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渾沌堂主人雑記  {大日本国終焉日記 }

半分やけくそです。日本の指導層がここまで阿呆で無慈悲とは。あとは滅亡だけです。 生き延びるが、我々庶民の勝利で、暴露こそが、唯一の最大の攻撃です。

この世の陰謀論を丸裸にする。ようは欧米の陰謀だった。

国際秘密力研究 より

上記文抜粋
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ツイートまとめ 西洋の思想史をそのままなぞる「陰謀論」の歴史 全陰謀論派閥の勢力図を俯瞰する

陰謀論界での「猶太陰謀論VS耶蘇陰謀論」の対立構造は西洋の思想史の文脈で言うと「キリスト教VS啓蒙思想」に対応していると思われる。日本では明治以後キリスト教と啓蒙思想が同時に流入してきたので我々日本人には両者の鋭い対立緊張関係が見えにくい。明治日本では耶蘇は「進歩」の象徴だった。

〇西洋ではニーチェ以前の猶太批判はキリスト教陣営から出てきたし、耶蘇批判は猶太教やルネサンス期以降の啓蒙主義陣営から出てきた。モーゼス・メンデルスゾーンのような猶太人の啓蒙思想家もいた。「猶太陰謀論VS耶蘇陰謀論」はかかる西洋の思想史的文脈が陰謀論界にスライドしたものだと見ている。

〇我が国では明治期にキリスト教と啓蒙思想が同時に流入した。だから、日本人にはこの両者の対立緊張関係が見えにくい事情があり、どちらも「西洋の進歩」を象徴する「舶来もの」として有り難がる風潮があった(例えば明六社はキリスト教徒と啓蒙思想家の集まり)。実際には両者は相克の歴史である。

〇似た様な事情はキリシタン宣教師にもある。彼らはキリスト教とともに西洋医術など当時の西洋の科学技術を持参した。が、本国ではキリスト教と科学は鋭く対立していた。宣教師が科学を弾圧しながら海外布教には科学を利用するご都合主義を無神論者のリチャード・ドーキンスが批判していたと記憶する。

〇明六社の森有礼はキリスト教シンパで啓蒙思想家。かかる人物が明治政府の高官だった訳で、当時の情勢が分かるというものである。これは憑依型戦術というにはあまりにも公然たるものだった。森は日本語を廃止して英語を公用語にしようとした。言語は文化の基礎。言語を奪われた民族は滅びるしかない。

〇このように我々日本人にとってキリスト教や啓蒙思想などの舶来思想は同時に入ってきたので西洋の思想的対立構造の文脈が見えにくい事情がある。しかし、西洋の圏外にいるからこそそれらを俯瞰して見る事が可能な有利な位置にもいるのである。陰謀追及でもこの俯瞰する視点を重視すべきだと考えている。

〇西洋の思想派閥「①一神教②神秘主義③理性主義」と分類しているが陰謀論界にも丁度対応する派閥分けがある。①キリスト教系(西洋の古典的猶太陰謀論)②神智学系・アリオゾフィ系(ナチズム含む。人種主義に基づく猶太陰謀論)・スピリチュアル系(大本教系含む)③啓蒙主義系(キリスト教陰謀論等)

〇①一神教のキリスト教系が西洋の陰謀論の基本である。②神秘主義の神智学系の陰謀論もある(神智学自体が「闇の同胞団」陰謀論を教義の一部とする)。大本系は①と②の混合だろう。日本の陰謀論界で勢力を張っている。③の啓蒙主義系はキリスト教陰謀論を引っ提げて①②と対峙。最後に出た最新の流派。

〇特に思想的立脚点を持たない純然たる時事解析系はいずれにも分類できないが、思想的拘束性が無い分汎用性が高くその知見は広く共有されてもいる。だが、陰謀の歴史的思想的な解析は行わない傾向。個人的には陰謀論を「情勢論的陰謀論」と「学究的陰謀論」に分類しているが、時事解析系は前者に当たる。

〇西洋の思想派閥「①一神教②神秘主義③理性主義」の全てを批判する立場に立つと各派閥から敵対派閥の人間と見なされて派閥抗争に巻き込まれる場合もある。圏外から俯瞰して「破両建」する日本人の立場からの主体的な陰謀追及(国際秘密力研究)の確立が重要だと考えている。今後とも探求して参りたい。

〇陰謀論界での最も先鋭な思想的対立軸は「猶太陰謀論VS耶蘇陰謀論」に表れた「耶蘇教VS啓蒙思想」「神秘主義VS啓蒙主義」だと見ている。表の思想界では耶蘇と啓蒙が同時に流入した明治の特殊事情から両者は対立物とは見られていないが陰謀論界では西欧さながらこの両者が激しく衝突しているのだ。

〇神秘主義VS啓蒙主義は大陸系メーソンが英国系メーソンの神秘主義を批判し乗り越えようとしたことに起源が求められる。アダム・ヴァイスハウプトは新プラトン主義を初めとする既成メーソンの神秘思想を迷信として批判している。独仏の啓蒙主義の違いは「下からの革命か上からの啓蒙専制か」である。

〇陰謀論史の展開はそのまま「キリスト教全盛→ルネサンスで神秘思想復古→近代の啓蒙主義の登場」という西洋思想史と重なっている。①西洋ではキリスト教的な陰謀論が大勢②神智学系ニューエイジ系陰謀論が台頭③啓蒙主義系陰謀論が登場。西洋思想史を押えておくと陰謀論史の展開過程がクリアに見える。

〇俯瞰すると陰謀論の歴史は西洋の思想史をまるでなぞるように展開してきた事を発見した①キリスト教圏で発生した為にキリスト教系陰謀論が大勢→②神智学系やニューエイジ系つまり神秘主義派の陰謀論が登場しキリスト教を批判(アイクなど)→③啓蒙主義系の陰謀論が登場しキリスト教と神秘主義を批判。

〇政治学や経済学と同じで陰謀論も元々は西洋文明の産物。陰謀論史の総体をこのように俯瞰し我々日本人としてはいかなる立場を構築していくべきか?が課題である。参考にできる部分は参考にしつつ日本人に合わない部分は批判し捨てていく。日本流国際秘密力研究ではまずはこの地道な作業を行なっていく。

〇西洋発祥の陰謀論史の展開は西洋思想史をなぞる。神父が宗教的な猶太陰謀論を創始。神智学が登場し「闇の同胞団」陰謀論を説き、この延長にアリオゾフィの人種主義的陰謀論。戦後はニューエイジ系陰謀論、そして啓蒙主義系陰謀論。近代までの西洋思想史は最終段階まで来た。次はポストモダン系陰謀論?

思想哲学に振り回されないように注意して「圏外から俯瞰する」事が思想史上の両建抗争に巻き込まれない為に必要である。小さな話ではあるが、吾人も何度か派閥抗争に巻き込もうとする攻勢を受けた事がある。俯瞰する立場は各派閥から敵対派閥の者と見なされがちなのである。だから増々俯瞰し分析する。

陰謀論界における「キリスト教系VS神秘主義系VS啓蒙主義系」の三つ巴の対立構造。これこそ真の陰謀論界のタブー中のタブーだと思う。何故ならこれを指摘すると全ての派閥から敵視されかねないからである。同調圧力に屈せず、派閥思考ではなく自律的思考をするか否かの試金石になりうる命題である。

〇「キリスト教系VS神秘主義系VS啓蒙主義系」は西洋思想史の縮図である。誰かが意図してこのような構図を作ったというより、結社が敷いた枠組の中で思想活動行われているので自然とこの枠に収束していく、と言った方が正確かと思う。「両建戦術」は意図した操作以前の「枠組みの設定」から始まる。

〇日本主義や東洋主義にすら憑依がある。近代以降は日本や東洋を標榜しながら、「一神教・神秘主義・理性主義」いずれかの背乗りである場合が極めて多いのだ。もはや硬直した「〇〇主義」に立脚したのでは同じ土俵に立つだけに終る。思想哲学への執着を一端離れないとこの構図からの超克は難しいだろう。

〇「〇〇思想」「××主義」を全てカッコに入れて、執着せずに本質を見極め、活用できる部分は活用しつつ、振り回されない様にする。盲目的に信奉する対象があると必ず付け入る隙を与える事になる。それは日本思想でも東洋思想でも何一つ例外は無い。ここまで徹底しないと真の自律的思考は困難である。

〇「〇〇思想」「××主義」あらゆる思想哲学は人間の思考の軌跡であり、語弊があるかもしれないが「残りかす」のようなものとも言える。盲信せずに思考の材料として活用し参考にするのなら「栄養」になるが、囚われ過ぎると思考を縛る「残りかす」になる。思想哲学を活かすも殺すも己の姿勢次第と思う。

「最強の思想哲学は思想哲学に囚われず、思想哲学に使われず思想哲学を使いこなす事」かもと先日書いた。これすら文字として書いて固定化すると他の思想哲学への固執と同列となる。「囚われない」にすら「囚われない」のが理想だが、中々困難である。思考や視野を狭めず柔軟で寛容な姿勢を維持したい。

〇あくまでこれも一つの考えに過ぎない。

「最強の思想哲学があるとすればそれは何だ?」と考えたが「思想哲学に囚われない事。思想哲学に使われず思想哲学を使いこなす事。」がそれだと思った。これは単なる主観。どんなに精緻で絢爛たる哲学体系も、それに執着して振り回されては意味がない。思想哲学も執着の対象になり心を縛る事がある。https://twitter.com/kikuchi_8/status/839510102365233152

〇先日、陰謀論界に「キリスト教系VS神秘主義系VS啓蒙主義系」という三つ巴の対立構造があると書いたが、組織の系統の面に着目するとキリスト教はカトリックとプロテスタントに分かれるので「カトリックVSプロテスタントVS英国系メーソンVS大陸系メーソン」の四大派閥に対応していると言える。

〇が、相互に微妙に重なり合う面もある。例えばプロテスタントと英国系メーソンは重なり合う。英国国教会は一応プロテスタントに分類される。キリスト教神秘主義があるので英国系メーソンは耶蘇と神秘主義を兼ねる。大陸系メーソンは理神論と無神論を含む。初期の啓蒙主義者は理神論者と無神論者がいた。

〇「猶太教系陰謀論」も一応ある。米国の正統派猶太教徒マービン・S・アンテルマンが「改革派猶太教」の陰謀について暴いたものなどである。が、基本的に猶太教徒でない限りはかかる立場はとり得ない。が、非猶太教徒の①キリスト教②神秘主義③啓蒙主義、それぞれに猶太に対する態度の分類がある。

〇三大派閥における猶太に対する態度は大きく「反猶太」と「親猶太」に分かれる。①耶蘇教系陰謀論には聖書神話に基づく「イエスを殺害した民族」という観点からの「反猶太」と「選民」として崇める耶蘇シオニズムの立場がある。日本の耶蘇系陰謀論では猶太批判と日猶同祖論がセットの奇怪なものが多い。

〇②神秘主義系陰謀論も親猶太と反猶太がある。親猶太はカバラと日猶同祖論を信奉し、日本の伝統思想を何かとカバラに付会する言説を事とする。反猶太は神智学から生じたアリオゾフィである。アリオゾフィとはアーリア至上主義に基づく神智学である。グィド・フォン・リストらが創始し後のナチスに影響。

〇③啓蒙主義系陰謀論には基本的に「反猶太」はない。かといって宗教や同祖論、人種論に基づく「親猶太」もない。啓蒙主義系では耶蘇を主敵としているので「耶蘇の悪を猶太の強調で誤魔化すな」という観点から反猶太論が批判される、という形となる。グラントリアンの反宗教と人権論の観点に近いだろう。

〇啓蒙主義は仏蘭西系と独逸系がある。仏蘭西系は「下からの革命論」を持ち君主制や宗教に否定的である。独逸系は「上からの啓蒙専制」なので君主制と親和的であり宗教に否定的という訳ではない。これは明治政府に影響を与えた。明治を絶対化する日本会議以下反日右翼勢がそれだと分類できない事は無い。

〇如何なる派閥の観点にもよる事無く極力公平に陰謀論界全体を見渡して勢力図を描いてみた次第である。今後も気づいた点があればその都度修正し全体の見取り図を更新していきたいと考えている。かかる作業をなすのは全てを俯瞰すれば全てに囚われない独立独歩で不偏不党の地平が開けると思うからである。

〇誑かしを一切受け付けないし、納得していない事は一切受け入れない。人の話に聞く耳を持ち、道理と事実に基づいて己の思考を反省し、間違いだと分かれば改める。この両者は正反対のように見えるが、同じ事(自律的思考)を別の観点から説明しているに過ぎない。独立不羈と寛容さ・柔軟性は両立する。

〇他に依らず自分に依るとは道理や事実に依る事でもあると思う。事実を受け入れ、道理や筋道に沿って考える。これこそが自律的思考だと考える。自律的思考は自分の考えに固執して道理や事実を無視する独善性とは異なる。むしろ逆。原始仏典で言う「自帰依・法帰依」はこの辺の道理を教えるものであろう。

〇「臨済録」に「仏に逢えば仏を殺し」という有名な文句があるが、どんなありがたいものでも対象として立てて執着すると心の自由を縛る枷になると言いたいのだろう。逆にこの言葉に囚われて何でもかんでも破壊すればいい、となるのも逆方向の執着。渇望も嫌悪も執着であり一枚のコインの裏表に過ぎない。

〇一神教原理主義と理性崇拝は同じコインの裏表である。唯一神を盲信する一神教原理主義者が偶像や遺跡を破壊したり、理性を崇拝する革命主義者が既存の文化を破壊し尽くすのは「嫌悪」という執着に因る。渇望と嫌悪の両方を制御しないと寛容な姿勢と冷静な判断は難しいだろう。両極端なものは大体両建。

〇グラントリアンとは「グランドオリエント=偉大なる東方」の意味で東から昇る太陽の光と西欧に伝統的に根強い東方への憧れを象徴。東洋では「西方浄土」というように西方に憧れる観念があるが西欧では逆に東方への憧れがあるのである。地中海オリエント世界は西欧よりはるかに文明が進んでいたからだ。

〇啓蒙主義系陰謀論では独逸の啓蒙主義者アダム・ヴァイスハウプトに肯定的に言及されるが、独逸系というよりスタンス的に仏蘭西系に近いと分析する。独逸系は啓蒙専制主義であって欧化主義の明治絶対化の日本会議の思想に近い。この系列にはチャンネル桜系の「安倍は猶太と戦っている」陰謀論がある。

〇啓蒙専制主義と言えばプロイセンのフリードリヒ2世であるが、石原完爾が尊敬していた。石原は日蓮主義を信奉し、世界最終戦論を唱え、世界連邦の実現を期するNWO思想家でもあったが、独逸系啓蒙思想の影響を受けていたとも言いうる。高度国防国家論という「上からの改革論」に影響が見て取れる。

〇ちなみに陰謀論に関係なく日本における啓蒙思想の系譜を分析すると、独逸系啓蒙主義は陸軍統制派の思想が近いと思う。一方の仏蘭西系は西園寺公望(大東社社員)など明治のリベラリスト、その後に続く社会主義者や共産主義者などが該当すると思われる。西園寺公望の孫の公一はゾルゲ事件に連座した。

〇グラントリアンの西園寺公望の孫がソ連のコミンテルンのスパイ事件(ゾルゲ事件)に関与する、というのはモノの見事に大東社の系譜で一貫していると言える。中国と露西亜のフリーメイソンは大東社系。中国共産党の創設メンバーは周恩来以下フランス留学帰りが多い。共産国家は大東社系だったのである。

〇陰謀論界においては猶太、耶蘇、神秘主義は大体分析され尽くした感がある。啓蒙主義は陰謀論界に残った最後のタブーである(耶蘇・神秘主義系の啓蒙主義批判は宗教やオカルトの観点からのレッテル貼りの域を出ていない)。この全てを突破するのが次なる課題だ。独立不羈の強靭な分析力の鍛錬が必要。

〇「他に依らず自分に依るとは道理や事実に依る事でもあると思う。事実を受け入れ、道理や筋道に沿って考える。」と書いたがここで言う「道理」とは「理」であり「事実」とは「事」である。成唯識論などでは「理」と「事」を合わせて「実」とした。道理と事実に沿うとは「実」即ち真実に沿うという事。

〇「理」とはモノの道理、筋道、法則性などを意味し、「事」とは実際に経験し認識しうる事実・現象を意味する。「理」と「事」を合わせて「実」。理と事は現実(実)の二つの側面なので理と事は相即する。道理に沿って思考し、事実を如実に観察する。この二つが揃ってはじめて自律的思考が成立する。

西洋文明はヘブライズムの反知性主義とヘレニズムの知性主義(主知主義とも)の相克の歴史と言える。前者が勝利を収めて以降はキリスト教の反知性主義が西欧を制圧。それによって抑えつけられてきた反動が啓蒙主義や理性主義だった。西欧の隠れた知の伝統である秘教・神秘主義はその中間だと言える。

〇キリスト教による知性の抑圧。その反動としての啓蒙主義の勃興。そしてまたその反動としてのロマン主義の興隆。抑圧と反動の繰り返しが西欧文明史である。中庸・中道というものが乏しい西欧では「両建」が生じる文明史的必然性があった訳である。だから逆に「破両建」の鍵は「中道」にあると見ている。

〇我が国においては朱子学を官学とする幕藩体制の中で、町人の中からさらっと富永仲基や山片蟠桃のような合理的思考の持ち主が出現する。かと思えば、古学や国学、兵学、はては梵語学までもが同時に興隆する。「あれかこれか」という二択ではない思考の伝統がある。両建を破る鍵を日本の歴史の中に探る。

〇キリスト教は知性を抑圧。ルネサンス期に古代神秘思想が復古。その延長にある理性主義は人間の感情を抑圧。その反動でロマン主義が台頭。ロマン主義はルネサンス期に復古した神秘思想との関係が深い。こうしてみると、西欧文明史は一神教・神秘主義・理性主義の相克の繰り返しで回っている事が分かる。

〇西欧文明史まとめ。キリスト教全盛(一神教)→ルネサンスで隠れた知の伝統である秘教や神秘思想が復古(神秘主義)→神秘主義から脱皮した啓蒙思想が勃興(理性主義)→理性主義が抑圧した人間的感情を称揚するロマン主義(神秘主義と関係が深い)が台頭。まさに一神教・神秘主義・理性主義の相克史。

〇破両建の為にはこの無限ループの相克史の外に立つ必要があると考えている。一神教・神秘主義・理性主義のいずれかに立脚するのでは必然的にこの無限ループ(両建抗争)に巻き込まれる結果になるのである。「全てを俯瞰する」とはこの相克史の外に立つ事を意味する。抑々我々日本人は元から外にいる。

〇理性に特化したのが理性主義だとしたら、感情に特化したのがロマン主義である。理性と感情はどちらも必要である。要はバランスであろう。「主義」として固定化するとバランスを失いがちである。理性的とか感情豊かである事はよい事だが、理性主義やロマン主義である必要はない(勿論思想信条は自由)。

〇「中道」とは「中途半端」にあらずして「適正」とか「中正」という意味である。理性と感情のバランスに関しても当てはまる。例えば、世の為人の為を思う熱き「仁の心」に冷静な「智の心」が伴う、など。儒学では「智・仁・勇」(三徳)などと古来言われてきた。仏教では智慧と慈悲がセットで説かれる。

〇和歌や俳句を詠むにも豊かな感情と修辞を整える落ち着きの両方が必要である。感情に溺れているだけの状態ではとても和歌や俳句を作る事はできないであろうし、感情が欠落していては和歌や俳句を作ろうとも思わぬであろう。ここにも「中道」がある。
「我が国の伝統芸術に「和歌」「俳句」がある。感情を乗せて詠う訳であるが、修辞を整えて言葉で表現する作業には冷静な客観視も必要となる。豊かな感情を持ちつつもどこか冷静さも保っている奥ゆかしい文化だと思うのである。折に触れて俳句を作るような人は感情と冷静さの均衡を保っている人だと思う。」https://twitter.com/kikuchi_8/status/837334351209639936

〇西欧の三つ巴両建構造を超克する行き方は様々だと思う。西欧文明の枠組みの外から俯瞰する立場(日本や東洋に限らず。イスラムなど文化文明の数だけありうる)もあれば、西欧内部から内在的に超克せんとする立場などもあるだろう。其々の個性が反映。「一つの答え」を要求する事自体両建とNWOの罠。

〇「世界支配」という欲望は「世界」「支配」という概念から喚起される。これは感覚的欲望とは言い難い。概念的思考(分別)は欲望を発生させる機能がある。理性や知性は言葉を使う能力と言えるので、これ等は欲望の発生に関係がある。この辺りメカニズムの洞察と反省が無い所が理性主義の危うさである。

〇欲望の発生源は感覚と表象と思考(眼耳鼻舌身意・色声香味触法の接触)。これらは全て対象を認識する作用である。欲望には全て対象があり、認識した対象に対して欲望が生じる。理性主義では理性の機能を絶対視するが、これは言葉で何かを識別する作用の絶対視を意味する。これが過大な欲望に繋がる。

〇一神教や神秘主義も仕組みは同じである。一神教は言葉によってつくられた教義を絶対化する。教義は執着の対象となる。神秘主義は言葉と同時に表象=イメージを特に重視する。「神秘体験」とはある種の表象体験である。一定の条件さえ整えば引き起こされる変性意識状態である。これも欲望の対象となる。

〇というわけで、西洋の思想派閥「一神教・神秘主義・理性主義」の全ては人間の認識作用(眼耳鼻舌身意=五感・表象・思考)の外ではない。特に表象(=イメージ)と思考(≒言葉の使用)。結局「対象を認識する作用」であると言える。欲望も執着も対象認識から生じる。ここに無反省だから問題が生じる。

〇一神教と神秘主義と理性主義は一見全く異なっているように見えるが、認識論的なレベルで構造を分解して分析すると全て「表象」と「思考(≒言葉)」で成り立っている事が分かる。特に言葉の機能についてあまり反省が無いので、言葉が生み出す欲望にも無頓着になる訳である。所謂ロゴス中心主義である。

〇理性の塊のような近代文明が過剰な欲望を生み出した原因もここにあると分析する。理性とは言葉で物事を思考し識別する作用である。思考し識別すればその対象に対して何らかの執着が生じる。この機能に自覚的であれば執着は自制されるが無頓着だと欲望は増大し終いには世界支配=NWOにまでいくのだ。

〇これが①一神教②神秘主義と並び③理性主義をも批判する理由である。この三者は言葉の働きを無謬視し言葉が欲望を生み出す側面に無反省な「ロゴス中心主義」という同じ根を持っている。①では「言葉は神」であり、②では言葉が示す実体との合一を目指し、③では理性=言葉を駆使する機能を絶対視する。


https://twitter.com/kikuchi_8/status/839516808159756289


(了)


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抜粋終わり






素晴らしいです。



お読みくださりありがとうございます。

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