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日本天皇国滅亡記。{渾沌堂主人雑記}天皇を看板にする「愛国」をいう偽物は要らん。

故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。

なるほど。 
エンサイクロメディア空海 より

上記文抜粋
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密教と異宗教New



 高野山大学大学院(文学研究科)の修士課程に密教学特殊研究Ⅷ(密教と異宗教)という科目がある。内容は「空海と空海が拠って立つ密教に見られる思想、宗教性、修行や信仰のあり方などに関して、異宗教とくにキリスト教との対比の中から、その特殊性と普遍性を指摘することによって、宗教間の対話を可能にする共通性があることを明らかにし、さらには、高野山が持つ宗教性をも広く普遍的な立場から論じたい」(高野山大学大学院通信教育課程ガイドブック)というものである。




 担当教官のティエリ・ジャン・ロボアム教授は、高野山在住(当時10年以上)の、空海の原文を読みこなすほど日本語の熟達した密教学研究者であり敬虔なカトリック修道者(司祭)でもある。講義内容は主にユダヤ・キリスト教についてであった。




 単位修得の最終試験に「密教と異宗教が対話するとき、どのような刺激的な出会いが生まれるか述べよ」という問題が出された。教授はただの博覧強記の論文など読みたくない、あくまでテーマに対して自分の主張を述べよと念をおされた。私は一神教と多神教の神概念の違いを骨子にして、以下のような観点から論述した。




1.ユダヤ・キリスト教と密教との比較において、神道と密教と『聖書』における言葉の類似性と相違について。
2.ロボアム教授の提起した疑問(明治の近代国家としての大学制度において、なぜ仏教系の仏教学者たちは独自の方法論を作る必要がなかったか)に対する自分の考え。
3.空海の発見した「ことば」の世界とロゴスの根本的な相違。
4.ヘレニズムとヘブライズムの相違。
5.密教と異宗教との出会い。




 以下はそのときの論述をもとに加筆して、『空海論遊』のためにわかりやすく再論述するものである。




◆本論




 空海が比類なき精緻さと深さで発見した「ことば」の世界は、わが国において言葉の霊力を信じる神道との出会いを深めただけではなく、今日異宗教を考える上においても多くの示唆を与えるものである。




 言葉に不思議な力が宿ると信じるのは洋の東西を問わないが、わが国には古来よりコトダマ信仰がある。コトダマは言霊とか言魂と書く。神道の考えでは言葉は神であった。「神ながら、言霊の幸(さき)わう国、言霊の扶(たす)くる国」(『万葉集』)が大和の国である。言葉は神秘的であり、神霊が宿り超越的な力があると信じられてきた。




 密教によって熟成した神仏習合の背景にはそのようなわが国の「言霊信仰」が土壌としてあったように思う。言葉に神の霊威が籠るとする日本の精神風土を考えると、真言密教は本来日本人に馴染みやすいものであると思われる。この馴染みやすさは、一方では難解な密教学の大成者であり崇厳な神仏と尊崇される弘法大師が、別な面では広く「お大師さん」と敬愛され、身近く庶民に慕われてきたことと無縁ではあるまい。




 言うまでもなく真言は呪である。呪は行者(信者)と神仏を取り結ぶ聖なる言葉である。真言陀羅尼は時代と共に一方では念仏に影響を及ぼし、鎌倉時代には専修念仏、称名念仏が爆発的に流行した。これも言葉に対する日本人の信仰的情熱が易行仏教に収斂されていった宗教的現象であろう。




 さて、異宗教を考える上においても「ことば」がキーワードとなる。イスラエルの民もまた「ことば」が神であった。「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。」(『聖書』)のである。このように日本民族と「聖書の民」には言葉において根源的に通底するものがある。しかし相違点があることも事実である。そして、これもまた「ことば」の根源性に帰着するのである。




 「ことば」をテーマとした比較宗教論を述べるにあたって、まずロボアム教授の提起した疑問について考察したい。教授は「明治の近代国家としての大学制度において、なぜ仏教系の仏教学者たちは独自の方法論を作る必要がなかったか」と問うている。(『空海の思想とグローバル化時代における諸宗教間の対話』高野山大学)教授は日本の政府は西洋に学んで近代国家を成立するなかで、西洋は鑑(model)よりも鏡(mirror)であった点を挙げている。日本の近代の大学制度はドイツを見習いながら、当時ドイツにおいて最も重要な位置を占める「神学部」を採り入れなかった事実を取り上げ、どうして日本の大学に「かみ学部」を置かなかったのかと問いかける。ドイツでは第一学部が「神学部」である。西洋における宗教学、宗教哲学、比較宗教学などはすべて神学から独立した学問であるからだ。




 日本はキリスト教国家ではないので大学において神学部を作らなかったことは不思議ではないが、キリスト教に基づく神学部の代わりに、例えば神道の教えに基づく「かみ学部」、あるいは仏教に基づく「仏法学部」などを作らなかったという決定が実に不思議であるという。




 教授の指摘は西洋人からすればもっともである。明治新政府は国家の統合原理として国家神道をおきながら、帝国大学においいて国家神道は「独立した学部」にならなかった。近代の実学の吸収を急ぐあまりに、文明開化の合理的精神が意図的に軽んじたとも思われない。




 教授によると、その後日本で様々な私立の仏教系の大学が創立されたが、これらの大学でさえ「神学部」のような学部を作らなかった。西洋における神学は学問の世界で独自の重要な役割を持っているが、日本の大学で仏教学、または密教学はこのような立場をもっていない。仏教学が大学の学問として受け入れられるためには、他学問の方法論を利用する必要があった。例えば、歴史学の方法論を利用して密教の教義を説明するなどであるという。確かに高野山大学においても文学部の中に密教学科はあるが専攻学科であり、神学のような「独立した学部」としては存在しない。




 この間の事情や経緯について私は詳らかに答えることはできないが、「なぜ独自の方法論を作る必要がなかったのか」という疑問にあえて私見を述べるなら、「必要がなかったから作らなかった」と答えるしかない。これは明治政府の政策というよりも、日本人の「神仏=ことば」に対する西洋人との本質的な違いが「そのようにさせた」のではないかと思う。意図したものではなく民族的な無意識のようなものである。




 ともかく政府の意図はどうであれ、帝国大学のようなアカデミズムの頂点でさえ、純然たる「神学部」(かみ学部・仏法学部)を作らなかったのは、西洋人と日本人の言葉に対する感性の違いであろう。(この言葉における日本人の特殊性が国際社会において日本が誤解される所以でもあるのだが)




 なぜなら、純粋な学問の研究の場(神学部)を設定しなくても、そのことが日本人の神仏観にほとんど影響を及ぼさないからだ。その理由を大雑把にいえば、日本人にとって神仏の存在は「自明」だからである。ここにユダヤ・キリスト教との決定的な神概念の違いがあり「神=ことば」の問題も横たわっている。




 ギリシャ哲学以来、西洋の学問はロゴスに依って進展をみてきた。神学もまたその範疇にあると思われる。ロゴスは言葉である。「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった・・・。」と、神が「ことば」(ロゴス)と共に現れたとき、その「ことば」は意味や解釈を研究する学問(神学)となり、独自の方法論となりえる。つまり「聖書の民」は初めに神がロゴス(ことば)を発したとき、すでに神学が生まれる契機があったのではなか。別言すれば、「聖書の民」は神のことばを聴いた時に、初めて神(ゴッド)の存在を認識し、民族の精神に「神が入った」ともいえるのだ。




 対して日本人は直接神の言葉を聴かずとも神の存在を感じる民族なのである。それはあたかも、自分も神の一血脈であるかの如くに、内側から感じる感覚である。例えば西行法師が伊勢神宮で「何ごとかおわしますかは知らねども、かたじけなさに、涙流るる」と詠ずる「何ごとか」とは神のことを指す。しかしここに「神のことば」はない。キリスト教からすれば、確かに非論理的であり日本人の奇妙な宗教観といえるかもしれないが、それが日本人の神観念である。




 このような宗教感覚をもつ日本人は、ロゴスを駆使する(神学)の確立には不向きな資質があるが、反面、言葉ならぬ言葉(いわゆる秘密語)をキャッチする感性には秀でている。また西行が「何ものか」ではなく「何ごとか」と表現したところに特定の神(創造主・一神教の人格神)を設定しない日本人の汎神論的な神仏概念が表れている。 

 

 「言霊信仰」はそのような「何ごとか」の世界を畏れ敬うところから生まれてきた。日本人にとって神仏は自明の存在であり、極論すればあえ学ぶ必要も、神学という学問の方法論も不要であったのだ。神道が宗教の源泉だとする学説があるが、日本の神道はしばしば多神教であるといわれるように、自然界の万物に神性を見、自然界に起きた諸々の現象に八百万の神々の存在を認める。いわゆる<神ながら>とは、自然に遍在する神々のすべてと一体化する、ということである。




 空海の天才性は、そのような日本民族の宗教的自然観から生まれた神観念を救い上げて、体系的にまとめ、高度に理論化したことである。その上で真言と神前で唱える「祝詞」との相違をいえば、真言は祝詞や託宣のように人間の思いや判断を含む言葉ではなく、反対に思考を中断させる点にある。




 経文は仏説を文語(人語)で表したものであるから、密教と比較すれば祝詞や託宣やロゴスによる『聖書』に近いといえる。とりわけ龍樹(ナーガールジュナ)以後の大乗仏教はその傾向を強めた。したがって奈良時代には経典の判釈をめぐって多くの宗派(学派)の哲学論争(神学論争)が華開いた。




 空海はそのような顕教の論争を「戯論」といい、迷いのもととする。『弁顕密二教論』の趣旨はそういうことでもある。空海の密教は論理的思考を一旦中断させ、言葉以前の世界に意識を集中させる。それはロゴス(人語)では聴き取れない如来の真実語(如義語・密語)を聴き取るためである。このような密教の本質を考えるとき、私は理性的、論理的、観念的なヘレニズムよりも、ヘブライズムを想起するのである。




 ギリシャ語は極めて哲学的な思考を好むヘレニズム文化の中で育った世界中で最も論理的な言語だといわれている。ギリシャ語によって『聖書』がわかりやすく表現できたことにより、世界中の異邦人にも福音を伝えることができた。しかし『聖書』がギリシャ語に翻訳されたころから『聖書』の本質に何か見落としはなかったか。『聖書』の本質に変容はなかったか。




 ヨハネによる福音書では「初めにことばがあった。」とギリシャ語に訳されているが、この「ことば」という単語は、当時のギリシャ哲学から借りて来た「ロゴス」という哲学用語である。これがユダヤ人の「神の言葉」であるヘブライ語の「ダーバール」に最も近い言葉だと考えたヨハネは、ギリシャ人に解かるようにロゴスという概念にヘブライ的な意味を付け加えたといわれている。つまり神を人格的な意味を持ったものとして新しく解釈し直して、このヨハネ伝1章の冒頭の一節を書いた。その時点で『聖書』は第一哲学たる神学を生み出す可能性があったのではないか。




 しかし『聖書』の原書はヘブライ語である。ヘブライズムは霊的、直覚的、行動的といわれる。すなわち超論理的なものを表現し、信仰に最もフィットした言葉とされている。ヘブライズムは神から人への啓示を根幹とする。聖書ヘブライ語の最大の特徴は時制がなく、論理や時間を超越した言葉だといわれる。まさに「ダーバール」は人語(ロゴス)ではなく「神の言葉」なのである。




 一方、ヘレニズムは理性的、論理的でありヒューマニズムにつながる。キリスト教の西洋文化が人間中心主義になるのは、創造主の神話(神は人間のために世界を創造した)だけでなく、ギリシャ語に翻訳したことも一役買ったのではないか。




 いずれにせよ日本民族はロゴスによって神を認識することはない。「葦原の瑞穂(みづほ)の国はかむながら言挙(ことあ)げせぬ国」である。学問として独自の方法論を確立するよりも別の方途で神仏と交流する民族なのである。




 このように考えると、もしかすると、真言密教はむしろヘブライの神と交差する可能性を秘めているのではないかと思い至る。すなわち密教は「ことば」の根源的なステージにおいて、異宗教ともより深い出会いが可能なのではではないかと思う。

 

 以上のようなやや独善的な内容にもかかわらず、教授には高い評価(満点)を戴いた。




◆以下はこのテーマについて、私の密教理解の捕捉である。




 このように「聖書の民」にとっては「ことば」と共に神が<引き出され>ていた。彼らは「ことば」によって初めて神を認識したのである。そして『聖書』は「神のことば」によって天地が創造され、諸々の存在に名が付されて世界が創造されたと語る。分節された言語による世界の創造は、後世ヨーロッパにおける要素還元主義の世界観を生む土壌にもなったようにも思われる。




 密教は「本不生」を説く。天地宇宙は初めなく終わりなく無始無終であり、有と無の対立もない。このような密教思想は、言葉を介さずに世界の本質に直面しようとすることでもある。密教の有する無限の奥深さは、言葉による天地創造以前の「沈黙の世界」を見つめていたともいえる。




 私はこれを「豊穣なる沈黙の世界」と呼んでいる。そこには『聖書』の説く創造主の意図や被創造物との区別もない。生み出すもの(能生)と生み出されるもの(所生)の二項対立は皮相的な見方であると空海はいう。「能所の二生ありといえども、すべて能所を絶せり、法爾の道理に何の造作あらん。」(『即身成仏義』)




 道教では天地創造以前を混沌と呼ぶが、空海が道教よりも仏教が勝さるとした理由は、混沌(沈黙)の中に「秩序」を発見したからである。「如来の秩序」である。であればこそ、その沈黙のうちから最初に顕われたものは、「阿」の一字であった。「如来の種字」である。




 デーヴィド・ボーム(理論物理学者1917~1992)のいう「織り込まれた秩序(implicate order)」の理論(『全体性と内臓秩序』青土社)は実に暗示的である。ボームの出発点は「不断の全体性」という宇宙の概念にある。彼はこの全体性の本質をこれまでの量子物理学の統計的理論体系を超越し、より深い、より不鮮明なレベルで、宇宙に「織り込まれた秩序」があることを確信している。ボームによれば宇宙には全ての物事の基礎あるいは基底をなす目に見えない多次元のパターンが存在する。彼のいう「包み込まれた秩序」とか「内臓秩序」とか呼ぶところの「隠された秩序」がそれである。(私が主張する仏の世界=N次元はこれと類似)




 仏教的にいえば現象以前の「無為の世界」である。私たちは具体的なモノ、コトの現象世界(有為の世界)こそがリアリティーだと認識しがちであるが、ボームはこれを「隠された秩序」からときおり<引き出される>「開かれた秩序(explicate order)」であるという。ボームは別名これを「内臓秩序」に対して「顕前秩序」ともいうが、仏教でいう「有為の世界」とはこの「顕前秩序」の現実性を指す。つまり私たちが住んでいる領域の現実性とは、分離している(と思っている)物象と事象の世界なのである。




 この「開かれた世界」の現実とは、川の表面で泡が現れたり消えたりするように、「隠された秩序」から時おり生じるものである。しかもボームによると「隠された秩序」こそが存在の本質であり根本なのである。泡は川と一体であるように、存在の本質世界は物象・事象・万物の「非分離」の世界である。




 また「開かれた世界(顕前秩序)」の現実をボームはホロムーブメント(holomovement)という言葉で表す。ホロムーブメントをフリチョフ・カプラ(理論物理学者1939~)は次のように解説する。「彼の言うホロムーブメントとは、あらゆる形態の物質的宇宙が流れ出してくるダイナミックな現象さす」(『タオ自然学』工作舎)




 さて、宇宙の多次元の中に「内臓された秩序」から、「顕前秩序」へ最初に<引き出されたもの>は、空海の教えによれば「ことば」ではなく「ア」の一声だけである。しかもそれは法身の名(神仏)をあらわしている。声は字であり、字は声である。「ア}が法身の声であれば、字も法身である。故に声と字は法身である。故に文字、単語、熟語はみな悟りの当体である。如来の種子は真言を成立させたばかりでなく、諸々の言葉となって事物・物象を顕わした。全ての有情、非情に如来の「識大」は宿るからこそ、真言は感応するのである。これが空海の確信した「如来の秩序」である。




 聖書の神は<引き出された>「ことば」を使って神を現わしたのである。言葉は分節である。故にキリスト教では神と人間は分断されるのである。彼らにとっての現世とは、当初より創造主と被創造物という相対世界の始まりでもあった。密教が壮大な曼荼羅世界において特定の神だけでなく諸神諸菩薩、天・人・鬼まで、存在の不断と全体性を示すのは、ボームの原理でいえば、<引き込まれた世界>(現象以前の隠された存在)では神も人間も一体であるということになる。




 であれば異民族であっても人類はみな平等に「阿字の子」である。それぞれが法身大日如来の、いわば「宇宙的いのち」のホロンなのである。当然のことながら、密教では(神と人間)は連続している。これが存在の本質である。これをキリスト教的に言えば、「初めに阿字があった。阿字は法身と共にあった。阿字は法身であった」ということになろう。




 ニュートン物理学からアインシュタインの理論、さらに量子論へのパラダイム・チェンジは、現象についてより深くより完全な説明をもたらしてきた。相対性理論が不思議だと言われたとき、アインシュタインは「理論はべつだん不思議ではない。むしろ不思議なのは、宇宙がこのようになっている事だ」と言ったという。事実がいくら理論的に解明されても、存在する事実そのものの不思議さを科学では説明できない。




 科学が最終的に直面するこの不思議の壁を、空海は突破してきた。華厳学を超えた空海は、存在する事実はそのまま如来の実相(真実・説法)であると確信した。そして説法は必ず声と文字とによる。空海のそれは<引き出された>ことば(ロゴス)ではなく、存在する事実そのもの(実相)を如来の「声字」と感得し、この宇宙言語を全身で聴き取ったのである。




五大皆響きあり、十界に言語を具す、六塵は悉く文字なり、法身は是れ実相なり。

                             (『声字実相義』)




 さて、密教学特殊研究Ⅷの目的は「宗教間の対話を可能にする共通性があることを明らかにする」こと。さらには、「高野山が持つ宗教性をも広く普遍的な立場から論じること」ということであった。私は空海が発見した言語以前の世界においてその可能性を主張した。しかし私は形而上学を述べたつもりはなく現実の一歩を論じたつもりである。そもそも空海の思想が観念や思弁であったことは一度もない。釈迦の教えも同様に常に現実論である。いずれも実人生と現実社会に還元されうる思想である。




 神を崇拝するのは人類だけである。だが皮肉なことに、<引き出された>神とその教義の違いによって、人類は民族的欲望と正義、差別と収奪、闘争と殺戮の歴史を刻んできた。文明社会といわれる現代においてもこの状況は全くといっていいほど変わっていない。もしも世界の国々が無明の欲望とそのエネルギーを肥大化させていくなら、遠からず人類は決定的な危機を迎えるだろう。




 私は文化ナショナリズムを超えた考え方は密教にあると信じている。あとは世界の宗教者がそれに気がつき、人々がそれに目覚めるかどうかである。私が弘法大師を信奉するのは、密教のもつ宇宙的な普遍性を具現化することが今日の、そして本来の、そして万国共通の宗教の目的だと考えるからである。日本真言宗の究極の目的は、この先何年かかろうとも、世界に向かって各々の宗教の根源的背景は密教的な普遍性でつながっていることを認識・普及させることではないかと思う。

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抜粋終わり

 >道教では天地創造以前を混沌と呼ぶが、空海が道教よりも仏教が勝さるとした理由は、混沌(沈黙)の中に「秩序」を発見したからである。

へ~とは思う。が、実は老荘は基本的に「混沌の中の秩序」を暗示はしている。

しかし当時の仏教の顕教が「悟りは表現できない」というのと同じく、明示はしなかった。

それを明示して表現できるとしたところが、仏教をあえて「勝る」言い得る場所だろうかな。

>対して日本人は直接神の言葉を聴かずとも神の存在を感じる民族なのである。それはあたかも、自分も神の一血脈であるかの如くに、内側から感じる感覚である。例えば西行法師が伊勢神宮で「何ごとかおわしますかは知らねども、かたじけなさに、涙流るる」と詠ずる「何ごとか」とは神のことを指す。しかしここに「神のことば」はない。キリスト教からすれば、確かに非論理的であり日本人の奇妙な宗教観といえるかもしれないが、それが日本人の神観念である。

> このような宗教感覚をもつ日本人は、ロゴスを駆使する(神学)の確立には不向きな資質があるが、反面、言葉ならぬ言葉(いわゆる秘密語)をキャッチする感性には秀でている。また西行が「何ものか」ではなく「何ごとか」と表現したところに特定の神(創造主・一神教の人格神)を設定しない日本人の汎神論的な神仏概念が表れている。 




下手な人語は、神仏を消滅させる・介在を失う。それどうも日本とそこの住人は知ってた。てのが不思議なところだ。
「誰もが寺社にお参りして霊妙なる気を感じる・それが日本の宗教」と神道家が最近言っているが、上記文の一面を表している。

まあ自分であとは考えて感じてね。

再見!

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