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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
国際秘密力研究 より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・・
個人的に考える陰謀追及の三つの方法論(兵法)
これまで陰謀追及してきた中で自分なりに考えた方法論、謂わば「兵法」について

まとめてみたいと思う。あくまで個人的な考えに過ぎないが、

皆様の何らかのご参考になれば幸いである。

「兵法」を工夫するに際し、先人の残した知恵を大いに参考にさせて頂いた。

個人的な実感であるが、日本及び東洋の古典や歴史には

裏権力(国際秘密力)を打ち破る為のヒントが数多く眠っていると思う。

西洋のそれもよいが、裏権力連中の思考の源泉でもあるので、それだけでは

彼らの思考と同化してしまう恐れが無きにしも非ずである。

なので、個人的には日本及び東洋の先人の考えを主に参考にして自分なりの方法論を

工夫してきたつもりである。



その方法論であるが、以下では、その中から個人的に見出した三つの方法を述べてみたいと思う。

陰謀追及の三つの方法論はちょうど裏権力の主たる三つの謀略手法に対応している。

裏権力の常套手段を全て封じ込める為である。


その三つの謀略手法とは

①両建戦術

②洗脳(思考誘導、心理操作、思想工作など)

③「名付けの魔術」(言葉を使用する思考操作術)

である。


これに対抗するのが以下の三つの方法論である。

①「両建」に対しては「中道」

②「洗脳」に対しては「心法」

③「名付けの魔術」に対しては「正名」

である。

以下順番に説明していく。





まず「中道」。


今や陰謀追及者の間で常識になりつつあるように、裏権力は

両建戦術を常套手段としている。

「両建」を以下のように定義している。
「国際秘密力は基本的戦略思想として「正・反・合」のヘーゲル弁証法を採用。

現実への適用例「相対立する政治勢力AとBを作りだし、両方を操作して予め意図した結論Cに誘導」

AvsB→C。AvsBという構造自体に着目すると「両建構造」、操作主体に着目すると「両建戦術」と呼ぶ。」




「両建」は一般的には投資用語として使われているが、陰謀に於ける

「両建」とは、二つの相対立する勢力(右翼と左翼、自由陣営と共産陣営等)

にテコ入れして人々を所期の目的を達成する方向に誘導する事である。

「対立」はあくまで偽装であり、どちらを選んでも、裏権力に都合のよい目的に

誘導される仕掛けになっている。

裏権力にとって好都合な選択肢を用意して、どれを選んでも同じ結論に至るように

設定されている訳である。

したがって、両建に嵌められると本体である裏権力には永遠に辿り着けず、

堂々巡りさせられる結果となる。

両建で用意される選択肢は以下の特徴のいずれか、又は両方を持っている。

①問題の本質から逸れている。

②具体性が乏しく抽象的である。

例えば、TPPが問題になっている時に、「ISD条項の是非」等の具体的かつ本質的な論点を

問題にせず、「右か左か」のようなイデオロギー論争にすり替えるのである。

とすれば、両建を破るにはこれの逆を行けばよい。実にシンプルである。

①と②を共に破る方法論こそが「中道」である。

世界的なインド哲学者・仏教学者の中村元氏が中道を「道に中る(あたる)」と

解説されていてはっとした事がある。「なるほど!」と思った。

即ち「中道」とは道理や事実に「中る」という事である。

その場その場の具体的な状況の中で適正・中正な判断を下す事が中道の意味である。

中庸もほぼ同じである。

儒学の四書の中に儒学の哲学的な部分を凝縮した「中庸」という書物がある。

「中」とは偏らない、中正であるという事。

「庸」とは「平常」という事である。つまり、どのような状況でも常に中正な判断・行動を

するという事である。


よく混同されがちだが、中道は中道主義とは違う。

そもそも中道は「主義」ではない。

「主義」という固定的なイデオロギーではなく思考方法である。

中道はよくイメージされるように「ほどほど」「中途半端」「足して二で割る」

「ニュートラル」等の意味ではない。

「適切」「中正」という意味である。

「道に中る」「道理や事実に適合する」という事である。

「道」「道理」と言っても、抽象的なものではない。その時その場の具体的な状況に於ける適切な

判断を言う。TPP問題の場合だと「右だ、左だ」という本質から逸れたイデオロギー闘争に

誘導される事無く、ISD条項やラチェット規定など国家主権の存亡に関わる具体的な事項を問題にする事である。

これによって本質から逸れた両建抗争に嵌められることなく、問題の本質を突く事が出来る。

このように「中道」は抽象論に走ることなく現実の問題の核心を具体的に考える方法論だと言える。

仏教の初期経典に以下のような話が載っている。

仏陀に「苦は自作ですか。他作ですか。自作かつ他作ですか。自作でもなく他作でもないのですか。」

と質問する者がいた。

それに対して仏陀はそのいずれをも否定し、

「苦は触で生じる」と答えた。

これの意味する所を次のように解釈する。

「苦」という現実の現象に対して「自(アートマン)」や「他(他者のアートマン)」という抽象的な原因を

想定する抽象論に対して、あくまで苦を生じる現実の過程をありのままに観察した結果として

「触(認識器官と認識対象の接触)」

という観察可能な具体的な現象を苦の原因だと言ったのである。

仏陀はまた「苦は自生」だと言う者も「苦は他生」だと言う者も

「触無くして苦が生じる」と言う事は出来ない、とも言っている。

苦が自から生じると言っても、苦が他から生じると言っても、

「触」言わば個別具体的な認識作用が全くないのに、それでも苦が生じる

とは言えない、という訳である。

苦の原因は自でも他でもなく「触」(認識作用の端緒)という観察可能な現象だという事。

「触」ではなく「十二支縁起(十二因縁、十二縁起)」で答えるバージョンもある。

十二支縁起は「無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死」という

苦が生じる認識論的プロセスである。

この中でも「触→受→愛→取」が特に重要で、触は苦の直接的原因である愛(渇愛)・取(執着)

が生じる認識作用の発端となる謂わば善悪の分かれ目、分岐点である。

だから触のみを取り出して苦の原因と説くバージョンがあるのだろう。

「触」にしろ「十二支縁起」にしろ「自生か、他生か」という抽象論とは異なる具体論である。

では、「苦は自生」「苦は他生」という論に対して「触」や「十二支縁起」で答えた意味とは何か。

それは思うに、観察可能な具体的な現象を無視して物事を形而上学的に論じる事の不毛さの指摘であろう。

それと裏腹に、物事を客観的に観察し、抽象論ではなく具体的に考える事の重要性である。

これを仏陀は「中」としたのである。これで「中」「中道」の本質が分かるだろう。

即ち「核心から逸れた抽象論ではなく、現象を観察した結果得られた道理・事実に適合する判断」

である。

苦は自生だ他生だと言い争う者達も「触無くして苦が生じる」とは

言えないように、

具体的な問題を抽象的なイデオロギー論争にすり替えて

「右だ」「左だ」と言っている者達も、日本国民である以上は

TPPなどでISD条項が押し付けられると主権を失い、結局奴隷状態になるのである。

抽象論を排して具体的に思考し、物事の核心をズバリ突く事が「中道」である。

中道=道に中る(あたる)=事実と道理に適合する判断・行動。

極めて優れた思考方法だと言える。これ程のものが2000年以上前に考え出されて

いた事に今更ながら驚かされる。


仏陀の言った「中」「中道」をもっと一般的な形にまとめたのが龍樹である。

仏陀は苦の生起という現象について中道を言ったのだが、龍樹はこれを現象一般に適用した。

即ち現象一般のあり方である「縁起」を中道とした。縁起つまり原因と条件に依存して生起・存在

するので実体としての有ではなく、縁起した現象として存在するので実体としての無ではないので

「有無の中道」なのである。

龍樹が得意とした「四句分別」(テトラレンマ)という、考えられる可能性を全て列挙して

一つずつ帰謬論証法で否定していく論法は初期仏典の中で仏陀が苦の原因に関して

「苦は自生。苦は他生。苦は自生でかつ他生。苦は自生でもなく他生でもない。」

を全て否定した事に原型が見られる。

龍樹の哲学は初期仏教の論理を忠実に継承し、より一般的な論理として展開させたものだという事が分かる。


以上のような「中道」という考え方は東洋の哲学の中でも非常に理に適った思考方法だと評価

している。

ここで一つ注意点がある。

それは中道には「定まった固定的な内容は無い」という事である。

中道とはあくまでの具体的な状況に於ける適切な判断の事であって、

どのような状況でも常に妥当するような固定的な内容は無い。

中道の中身はその時の個別具体的な状況、文脈に依って決まる。

先述のように中道と中道主義は全く異なる。中道とは思考方法であって「主義」ではない。

中道「主義」とは異なり、予め定められたドグマのようなものは無いのである。

祝いの席ではそれらしい振る舞い、お悔やみの席ではそれらしい振る舞いがあるように

状況に応じた適切な判断・行動というものがある。

それが何なのかを状況に応じて判断し、実行する事が「中道」である。

また、自らの判断が間違っている場合もあり得るので、他者の意見や異なる見解に耳を傾ける

寛容さや対話する姿勢が不可欠である。

中道の中身である具体的な判断は常に修正され得るように他者との議論・対話に向って

常に開かれたものであるべきである。

「具体的な状況に於ける正しい判断」と言っても自分の判断を絶対視するような

独善に陥る事があってはならない。中道には必ず寛容さ、対話の姿勢が伴っているべきである。

それが自らの判断を絶対視する独善に陥るのを防ぐストッパーになるであろう。

寛容である事は「適正」な事なので、それ自体が「中道」に含まれる

と言った方が良いかもしれない。

そもそも寛容さを欠く時点で「中道」ではない。



以上述べてきた如く、この「中」「中道」という思考方法が「両建」を破るヒントになると考えている。

「両建」とは中道の逆で物事の核心を逸れた二択(多くの場合抽象論)として強要するものだからである。

火が水で消えるように、両建は真逆の性質を持つ中道で打ち消せると考えている。

中道に関しては以下のようにツイートにまとめた。
https://twitter.com/kikuchi_8/status/1047897008982216704

〇「中道」とは「道に中る(あたる)」即ち事実や道理に適合する適正・中正な判断を意味すると考えるが、「両建」はこの逆で不適正な2択を強制して誘導する戦術である。例えば「TPPか、日米FTAか」など。どちらに転んでも裏権力の利益になるように設定されている。両方拒否する選択肢はないと思わせる。

〇また両建の2択は不適正な上に往々にして抽象論が多い。例えばTPPという具体的な問題で「右か左か」のようなイデオロギー論争にすり替えるのが典型である。イデオロギーではなく、ISD条項等によって事実上国家主権が失われる事が問題なのである。この場合の中道はこの核心を正面から追及する事である。

〇中道を考える上で次の初期仏典の話が参考になる。ある人が仏陀に「苦は自生ですか、他生ですか」云々と質問した。仏陀は「どれでもない。苦は触で生じる。」と答えた。つまり苦の原因は「自」や「他」という抽象概念ではなく「触(認識作用の端緒)」という観察可能な具体的な現象だと言ったのである。

〇「両建」は「物事の核心から逸れた、不適正かつ抽象的な2択の強要」である。これに対して「中道」は「物事の核心を突く、具体的な思考・判断・行動」である。「中道」の性質は「両建」の性質の丁度真反対だと分かる。まるで火と水。これが水で火が消えるように中道で両建が破れると考える所以である。

〇「苦は自生か、他生か」という抽象的な2択のもある意味「両建」である。これに対して仏陀は「どちらでもない。苦の原因は触だ。」と具体論を持って答えた。ここに両建を破る「中」「中道」のヒントがあると思う。※「触」は認識作用の端緒。触→受(感受)→愛(渇愛)→取(執着)と連鎖し苦を生ず。

〇苦を作る者と受ける者が全く同一ならば原因と結果が同じになるし(例え同一人物でも苦を生じる前と後では変化しているので全く同一とは言えない)、苦を作る者と受ける者が異なるなら苦という結果はそれと異なるどんなものからも生じる事になる。苦を自生としても他生としても論理矛盾に陥るのである。

〇仏陀は「苦を自生と主張する者も苦を他生と主張する者も、触が無くても苦が生じると言う事は出来ない」とも言っている。自や他という抽象概念で論じる者達も現実を無視する事はできないという事。TPPを「右だ左だ」と言い争う者ももし日本国民なら国家主権が失われれば等しく奴隷状態になるのである。

〇仏陀は「苦」という現象に限定して説いているが、この論理はあらゆる現象に適用可能だと考える。ここから論理を抽出すれば「両建」を破る方法論になると思う。中道とは教義やイデオロギーではなく、思考方法と捉えるべきである。それは理に適う思考の筋道であり、問題に合理的に対処する方法論である。

〇「苦は自生か他生か」の質問と両建が似ているのも当然である。根底には言葉が持つ不可避の性質がある。自と他は相互依存する対概念。あらゆる概念がそうである。Aと言えば非Aが同時に成立する。つまり言葉は物事を二つに分けるのが基本。これは人間の思考の盲点にもなる。これを利用したのが両建戦術。

〇言葉は物事を二元的に分けるので人間が言葉を用いて思考する生物である以上「AかBしかない」と二元的に選択肢を提示されると思考習慣上馴染み易い為それだけが世界の全てと思いがちである。この思考の盲点に付け込むのが両建戦術である。この陥穽を避けるには言葉の性質を見極めておく事が重要である。

〇仏教では中道は無執着と同義とされる。凝り固まった精神状態では適正・中正な判断・行動ができないからだろう。妄執・執着によって世界像が歪む。これでは公正な判断や客観的な認識は到底不可能である。また無執着自体にも無執着なので丁度いい塩梅の平静な心境となり、これが冷静な判断の基盤となる。

〇儒学の古典「中庸」では「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う」としている。極端な感情が発する以前の平静な状態を「中」として重んじている事が分かる。このように「中」とは「無執着」「喜怒哀楽の未だ発せざる」という平静な心理状態をも意味する。確かにそれでこそ中正な判断が可能となる。

〇中庸に曰く「喜怒哀楽之未発、謂之中。発而皆中節、謂之和。喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中と謂う。発して皆節に中る(あたる)、これを和と謂う。」喜怒哀楽の未だ生じていない状態が「中」で、喜怒哀楽が生じても過度にならずに適正に調整されている状態を「和」と謂う、と。これも参考になる。

〇同じく儒学の古典の「易経」も「中」を重んじる。易経は「占いの書」と見られがちだが、荀子が「善く易を為むる者は占わず」と述べたように、適正な判断力を養う為の経験科学的な義理の書としても読める。易経では陽爻は陽位に、陰爻は陰位にある即ち中正である事をよしとする。これも中の考えだろう。

〇「易経では陽爻は陽位に、陰爻は陰位にある即ち中正」について説明する。易経では「爻」という陰陽二種類ある横棒を六つ縦に重ねて「卦」を形成する。三爻では全部で八卦、三爻を二つ重ねる六爻では六十四卦となる。爻の順番は下から数える。一、三、五の奇数が陽位で、二、四、六の偶数が陰位である。

〇陽爻は普通の横棒、陰爻は横棒の真ん中に切れ目がある。陽爻が卦の中で下から数えて一、三、五の奇数の順番(陽位)に位置し、陰爻が二、四、六の順番(陰位)に位置するのを「正位」とする。この意味を解釈するに特定の状況に応じた適正・中正な対処をすべきという事だろう。まさに中道・中庸である。

〇陽爻が陽位に、陰爻が陰位にあるを「正位」とする易経の考えも「中」の一種である。ここから一般的な教訓を引き出すならば、「何が適切か」は状況によって変わってくるという事である。西洋的な二元論みたいに「陽=善・陰=悪」とかではなく、状況(位)に応じて何が適切・不適切かが決まるのである。

〇中道には固定的な内容はなく、何が適正・中正かはその時の個別具体的な状況に依って決まる。陽爻が陽位に、陰爻が陰位にあるを「正位」とする易経の考えもそれを言っているのだと解釈している。ここがイデオロギーである中道主義との違いである。中道はイデオロギーや主義ではなく、思考の方法である。

〇ちなみに易経は我が国では足利学校で教えられており、戦国期など中世の知識人の必須教養であった。江戸期の儒者も同じくである。「当たる」とか「当たらない」とか言う迷信的な占いではなく、膨大な歴史的経験から帰納された理に適った物の考え方・処世術を教える義理の書(哲学書)として学ばれた。

〇易経の話の続き。易経は卦辞や爻辞、十翼など色々と細かい事が書いてあるが、次のように趣旨を要約できると考える。「物事にはリズムがあり、勢いが伸びる時節と縮む時節がある。その時々の時節・状況を見極めて適切な判断・行動をすべきである。常に慎みや謙虚さを持っていれば大過はないであろう。」

〇宮本武蔵は「拍子が大事」と言ったし、徳川家康は戦に関して攻める時と引く時の見極めが大事と言った。易経の趣旨もこれらと同じだと思われる。物事には拍子、循環するリズムがあるという考え。極限状態である命のやり取りではそれが露骨に感じられるのであろう。状況の見極めと判断が大事という事。

〇その点、欧米の「積極思考」は物事の一面しか見ていないと言えよう。物事は伸びるばかりではなく、縮む時節がある事を忘れている。陽剛一辺倒では枯渇して滅びるだけだと易経では考える。夏至が過ぎれば段々と冬に近づく。逆に、冬至が過ぎれば春が近づくように、陰極まれば一陽来復する、とも考える。

〇このように「具体的な状況に応じた適正・中正な判断・行動=中・中道・中庸」という事を考察する上で、儒仏の考えは参考になる。五輪書・水の巻に「心を真ん中に置け」と書いてあるが、これも同様であろう。宮本武蔵の場合は儒仏の教えを借りずに、自らの実戦体験のみでそこに到達したので凄みがある。

〇戦国時代の足利学校の中心科目は易学だった。戦の日取りを定めたりするのに必須の知識だったからだろう。だが易経の思考法そのものは合理性が要求される兵法に転用可能である。なので軍配者から参謀に横滑りした軍師もいたと想像する(山本勘助など。一時は実在を疑われ軍師ではないとも言われるが)。


次の「心法」の項とも関連するが、仏教では中道は無執着と同義とされる。

適正・中正な判断をする為には、前提としてこだわりのない、平静な心

いる必要があるという事だろう。

確かに妄執・執着によって判断や世界像が歪む。

このような凝り固まった精神状態では公正な判断や客観的な認識は到底不可能である。

だからこそ中道の前提として妄執・執着を制する事が要請されたのだろう。

また、無執着は「執着しない」という事だが、「無執着」自体にも「無執着」なので、

結局いい塩梅に偏りの無い中正な状態に落ち着く。

これは宮本武蔵が五輪書・水の巻で「きつくひっぱらず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに」

と説いた「兵法の道における心の持様」そのものである(次の「心法」の項で引用する)。

武蔵は儒仏の教えを借りずに、自らの実戦体験のみでそこに到達したのである。






次に「心法」について述べる。

「洗脳」と言っても、具体的には五感及び表象・思考を通した刷込みでしかない。

仏教のシンプルな認識論を借りて表現するならば「眼耳鼻舌身意」である。

この六つの認識作用を外して直接的に潜在意識を操作する事は出来ない。

よって、洗脳を防止する為には、この六つの認識作用に気を付けて、しっかり防護する事が肝要である。

眼耳鼻舌身意は謂わば六つの認識の門、謂わば「関所」である。

関所をしっかり守っていれば、外から侵入する情報によって心を操られる事も無い。

だから、「洗脳防止」に於いては「認識作用に気を付ける」事が肝となる。

これに関するヒントも古典や歴史の中にあった。

一つは最古の仏典と言われるスッタニパータにある次の問答である。

アジタという行者とブッダの問答である。

1034 「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎ守るものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」

1035 師は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものでのである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるであろう。」

アジタが「煩悩の流れをせき止めるものは何ですか?」と尋ねた。

すると、

仏陀は「気をつけることである。気をつけることが煩悩の流れを防ぎまもるものでのである」

と答えた。

実にシンプルである。だが、シンプルだからこそ物事の核心を突いているとも言える。

「気をつける」とは「自覚する事」「客観視する事」

と言い換える事も出来る。

煩悩を自覚化し客観視していると煩悩に飲み込まれてしまう事は無い、という事だろう。

煩悩(過剰な欲望)は認識対象について思考したり表象することで増幅する。

だから自らの思考を制御する事も重要になっていくる。その為には思考を客観的に観察する

事が効果的だと思われる。「気をつける」とは言わば「観察」である。

脳は二つの事に同時に集中することはできないと言われている。

よって「観察」に集中すると「思考」に集中できなくなるので余計な思考は減る道理。

だから「気をつける=観察する」と「煩悩の流れをせき止める」のであろう。

シンプルだが、とても合理的である。

洗脳に対しても同様である。

仏教では煩悩は認識作用(詳しく言うと眼耳鼻舌身意が色声香味触法という

対象に接触する事)で生じるとするが、洗脳の効果も全く同様である。

どちらも対象を認識した所から生じる。よって「気をつける」というシンプルな防御法は

洗脳対策としても応用可能である。

我が国の江戸初期の鈴木正三という禅僧は、煩悩が生じないように四六時中常に己の心を見張って

片時も油断するなと説いた。正三は徳川直参の武士として幾度も戦場を往来した人物だったので、

戦国武士としての気迫が加味された教えと言えるだろう。

正三は眼耳鼻舌身意の六識を「六賊」と呼び煩悩が生じる侵入口と考えた。実際その通りである。

眼耳鼻舌身意という認識器官が色声香味触法という認識対象に接触する事で認識作用が生じ、

そこに煩悩が生じるという機制である。よって煩悩を制するには六識に注意するしかない。

これもまた洗脳防止にも言える事である。先述したように洗脳と言っても五感・思考・表象を

通さないと何もできない。五感・思考・表象(眼耳鼻舌身意)の全てに気を付けて、油断なく

過ごせば洗脳から身を守る事が出来るはずである。「賊」の侵入口をがっちりガードするのである。

戦国武士が常在戦場の心構えで常に油断なく過ごしたように、心に煩悩が生じないように

眼耳鼻舌身意という煩悩が生じる六つの門を常に見張る事を強調した訳である。

実際当時の武士は命懸けだった。

宮本武蔵は隙が生まれるからと風呂に入らなかった、と何かで読んだ記憶がある。。

体は洗っていたであろうが、隙が生まれるであろう湯船には浸からなかったのだろう。

実際、平治の乱で敗北して落ち延びた源義朝は風呂場で討ち取られている。

現代からするとさすがにそこまでいくと極端であるが、現代人も常に心理操作の危険に

晒されているので、そのくらいのつもりで常に気をつけるという心構えは大切である。

「洗脳」の防御は謂わば心理的な「戦い」だからである。

時代が移り変わっても「戦い」という点では戦国武士が置かれていた状況

となんら変わらないと言えよう。むしろ、技術が進化した分余計に複雑で厄介である。

以上のような心構えを「心法」と個人的には呼んでいる。これは昔の武術に於いて「剣法」「刀法」

「槍法」「拳法」等の身体の技術に対して、心の持ち方の技術を「心法」と呼んだ事に習っている。

陰謀追及に於ける心構えに関する方法論を「心法」と呼んでいる訳である。

ちなみに江戸幕府の剣術指南役だった柳生宗矩の師である沢庵宗彭が書いた「不動智神妙録」は

心法書の代表である。

宮本武蔵の五輪書の水の巻にも
「兵法の道において、心の持様は、常の心にかはる事なかれ。常にも、兵法の時にも、少もかはらずして、心を広く直にし、きつくひっぱらず、少もたるまず、心のかたよらぬやうに、心を直中に置て、心を静にゆるがせて、其ゆるぎの刹那も、ゆるぎやまぬやうに、能々吟味すべし。」
という心法に関する記述がある。


ちなみに、近年静かなブームになっている南方上座部仏教のヴィパッサナー瞑想は

仏陀の「煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけることである。」という教えを

技術として体系化したものだと思われる。北方仏教では「観」と言う。

ヴィパッサナーと対になるのがサマタである。北方仏教では「止」。

「座禅」もその一種である。

一つ注意が必要なのはヴィパッサナーを西洋人が真似て作った「マインドフルネス」

である。これは上座部仏教の技術を「剽窃」したもので、ストレス軽減法として

欧米諸国で流行している。グーグルなど巨大企業が社員教育に取り入れたりして

話題になっている。これも一種の「憑依型戦術」だと見ている。

上座部仏教のヴィパッサナーは煩悩を制して苦を克服することを目的とするが、

マインドフルネスには欧米特有の功利主義的思考が入り込んでおり、

「余計な事を考えず、組織に奉仕するロボット」を作ることを狙いにしている

可能性があると見ている。これだとヴィパッサナーとは全く趣旨が異なってくる。

「煩悩」を制する事が目的のヴィパッサナーと功利的な目的のために能率を上げようと

するマインドフルネスでは目的が正反対である。両者は全く似て非なるもの。

東洋の思想哲学を西洋人が取り入れると、本来とは全く異なるグロテスクな代物

となりがちな事は「神智学」で明らかである。マインドフルネスをやるくらいなら

上座部仏教の正式な僧侶が教えるヴィパッサナーを学んだ方が安全である。






最後に「正名」について。

「名付けの魔術」は事物の実態とかい離する名称を与える事で印

象を操作したり、存在しないものや存在が確認できないものに

名を与える事(形而上学が典型)であたかも存在するかのように思わせる言語操作である。

洗脳技術の一種であるが、敢えて「名付けの魔術」として特筆するのは、

言語という要素が人間の認識作用に占める役割の大きさ故である。

人間は殆どの事物を言語で認識している。

単なる知覚でも、目の前にある「赤い丸いソレ」を認識した瞬間に「りんご」

という言葉が浮かぶはずである。言葉が浮かばないとそれが何

だか分からないので認識が明瞭にならない。

このように言語が認識作用に於いて占める役割は極めて重要である。

逆に言うと言語を操ると認識自体を操作する事が可能である。

言葉の中でも特に重要なのが名詞である。

だからこそ「名付けの魔術」が極めて強力なのである。

例えば、TPPや水道私営化、種子法廃止、移民政策などを行い、グローバリストである

事が明白な人物に対して「愛国者」「愛国保守」という名称を与えるだけで

一定数の者達が信じ込んでしまうのである。

単に「名付ける」というだけの単純な手法だが、言語が認識に及ぼす作用は強力なので

単純な「名付け」で認識が左右されがちなのである。

これを正すには事物の実態に適合する正しい名称を与えるに如くはない。

これこそがまさに「正名」である。

正名とは論語に由来する言葉である。

論語の子路編第十三に

「子路曰く、衛の君、子を待ちて政を為さしむれば、子将に奚(なに)をか先にせん。

子曰わく、必ずや名を正さんか。」

とある。

孔子の弟子である子路が孔子に対して

「先生が衛の君主が先生に政治を任せたならば、先生はまず何をなさいますか」

と尋ねた。

それに対して孔子は

「名を正したいものだ(名と実を一致させる)。」

と答えた。

名を正すとは事物の実態に適合する名称を与える事である。

孔子によると、名を正さないと言葉が通じないので政治も道徳も成り立たない。

君子が実に一致する名を用いてこそ、政治に於ける責任も確立する。

名が乱れると政治も乱れるのである。

これはまさに今の政治状況を言い当てているではないか。

政治屋は自らが言った事に責任を取らない。「愛国」「保守」を名乗りつつ

実際にやっている事は国家解体のグローバル化である。

そして、そんな売国者を「愛国者」と呼ぶことで多くの人々が騙されて支持し売国を擁護している。

これも全て名が実に一致していないからである。

敢えて意図的に実に反する名を与える事が「名付けの魔術」である。

逆にそれを打ち破るのが「正名」である。

正名が重要なのは現代でも全く変わらないのである。

ところで、「事物の実態に適合する正しい名称を与える」と書いたが、

「実体」と「実態」の違いについて考察したツイートがあるので参考までに載せておく。

https://twitter.com/kikuchi_8/status/1046444418251677697
〇話は飛ぶが、実態から乖離する名称を与える事で事態の本質を隠蔽する「名付けの魔術」がある。超強力な台風に「チャーミー」という愛称もどきの名前を付けるのもそうであろう。「名付けの魔術」の反対が「正名」である。実態に適合する適切な名称を与える事である。孔子は正名を世を正す根本とした。

〇子路は孔子に「先生が政治を行うとすれば先ずは何をなさりますか」と尋ねた。孔子は「必ずや名を正さんか」と答えた。これは現代でも同じである。例えば、グローバリストが「愛国保守」等を名乗って国に厄災をもたらしている。実態に適合する名称を与える事が先決。凶悪台風に愛称などつけるなかれだ。

〇「両建」を破る「中道=具体的な状況に応じた適切・中正な判断・行動」、「洗脳」を破る「心法=対象から悪影響を受けないように認識作用(見る聞く考える等)に気を付ける」、「名付けの魔術」を破る「正名=物事に実態に適合する名称を与える」。これが個人的に工夫している陰謀追及上の主な方法論。

〇日本及び東洋の先人が残した叡智に裏権力を打ち破るヒントがたくさん眠っている。個人的には主にこれらを引き出し活用しているが、古典や歴史に何を見出しどう活用するかは人それぞれである。迂遠に思われるが、古典を紐解くとズバリ本質を突くヒントが見つかったりする。「正名」はまさにそうだった。

〇「実態に適合する名称を与える事」も「具体的な状況に応じた適正・中正な判断・行動」の一つなので「正名」も「中道」の一種と言えるかもしれない。だが、「正名」として特筆すべきなのは、「言語」「名称」というものが人間の思考と行動にとって決定的な影響力を持つ非常に重要な要素だからである。

〇「正名」の話の続き。唯識の「名と義の相互客塵性」とソシュールの「恣意性」はほぼ同じ意味。確かに原理的には名称とそれが示す対象の結びつきは必然的なものではない。だが、社会的約束事である。原理的にはウマを「馬」ではなく「猿」と呼んでもよいが、それでは現実として社会的に意味が通らない。

※これにはもっと掘り下げた説明が必要であろう。
「名と義の相互客塵性」とは、名称とそれが示す概念又は事物そのものの関係に
必然性は無いという程の意味である。「名」は名称、「義」は概念又は事物の意味。
「義」の原語はサンスクリットで「artha」(アルタ)と言い、仏教のみならず印度哲学
一般で使われる用語らしい。意味は利(実利)、財産、概念、対象、事物など多義的である。
名義相互客塵性での「義」は「概念」又は「事物」という程の意味である。
「相互客塵性」の「客塵」とは鏡に対して付着する塵は鏡本体とは別物であるように、
本来的に別物であるという意味である。煩悩を本来は清浄な心に付着するものと捉える
「客塵煩悩」という表現がある。「名と義の相互客塵性」も名称とそれが示す対象は
本来別物という意味である。これは言語学者のソシュールが言う「恣意性」の概念に
似ている。ソシュールは言語を能記(シニフィアン。言語記号の音声面。例えば「ウマ」
という音声)と所記(シニフィエ。言語記号の内容面・概念。例えば「馬」の概念)
から成るものと捉え、しかも能記と所記の結合に必然性は無く、社会的な慣習による
恣意的なものだと考えた。唯識の名義相互客塵性とほぼ同じ考えである。ソシュール
は20世紀以降の言語学のみならず思想哲学に多大な影響を与えた人物だが、それと
ほぼ同じ事を千何百年も前に既に唯識が主張していたのに殆ど注目されてこなかった
のが不思議でならない。東洋の叡智の軽視。これもまた西洋崇拝の通弊故であろう。

〇「ヒヒン」と鳴くウマを「馬」ではなく「猿」と呼んだのでは、やはり混乱が起きる。原理的には「名と義の相互客塵性」「恣意性」があるとしても、社会的な慣習としての言葉の体系を無視できない。人々が「馬」と呼ぶ動物を自分だけ「猿」と呼んでも現実として会話が成立しにくい。混乱するだけである。

〇無国境化を推進し国家解体を策すグローバリストを「愛国保守」と呼ぶのは「騙し」でしかないのである。「何をしているか」という「行為」でその者の性質が定まる。その性質に沿う名称を与える事が「正名」。行為などの原因条件を離れて本質がある訳ではない。だから「実体」ではなく「実態」と書く。

〇「正名」は「実態に適合する名称を与える事」だが、思考や言動という「行為」を離れて人間の性質が定まるなら「実態」ではなく「実体」と書いても差し支えないかもしれないが、実際には何を考え、話し、行うかで人の性質が定まるので「実態」と書くべきである。裏権力者は犯罪を行うから犯罪者である。

〇甚大な損害をもたらす恐れがある超凶悪台風に「チャーミー」なる愛称を付ける「ネーミングセンス」は何かに似ていると思っていたら、大量殺戮兵器である原子爆弾に「リトルボーイ」「ファットマン」と名付ける感覚に似ていると気づいた。上から目線で人の死を嘲笑う裏権力のサイコパシーな心性である。

〇「実体」と「実態」の違い。ここでは一応「実体」は「原因条件に依らず、それ自体で存在する本質」、「実態」は「現実の状態・有様」と定義しておく。前者は形而上学的な概念なので現実の現象の分析には「実態」を使う方がよいと考える。なので「正名」とは「実態に適合する適正な名付け」と定義する。

〇実体と実態の違いは「悪魔」と「鬼」の違いで説明すると分かりやすい。ペルシャのゾロアスター教のアーリマンの観念に由来する「悪魔」は「常住不変の実体」なのでその存在自体が「悪」とされる。一方の「鬼」は「不変の悪」「存在自体が悪」ではなく、善にもなるし「強い」事の比喩としても使われる。

〇「悪魔」は「実体」なので、それ自体で存在自体が「悪」とされる。一方「鬼」は「行い」「状態」で「鬼」か否かが決まる。昔の日本では異常に恨みに囚われた者とか、非常に強い武者を鬼と呼んだりした。即ち「憎悪」「強さ」という原因条件に依存して「鬼」とされた。これが「実体」と「実態」の違い。

〇「実体に適合する名称を与える」と言うと実念論的な特定の形而上学的立場を取る事になる。フッサールの「本質観取」「本質直観」みたいなものである。「正名」はそういう事ではなく、現実の実態に相応しい名称を与えるというだけの事である。でないと思考が混乱する。売国を行う者を売国者と呼ぶのみ。

〇「名称に対応する実体が存在し、その実体に対して名称を貼り付ける」というのではなく、現象を観察してその現象の有様に相応しい名称を言語の体系(例えば日本語)の中から選び出して付与する、という事である。言語の体系とは基本的には母国語である。「売国」という現象を観察し「売国者」と呼ぶ。

〇「名付け」という行為には①名称②名称を付与される事物③名称を使う人④名称が帰属する言語体系という四つの要素が機能的に連関している。各要素は他の要素との関連で存在し、独存しない。廣松渉の四肢的構造連関で言うと、①は「所識」、②は「所与」、③は「能知」、④は「能識」にほぼ相当する。

※以下の注釈はかなり煩わしい内容なのでご興味があられない方は飛ばして頂いて構いません。
あくまで参考までm(_ _)m

※廣松渉について。
廣松渉は政治思想的にはマルキストで新左翼に分類される人物だが、
そのような政治思想を離れた哲学者としての純哲学的な原理論即ち認識論・存在論は
仏教哲学の縁起論の現代的な展開ないしは精緻化の趣があり、
仏教哲学(特に中観・唯識)の現代的展開・精緻化の一類型と捉えて興味を持っている。
その「事的世界観」(これ自体が華厳の事事無礙を連想)はマルクスの物象化論の単純な延長とは思えない。
仏教の縁起観を現代哲学的に展開したような非常に東洋的な哲学になっている。
実際に廣松は中観派の哲学を評価したり、唯識の用語(依他起)を使ったり、仏教学者との対談本まで出しているので、仏教哲学の影響を受けているのは明らかだろう。
また廣松の出発点であるエルンスト・マッハの哲学は部派仏教の説一切有部のアビダルマ哲学
にそっくりである。
著書(哲学入門一歩前)の中でも説一切有部の刹那滅の思想について言及している。
このような訳で個人的には廣松哲学を仏教哲学の現代的展開又は精緻化の一類型という観点で
興味を持っている。
古代に成立した唯識等には時代的制約からくる不合理な面が無きにしも非ずだが、現代哲学の一つである
廣松哲学はそれを補完する一資料となり得ると思う。西田幾多郎や大森荘蔵の哲学もしかりである。
西田に関してはヘーゲル主義的な実体論の残滓があるが。その点、廣松と大森は西洋的実体論を徹底して排し、
積極的に東洋の論理を掲げた西田以上に東洋の伝統的な哲学に近付いている。
本人達にそのつもりがあったとは思われない。あくまで結果としてである。
廣松と大森は深い交流があったらしい。現象主義的な姿勢が相互の共通基盤にあったからだと思われる。

※四肢的構造連関については以前以下のように要約した事がある。

「対象の二肢性。人間にとって意識に立ち現われてくる現相世界は所与と所識の二肢成態。主体も「として」の構造で二肢。所識たるものも主体の側の共同主観の体系によって決まる。認識の四肢的構造連関。四肢たるそれぞれも関数の項にすぎず自存的なものではない。徹底した実体の否定。」

「廣松渉四肢的構造連関「所与が所識として能識としての能知に対してある」について。感性で捉えた所与(視覚や触覚等)に知性で言葉を当てはめることで概念的に認識(所識)。そして知性(場合によっては感性も)はその認識主体(能知)が属する文化共同体のあり方で規定(能識:例 日本語を使う主体)」

「西洋哲学では主観と客観の二元論だが、四肢的構造連関では主観も客観も二肢に分かれ合計して四肢の関係の項が緊密に連関しあって認識が成立すると考える。主客はそれぞれ関係の項に過ぎず実体とはされない(主観も客観も縁起したもの)。「縁起」を認識論に適用したような発想である(事的世界観)。」

「四肢的構造連関は「所与が所識として能識としての能知に対してある」と公式化される。「私がりんごを見る」を四肢的構造連関で説明する。「赤い丸いそれ」という知覚像(所与)を「りんご」(日本語の概念)として(所識)、「日本語話者」(能識)として自己形成を遂げている私(能知)が見る。」

「四肢的構造連関の考え方によれば「私がりんごを見る」という認識は、「赤い丸いそれ」という知覚像=所与、「りんご」という概念=所識、「日本語話者」としての私=能識、個別具体的なこの私=能知、という合計四肢で成り立っている。四つの項は自存する実体ではなく関係の項として存在するとされる。」

「認識主体の二肢的二重性と認識対象の二肢的二重性の計四肢による連関構造が「四肢的構造連関」という廣松の認識論である。謂わば主体も二重、客体も二重であり、その各々の項はそれ自体で成り立っているのではなく、あくまで関係の項としてのみ存立できる関数的構造である。関数と縁起は意味が重なる。」

「唯識の三性説と廣松哲学を比較する。①遍計所執性→物象化的錯視。関係(縁起)によって成り立つ現象を誤って実体視する錯誤。②依他起性→四肢的構造連関。認識も含め全て現象は関係的に成立する。③円成実性→物象化的錯視の超克→事的世界観。西洋哲学の実体観、特に主観客観二元図式を克服する。」

「唯識だと主観を見分、客観を相分と言う。心を主観と客観が相互依存的に相依って成り立っていると見るので、心を「依他起」と呼ぶ。依他起=縁起=無実体=空だとする。これを「円成実性」と呼ぶ。廣松渉の四肢的構造連関はこれを精緻化した趣である。主観・客観を実体視しない認識論はこのようなもの。」

※注釈終わり

〇唯識だと①遍計所執性②依他起性③円成実性という三様態で説明する。①は事物・現象を「あれは馬だ」のように言葉で分節化して認識し、その対象を実体視する事。②はそのような思考・分別が行われる心(主観=見分と客観=相分で成る)という場。③は心から遍計所執性という実体観が除去された状態。

〇謂わば「遍計所執性」を意図的に他者に引き起こす技術が「名付けの魔術」だと言える。「名付け」という行為は非常に強力で、存在しないものを存在すると思わせたり、実際とは乖離するイメージで認識させたりする効力がある。売国者を「愛国者」と呼ぶだけで、それを信じてしまう人が出るのはこの為。

〇売国奴を「愛国者」「愛国保守」と呼び続けるだけで、それをまともに受け取った人が「遍計所執性」に陥り、本当にその人物を「愛国者」「愛国保守」と信じてしまうようになる。名付けの魔術は単純だが、強力である。これを解くには具体的な行為を観察し、それに適合する名称を与える「正名」が効果的。



以上、個人的に考える陰謀追及の三つの方法論についてのべた。

まとめる。

①「両建」に対しては「中道」。

両建が物事の核心から逸れた2択(多くの場合抽象論)を用意して所期の目的に誘導する戦術なのに対して

中道はその逆で物事の核心を突いて、抽象論ではなく具体的に思考・判断する事である。


②「洗脳」に対しては「心法」。

「洗脳」と言っても所詮は五感・思考・表象(眼耳鼻舌身意)の範囲を出ない。

だったら自らの眼耳鼻舌身意を常に見張り、認識対象から悪影響を受けないように気をつけるとよい。

これを個人的には昔の武術の擁護を借りて「心法」と呼ぶ。


③「名付けの魔術」に対しては「正名」。

人間の認識作用、特に思考に於いて言語が占める役割は決定的である。

言語によって無いものを有ると思い込んだり、対象の性質を実態とは異なるイメージで認識したりしてしまう。

認識作用に於ける言語のこの重要性を逆手にとって悪用した洗脳術が「名付けの魔術」である。

物事に実態とは異なる名称を付けたり、実在しない対象に名称を付与して実在するかのように

思わせたりして思考を操作する名付けの魔術を破るには、

それとは逆に物事の実態に適合する正しい名称を与えるとよい。

これが「正名」である。



以上述べてきた「中道」「心法」「正名」はバラバラなのではなく相互に関連している。

中道の前提として偏りの無い平静な心持ちが必要なので中道は心法と関連するし、

正名は「事物の実態に適合する名称を与える」という事なので、言語の使用における

中道(適正・中正な判断・行動)である。



以上が個人的に考える、陰謀追及上の方法論「兵法」(と仮称)の大要である。

あくまで個人的な考えに過ぎないが、皆様のなにがしかのご参考になれば幸いです。



(了)

・・・・・・・・・
・・・・・・・・・
抜粋終わり


これいいよね。

お読みくださりありがとうございます。
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