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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
シュタイナーから読み解く神秘学入門  より

上記文抜粋
・・・・・・・・・・

人智学では、19世紀から最盛を迎えた物質文明で、今世紀はエゴとエゴの闘いの暗黒時代だといわれてきた。

 数学的にいうなら3次元世界の攻防である。というのも物質というのは3次元の存在だからである。実際、エゴというのは、3次元空間しか把握できない。

 例えば、4次元の特徴をもつ時間を加えると、過去の自分、未来の自分ができてくるが、現在の自分からみれば、それは既に他者である。それは3次元的感覚では捉えられないからである。

 結婚を題材に考えてみる。一度好きになった相手と暮らすのが、どれほど大変かという話を、独り身の私に聞かせる既婚者のなんと多いことか。

 これは私の偏見も混じるので、軽く聞き流してほしいが、モテない男性は結婚に大凡満足しているが、女性のほとんどは結婚に不満を感じているようである。

 だからこそ旦那デスノートなどが巷を賑わせるのかもしれない。

 結婚に満足できないモテる男性は、既婚者でも女性が寄ってくるので、不倫をしてしまうのだろう。

 しかし、冷静に考えてほしい。

 仕事をして金銭を稼ぐのは容易いことではない。仕事のほとんどは辛いことだからである。辛いことを我慢して、その金銭をパートナーや家庭をつくるのに捧げることが愛でないと簡単に否定できるものだろうか?

 確かに金銭という銀行口座の数字や物質で見せられると陳腐に感じるかもしれないが、それを稼ぐには背後に多くの努力があったことを無視してはいけない。

 貢がれること、捧げられることが当たり前になることは、愛を感じる能力を失っていることでもある。そうやって、他者の痛みに鈍感になっていく。

 エゴがどんどん3次元化し増大していく。

 さて、話は変わるが、私は千円札の福沢諭吉が大嫌いである。福沢は「天は人の上に人をつくらず」の人物だとされているが、三谷幸喜氏の番組で知ったが、その言葉は福沢のものではなく、当時、世間でいわれていたことなのである。

 福沢の学問のススメに載っている言葉ではあるが、福沢は、その世間の言葉を否定して、「学問をすれば、人の上に立てる」と言っているのである。

 つまり、学問は立身出世の道具と言いきっているのである。なんと愚かな主張だろうか?

 学問を立身出世の道具に貶めてしまったのである。

 確かに、立身出世の道具というか、そういう学問をつくることができるが、そんな学問が、人生にとってどんな役に立つのか? 銅像を拵えて、後世の人々に崇めたてられる似非宗教をつくるのが社会にとって役にたつことだろうか?

 お墓を沢山つくるのとどう違うのか?

 このようなものは偽善行為である。

 学問をしたからといって人の上に立てるというのは単なる思い上がりにすぎない。虚学である。

 福沢の主張を俗語で現代訳すれば、学問をして階層社会の上層部に立って使用人を思い通りに使って楽で快適な生活をしようといっていることになる。結局のところ、物欲の奴隷になろう、といっているにすぎない。

 この福沢の主張を私はマルクスの資本論と全く同じものとみている。マルクスの資本論は簡単にいえば国家を略奪し独裁者になる理論である。唯物論の性だからである。

 この主張には、似非キリスト教徒に対するアンチテーゼの意味が幾分あるとしても、人智学的にいえば、ルシファーに対するアーリマンの違いだけで、同じ悪魔の貉なんである。

 地獄をつくって地獄の王に君臨しようと言っているのである。福沢は恐らく地獄が好きなのだろう。

 はっきりいおう。学問をしたからとって、人の上に立てることは断じてない。むしろ、人の下につき、人を支える本物の苦労人になる。学問の道とは苦労の茨の道だからである。

 しかし、苦労がなければ、宝も得られない。虎穴に入らずんば虎児を得ず。

 (物質的に)楽をしようなんていう邪な心がある限り、本当の学問の道ではない。だから、福沢の教えは偽善である。

 人生は苦労の連続だからこそ、心が磨かれるわけで、例えば、一つのドラマの登場人物全てを、その作品の作者や監督や舞台作製者に至るまでも、いずれ全て一人で演じ切り、製作できなければ、人間というドラマを完結できないのである。

 だから主人公だけを演じていて満足するようじゃ、人間という進化段階を卒業できないのである。AKBのようにセンターに立って卒業ではないのである。あらゆる人間が可能な立場を経験し、総合的にみれるようになってはじめて一人前というわけである。

 そこで、学問の効用を少し説く。
 
 本物の学問はカネなど必要がない。自分の人生にどれだけ金銭がかかるか予め計算し、それだけ稼いで、実際に人生を全うした哲学者が実際にいるという話を聞いたことがあるし、本当の求道者ならば、キリストや御釈迦さまのようにプータロ―やホームレスであるだろう。

 伝説となっている偉人の人生にカネなど必要がなかったことは明らかである。

 だから、学問にカネが必要というのは、それだけで、その学問が偽物である証拠である。

 次に、本物の学問はそれをしているだけで満足が得られる。だから、俗世の誘惑とは無縁でいられるというか、無関心となる。俗世がつまらなく感じる。

 例えば、数学の世界は、それだけで楽しいものである。宇宙を見ている感覚である。確かに男性からみれば、女性の裸体も美しくみえるだろうが、それは曲線が美しいからこそ、美しいわけで、曲線に美を感じる感性があるから、美しいわけで、数学の一部の幾何学をみているともいえるわけである。

 つまり、美の原点に立ち返っていくので、美の原点とは宇宙の秩序、つまり、道徳に辿りつくわけで、その美を感じる感性が研ぎ澄まされていくので、自然と宇宙を美しく感じ、感性が磨かれれば磨かれるほど満足が得られるわけである。

 しかもそこには終わりはなく、満足からまた満足が得られる無限の満足だから、本当の学問こそ学問で全て完結するのである。

 だから学問は美しくなければ本物ではないことがわかる。だから、本物の学問をすれば偽善に走ることはない。

 そして、なにより本物の学問をすれば、モノの本質や真実がわかるということである。

 モノの本質がわかり真実がわかれば、騙されたり、欺かれたり、誘惑に陥ることはなく、一喜一憂することもない。ただただ光と愛を感じるのみである。

 そういうわけで、本物の学問をしなければいけない。何が本物かをみつけるのも、本物の学問の初歩なのである。

 物質的な楽ではなく、精神的な楽しさ、自由さ、なんである。簡単にいえば、いろんな見方や立場に立てる視野をもつこと。

 さて、以前、このブログでも紹介したが、本物の学問をするために、以下にまた再掲したいと思う。
 
 老子は本物の学問と思われるからである。

  ★     ★     ★

 少し時間ができたので、本を読んだ。昔読んだ「安岡正篤 最上の人生設計」である。陽明学者の安岡氏は、「平成」の元号で有名だが、恐らくその漢字を選んだのは、平和を確かなものにする、という意志に私には思われる。

 平和憲法を堅持していくという意志に私には思えるのである。

 というのも、この本に書かれているように、パワーポリティクスの「勢力」に対して、パブリックエデュケーションの「摂受」を説かれているからである。
 
 結局、闘いは何も創造しないだけでなく、ネガティヴな想念を増大させ、苦悩の地獄に落とすだけなのである。勢力争いを続けるなら、いまのサルのように人類は退化していくだけである。

 闘いではなく、指導者の話し合い、人格で解決すべきなのである。人類を霊的に進化させるには、どのような世界をつくるのか、で決めるべきである。

 この本を一読するのを是非お勧めしたい。特に日本会議のような無知でバカな連中のように、論語読みの論語知らず、にならないように注意すべきである。安岡氏も、このようなバカな連中の看板に担がれるのは片腹痛しだろう。

 日本が素晴らしいのは、この国の生活にこのような東洋哲学が残っていることにあり、古代中国の、シュタイナーに言わせれば、古代アトランティスの文明が残っていることにある。

 私は勝手に安岡氏を著作を通じて、師匠にしているが、だからといって氏の発言全てを肯定するわけではなく、またシュタイナーも師匠にしているが、だからといって人智学教に染まらないように注意している。

 自分に相応しい学問は自分でつくるしかないと思っている。しかし、良いと思われるところは受け継ぎ、改善していき、悪いと思われるものはあっさりと放棄していきたい。
 
 陽明学の良いところはその改革思想だが、悪いところはあまりに過激になると、思想に凝り固まり、攻撃的になるところである。だから、陰陽論を合わせて、推していくだけでなく、引くべきところは引くという陰陽明学にすべきである。

 というわけで、この本から、現代のご時世にとって、興味深い部分を紹介する。

 ★         ★         ★

 日本には素晴らしい東洋思想が根付いている。それが日本人にとっての「素」であり、まずは、そこに立脚して物事をみるのが大事である。 

 「富貴に素しては富貴に行ない、貴賤に素しては貴賤に行ない、夷狄に素しては夷狄に行ない、患難に素しては患難に行なう。」とは、環境に左右されるな、という戒めである。

 これも、本当の自分を見つけていれば、どんな環境にあっても、それに振り回されることはない。自分自身というものが、定まっていないから、環境に振り回されるのである。

 本当に徹底している人は、カネや地位などといったものに執着しない。

 本当の自分というものがわかれば、カネがあろうがなかろうが、どこの国に行っても、どんな苦労にあっても、悠然としていられるわけで、いかに自分というものを掴むことが大事かということが「自得」なのである。

 自得とは、自ら得るということで、自分で自分をつかむ。本当の自分をみつけることである。カネとか地位などというものは枝葉末節で、人間として大事なのは、本当の自分をつかむことである。

 ところが、人間が一番失いやすいのも自分なのである。根本において、自分というものを掴んでいないことから、あらゆる間違いが起こる。まず自分を掴まないといけない。

 それがあらゆる哲学、宗教、道徳の根本問題なのである。

 ★         ★         ★

 この本当の自分とは、現代物理の繰り込み理論と相通じるところがある。簡単に説明すると、裸の電荷の周りに、反対の電荷が引き寄せられるので、全体としては、引き寄せられた電荷が繰り込まれ、キャンセルされて、現れてくる、という話なのである。

 この繰り込み理論と同じで、正味の自分は、周囲への欲望をまとって、現世に現れてくるので、執着のために、見えにくくなる、というわけである。

 この正味の自分を見積もる眼を、心眼や霊眼というわけである。

 さて、このような本物の眼をもつためには、人生の苦渋を味わう必要があるのだが、この本の最後には、その見分け方が載っている。恐らく、老子の出典をアレンジしたものといえる。

 ★         ★         ★
 
http://www.roushiweb.com/category3/entry103.html
善戦者不怒
(善く戦う者は怒らず)

 老子によれば、「戦上手な者は、安易な挑発には乗らないもの」。
優れた名士は、武力に任せて物事を解決しようとしたりしないし、
怒りに身を任せて戦ったりしない。
上手に勝ちを収める者は競争しないものだし、
上手に人を使う人はへりくだってお願いするものだよ…と言うのです。

ちょっと強引な解釈かもしれませんが、老子が言いたかったことは
要するに「力まかせに正面からぶつかるんじゃなくて、頭を使えよ」
…ということだったのではないでしょうか。

怒りに関していえば、何か腹の立つ出来事があった時、
カッとなったその衝動に任せて怒りをあらわにしてしまう人は所詮、二流、三流。
一流の武士、ホンモノの「強者」は、一旦間を置いて、
その出来事(他者の言動など)や自分の気持ちの変化を
客観的に捉えられる余裕があるのでしょう。

すなわち、安易に周りに振り回されたりしないということ。
言い換えれば、自分自身の軸がしっかりしているということです。

 ★         ★         ★

四等と五等と六等の(ダメ)大臣の特徴だけを以下に抜粋する。

人気や自身の安隠ばかりを図り、国家の安危など真剣に考えていないのが四等大臣。

功名心や権力欲ばかりが強く、我儘で人と張り合い国政にとって有害無なのが五等大臣。

大臣の権勢を利用して悪事を働き、善人を傷め、良民を苦しめ、人望を失うのが六等大臣。

 ★         ★         ★

現内閣はダメ大臣ばかりの寄せ集めにすぎないのが明らかであろう。 

ブルゾンちえみ、という芸人が巷を賑わせているが、ダメガバメントに、国民は今いうべきである。

アホちゃん、アホちゃん、仕事、仕事。
祖父の改憲が忘れられなくて、仕事に集中できないって、ダメミニスター、
いい、明治憲法が忘れられないって、じゃ、質問です。
アホちゃんは、味のしなくなったダメ総理をいつまでもいつまでも続けるつもりですか?
新しい総理を食べたくない? 
内閣はガムと一緒!
味がしなくなったらまた新しいのを食べればいい。だって、日本には大人が何人いると思っているの?
約1億人

その1億のうちで、ダメパーソンばかりを選んできたダメピープル。

日本は本当にダメカントリー

といわれそうである。

日本人はお人好しで騙されやすくナイーヴというのが、無能総理のダメ長期政権を続けさせていることでも明らかである。

無能総理を支持しているのは、恐らく中露米のように思われる。

前回、陽明学者安岡正篤氏を知る本を紹介したが、その本のなかにも、国家を潰すには、無能者を指導的立場につける事だと書いてあるし、歴史が物語っている。

この国には昔から、三代続くと穀潰し、という諺がある。三代目がよほどの苦労人でない限りは、潰れてしまうのが世の常というわけである。

現アホ総理は岸を祖父として三代目でしかも苦労しらずの見栄っ張りだから、この諺の通りのアホバカ穀潰しにうってつけの人物であろう。

それは以下のデータをみても明らかである。



それにしても、中露は流石に懐が広く狡猾である。バカ総理は、日本のサラリーマンが稼いだ税金を湯水のごとく中露にばらまいて、中露はその資金で国内外で反日活動を続けているのだから、人が悪いというか、笑いが止まらないだろう。

最近は年金を株価工作資金にして、足元をみられ、かえって偽ユダヤたち投資家に強奪され、その資金で、日本系の企業が強奪されているのだから、振りこめ詐欺どころの話ではない。

つい最近も、「ワタシ、日本人で良かった」のモデルが実は中国人だった、というお笑い沙汰があったが、アホ総理を支持しているのは恐らく中露だろう。米国も経済を強奪するのに、都合がいい無能な人物だから、陰で支援しているはずである。

東芝が転落したのが最たる例である。中露米にとっては赤子の手を捻るようなもんだろう。

そもそも、日本人が政治に無関心で、弱者を救おうとしない不真面目な姿勢が、無能者を指導的立場につけてしまう。

誰もが思う立派な人物を指導的立場につければ、他国にも人間として侮られることはない。

もっと真剣に選挙すべきである。そのツケは結局国民に還ってくる。大国なら少々失敗しても国が亡ぶことはないが、小国は致命的で、現に幕末と敗戦で結局英米に植民地化されてしまった。

この段階で、日本に賢い人物が指導的立場につくことは、英米が監視し、許さないのは、鳩山由紀夫が東アジア共同体という大東亜共栄圏の二番煎じを行おうとして、米国から失脚させられたことでも明らかである。

利用されていることに気づいていないアホバカこそ本物のアホバカである。これも世間知らずの、苦労知らずで、親の七光りや家系で高い地位についた驕りやエゴの堕落腐敗のインチキの積み重ね、と言わざるを得ないアホバカさである。

世間を舐めてはいけない。勝海舟は、「理屈は死んでいる、世間は生きている」と言っているが、政治の世界が競争社会以上の実力社会であることがわかっていないのだろう。

だから、田中角栄などは、選挙で苦労しないとダメだと言っていたのだろう。角栄もかなりの自信家だったのだろうが、結局、世間を舐めたから、国際舞台では、ロッキード事件で闇に葬られたのである。

あの勝海舟でさえ、日本は箱庭だといっている。日本の義理人情などは国際舞台では通用しない。だからこそ、海舟曰く、政治はただただ正心正意と説いている。

もし、安岡氏が平成のフィクサーを続けていたら、中曽根以降の人物を総理にしていなかったはずである。中曽根以降、この国の外交が腰抜けの米国ゴマすりに変わったからである。

実際、中曽根はレーガンの金魚の糞と呼ばれていた。不沈空母などと戯言を放ち、国民のなかではバカにされていた。

妖怪中曽根はまだマシとしても、コネズミからは眼も当てられない。

マシだったのは福田と民主の鳩山くらいだったが短命で終わった。恐らく外国が有能だと見込んだのだろう。巧くバカ殿を演じないとダメである。

もっとも演じるのでなく正真正銘のバカではこの国はお終いである。

現憲法での自衛隊の海外派兵をしておきながら、防衛大臣の問題と森友問題を抱えると、自己弁護のために撤収させ、今度は自衛隊派兵のための改憲を主張するなど支離滅裂である。

自分がした海外派兵を違憲だったと告白するような改憲論なんである。法を犯しておきながら、法が間違っているという傍若無人の我儘さは天性の苦労知らずの三代お坊ちゃんのなせる業といえる。

そういう地獄堕ちのアホバカに、陰陽明学や人智学などの高尚な学問を説いても、猫に小判であるから、とにかく国民が目覚めるために、ひたすらパブリックエデュケーションの「摂受」を説くしかない。

 前回と同様に、最後に再び古典から、重要な部分を紹介する。

『呻吟語』(呂新吾著)には、第一等の人物資質を「深沈厚重」の人物、二等を
「磊落豪雄」の人物、三等は「聡明才弁」の人物つとあります、

「どっしりと落ち着いて物事に動じないのは、人間として第一級の資質である。
細かい事にこだわらず太っ腹なのは、第二級の資質である。
頭の回転が良く弁が立つのは、たかだか第三等の資質に過ぎない」

 これより下は、無能というべきだろう。更にまた老子。

 http://utsusemi.info/index.php?e=257

 老子、道教の神となる

 今から2千数百年前の老子の時代、中国は群雄割拠した戦国の世である。為政者はいかにして領土を広げ、自分の国を富ませるかに執心した。

 このため、全国に諸子百家が現れ、リーダーのとるべき統治論を力説した。その最大勢力が孔子を始めとする儒家であり、彼らは仁義礼などのモラルを尊重して安定した政治体制を確立し、官僚の処世術を説いた。

 司馬遷によれば、老子は「隠君子」であって、政治の只中に身をおかず、日の当たらないところにいる有徳の人である。

 老子には、為政者に頼まれ統治論を展開した形跡はない。役人の職を辞し、独り旅に出た途中、関所の長官・尹喜に請われ、道について論述したといわれる。多くの弟子にかこまれた孔子とは対照的に、老子はひとり孤独である。

 筆をとる彼の頭に浮かんでいたのは、為政者であったろうか。決してそうであるまい。世にもてはやされる儒家の面々ではなかったか。

 「老子」はかつて「孫子」と同様、兵術を論じた学派、「兵家」の書とされたことがある。それほどに、権謀術数を駆使した戦術論が熱く語られている一方で、醒め切った人生哲学というべき、人間の本質をえぐるような言葉が述べられる。

 そこには儒家思想に対するアンチテーゼとして熱弁をふるう老子の姿が垣間見える。

 儒家が為政者、官僚を意識して語られるのに対し、老子が負け組というべき世間の脱落者や競争に破れた知識人に語りかけているふうにみえるのは、そのためであろう。

 老子の思想の根源には「道(タオ)」が横たわっている。孔子のいう「道」とは人の道であり、道徳である。

 これに対し、老子の「道」は自然科学であって、人を含めあらゆる存在は、なにかある法則に沿って動いているという宇宙観であり、万物を存在させている大きな力を指している。

 儒家は為政者に対し、仁義を重んじ、礼を尊び、現体制を維持させようとした。これに対し老子は、仁義も礼も不要である。仁義や礼は、大いなる道が見失われたために必要になったもので、道にさえ従っておれば本来必要のないものである(大道すたれて仁義あり)とした。形ばかりの礼など何の役にも立たないというのである。

 さらに、「学を断てば憂いなし」と、学問、知識すら不要であるといい、儒家に真っ向から反対している。つまり、道に従っておれば生半可な知識など、かえって不安や迷いを引き起こしてしまうだけだというのである。また為政者に対しても「大国を治むるは小鮮を煮るがごとし」といって、国をよく治めるには民をつつかず何も干渉しないほうが良い結果をもたらすとした。

 見方を変えれば、為政者は一見なにもしないふりをして、陰ではあの手この手を打たなければならないと言っているようでもある。

 事実、「賢を尚ばざらば、民をして争わざらしむ」、「欲す可きをしめさざらば、心をして乱れざらしむ」といって、為政者が才能あるものを採り上げなければ人々は争わないし、為政者が欲望を持たなければ人々も無欲となる。したがって為政者たるものは、人々が不満を抱かないように努め、志を弱めて、無知無欲の状態にしておけば、民に反乱をおこされる心配がない。

 さらに、「国の利器は以て人に示すべからず」と、民に対する厳しい統治の中身は、決して彼らにみせてはならないと言っている。

 彼を穏健な好々爺と考えているむきには意外な一面を見た気がするだろうが、なにしろ戦国の乱世である。これくらいの権謀術数がなくて、為政者が務まるかという意気込みであろう。無論心底には、儒家の「あるべき論」を一蹴したいという意向がある。

 彼は戦略家であるが、決して好戦家ではない。

「兵は不祥の器なり」といって、戦いはやむなくするものであり、極力さけるべきである。そして「善く敵に勝つ者は争わず」といい、戦わずして勝つのが老子の本意である。この点、孫子と同じ方向を向いている。

 「大国は以て小国に下らば、則ち小国を取り、小国は以て大国に下らば、則ち大国に取らる」。つまり、大国のほうから小国にへりくだって声をかければ、無傷で勝利を手中にすることができるのである。面子など気にするなというわけだ。

 また、「敢えてするに勇なれば、則ち殺され、敢えてせざるに勇ならば、則ち活く」といい、尻込みしてあの手この手で戦いを避けようとするものは、結局生き残る。格好は悪くても生き残る方が勝ちだといい、可及的な生き残り戦術を勧めている。

 老子の言葉は逆説的な表現に満ちているため、はっとさせられるが、その実、隠れた真理に気付かされることが少なくない。このため、儒教に縛られ閉塞した社会へ風穴をあけた発言として、多くの共感者を得た。

 ただ、彼の頭から儒家が消えたとき、彼は長年抱いている人生哲学についてポツリポツリと語り始める。それは一体、誰に向かって語りかけているのだろうかと訝しがるほどに、普遍的な内容に満ちている。

 彼の根源的な思想である「道」に従う生き方というのが、「無為自然」である。「道は常に無為にして、しかも為さざるなし」という。

 道は何もなさないでいるにもかかわらず、すべてのことをなしているという、得意の逆説である。

 じつは無為というのは、なにもしないでよいということではない。作為的なことをするなというのである。欲を出して、余計なことをしてはならない。自由な心で自然のままに(道にしたがって)生きようではないかという境地である。

 そして「水」のなかに、無為自然が具現された姿を認め、「上善は水の如し」と称賛した。

 すなわち、水は万物をはぐくみ、なにものにも抗わず、ひとが嫌うような低いところへと流れ、黙ってそこにおさまっている。一方で、水は柔らかでしなやかであるのに、岩のごとき固いものをも打ち砕く(柔よく剛を制す)。水はただ自然に任せて流れているだけなのに、多くの恵みを我々にもたらしてくれる。これこそ、道に従った理想的な生き方であるというのである。

 そしてあるべき人間像について、つぎのように語っている。

 「人を知る者は智なり。自ら知る者は明なり」といって、他人の心をよく汲み取れる人は智者である。しかし自分のことをよく判断できる人こそ真に明知の人というべきであるという。

 また「希言は自然なり」、「知る者は言わず。言う者は知らず」といって、本当の知者は寡黙であって饒舌ではないという。さらに、人と和すことができなければ、他人から評価されることにはならない。自分に従わない者を排除するのではなく、「和光同塵」といって、自分の才能や知識は伏せ、一歩引いて自分のほうから相手に合わせるようにすべきであるという。

 さらに「人に与えて、己いよいよ多し」といい、他人へ奉仕をすることを喜びとし、「怨みに報いるに徳を以てす」と、うけた怨みを早く忘れ、親しみをもって接することが、道にかなった態度であるという。実際には、なかなかできそうにないことを求めている。

 また彼は処世の心構えを、老人の繰り言のように吐露している。

 まず「天下の難きは易きよりおこり、天下の大は細よりおこる」と、いかなる困難や大事も最初は些細なことから始まることを肝に銘じ、「千里の行も足下より始まる」と、何事も地道にコツコツやることが大切だと言っている。

 また、老子が繰り返し強調するのが、足るを知る「知足」という考え方である。

 「禍(わざわい)は足るを知らざるよりも大なるはなく、咎は得るを欲するよりも大なるはなし」と、禍は満足することを知らない心にある。そして「足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うからず」といい、分をわきまえ、ほどほどのところで満足せよといっている。

 さらに「つまだつものは立たず」、「自ら矜(ほこ)るものは長からず」といい、自分を実際より大きく見せようとしたり、才能を誇示するようなものは、長続きしないと述べている。

 つまり、ひとは分相応の人生を送るべきであって、欲を出さず止まることを知っておれば、心安らかに暮らすことができるという。

 また、「それ軽々しく諾せば必ず信すくなく、易しとすること多ければ必ず難きこと多し。是れを以て聖人すら、なおこれを難しとす。故に終に難きことなし」という。安請け合いしたり相手をあなどると、あとで大変な目に遭いかねない。慎重の上にも慎重を重ねるようにせよ。成功を夢見るよりも、失敗をしない生き方が大切であると言っている。

 さらに「甚だ愛すれば必ず大いについえ、多く蔵すれば必ず厚くうしなう」といい、地位や名誉にこだわれば、命をすり減らすことになる。財を蓄えるのに執心すれば、いつかそれを失うはめになる。そこで「道を為すものは日に損す」といって、道を修めておれば、財産や地位を求める心も、病気を恐れる気持ちもなくなってしまうと言っている。

 あるときは「曲なれば即ち全し」といい、曲がった木は使い道がないといって、切られずに寿命を全うすることができるが、真っ直ぐで見栄えのよい木は伐られてしまう。時と場合によっては、自説を曲げてでも相手に従い、身の保全をはかれという意にとれるが、一方、社会的弱者のほうが、生き残るにはかえっていいこともあるよと慰撫しているようでもある。

 また道にかなった生き方について「我に三宝有り、持してこれを宝とす。一に曰く、慈、二に曰く、倹、三に曰く、敢えて天下の先と為らず」といい、一つ目は慈しみ、二つ目は控えめ、三つ目は人の先頭に立たないことだと言っている。

 また老子はものの見方について、「天下みな美の美たるを知るも、斯れ悪のみ。みな善の善たるを知るも、斯れ不善のみ。故に有と無と相い生じ、難と易と相成り、長と短と相いあらわれ、高と下と相い傾き、音と声と相い和し、前と後と相い随う」と述べている。つまり美も善も、有も難も、見方を変えれば、たちどころに醜や悪、無や易に変わってしまう。

 したがって、この相対的な世界をよく自覚して、自然のなかで自由に生きていこうというのである。

 そして人の本性として「持して之をみたすは、その已むるにしかず」といい、ひとは貪欲で、これでいいと満足することがなかなかできない。富や地位を得て奢れば、かえって災難を招く事になる。仕事を成し遂げたとおもったら、はやく身を引くことだ。そして「功成りて身退くは、天の道なり」と、引き際の大切さを力説している。

 さらに「天網恢恢、疎にして漏らさず」といい、悪い事をすれば必ず天罰が下る。頭のいい者なら、いずれそういう自然の法則に気づくだろうとうそぶいている。

 このあたり、戦国時代の人々だけでなく、現代のわれわれの臓腑にもしっくりと収まるものがある。

 老子のこの無干渉主義は、前漢のはじめ為政者のための統治論として採用されたものの、七代武帝の時代になると、時代にそぐわないと切り捨てられた。そして以後2000年にわたって、儒教が中国の国教として採用された。ちなみに孔子の「論語」は、アジア世界で史上最大のベストセラーといわれる。

 一方、「老子」は時を経るに従い、社会にうまく適応できない人々にとって「癒しの書」とあがめられる存在となり、後世、彼は神格化され道教の神となった。

 最後の2つの文章には異論があるが、社会にうまく適用できない人々の心の書となるわけで、底辺を支える救いの教えであることがわかる。

  ★     ★     ★

 本物の学問とは、自分を客観的にみる他の自分を、自分のなかにもつ冷静さを常に身に着けることに思われる。まずは周囲の挑発に乗らないのが肝要である。

 ネガティヴな想念を捨て去ること。

 それは「我に三宝有り、持してこれを宝とす。一に曰く、慈、二に曰く、倹、三に曰く、敢えて天下の先と為らず」といい、一つ目は慈しみ、二つ目は控えめ、三つ目は人の先頭(上)に立たないことだと言っている。
 
 老子を一言でいうなら、天命を知り、その義務を全うしなさいということに思われる。天命を知るにはまず自己を知らないと話になりません。

 自分は何のためのこの世に生まれてきたのか? 
 
 この自問自答の繰り返しでしょうか。

・・・・・・・
・・・・・・・・
抜粋終わり

>日本人が政治に無関心で、弱者を救おうとしない不真面目な姿勢が、無能者を指導的立場につけてしまう。

そう思う。

これが天皇制の悪の一つ。

革命が無いので、「政治を変える」ことに絶望してしまう。

「天皇に任せておけばいい。口出しするといじめられ、下手すると殺されるから」になる。

天皇・君主の立場になると諫言して注意して過ちを是正するモノが皆無になってしまうのだ。

それだけでも危険や危なく悪の温床。

その上に日本の衆生は、自分で考え、悩み・審査しないといけないのだが、あまりのその機会を奪われた。
いや奪って、奴隷化した・・・

奴隷化の極地の一つが

>政治に無関心で、弱者を救おうとしない不真面目な姿勢

と思う。


その辺は、中国・韓国・ロシアが日本よりも優れていると思う。政治に関心を持ち、できる範囲内では他者を救おうとするところがまだ日本人よりもあるから・・。


この記事は、さっそく工作員のアラシのコメントが入っている。

それだけ悪党「天皇を看板に日本人を皆殺しにする勢力」に嫌がられているのだ。

ますます読んでね。


おまけで

安倍第二次政権が、ずるずる続けているのは、ちょうど前の敗戦で退位も出家もせずノウノウと至高の位に居続けた昭和天皇に倣っている。

昭和天皇はたぶんだが戦後の高度成長期位に譲位隠居を望んだようだが、反対され引っ込めた。

その過ち・天皇の無責任が、戦後日本のモラル破壊の根幹の一つにあるのは明白な事実である。

むろん、「3S政策」や「長時間労働の常態化」に「日教組自体の阿呆化」と「右翼の売国化」に「明治憲法体制=神聖天皇制のカルト宗教性」も除外してはいけないモラル破壊の大きな原因だが。


お読みくださりありがとうございます。


オマケの追記


「天皇家の歴史・伝統」というとき、ふと疑問が起きる。

少なくとも今の人間・まあ日本人に限定しても良いが、天皇同様に長い歴史・伝統があって今に存在している。
その歴史・伝統が見えるか見えないかだが、確実に同程度の歴史・伝統が名もなき庶民も犯罪者にも外国人にも存在する。
生物の存在の形態・モノの存続のありようを見ると、そう判断できる。なにも「天皇」は人間とも鎮地とも隔絶した「神」ではないのだから。

その「見えない歴史・伝統」を無いとし、見える歴史・伝統だけを、そもそれしか存在しないように詭弁を凝らしていうと、結局は、その「見える歴史・伝統」も破壊される。
「見えない歴史・伝統」のあってこその「見える歴史・伝統」だから。

その辺は日本でも分かっている人はわかっている。たぶん皇室・今上さんもその一人だろう。

ふと「天皇の霊性」という人は、それは天皇がモラルを守っていて、かつそれは名もなき庶民も同じ霊性を持っているという観点は大丈夫か?と思う。

前の敗戦の戦後処理で、完全に天皇・天皇家は責任逃避した。その為のモラル破壊は、以前書いた山田耕筰の発言を見てもわかるが、今の政治家・官僚・経済人も汚染している。

霊性をささえる根幹の大きなものに、「モラル・倫理」がある。それが壊れると霊性も崩壊を始める。
そもそも倫理の無い霊能力者に、誰が付いていきたいと思うかね。
歴史が進むに天皇家が力を失ったのはその要因もある。

そのモラル破壊を止めるのには、最低でも崇徳院・後鳥羽院の旧例に倣うこと。

このままモラルが壊れ続けて外国の手に掛かると、天皇制は日本人絶滅のために悪用して存続するか、ロマノフ王朝のようになるだろう。

その辺、八咫烏とかは大丈夫なのか?

このまま天皇制をずぶずぶ続けると、モラルともども日本はつぶれる。
無責任の権化をトップに抱える国家など信用できるか!

簡単にイデオロギー的な拙速さで天皇制を潰すと、これも日本は崩壊の危機になると思う。
生きた正倉院をイデオロギーでつぶすような連中を、信用できるか!

まあ難しい話です。


あと、新ムーのアグネスさんは、大本法華ワンワールド系のディープな信者かもしれませんし、深くなくとも、結構その影響を大きく受けているように思えます。

全部排斥することも無いですが、その辺用心して善言・情報を用いたら、双方の幸いになると思います。

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