故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
読めないニックネーム より
上記文抜粋
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紅海沿岸の歴史 その8 メロエ文字とその他の古代文字
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31225940.html
”文字の分類はそもそも正しいのか?
世界最古の音素文字をめぐってはヒエログリフから派生したと考えられる「原シナイ文字(紀元前1500年)」であるとか、「ワディ・エル・ホル文字(紀元前1800年)」であると言われている。それがフェニキア語の祖である原カナン語に発展したとあるのだが、若干の違和感を覚えずにいられない。
カナン人がフェニキア人の祖であったことは、おそらく間違いないと思われるのだが、この原カナン文字は、フェニキア文字と似ているようにはとても思えない。どうだろうか。ヒエログリフが原カナン文字の由来というのはその類似性から容易に想像できるのだが、そこからフェニキア文字への発展段階には、もう何段階かの発展過程がないと説明しにくいような気もする。
フェニキア文字は22字の文字を持つ純粋なアブジャド(母音を表す記号がない)である。つまり、子音を表現する文字のみから構成される文字体系で、実際にどう読んだかは分からない。このフェニキア文字からは最初に分岐したと考えられるのが、古ヘブライ文字で、おそらく「紀元前10世紀頃に話されていたと考えられるヘブライ語」を表現するのに使用されたと言われている。
一般的・・・といっても聖書を史実と受け止める場合、古ヘブライ語はイスラエルの滅亡やバビロンの捕囚などでフェニキア文字から派生したと思われるアラム文字に取って代わられ、その後、再びアラム文字をベースとして現在のヘブライ語が出来たというのが・・・どうも怪しい。
疑惑の一つ目は; フェニキア文字と古ヘブライ語ってそっくり!
・・・
フェニキア文字=古ヘブライ語
驚くほどに・・・と言うか、ほとんど違いがない・・・
・・・って言うか同じでしょ? これは・・・。
つまり、紀元前10世紀以前、モーセも苦手であったヘブライ語はすでに存在していなければならないわけで、当然十戒の石板もヘブライ文字ではなく、フェニキア文字と同じ「古ヘブライ語」でなければならない。これは聖書に都合の良い箇所は「古ヘブライ文字」であり、それ以外は「フェニキア文字」と呼んでいるような気がしてならない。
疑惑の2つ目は; アラム文字とヘブライ文字ってそっくり!
アラム文字とヘブライ文字がそっくり
・・まぁ、イエスもアラム語を話したと言われているが無理もないが、バビロンの捕囚後、密かにヘブライ語を伝承してきたユダヤ人たちが再び「ヘブライ語」を復活させたというストーリーはどうも怪しい。
ウィキペディアには次のように書いてある。
帝国アラム文字の影響
紀元前7世紀頃から新アッシリア帝国で行政言語としてメソポタミア全土で使用されるようになったアラム語・アラム文字(帝国アラム文字)は、続く新バビロニア帝国、ペルシア帝国においても行政言語・共通語の役割を担い、周辺の諸言語にも多大な影響を残しているが、ヘブライ文字にもその直接の影響を与えている。アッシリアの北イスラエル王国の征服と新バビロニアによるユダ王国の征服、バビロニア捕囚、キュロス王による帰還政策とそれに続くペルシア帝国時代に、帝国治世下のセム系諸民族は軒並み帝国アラム文字の使用に移行したようである。バビロニア捕囚の後もイスラエル王国系の北南の地域では、一部それまでの古ヘブライ文字が使用されていたようだが、この時期からアラム文字によってヘブライ語を筆記するようになり、ヘブライ語自体も徐々に文語化し日常の口語はアラム語へと移行したのではないかと考えられている。
このアラム文字に遷移した後のヘブライ文字を方形ヘブライ文字 (Square Hebrew script) または単に「方形文字」と称する。
方形ヘブライ文字の展開
ハスモン朝が成立する紀元前2世紀から紀元前1世紀に制作がはじまったと考えられるクムラン出土の死海文書では、単語末に形状を変化させる k の(ך)カフ・ソフィート、 m の(ם)メム・ソフィート、 n の(ן)ヌン・ソフィート、p の(ף)ペー・ソフィート、ṣ の(ץ)ツァディ・ソフィートが出現している。しかし、これは同じ時期のパルミラ文字などの他のアラム語資料でもまったく同様の形態変化を起こしているので、方形ヘブライ文字だけではなくこの時期の西部のアラム文字系全体の変化と連動した、同一の現象と考えるべきだろう。
死海文書などを見る限り、紀元前後のユダヤ人の文字は聖典、俗文書を問わずほぼアラム文字系である方形ヘブライ文字に移行したようであるが、死海文書中では神名である「YHWH」など若干の単語を古ヘブライ文字で書き分けている例が随所で見られる。また後代のラビたちもこれらの文字を「ヘブライ字(ketāb 'ibrī)」と称しているため、バビロニア捕囚後も一部古ヘブライ文字は生き続け、この時期には現行の「方形ヘブライ文字」と「古ヘブライ文字」との峻別・併用・使用上の差異が存在したとみて間違いないだろう。
蛇足ではあるが、北イスラエル王国領であったサマリア地域でも同様に古ヘブライ文字が生き続け、紀元前3世紀頃には古ヘブライ文字に装飾的な要素を加えた独自のサマリア文字の祖形が出来上がったようである。中世のサマリア文字は死海文書中の古ヘブライ文字と近似している。
・・・
古ヘブライ語と近似している・・・と言うのは要するにフェニキア文字と近似している・・・と同義だ。サマリアは聖書にも登場する北イスラエルの首都であったので、無理やり古ヘブライ語としているようだが、フェニキア文字と呼んではいけないのだろうか?”
・・・・・・・・・
・・・・・・・
抜粋終わり
古代ユダヤ文明など、なかった。
確かに人は生きてはいたのだろうが、ちょうど日本人や朝鮮半島の人が中国の漢字を使って、中国語で当初は書き記しているのと同じで、それほどの文明はなかった。かな。
古代ユダヤなど本気で言うのなら、そりゃ、無いですは・・・・。
嘘がここでも大暴露ですは。
お読みくださりありがとうございます。
上記文抜粋
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紅海沿岸の歴史 その8 メロエ文字とその他の古代文字
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31225940.html
”文字の分類はそもそも正しいのか?
世界最古の音素文字をめぐってはヒエログリフから派生したと考えられる「原シナイ文字(紀元前1500年)」であるとか、「ワディ・エル・ホル文字(紀元前1800年)」であると言われている。それがフェニキア語の祖である原カナン語に発展したとあるのだが、若干の違和感を覚えずにいられない。
カナン人がフェニキア人の祖であったことは、おそらく間違いないと思われるのだが、この原カナン文字は、フェニキア文字と似ているようにはとても思えない。どうだろうか。ヒエログリフが原カナン文字の由来というのはその類似性から容易に想像できるのだが、そこからフェニキア文字への発展段階には、もう何段階かの発展過程がないと説明しにくいような気もする。
フェニキア文字は22字の文字を持つ純粋なアブジャド(母音を表す記号がない)である。つまり、子音を表現する文字のみから構成される文字体系で、実際にどう読んだかは分からない。このフェニキア文字からは最初に分岐したと考えられるのが、古ヘブライ文字で、おそらく「紀元前10世紀頃に話されていたと考えられるヘブライ語」を表現するのに使用されたと言われている。
一般的・・・といっても聖書を史実と受け止める場合、古ヘブライ語はイスラエルの滅亡やバビロンの捕囚などでフェニキア文字から派生したと思われるアラム文字に取って代わられ、その後、再びアラム文字をベースとして現在のヘブライ語が出来たというのが・・・どうも怪しい。
疑惑の一つ目は; フェニキア文字と古ヘブライ語ってそっくり!
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フェニキア文字=古ヘブライ語
驚くほどに・・・と言うか、ほとんど違いがない・・・
・・・って言うか同じでしょ? これは・・・。
つまり、紀元前10世紀以前、モーセも苦手であったヘブライ語はすでに存在していなければならないわけで、当然十戒の石板もヘブライ文字ではなく、フェニキア文字と同じ「古ヘブライ語」でなければならない。これは聖書に都合の良い箇所は「古ヘブライ文字」であり、それ以外は「フェニキア文字」と呼んでいるような気がしてならない。
疑惑の2つ目は; アラム文字とヘブライ文字ってそっくり!
アラム文字とヘブライ文字がそっくり
・・まぁ、イエスもアラム語を話したと言われているが無理もないが、バビロンの捕囚後、密かにヘブライ語を伝承してきたユダヤ人たちが再び「ヘブライ語」を復活させたというストーリーはどうも怪しい。
ウィキペディアには次のように書いてある。
帝国アラム文字の影響
紀元前7世紀頃から新アッシリア帝国で行政言語としてメソポタミア全土で使用されるようになったアラム語・アラム文字(帝国アラム文字)は、続く新バビロニア帝国、ペルシア帝国においても行政言語・共通語の役割を担い、周辺の諸言語にも多大な影響を残しているが、ヘブライ文字にもその直接の影響を与えている。アッシリアの北イスラエル王国の征服と新バビロニアによるユダ王国の征服、バビロニア捕囚、キュロス王による帰還政策とそれに続くペルシア帝国時代に、帝国治世下のセム系諸民族は軒並み帝国アラム文字の使用に移行したようである。バビロニア捕囚の後もイスラエル王国系の北南の地域では、一部それまでの古ヘブライ文字が使用されていたようだが、この時期からアラム文字によってヘブライ語を筆記するようになり、ヘブライ語自体も徐々に文語化し日常の口語はアラム語へと移行したのではないかと考えられている。
このアラム文字に遷移した後のヘブライ文字を方形ヘブライ文字 (Square Hebrew script) または単に「方形文字」と称する。
方形ヘブライ文字の展開
ハスモン朝が成立する紀元前2世紀から紀元前1世紀に制作がはじまったと考えられるクムラン出土の死海文書では、単語末に形状を変化させる k の(ך)カフ・ソフィート、 m の(ם)メム・ソフィート、 n の(ן)ヌン・ソフィート、p の(ף)ペー・ソフィート、ṣ の(ץ)ツァディ・ソフィートが出現している。しかし、これは同じ時期のパルミラ文字などの他のアラム語資料でもまったく同様の形態変化を起こしているので、方形ヘブライ文字だけではなくこの時期の西部のアラム文字系全体の変化と連動した、同一の現象と考えるべきだろう。
死海文書などを見る限り、紀元前後のユダヤ人の文字は聖典、俗文書を問わずほぼアラム文字系である方形ヘブライ文字に移行したようであるが、死海文書中では神名である「YHWH」など若干の単語を古ヘブライ文字で書き分けている例が随所で見られる。また後代のラビたちもこれらの文字を「ヘブライ字(ketāb 'ibrī)」と称しているため、バビロニア捕囚後も一部古ヘブライ文字は生き続け、この時期には現行の「方形ヘブライ文字」と「古ヘブライ文字」との峻別・併用・使用上の差異が存在したとみて間違いないだろう。
蛇足ではあるが、北イスラエル王国領であったサマリア地域でも同様に古ヘブライ文字が生き続け、紀元前3世紀頃には古ヘブライ文字に装飾的な要素を加えた独自のサマリア文字の祖形が出来上がったようである。中世のサマリア文字は死海文書中の古ヘブライ文字と近似している。
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古ヘブライ語と近似している・・・と言うのは要するにフェニキア文字と近似している・・・と同義だ。サマリアは聖書にも登場する北イスラエルの首都であったので、無理やり古ヘブライ語としているようだが、フェニキア文字と呼んではいけないのだろうか?”
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抜粋終わり
古代ユダヤ文明など、なかった。
確かに人は生きてはいたのだろうが、ちょうど日本人や朝鮮半島の人が中国の漢字を使って、中国語で当初は書き記しているのと同じで、それほどの文明はなかった。かな。
古代ユダヤなど本気で言うのなら、そりゃ、無いですは・・・・。
嘘がここでも大暴露ですは。
お読みくださりありがとうございます。
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なるほど
書き込みありがとうございます。