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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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国際秘密力研究 より

上記文抜粋
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ツイートまとめ テーマ:偽装戦術を破る正名論及び記号操作に対する自己防御法について

〇疑問を提示したり、推測や推理、仮説を述べたりしただけで必死に「否定」しに掛かってくるという焦りや余裕の無さが見て取れる言動は「火消し」行動としか思えず、そう捉えられても仕方ない。しっかり妨害者の言動を分析する事にしている。願わくば工作員が足を踏み入れたら最後の「地雷原」たらん。

〇以前読んだ民俗学の本に「妖怪は名指しされると退散する」という俗信があったと書いてあったと記憶するが、「ネトサポ」に「ネトサポ」「工作員」に「工作員」と指摘すると消えるという生態は彼らも「妖怪」みたいなもの、という事だろうか(笑)民俗学が扱う俗信の類は人間の生態の反映かもしれない。

〇支那では名ではなく字(あざな)を用い、字で呼ぶ事が礼儀とされていたようだ。「名称」は認識対象を固定化する作用を持っている。我が国でもかつては名前そのものが呪詛の対象になると考えられていたようだ。正体を言語で明示されると動揺するという心理はかかる言語が持つ機能に依っていると思う。

〇龍樹やソシュールの知見を持ち出すまでもなく「名称」は人間の認識作用の中で「認識対象」そのものを作り出す機能を持っている。つまり混沌とした対象に分節線を入れる事で「個物」を作り出す。この作用がある意味人間にとっての「世界」を作り出している。それだけ「名指し」は強力なのだと言える。

〇単に名称というラベルと貼りつけるだけで、それに相当する「実体」が存在するかのように思われてくる(形而上学の構築はまさにこの言語の機能に依る)。「グローバリスト」に「愛国保守」の名称を付与するとあたかも「愛国保守」であるかのように見えてくる場合がある。それで多くの人が騙されている。

〇逆に「グローバリスト」には「グローバリスト」、「売国者」には「売国者」、「工作員」には「工作員」と、その実態に合致する名称で呼ぶ事が裏権力及びその走狗を打ち倒す第一歩になる。孔子は子路から政治の基本を問われ「名を正さんか」と述べたが、「政」を「正」にするには「名を正す」事が重要。

〇「グローバリスト」「多国籍企業の代理人」を「愛国者」「愛国保守」などと偽装する事は「名分」を乱す事。「名を正す」事が先決であろう。論語子路第十三の三「子路が曰わく、衛の君、子を待ちて政(まつりごと)を為さば、子将(まさ)に奚(なに)をか先にせん。子曰わく、必ずや名を正さんか。」

〇このように儒学では「名を正す」事を重視する。他方、仏教では唯識で「遍計所執性」と言うが、これは混沌とした対象に分節線を入れて「個物」を分節化し、その「個物」をあたかも「実体」であるかのように見なす事を指す。この考えでは「名」そのものが虚妄でありかりそめのものだと見なされている。

〇「必ずや名を正さんか」とは本当によく言ったものだと思う。憑依型戦術も愛国保守偽装戦術も全て実態とは異なる名称を貼り付ける事でなされている。これが数々の混乱を生み出している。よって「政」(まつりごと)の基本を「名を正す」事に置いた孔子の考えは極めて理に適っていると思う次第である。

〇あらゆる「存在」は名称と形態又はそのどちらか片方を持っている。この「名称と形態」は執着の対象となり人間のあらゆる反応や行動を引き起こす。反応は「好き」「嫌い」「どちらでもない」が基本。前二者が執着と反応を起こす。詰まる所人間を操る者は「名称と形態」を操作する。名称と形態に注意。

〇「存在」は名称と形態(かたち)を持つ。名称のみの「存在」、形態だけで名称が無い「存在」もある。しかし人間が認識し得る対象である限り「名称」か「形態」は必ず持っている。名称も形態もなければ存在しないのと同じである。形態は視覚で捉えられる所謂「形」に限らず五感で認識される対象を含む。

〇「洗脳対策には認識された対象に気を付ける事が基本」と何度も書いているが「認識対象に気を付ける」とは「名称と形態に気を付ける」と言い換える事もできる。人間を操ろうとする者は必ず「名称」(言語)と「形態」(五感の対象)を操作する。いかに神秘的に偽装してもこのメカニズムの外には出ない。

〇「形態は視覚で捉えられる所謂「形」に限らず五感で認識される対象を含む」と書いたが、例えばゲシュタルト心理学でいう「ゲシュタルト」という概念がそれである。例えば「さくらさくら」という歌をどの歌手が歌っても「同じ歌」とされるのは声質はそれぞれ異なってもゲシュタルトが同じだからである。

〇人はその「行為」によって判断される。政治家なら実際の政策によって判断される。安倍一味は実際に彼らが行なっている「種子法廃止」「水道民営化」「各種自由貿易協定によるISD条項導入の推進」「高度人材永住権緩和」「毎年20万人移民を検討」などを見れば「グローバリスト」である事が明らか。

〇政治を含め全ての文化・文明上の活動は言語が基礎。実態に違背する名付けをするから政治が混乱する。グローバリストを愛国保守と呼ぶべからず。論語子路第十三の三「子路曰わく、衛の君、子を待ちて政(まつりごと)を為さば、子将(まさ)に奚(なに)をか先にせん。子曰わく、必ずや名を正さんか。」

〇名称が貼りつけられる対象は「実体」(それ自体で存在する本質体)ではなく何らかの因果関係によって生じた現象である。人間で言うとその為す所の「行為」で性質が決まる。「グローバリスト」と名付けられる所以は実際にグローバル化政策を行なっているからである。これが「名を正す」事の実質である。

〇孔子は「名を正す」事を重視したが、老子は「名」そのものが存在を生み出す事まで洞察した。老子曰く「名無きは天地の始にして、名有あるは万物の母なり」。これは認識論的に解釈可能。即ち混沌たる対象を言語によって分節化する事で個物が認識に立ち現れる。丸山圭三郎氏が言う「言分け構造」である。

〇言語による分節化は必ず特定の言語体系(基本的には母国語。ラング。)に依る。特定の環境で特定の言語を習得するとその言語(ラング)は潜在的な形で深層心理に定着する。分節化はこれ基盤となっている。グローバリストを「愛国保守」と思い込むのも、特定の思想環境による刷り込みが原因と思われる。

〇「グローバリストを「愛国保守」と思い込むのも、特定の思想環境による刷り込みが原因」と書いたが、この場合の「特定の思想環境」とは右派カルトによる洗脳や保守メディアによる刷り込みだろう。自称「保守」業界はどんなに「反グローバリズム」的な事を言っても最後は「安倍さんを支持する」となる。

〇「人は行為によって判断される」と書いたが、「行為」には言葉や身体による行為のみならず心による行為(思考)も含む。例えば黒魔術の類は合理的な因果関係が証明不可なので近代的な刑法では犯罪とされないが、貪欲だったり人を呪ったりするそれなりの人間がやる事。ましてや儀式殺人は完全な犯罪だ。

〇唯識で言う「阿頼耶識縁起」とは表層意識で為した行いが深層意識に影響を与え、その影響の残滓(種子)が何かの機縁を得て再び表層意識での行為(現行)に繋がり、それがまた深層意識に影響を..というサイクルである。欲をかいたり人を呪ったりする魔術呪術の類はそれなりの人間性を形成するだろう。

〇様々な誘導情報が溢れている中で、それらの情報の真偽を見極める独立的思考が重要なのは言うまでもないが、情報に感情を煽られない事も重要である。人の認識の対象となる情報(特に誘導情報)は謂わば「感情価」を帯びている。洗脳者は「好き」「嫌い」の感情を煽る事で人々の行動を操作しようとする。

〇「自己を守る」とは利己ではなく自己を悪い要素と結び付けないようにする事である。感情価を帯びた情報を認識する事で喚起される悪感情から自己を切り離すイメージである。誘導情報に騙される事は勿論情報が帯びる感情価に引きずり回されて精神が疲労したり混乱している人は多いと思う。己を守るべき。

〇裏権力の心理情報戦に対する防御法は理性面と感性面の双方を考える必要がある。理性面では独立的思考によりしっかりと情報の真偽を判断する事。感性面では情報によって感情を煽られないようにする事(感情は自然。感情を無くす事に非ずして感情を調整する事)。この二つが揃って完全な自己防御となる。

〇「感情を調整する」とは「感情を観察する」「感情を対象化する」と言い換える事もできる。感情が喚起された時、それを冷静に客観視する視点があるとそれだけ感情に飲み込まれていないという事を意味する。欲望や憎悪、嫌悪を煽る情報が溢れている。情報の洪水の中、心法を工夫して己を守るべきだろう。

〇丸山圭三郎氏は生物的な「欲求」と人間的な「欲望」を峻別。生物的な欲が「欲求」で「文明化」された人間の欲が「欲望」である。後者は言語即ち「記号」と深い関係を持つ。動物は生存の為に食べるが「インスタバエ」は求めない。記号が「欲望」を喚起する。記号の操作者が欲望ひいては人間を支配する。

〇情報の基礎も言語≒記号。情報を操作するとは記号を操作する事。洗脳者は記号を操る者。人間の欲望の対象が「記号」である(欲求の対象も記号化されている。「高級」料理で自己顕示等)以上、記号の操作者が人間を操り支配する。よってこれを破るには「記号」について分析し見極める事が重要となる。

〇記号の典型は言語だが、言語に限られない。裏権力が多用する各種視覚的シンボルも記号である。記号とは他の何かを代理して示す媒体である。一方、記号そのものが対象を作り出す場合もある。記号の塊である形而上学などが典型である。記号が無ければいかなる形而上学的実在もイメージする事はできない。

〇結局何が言いたいかと言うと他の生物と違って言語を持つ生物である人間の欲は「欲求」に非ずして「欲望」であり、欲望の対象は大部分が「記号」だという事。記号によって欲望や憎悪など感情の対象が作られる。記号を操作すれば無限に対象を作り出せるので記号を操る者が人間を支配する事に。要注意。

〇言語能力を中核とするシンボル化能力(ソシュールの言う「ランガージュ」)が「欲望」を作り出すという丸山圭三郎氏の考察は、「プラパンチャ=言葉の広がり=戯論」が概念的思考=分別を生じ、分別が煩悩を生じるとした龍樹の考察と重なっていると言える。良くも悪くも記号こそが人間を左右している。

〇言語を持つ人間の欲が生物的な「欲求」に非ずして記号又は記号化されたモノを対象とする「欲望」だとしたら記号を操作すれば幾らでも欲望の対象を作り出せるので記号を操る者が思いのままに人間の欲望を操り、ひいては人間そのものを操る事に。裏権力が好むシンボリズムはまさに記号操作の最たるもの。

〇記号は言語に限らず視覚的イメージなども含む。「名称と形態」の全てが記号たり得る。記号が人間の欲望(マイナスの欲望=憎悪も含む)の対象となる。欲望が人間を動かす。よって欲望を喚起する対象を作り出す者が人間を動かす。裏権力の不気味なシンボルは支配を目的とした記号操作と考えるのが妥当。

〇人間は質料性のある具体的なモノすら言葉を介して概念的に認識する。目の前のごつごつしたそれを「石」として認識する等。人間の認識対象はある意味全てが記号である。よって認識された対象は全てが人間の反応を誘因し得る。やはり「認識・認識した対象に気を付ける」が対洗脳防御の基本的指針となる。

〇「記号」が人間の欲望を喚起し欲望の対象となると仮定する。「記号」は組み合わせによって無限に作り出せるので、ありとあらゆる欲望の対象を創出する事が可能となる。つまり人間を動かす対象を無限に作り出せるという事が最大の注意点。しかし「無限」と言っても基本原理「対象を認識する」は単純。

〇確かに記号の組み合わせで「無限」に欲望の対象を作りだす事は出来る。裏権力が次から次に実行する情報宣伝工作を見ると分かる。だが、対象は「無限」と言っても、それらは「認識対象」だという点では皆同じである。従って「認識に気を付ける」というたった一つの心得で全て無効化する事も可能である。

〇要するに幾ら対象が無限でも我々認識主体に認識されないと無きに等しいのである。たとえ認識したとしてもそこで「好き」「嫌い」の感情を煽られなければ何という事は無い。洗脳者の独り相撲に終るのである。まさに「取り付く島もない」である。多様な現象に一貫する単純な原理を見抜く事が重要である。

〇「世界を支配する」という欲望はシンボル化能力(=ランガージュ。言語能力が中核)がないと成立し得ない。人間が五感によって知覚的に認識し得る認識世界を超えて「全世界」を把握するには「世界」という概念が必要。「世界」という概念があってはじめて「世界」に対する欲望も生じるという因果関係。

〇一見陰謀追及と関係なさそうな迂遠で小賢しい理屈の話をしていると思われるかもしれないが、「陰謀」を根源的次元から解体するには迂遠に見えても原理的な解析が不可欠だと考える者である。「陰謀」とは表面的な社会的事象に限らず、人々の認識を根底から規定する枠組みにまで影響を及ぼす企みである。

〇陰謀は宙に浮いている訳ではなく、何らかの効果が人々の経験可能領域に到達してはじめて現実の効力を持つ。例えばシンボルは誰も見なければ何の効果もない。個々人にとって現実の現象が起こる場は認識される領域である。だからここに気を付ける事が自らに降りかかる陰謀を阻止する第一歩だと考える。

〇以前述べた正名論について補足する。正名論とは事物の実態に適合する名称を与えるべきという儒家の論説だが、西洋的に「実体」と名称が一対一で正確に対応していると考えるべきではない。事物事象の実態をきちんと反映し、言語交通上相互に意味が伝わるのであればどんな名称を使うかは幅があってよい。

〇例えばグローバル化推進者について「グローバリスト」「無国境主義者」「NWO主義者」「ワンワールド主義者」などどんな呼称でも意味が通ればよい。使う文脈や名称のニュアンスの浸透度合いを勘案して柔軟に使い分けるのもよい。ただ「愛国保守」は明らかに実態に反するので使うべきではないという事。

〇実体又は本質と名称が一対一に厳密に対応すると考えると不合理な結果になる。例えば諸子百家の一つである論理学派の公孫竜は「白馬は馬に非ず」と言った。「白」と「馬」は別の概念だから「白い馬」は「馬」とは違う概念だとしたのである。これは概念相互の包摂関係・類種関係を無視した詭弁である。

〇儒家の正名論は名を正す事で社会を正す事を意図する常識的な考えだったが、公孫竜の正名論は純論理学的な関心が強く、かえって詭弁に陥った。「白」は色の概念、「馬」は形の概念なので、それらが合成された「白馬」という概念は「馬」とは違う、としたのである。実体主義的思考に陥った結果である。

〇確かに「白」という概念と「馬」という概念それぞれに一対一で対応する実体があるとすると「白」と「馬」の概念の合成である「白馬」には二つの実体があるという不合理な結論になる。龍樹は言葉の背後に実体を想定すると「歩く者が歩く」という命題には「歩く」という二つの実体がある事になるとした。

〇言葉が指し示す対象はあくまでも現象的な「実態」であり、形而上学的な「実体」ではない。現象としての事物事象のあり方に即した名称を与える事で人間同士の言語交通上意味が伝わるのであれば極端な話どのような名称でも構わない。名称は実体ではなく共同主観的な約束事だと考える方が合理的だと思う。

〇ちなみに印度のヴァイシェーシカ学派のような哲学学派では「白馬」は「馬」という実体に「白」という属性が付属していると考えるようだ。公孫竜よりは論理的整合性があると思うが、不合理だと思う。この考えだと実体と属性は別なので如何なる「色」(無色透明も含む)も持たない「馬」がいる事になる。

〇結局、「白馬」という「現象」は形と色が相互依存しつつ成立していると考えるのが合理的だと考える。人間が視覚的に捉える事ができる対象という前提なら、如何なる「色」も持たない「形」は現実的に存在し得ないし、如何なる形とも離れた端的な「色」自体を把握する事もできない(色は常に何かの色)。

〇「正名論」と言うと「名称と実体が一対一に対応する」という考えを前提にしていると誤解される恐れがあるので、以上のような補足説明をさせて頂いた次第である。正名論は「名称とは仮のもの」という前提で活用するのがよいと考える。そうでないと公孫竜のような実体論的思考に陥らないとも限らない。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/926105807975940096

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抜粋終わり



これは大変に大事な話です。


お読みくださりありがとうございます。
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