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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
世相を斬る あいば達也 より

上記文抜粋
・・・・・・・

国を頓珍漢な方向に走らせる原動力は? 50代以上の人びと?

 以下は、河合薫氏のコラムである。「幸せより金」と云う、面倒な“中流意識”の問題点を、やんわりと抉っている。コラムの内容は、以下、参考引用するので、気軽に読んでみていただきた。また、珍しく、当該コラムに対する“投稿”がフィードバックとして、参考引用されているので、50代世代と思われる方の、投稿文も参考に引用掲載しておく。

 河合氏は、リーダーシップ分野の枠の中で、「絶対価値観」に気づくこと、相対的価値観に惑わされてはしまいかと云うところで、自問自答までして、心から、このテーマを考えようとしている。筆者は、このコラムを読み進むうちに、やはり、巷でよく言われる「世代間格差」という問題に行きついた。そして、その延長線上に、今の日本政治の現状を重ねてみた。そうしていくと気づいたのだが、現在の60代以上世代と50代世代に、交わることが不可能なような、価値観における断層があるのかも、と云う感慨に至った。筆者も、まもなく60代に突入するので、この大きな断層帯の真ん中で、錐もみ状態になっている(笑)。

長くなるが、読者の投稿文が別途フィードバックされていた。参考になるかと云うよりも、人それぞれの考え方に触れる、いい機会になった。ピンキリだが、筆者のコラムもピンキリだから、人様のことは言えない。他人の考えも読んでみようと思う方は、是非一読してください。筆者は、全部読みましたが、文字数の都合上、一部省略しています。フィードバックのURLは下記。

http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/072200063/?ST=viewcomment


≪ 自称「非・負け組」50代を襲う下流老人の恐怖
「幸せより金」の裏にある面倒な中流意識 欲しいものは「幸せ」より「お金」――。
 博報堂生活総合研究所が行った調査で、欲しいものは「お金」と回答した人が40.6%となり、「幸せ」の15.7%を大きく上回った。




 一方、お父さんのひと月のお小遣いは、過去最低の26,820円を記録した。

 


 この調査は1986年から10年ごとに同じ方式で実施され、今回がその4回目。なんだかしょっぱなから“どよ~ん”とする話題になってしまったが、この30年で、繁華街を札束ぶら下げ「幸せ」を求めて闊歩していた人たちが、「幸せよりも、カネをくれ!」と悲鳴を上げてるということか。
 いずれにせよ、時代が変わる中、「お金」と「幸せ」に関する逆転現象が起こり、その差が今回、過去最大に広がったのだ。
 調査担当者は、これらの結果について、「老後が長期化し生活の見通しは暗い状況で、現実的なお金を求める切実な気持ちが伺える」と分析している。

■お金が欲しいのは、本当に「生活が苦しいから」?
 この調査結果、改めて分析してもらうまでもなく、ごくごく当たり前の結果だと考えることもできる。  なんせ、この30年で74.54歳(男性)、80.93歳(女性)だった平均寿命(1984年)は、80.18歳(男性)、86.83歳(女性)と延び(2014年)、年金受給年齢は引き上げられ、考えれば考えるほど、「大丈夫か?」という気分にもなる。
 た・だ・し、実はコレ、調査対象は「60歳以上」のいわゆる「逃げ切り世代」だ。平均寿命が5年延びたとしても、下の世代に比べればまだ“懐は温かい”はず。
 生活に困窮する、いわゆる「下流老人」が増えている一方で、悠々自適な日々を過ごす人たちも多い。  実際、内閣府の「平成28年版高齢社会白書」 では「家計にゆとりがあり、まったく心配なく暮らしている」と答えた人は、75歳以上では20%を超え、60代、70代前半でも約15%。「家計にゆとりはないが、それほど心配なく暮らしている」という人を加えると、7割以上もの人が、「お金を心配せずに暮らしている」のである。




 つまり、冒頭の調査結果は、「もっとゆとりある生活のために、お金が欲しい人」と、「生活が苦しいので、お金が欲しい人」が混在していて、前者の人が多いと推察できる(ちなみに高齢社会白書では「家計にゆとりはなく、多少心配である」が21.7%、「家計が苦しく、非常に心配である」は6.6%となっている)。

■「かくいう私も、不安なのだ」
 といっても、これは「今」の60歳以上のお話である。
 「今」の50代が60代になったときには、「生活が苦しいので、お金が欲しい人」の割合が大幅に増加する可能性は高い。さらに、非正規元年世代である40代が60代になったときには、もっともっと深刻化するに違いない。
「なんかヤバいなぁって。ええ、お金です」 「老後が不安」 「会社でもそろそろかなってなってきたので……」 「退職金激減してるんだよなぁ」 「今の55歳以上は、まだ逃げ切れるでしょ」 「僕たちは無理」 「団塊の世代がうらやましい~」 etc、etc…
 実際、この1年間でこんな具合に将来への不安を口にする人が、フィールドインタビューでも増えた。果てしないポジティブ思考だったバブル世代でさえ、将来への不安を抱くようになってしまったのだ。
 ん? 私ですか? ええ。その一人です。コレといったきっかけがあるわけではない。だが、最近になって、かくいう私も将来に不安を感じている。 同世代たちの不安が伝染した? その可能性はある。 仕事に行き詰まった? それは毎度のこと(苦笑)
 いずれにせよ、先日、51歳の男性から伺った話が、実に考えさせられるもので、みなさんのご意見も伺いたいと思った次第だ。ふむ。こういうときこそ、コメント欄の機能を生かさなくてはならない。
 というわけで、今回のテーマは、「将来不安」です。では、さっそく、男性の話をお聞きください。

■「自分でも何が正解なのか、わからないんです」
  「私は今、51歳で、11月の誕生日で52歳になります。20年前は30歳を過ぎたばかり。これから20年後には70代になっています。なんか年齢のことばかり話していて、すみません。でも、あと20年で70って思った途端、やたらと将来にリアリティが出てしまったんです。ええ、悪い意味で、です。
 30歳から50歳って、アッという間でした。もちろんあの頃と比べたら体力は落ちたし、気力も昔ほど続かなくなった。でも、働き方というか、生き方はそんなに変わっていないし、むしろ今の方が充実しています。会社の出世競争からは最初から外れてしまいましたが、自分なりの仕事観というか人生観を変 えることなく、50歳を迎えることができました。
 30歳のときに考えていたほど給料は上がらなかったので、当時、期待したほど生活に余裕はありません。それでも生活に困っているわけではない。
 たぶん、この『今は困っていない』という状況が、私の不安を掻き立てているのかもしれません。つまり、70になったときに、今のような生活ができるのだろうか? 年金は? 社会保障は? どうなっているのか? 全くイメージができない。それが不安なんです。
 お恥ずかしい話ですが、ローンの残高を調べてみたら唖然としちゃって。これじゃあ、退職金が消えてしまうじゃないかと。かといって繰り上げ返済し ようにも、子どもが2人ともまだ大学生なので、学費がかかる。妻は少しでも貯蓄を増やそうと数年前から働き始めましたが、40代の女性に払われる賃金は驚くほど低い。妻はSEの仕事をしていたので、勉強し直して就職したんですが、与えられる仕事は若手のサポートばかりだと嘆いています。要するに、会社は40代の労働力に全く期待していないわけです。
 そうやって今の社会状況を冷静に分析してくと、20年後、安心して暮らすには、どこかで自分の価値観を変えないとダメなんじゃないかと。でも、どう変えればいいのかが曖昧で。自分でも何が正解なのか、わからないんです」
「負け組になりたくないって思うから、余計に不安になる」
「価値観を変える、ですか?」(河合)
「はい、そうです。実は、知人が東日本大震災が起きて被災地に通ってボランティアをしているうちに、『生活を変える』と言って、会社を辞めて郊外に引っ越したんです」
「支援をするために、東北に移住したということですか?」(河合)
「いいえ、関東です。東京からは電車だと2時間半くらいかかります。仕事も、家も、一瞬にして失った人たちを目の当たりして、あくせく働いて、カネを稼いで、何になるんだと思ったそうです」
「それまでの貯蓄と退職金で残りの人生を過ごせる、と考えたってことですね?」(河合)
「いやぁ、そうでもないみたいなんです。退職金は家のローンを完済するにも足りなかったと聞いています。移り住んだあとしばらく連絡がなかったので、大変なことのほうが多かったんじゃないでしょうか。  ところが、先日、偶然都内で会いましてね。てっきり地方生活が上手くいかず東京に戻ってきたのかと思ったら、たまたま用事があって来ただけだった。それでせっかくだから飲みに行こうってことになって、彼の話を聞いていろいろと考えてしまったんです。
 彼は得意だった英語を生かして、子どもたちに教えているそうです。といっても、収入は学生のバイト並み。ただ、生活には困らないって言うんです。 家賃8万で築50年の一軒家を借りて、生活費は月10万円程度。世の中、なんやかんやいってデフレだから、安いものはたくさんあるので十分やっていける、 と。  それで、彼に言われたんです。
 『負け組になりたくないって思うから、余計に不安になるんだよ』って。所詮、負け組とか勝ち組とか、周りからの評価でしかない。周りと比べない で、もっと自由に自分の価値観だけを頼りに生きていけば、自分次第でどうにでもなる。誰かが喜ぶようなことを、自分ががんばってやりさえすれば、頑張った分だけ満足感を得ることができる。ちゃんと報われるんだよ、って。
 彼に言われて、私は自分がわからなくなった。派手に暮らしてるわけでも、贅沢しているわけでもないけど、自分の価値観がわからなくなってしまった んです。いい顔をしてる彼をうらやましいと思う半面、私には彼のように達観できる自信もない。なんだか余計に不安になってしまいましてね。それで、今こうやって河合さんに話を聞いてもらってるんです(苦笑)」

■半数以上が、年収10万ドルより5万ドルを選んだ理由
 以上が彼とのやりとりである。
 お金への不安、将来への不安――。その正体は何だったのか? 知人の本質を突いた言葉に、男性は戸惑ってしまったのだ。
 そもそも、人間にとって、おカネはどういう価値を持つのか?
(1)あなたの年収は5万ドル、あなた以外の人たちの年収は2万5000ドル
(2)あなたの年収は10万ドル、あなた以外の人たちの年収は25万ドル
この2つの環境があるとしたならば、あなたはどちらを選びますか?
 このような質問を投げかけた時に、人はどちらの環境を選択するだろうか。
 もし、人にとってお金が絶対的な価値をもつものであれば、年収5万ドルの(1)よりも、その2倍の年収を稼げる(2)の方を選ぶはずだ。
 ところが、1990年代後半に、経済学者であるサラ・ソルニック(米バーモント大学経済学部アソシエイトプロフェッサー)と、デービッド・ヘメン ウェイ(米ハーバード大学公衆衛生大学院教授)の2人が、ハーバード大学の大学院生と教員たちに、この二つの質問を投げかける実験を行ったところ、対象者 の56%が(1)の方を選択した。
 つまり、半数以上の人が「周囲の人よりも稼いでいる」という相対的所得の高い環境を選んだのである(出所: “Is more always better?:A Suvey on Positional Concerns”,Jounal of Economic Behavior and Organization)。
 また、この調査では学歴についての質問も行った。
(1)あなたは高卒で、ほかの人は中卒
(2)あなたは大卒で、ほかの人は大学院卒
 どちらを選びますか? 
 結果は、前述の質問と同様、相対的に学歴の高い(1)を選ぶ人が半数を超えた。このほかにも、おカネと学歴の絶対的価値と相対的価値を問う質問をしたのだが、そのすべてで相対的価値の高い方を選ぶ傾向が高いことが明らかになったのである。
 ただし、例外が1つだけあった。休暇の長さに関する質問では、ほとんどの回答者が長く休める方を選択したのだ。

■相対的価値観から生まれる漠然とした不安感
 要するに、冒頭で紹介した「お金」と「幸せ」の逆転現象。高齢社会白書で明らかになった、7割以上が「お金に心配せずに暮らしている」という現実。その矛盾は、すべて相対的価値に起因していると解釈すれば、説明がつく。  が、問題なのは、件の男性がそうだったうように、「自分が相対的価値観に翻弄されている」ことに気付かないことだ。
 私はこれまでカネ、カネ、カネ、競争、競争、競争の世の中に、散々疑問を呈してきた。周りと比べるな! 自分を信じろ!と、ことあるごとに言ってきた。
 が、彼の話を聞きながら、実は私自身も、どこかで相対的な価値観に抜け出せずにいることに気付かされた。 「キミは本当にそうしてるかい? 相対的な価値に翻弄されてるだろ?」
 そんな風に言われている気がしてしまったのだ。
 かっこわるい。実に情けないことだ。
 成長する社会より、成熟する社会へ。この言葉を聞くと、誰もが「そうだよね」と安堵する。だが、そのためには私たち自身が成熟しなきゃダメ。
 周りと比べてるなんて無意味。心底、そう考えているのに、絶対的価値観だけで生きていけるほど、私は成熟していなかったのである。
 ただ、今回、「ズドン!」と弾を打たれて、少しだけ楽になった。今は必死で抗い続けても、「もう、いいかな」と思ったときに、絶対的価値で生きる選択をすればいい。そう思っただけで、少しだけ楽になったのである。
 市場経済では、おカネが絶対的な価値を持つものであったとしても、人間にとっては、人それぞれに価値のあるものが存在し、その絶対的価値あるものに向かっていくことが無用な不安を払拭する。
 ひょっとするとその「絶対的価値」を持てない、こと自体が、現代社会の問題かも、と思ったりもする。家族がいればなおさらのこと。自分では「生活のレベルと落としてもいい」と思っても、それを簡単には許さない“ナニか”が、不安を増殖させる。
 負け組、格差社会、下流老人、老後破綻……。そういったセンセーショナルな言葉自体も、相対的価値を助長する。そんな風に考えることはできないだろうか。

■多少のけがをしたり、痛い思いをするかもしれないけど
 もちろん、絶対的な価値観で、すべてが解決できるわけじゃない。
 下流老人、老後破産という新しい言葉が生まれるのは、そういう現象が社会で増えているからだし、一回でもつまずくとやり直すのが難しい、一回でも病気になると働くのが厳しい社会構造は変えるべきだ。  でも、絶対的価値を持つことが、不安から脱する最大の武器になることは間違いない。崖から飛び降りたときは、多少のけがをしたり、痛い思いをするかもしれない。でも、それは真の自由を手に入れることであり、幸せな人生を全うすることでもあるように思う。
 その勇気を、私たちは持てるだろうか? 大切な人と絶対的価値観を共有するには、どうしたらいいのか? 
 20年なんてアッという間。今、50歳の方は、気がついたときには、70歳。みなさんの絶対的価値は何ですか? 是非、お聞かせいただければ幸いです。よろしくお願いします。
 ≫(日経ビジネス:総合トップ >スキル・ライフ>河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学 )


■――いただいたコメント―― (抜粋)

★サラリーマンの5%くらいは何を言われなくても、出世の為に頑張ろうという上昇志向のある人。彼らは自分達の目標達成の為に仕事を前向きに行う。また5% くらいは何を言っても頑張ろうとしない人たちもいる。仕事とは全く違うところに目標があるのかもしれない。90%くらいの人は真面目だが前向きに仕事をする意欲は無いが目の前にある仕事はきっちりこなす。概ねこのような社員の状態を是としている経営者が多いように思える。だからある程度できると見なされた 管理職研修をおこなう。しかしこれは90%の真面目な「普通組」の社員はいつでも交換が効くという前提の上に成り立った戦術。会社が安定または衰退期に 入った企業は若い新入社員の数が限界的に減少するので、「茹で蛙」世代とその予備軍の割合がどんどん増える。その時に経営者は自分の戦術は戦略ではなかっと気付くでしょう。それを気付ける経営者はまだ救える。殆どの経営者は世代交代で責任のとわれることがない。いつまで経っても人事戦略がない会社のまま。 茹で蛙は実は会社そのものということが判っていない。

★首都圏在住の方が、地方移住している例を挙げているのが、 残念。もともと、地方在住で賃金の安い中小企業で勤務している、 簡単には職替えなどできない、人には的はずれの記事。そもそも、人それぞれが持ち合わせる『価値観』と実際に ”今後の収入が心配”と考えるのは、まったく別物。筆者は、もっと深い思慮が必要だと感じた。

★頭に残る記事でした。特に「自分が相対的価値観に翻弄されているか」に自問が続きました。 ちょうど50歳の自分、相変わらず昇進、年収アップを狙っている、精神年齢が若年かも知れない、という身には、仕事の合間に、ちょっぴり異次元の視点を与えて頂けた印象です。 先日、親類の法事の際に、同年齢の従兄弟たちと集まり「どーして、その年齢になったのに、そんなにまだ忙しいの?」と尋ねられて、返答に困惑した事を思い出しました。 そう、もう皆それぞれ違う世界にいるんだと。昔は一緒に海に行った子供時代の思い出は一緒であったのに、と。 この記事の問い掛けに感謝します。

★絶対的価値をもてればいいでしょうが、なかなか難しいと思います。私は相対的なものでもいいと思っています。他人の比較したときにお金は比較しやすいです よね。数字がでますから、でも金持ちだからいいかといえばそうでないでしょう。金を持っていることが価値基準ならやくざと呼ばれる人たちは沢山お金を持っ ている人多いですよ。でもそうなりたいと考える人も、お金持っているからと尊敬する人も少ないでしょう。だからお金があればいいわけではないと思っていま す。 ▽私は人と比べてなにか勝っているものがあれば結構強く生きていけると考えています。もちろん人より勝るためにはそれなりの努力が必要です が、得意分野で勝負すれば勝算は十分にあるはずです。他とえばただ健康で年をとるだけでもなかなか大変ですよ。80歳90歳になって病気が無い人は人より 勝っていると思います。確かに多少はお金は必要ですが、健康を保つのひそんなにお金は要りません。まあ、お金をかけて保っている人もいるとはおもいますけ どね。他にもいつも気軽に話せる友達がいるとか、みなで騒げる仲間がいるとか。夢中になれる趣味があるとか。一生働き続ける。なんってのもいいと思います よ。それなりに出来ている人は少ないです。お金をいっぱい稼いだ人と同じくらいにね。

★本文中の「70になったときに今のような生活ができるのだろうか」に非常に違和感を感じました。52歳現役時代と年金生活とで、「今のような生活」が続け られるわけがないじゃないですか。定年後は現役時代より生活レベルを落とすのが当たり前ですよ。私は現在57歳、60歳定年です。年金生活に入るのは63 歳からですが、別に何の心配もしていません。以前は年金生活に入るのは60歳からでしたので、3年間の無収入は痛いですが、そもそも年金生活に入って現役 時代と同じ生活レベルを維持できると思っていませんでした。年金収入年200万円として、それとほぼ同額を貯蓄から取り崩すかアルバイトでもして取り崩す 金額を減らして、3年間はしのごうかと思っています。現役時代の収入でキリギリスの生活ができていても定年後はアリのようにつましく生活する。定年後もキ リギリスの生活がしたければ、年金収入以外の収入を得るか、蓄えがなくなったら生活保護を受ける下流老人になるかしかない。「立って半畳寝て一畳」の覚悟 さえあれば、生活保護を受けるのもよし、ですよ。

★▼ 普段の生活で他人と関わってゆく中で自分自身の内側に目を向ける時間ができた時、初めて筆者の言う「絶対的価値観」(どなたかが仰ってた通り普遍的なもの では無く「自分の価値観」のこと)が芽生えてくるのだと思います。やはり他人の存在なくして自分の中の価値観を作り上げるのは不可能ですから。大事なの は、他人との比較は良いけど優劣はつけないことだと思います。優劣をつけると、これはもう相対的価値観にしかならない。▼ 人生なぞ、いくら計画を立てても気をつけていても、他人と関わる限り思い通りにはならないもの。ならば自分の中で確立された価値観という一本の芯を持っ て、臨機応変に生きていくのも楽しいかもしれないですね。▼ わたしの中の価値観は、「謙虚と卑屈を間違えるな」「自信と尊大を間違えるな」ですね。地位肩書きに関係なくこれができるようになるために、毎日反省しつ つ生きているようなものです。あとはまあ、年を取っても女性に好かれるオトコでありたいですね。地位やカネがあれば出会いの機会も多くなりましょうが、そ れだけでは好かれませんから。

★楽しく読ませていただきました。内容は、ホセ・ムヒカ氏の問いかけを連想いたしました。あなたにとって、最も大切なものを教えて下さい。この問いかけは、少子高齢化を克服する社会のスタートと考えています。 自身の持つ価値観を棚卸しすることは重要です。これを踏まえないと次世代に尊重すべき、新たな価値を認識できません。これからも、楽しみにしています。

★お金はなくても幸せになれますよ。ですが、ないよりはあるほうがいいのと、一度生活ランクが上がれば、やはりお付き合いの人たち周りの環境も変わっていくので、なかなか生活レベルを落とすのに恐怖を感じるのも仕方ないでしょう。 それをサクッと乗り越えれば、この日本でのたれ死ぬことなぞ、そうそうないはず。

★現在62歳。2度転職して3年前から契約社員です。 学校はもとより、会社でさんざん相対評価をされてきた私にとって、絶対的な価値観って言われて も良く分かりません。ただ言えるのは、3人の子供が社会人としてそれなりに(給料の多い少ないは有りますが)やって行ってくれていることに満足し、私と妻 が、生活の質を落とすことなく暮らしていることに感謝しているってことですかね。あと十年、二十年先のことは、今心配しても仕方が無いと割り切れるのは、 絶対的な価値観かもしれません。

★50代の不安を煽る記事のなんと多いことか・・・ 50代であるだけで、悩みや不安が他の世代と比べて多くあるようだ。 50代は、もうすぐ楽になる自由寸前の世代でしょう。もうすぐ会社や嫌いな人から解放され好きに生きられる世代です。工夫して楽しく自由に生きる。 ワクワクしますよね。 東京でも環境が良くて安い公団のアパートががら空きの状態です。郊外のショッピングモールは安いものがたくさんあります。図書館も広い公園も、自然もある。鳥や声や風の音を、川のせせらぎを聞いているだけで気持ちが清々しくなります。あー幸せだと思えます。 下流って何でしょうか?我々は川で流れてるわけじゃないんですから。 今、ここ、自分ですよね。人生は長い線ではなく、今、ここで、踊っているだけの連続です。この先どこへ行くかなんて、ないんです。

★ロストジェネレーション(Lost Generation)という言葉がよく使われますが本来の失われた世代とは欧米諸国で第一次世界大戦に遭遇して、従来の価値観に懐疑的になった世代を指 します。人間社会を維持していく世代循環行動(誕生~再生産~死)の良き一員として個人を位置づけていた、のどかな価値観を、資本が悪用し始めた頃から 人々は価値観に疑問を持ち始めました。そこで迷った大人たちは子供たちに『何が公正か』ではなく『どちらが得か』ばかりを教えた結果、今の私達は価値観を 確立できずにさ迷っています。その意味で殆どの私達はロストジェネレーションの延長線上に漂っていますがこの状態を資本は『価値観の多様化』などと、社会 の発展ととらえています。確かに人生の選択枝が増えた事は幸福の多様化に繋がる様に考えられますが不幸の多様化にも繋がっている事を忘れてはいけません。

★「私には三人の、信頼できる友がいる。 老いたる妻、老いたる犬、そして貯金」 (貧しいリチャードの格言より) 250年前から少しも変わっていませんね。

★30代男性です。拙いですが感想です。 「カネ」は信用で成り立つものであって、1万円札の原価は20円程度。 少子高齢化による人口減少で右肩下がりの現状が見えている中で、今どれだけ預金残高があったからといって、それが20年後にも同様の「価値」をもっているかはわからない。 最低限の貯金はしているが、現状いくら金を持っていても、何の保証もされないことに気がつきべきだ。 私が考える絶対的な価値とは「自分の実力/人間性」であって、どんな環境になろうとも「それなり」に生きていけるだろうと、最終的には楽観、あるいは腹をくくることが重要であると思う。 そもそも幸せは気分の問題なので、自分が幸せだと思えば幸せなのだ。 孤独に耐えながら大金を稼いで身体を壊して若くして死ぬのが幸せか、お金がなくても信用できる家族がいて健康で平均程度に生きるのか。 金をもったら、金をもったなりの悩みは出来るはずで、悩みがなくなるわけではない。 漠然とした不安は、あくまで漠然としているので、全く具体的ではないのだ。 「ダメならのたれ死んだらいいじゃないか」←本当にその通りだと思います。

★現在、35歳、既婚、子供2人です。将来不安は殆どありません。私たちはロスジェネ世代ですし、デフレばかりを経験している世代ですので、お金をかけずに 生活をし、その中で幸福感を得る術を多く持っています。また、年収が少なくとも、やりくりをしながら貯金や資産運用をしています。自分より上のバブル世代 や団塊世代がなぜそんなにお金に不安を持っているのか、正直あまり理解も共感も出来ません。完全に自己責任ですし、助けたいとも全く思いません。日本で は、少子高齢化が進み、人口が減少し、経済がシュリンクしていくことは99.9%確実なことなので、その中でお金と幸福感に折り合いをつけながら、生活を 破綻させずに生きていくことを誰もが要求されていることは明白です。その現実から目を背け、生き方を変えられない世代は、正直少し哀れだし、情けなくも思 います。自由主義、資本主義の社会なので、そうした人は一度、破産なりして精算してもらうしかないように思います。

★世界一不安症の日本国民には、絶対的価値ありなしうんぬんはあまり効果ないのでは。日本には結局年功序列があっていたのでしょうし、欧米流の実力主義・成果主義、むしろ将来不安を煽るだけです。それに、政府が積極財政出動しそこそこ多少の需要生み出せたたとしても一過性に終わり、また、少々の賃金UPしたとしても将来不安から貯蓄に回るだけ。それに、定年制度。USなら一発でアウト。すぐに廃止すべきで、そもそも憲法違反では。定年制度なくなれば、年金制度や将来不安の多くが解消される気がします。

★嫁と子供に見限られ、早期の熟年離婚した50代。 断舎利にはいささか早過ぎた感が否めないが、一番最後まで手放しにくいものを真っ先に手放すことになったお陰で、自分の命の炎も含め何を失っても怖いことはなくなった。 医 療漬けになって長生きしようとするからお金と未来の不安でいっぱいになるわけで、健康寿命が尽きた時点で孤独死上等、と考えられるようになれば、いろいろ と持てる者よりもむしろ安らかに日々を送れるかも。少なくとも自分は、そう。これも河合氏が言う絶対的価値(この言葉自体が矛盾してるでしょ)のひとつの 形だろうか。

★以下とりとめもない感想です。 二択で「お金」と対峙するのは、多分「命」です。したがって、質問自体ナンセンスでは。 世代間で考える視点が違うはず。20代〜30代までは人生何をしたいのか、40代以降は終活含めて人生どう生きるかではないでしょうか。後者の世代には住む場所が大きく関係してくるでしょう。 正義や愛などの概念とは違う絶対的価値観とは難解ですが、要するに他者と必要以上に比較して自身の価値判断をしないことということでしょう。それに最も効果的なのはマスメディアにできるだけ触れないことです。自ら思考し、書物を読み解くことが肝要かと。 お金との関わりで逸話を一つ。1〜2年前マンハッタンの古い質素なアパートで93歳の身寄りの無い老人の孤独死が発見されました。老人は数年前までビル清掃 員で、この仕事を30〜40年間真面目に続けていたそうです。捜査員が室内を調べたところ、数十万円の現金と何十枚かの古い株券を発見。その後、この株券 を精査したところ、50年以上前のものを含めて全て正規の株券で、時価総額はなんと9億円余だったそうです。

★19世紀末、いわゆる一流企業に転職し、精神を病み何年も休職を繰り返す。 2015年の大震災から、人の家の大掃除(一般にはボランティア)や、豪雪災害、豪雨災害に参加し、心身ともに強靱になるも、自己破産。 でも今は300歳まで生きようと思っている。 今も同じ会社でサラリーマンをしているが、給与がいくら上がる、肩書き、報酬、成果、コストパフォーマンスなんて問題よりも、誰にでも当たり前にある愛があれば生きられると思っている。 お金はコミュニケーションの道具でしかなく、人以外の生物は「金」がなくても立派に生きている。 「金」ですべての価値が決まると思っている人たちの方が圧倒的に多く、でも、分かりやすい価値だし、それを信じることは信仰の自由と同じく否定しない。 でもそれ以外の価値に目を向けてもいいとは思う。

★河合さんほど、他人の評価なんてどうでもいいじゃないか!と言い続けてきた人でさえ、その現状であることを考えると、普通の人が成熟するのは本当に可能な のでしょうか。私は今、家族が大好きで、仕事が楽しくて、お金にも困っていません。人と比べることをあまり重視しないので、現状で物凄く幸せです。でも、 人の評価やリアクション、考えてることは気になるし、気にするから他人とのコミュニケーションがうまくいくのだと思います。そういう意味で人という社会的 な生き物に、絶対的な価値観なんてあるのか、疑問に思ってしまいます。究極、人の迷惑になるような価値観をもって行動してしまうヒトラーのような人を、社 会は受け入れられないわけで、その意味で絶対的な価値観があれば幸せになれるという仮説自体、揺らいで見えます。

★娘が結婚を控え、息子二人が私立大学に通い、自分は役定を迎えた今。お金が足りないとランチをうどんで済まして納得させている自分がいる。絶対的価値?多 分そんなものはない。相対的でないもののことをそういうのであれば辛うじて存在するかもしれない。大切にするものが何か、それを自分の中で整理できる人 が、発信するかしないかに係らず、物質的な束縛から無縁な豊かな生活をおくれるのではないかと思う。このままでは経済的にはすでにショートすることが明確 になっているので、開き直るのではなく、現実的なことも含めて対応していこうと考えている。定年が見えてきたのでそう思うようになったのかもしれない。

★日本に勢いがあったころは、終身雇用制が日本の強みと言われていました。確かに、自動車や電機産業では人材を抱え込んで、改善力・開発力で差別化していた ので、歯車が噛み合ってましたね。で、何が言いたいかと言うと、ある日戦前(古い表現で恐縮です)の日本は終身雇用制ではなかった事を知りました。あれ、 そうなの。じゃあ、今の幸せ感も戦後の特殊な状況を当たり前の事と思い込んでいただけだと。団塊の世代の次の世代ですが、確かに猛烈な受験戦争、競争社会 を過ごしてきて、狭い範囲での競合優位に飼いならされてきた感は否めません。エリート街道をひた走り突然死んじゃった学生時代の友人、綺麗な奥さんと子供 どうすんの。功成り遂げて大会社の役員に名を連ねたけど息子はモヒカン刈りで金髪、娘はガングロの先輩、自分だけ良ければ良いの?。離婚して再婚、還暦な のにまだ小学生の子供を抱える親友、やっぱ学生結婚早すぎたよね。みんな元気になあれ! 生まれてきた時は裸で無一文、死ぬ時も何も持って行けないぞ。

★幸せとお金のデータ、お小遣いのデータは、経年比較しているのに、高齢者のゆとりのデータは、どうして単年なのですか? 近年、幸せよりもお金を重視する傾向があるのは、単に将来不安からではないのでしょうか? 相対的価値観に囚われているのは、近年始まったわけでもなく、バブルの頃も、デフレの今も、金を持っている人はいた(いる)わけで、景気の動向と、絶対的価値観を持つことは、無関係でしょう。 そもそも、自分の興味に従って、キャリアを積み重ねてきた著者自身が絶対的価値観を持っていないことが意外でした…。(その一方で、人間は仙人じゃないので霞を食って生きていくわけにもいかないことが肝要でしょう。)

★> 「お金」と「幸せ」のどちらが欲しいか、などという質問が、 > そもそも意味不明です。「幸せ」を得るのが目的であって、 >「お金」は「幸せ」を得るための手段に過ぎないでしょうに。 そうなんですけど、いつの間にか、「お金」そのものが目的にすり替わってしまって、自分では気づかないうちに自分が不幸になる選択をしてしまっている、ということが、世の中にはたくさんある、という話なんです。 今 回の河合さんの話では、「お金」以外にも、「地位」とか「世間体」とか、そういうもろもろの事項を取り上げています。いずれも、「幸せ」を得るための手段 に過ぎなかったはずなのに、いつの間にかそちらに拘って、不幸になる選択をしているのではないか、という問いかけです。 ただ、この話の難 しい点は、「地位」や「他人より稼いでいるという気持ち」などは、それ自身を「幸せ」と感じることもあることです。例えば、「お金」そのものではなくて、 「他人よりお金を持っている」という気分が「幸せ」である、という気持ちは、多かれ少なかれ誰にもある。ですから、河合さんの示唆に従うには、人に依りま すが、場合によっては、自分が何を幸せと考えるかを、自分で変えていく努力をしなくてはならないことになります。

★つい最近、バブル世代の社長夫妻がオーナーと言う賃貸物件を見学しました。上階に自宅のあるマンションで、その自宅部分まで拝見したのですが、外観から内 装までバブル色満開で、いまだにあのころの価値観を死守していることに呆れ半分、感心半分でした。一方では、ゆとり世代などはナンバーワンよりオンリーワ ンと言われて育ち、競争を避けて生きる事を選びがち。と価値観とは絶対的なものではなく、育ちによって大いに変わるもの。生得的な感情と思えるようなもの も、実は環境によって育まれるものも多いと聞きます。今現在、老後に不安を感じる世代は、上へ上へと競ってきた世代だから、例え実際は老後に充分な蓄えが あっても、最後まで自分と周囲を比較する習性から解き放たれる事はないのでしょう。しかしやがてその世代が過ぎ去れば、また新たな思考を持った高齢者群が 生まれるのではないでしょうか。

★相対的な価値に振り回されることを不幸というのだと思う。 では、絶対的な価値に基準をおけば幸せなのだろうか? それは人がいかに生きていくか、という命題と同義のように思う。 自分自身の生きる道を見据えていれば不安はあっても恐れず進めるのではないか。 確かに将来設計がしづらい時代である。 人の人生は人間関係や運にも往々にして左右される。 病気にもなれば、事故もあり、家族(子供、介護)の問題もある。 でも、それが人生である。 しかし、何があっても自分はこう生きると目指すものがあれば、 それが絶対的な価値なのだと私は思う。

★「絶対的価値」でイメージしたのは修行僧や修道士です。 お金を使って生活する世俗の我々は相対的価値に振り回されるものです。 そんな程度なんだから将来不安になって当然。 現金収入が少なくても生きていきたいなら、農作物の育てかたを覚えるところから始めてはどうでしょうか。 ★デフレ大前提の話ですね。悪くは無いが、犠牲にするものも案外多いよ、という心構えは必要でしょう。ふと思い出したのは、財政が破綻した夕張市のケース。 病院経営が立ち行かなくなり、カネのある人や、本当に重病を抱え込んだ人は市外に転出し、住民の人口が減少したことで、かえって自助自立の精神が芽生え、 病院を頼り切る人が減りました(めでたし、めでたし)みたいな話に近い。究極の引き算であることを認識すべきだと思います。

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抜粋終わり


豊かでも、貧相な人生を選ぶか?

貧しくとも、豊かな人生を選ぶか?

私は迷わず後者です。


お読みくださりありがとうございます。
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