね。本当に…なんか変わっちゃった。どうしたの?自分は何もしてないのに

ひどい…。傷つく。ストレスがたまる。
気分屋がきらいって…言ってたけど…
おまえもだよ  なんにも自覚してない
…には、めいわくかけてると思う
あまり うちといてもたのしくは…
ホッとしたい。
明日は、ぼっちにされるのかな?
それとも上手くすごせるかな?
不安。
…大丈夫。大丈夫って、自分に言いきかせても、目に涙があふれてくる
それを自分でごまかそうとしている。
いや…ごまかしている。
目は涙目だけど。
おねがい
…これ以上苦しめないで。
…苦しい、悲しい、さびしい」

〔PHOTO〕iStock
「いやだ もう 学校きらい…3年のある日突然から。2年は、こんなことなかった」

「ピアノも 勉強も 友達も なにもかもが上手くいかない。だから死にたい」

「いじめられたくない。ぼっちはいやだ」

「(他の女子生徒の名前)お願いだから、耳打ちは、やめて おねがい。本当に」

「毎日が怖い。今日はうまくいくのかいかないのか。家に帰ってからも、そのことばかり考えて、疲れた。明日も(ひとり)ぼっち?それとも上手くいくのかなって…怖くてしかたがない。毎日、不安な夜を過ごしてる。疲れがピーク」

「友達が居なくなるのが怖い、本当にこわい」

「おねがい…私を一人にしないで。おねがいだから。今日みたいな日が毎日だったらどれだけ楽しいか。(複数の女子生徒の名前)…」

「…にもんくばっか言ってる。自分が嫌い。死にたいくらい」

報道を読むかぎりでは、加害者たちが行った一連の行動は、一回かぎりと考えれば、それほど大きなダメージを与えるようなものではないはずだ。

では、なぜ加害者が怪物になり、被害者は死ななければいけなかったのか。


世界でもめずらしい日本の学校教育

先進諸国の標準的な市民社会では、このようなことをする人物がいたとしても、一回だけいやな思いをした後で自由に距離を取ることができる。給料や学力認定を得るために義務となるのは、範囲が狭く限定された仕事や勉強だけだ。

それ以外の対人距離は、個人が魅力と幸福感にもとづいて自由に調節できる。だから、大きなダメージになることもなく、安心して生活することができる。

だが、日本の特殊な学級制度は、閉鎖空間に囲い込んで強制的にベタベタさせるよう、考え抜かれて設計されている。人間を個の人から群れの人へと内から変化させるのが、中学校の本当の目標である。

当然、兵営や刑務所のように、市民的な距離と個人主義が発生しにくいしくみになっている。逃げ場なく密着させて人を内側から変化させる爆縮レンズのような構造になっている(http://www.antiatom.org/GSKY/jp/Rcrd/Basics/jsawa-10.htm)。

日本の中学校のように、勉強ではなく、ベタベタ群れさせることに主眼をおいた学校教育は、世界でもめずらしい。

日本の中学校のクラスは、共に生きることを無理強いするための生活学級だ。どんなに嫌なひとたちでも、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで、共に生きなければならない。

学校は勉強するためにいくところだ、と感じている生徒はほとんどいない。生徒にとって学校は群れて生きなければならないところである。それを個人で拒むことは許されない。

一人でいること、あるいは一人でいることを<みんな>に見られることは、異常で恥ずかしい。それは、考えただけでも凍りつくような恐ろしいことだ。

このベタベタした<距離なし生活>を強いられる閉鎖空間で、悪意の行為がこれでもか、これでもかと繰りかえされると、通常の市民生活では考えられないような、けたはずれのダメージが生じる。これが被害者の身に起きたことである。

だから「人間壊し遊び」が生まれる

学校の磁場が、被害者の菜保子さんを突き落としていくさまを見てみよう。

最初「いやなクラスになった」とこぼした菜保子さん。群れずに一人でいることが実質的に不可能な中学校で、たまたまA子らのグループで行動するようになる。その後、素行の悪いA子と距離をとろうとしたが離脱できなかった。

それから、自殺に至るまでの数ヵ月の急展開が起こる。菜保子さんは、A子らのグループに囲い込まれ、引き回され、人間の人格を壊して遊ぶために飼育する<友だち家畜>の状態にさせられた。

これが通常の市民生活であれば、菜保子さんの身にふりかかったような不幸は、起きようがない。

たしかに、世界中どこでも、学校は多かれ少なかれ閉鎖的な空間である。だが、日本の中学校ほど程度が極端に「多かれ」でなければ、菜保子さんが亡くなることはなかったはずだ。

たとえば、世界で普通にみられる習熟別クラス編成で、授業ごとに次々とクラスを移動するのであれば、A子たちのグループが行ったような囲い込みと<人間壊し遊び>は、やろうと思ってもできない。

このような遊びの行動プランは、被害者を逃げないようにできる密閉空間を必要条件とする。<人間壊し遊び>は、開かれた市民の生活空間では非現実的であり、頭の中の選択肢から消える。その結果、やろうとも思わなくなる。


多くの人が見逃しがちな盲点

加害者が「怪物になる」しくみについては、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)で論じつくした。これは学術書『いじめの社会理論』(柏書房)をわかりやすく新書化したものだ。TEDxスピーチでも要点を説明した。


筆者による最先端の理論は、「学校の秩序分析から社会の原理論へ――暴力の進化理論・いじめというモデル現象・理論的ブレークスルー」『岩波講座 現代 第8巻』第9章(岩波書店)で提出した。いじめ加害者については、これ以上書くことはない。

だが、被害者については、いくつか世に問わなければならないことがある。

菜保子さんのように、もっぱらコミュニケーション操作系のいじめ(物理的暴力ではなく、もっぱら言葉やしぐさによるいじめ)によって大きなダメージを受けた被害者について、多くの人が見逃しがちな盲点がある。

なぜ、敵であり、赤の他人である加害者グループに服従し、連れまわされ、<友だち家畜>のような状態にされてしまうのか。

ひどい暴力的な処遇が人間を無力化してしまうことは、よく知られている。

たとえば、殺されていく数千人のユダヤ人の列を監視するナチスの人員がほんの数人なのに、なぜ逃げずに従順に従うのだろうか。

東京都足立区で、女子校生が不良少年のグループに監禁され、輪姦され、なぶり殺された。遺体はコンクリート詰めにされて捨てられた。

有名な女子校生コンクリート詰め殺人事件で話題になったのは、逃げるチャンスがいくらでもあったのに、どうして女子校生は逃げようとしなかったのか、ということだ。マフィアやゲリラに誘拐されたり、捕虜になったりした人たちも、よく似た状態になる。

心理学者のフィリップ・ジンバルドーは大学の地下に模擬監獄をつくり、十数人ずつの健康な若者を、看守役と囚人役にわけて共同生活をさせた。すると、看守役は囚人役をいたぶって遊ぶ怪物になり、囚人役は精神に変調を起こし、無力化されてしまった(TEDトークを参照)。

このようなことは、もっぱら激しい暴力的圧迫のもとで生じ、通常の非暴力的な生活レベルでは生じるはずがない、と思われるかもしれない。

しかし、上で紹介した記事と菜保子さんの日記、そして多くのいじめ被害の記録をあわせ読むと、閉鎖空間に閉じこめ強制的にベタベタさせる学校では、悪口、しかと、嘲笑といったコミュニケーション操作系のいじめだけで、ナチ収容所、女子校生コンクリート詰め殺人、ゲリラやマフィアによる拉致誘拐、ジンバルドーの監獄実験と同形の、人間破壊が多かれ少なかれ生じうることがわかる。

この「多かれ」の局面で、さまざまな偶然がかさなり、菜保子さんのように死に追い詰められる犠牲者が一定数でてくる。

私たち、日本の中学校で3年間の集団生活をさせられた者は、多かれ少なかれ、菜保子さんと同じ形の、人間破壊を受けているのではないか。

わたしたちがまわりの空気を気にして、何か自分が滅ぼされてしまうような不安をおぼえるとき、その後遺症が出ているのではないか。

わたしたちは菜保子さんを「かわいそう」と言う前に、過度に集団化された学校生活のなかに埋められた過去の自分を抱きしめるべきではないだろうか。

そして痛みとともに、頭に埋められた洗脳チップを引き抜くべきではないだろうか。

私たちは、たまたま生き延びることができた菜保子さんではないだろうか。


NEXT ▶︎ 義務教育による集団洗脳

学校という閉鎖空間の有害作用


「なんでこんなことぐらいで」「この子は弱いのではないか」と言う人には、この図を頭に叩き込んでもらいたい。



同じことをされても、広い生活圏で自由な市民として生きているほど苦痛は小さく(図のA)、狭い世界で絶えず周囲に運命を左右されて生きているほど苦痛が大きい(図のB)。

特に小学校高学年から中学校では、それが極端なまでになりうる。裁判官やジャーナリストや研究者は、大人の平均以上に自由で広い世界を生きている。

自分が同じことをされたとしても「どうということはない」という図のA地点の感覚で、極端に狭い世界で自由を剥奪されて生きている中学生(図のB地点)を評価しないでほしい。特に裁判官は、閉鎖空間の有害作用を考慮に入れて「自己過失割合」を計算するよう注意してほしい。

自由な市民であるあなたが自殺する場合と、きわめて有害な閉鎖空間で<友だち家畜>にされてしまった中学生が自殺する場合では、まったく事情が違うのだ。

ところでこの有害な閉鎖空間は、国や地方公共団体が制度的に設定し、強制したものだ。それならば、国や地方公共団体には、閉鎖空間による有害作用によって人を害した責任があるのではないだろうか。

たとえば公営プールの設計ミスによって排水溝付近に渦巻きが発生し、それによって溺死者が続出した場合、公共団体にはその設計ミスの責任がある。訴訟になれば損害賠償の義務が生じる。

また、すぐにプールを閉鎖し、プールを設計しなおし、安全を確認したのちに、はじめて再開することができる。危険なまま有害プールを市民に提供してはならない。

これと同じことが、学校という閉鎖空間の有害作用についても言える。

筆者はここで、国や地方公共団体による「閉鎖空間設定責任」という概念を提出する。

法律関係者には、いじめ関連裁判のための、閉鎖空間設定責任の法理を磨き上げることをお願いしたい。この責任概念が法曹関係で効いてくると、日本の学校が改善され、子どもたちの苦しみを減らすことができるかもしれない。

戦争中の全体主義を超えた瞬間

最後に、日本の学校が全体主義的であり、これが全体主義に抵抗がない大衆を生み出す、強力なインフラストラクチャーになっていることを指摘したい。このことについて、『教育新聞』(2017年5月22日)に書いたことをもういちど繰りかえす。

昭和初期から敗戦までの日本は、天皇を最高尊厳とし、天皇を中心とする高次の集合的生命である「国体」を最高価値とする、現在の北朝鮮とよく似た全体主義社会であった。

一人ひとりが「日本人らしく」天皇の赤子になり続ける「くにがら」を守ること(国体護持)がなによりも重視された。一人ひとりの命は鴻毛(羽毛)のように軽い。

カミカゼ自爆攻撃などで死ぬ瞬間こそが、人として生まれた最高の栄誉であり、華やかに花が咲いたような生のきらめき(散華)でなければならない。親はそれを光栄ですと喜び祝うことが強制された。

「国体」については、「世界が警戒する日本の『極右化』〜私たちはいま、重大な岐路にいる」で詳しく書いたので、そちらを参照されたい。

戦時中の「国体」の「日本人らしく」を、戦後の集団主義学校の「生徒らしく」に、「くにがら」を「学校らしさ」に置き換えれば、戦争中の日本と学校は同じ全体主義の形をしていることがわかる。

学校の全体主義(中間集団全体主義)について知りたい方は、拙著『いじめの構造――なぜ人が怪物になるのか』(講談社現代新書)を参照されたい。

最後に、学校の全体主義が、戦争中の大日本帝国の全体主義を超えた瞬間を記録した動画があるのでご覧いただきたい



中学校運動会の巨大組体操の崩落事故で、親たちは盛大に拍手している。事故のありさまを見れば、障害が残るけがをしても、あるいは死者が出てもおかしくない。

赤子のころから大事に育てた、なによりも愛しい子どものはずである。交通事故なら、すぐに駆け寄り、わが子を探して、生きているか、けがをしていないか確認し、無事であれば泣いて喜ぶような事態である。

だが、学校の集合的生命が生き生きと躍動する運動会で、親たちは、子どもが集団的身体として散華する姿に拍手している。戦争中の日本ですら、親は強制されて喜ぶふりをさせられていただけで、このような自発的な拍手はありえない。

「共に生き」るはずの「ともだち」は、うずくまっている他人を無視して、軍隊まがいの整列で、「ぴしっ」と兵隊のまねごとをしている。

義務教育によってこのような集団洗脳をすることによって、他の先進諸国であればナチスまがいの発言をしたとして絶対に国会議員になれないような人物に、何も感じずに投票する大衆が生み出される。

また、ブラック企業と呼ばれる職場を、あたりまえに感じる大衆が生み出される。学校教育のおかげで、市民は育たない。自由も民主主義も社会に根づかない。

学校は、習慣化された感情反応に包み込んで「国体」を護持し、国を再全体主義化するための、貴重なインフラストラクチャーになっている。その成果が実り、今、全体主義勢力が社会を飲み込もうとしている。


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・・・・・・・
抜粋終わり

なぜ、郵政選挙でネオコン思想を宣撫した小泉一党が勝ちまくったか?

なぜ悪政を繰り返す安倍総統とその仲間が大負けせず若者が多く支持してネトサポになっているか?

簡単にいうと、大人が成長する学校現場が、そのような場所だったから。


ようは「学校」こそ、日本人抹殺工場の最大のモノである。

で、教師はいくら優秀で善良であってもその事に気が付いて学校を辞めない限りに極悪人なのである。



もう、根っこから日本は滅びないと、日本人は存在しえない状態になりつつある。これをみてもわかるが、
国体制は「非軍事化」されたまま、延々と戦後も続いてきたのだ。

いや軍国体制ですらない。天皇真理教カルト体制である。

そういう意味では、学校教育が癌であるとしたら、天皇制・あるいは敗戦の責任を取らない天皇が、一番の癌の原因・あるいは巨大な日本の癌なのである。




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