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故国の滅亡を伍子胥は生きてみれませんでしたが、私たちは生きてこの魔境カルト日本の滅亡を見ます。
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P R
なぬとチャンネル より

上記文抜粋
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NHKが二二六事件で、海軍が事件の一週間前から陸軍の決起部隊の動静を傍聴していた事実を公開。海軍は艦隊を東京湾に呼び寄せ国会議事堂に向けて大砲発射準備までしたとも。

1936年、二二六事件。ここで 陸軍VS海軍 の対立が明らかになった。その背景は何か?
陸軍の決起部隊=歩兵第3連隊(代表、安藤)が、自分たちの想いを分ってくれるはず、と信頼を寄せていたのが秩父宮だった。
事件勃発の日、秩父宮は弘前から列車に乗って上京したが、それを上野駅で足どめした人物がいた。平泉澄(きよし)。この人物は、明治政府が現在のソウルにあった檀君廟を破壊し、朝鮮大神宮(祭神、アマテラスと明治天皇)に変えることに大反対した人物でもあった。平泉の実家は越前の大野市で、明治になってできた平泉寺白山神社の宮司の家だった。本人は、717年(養老元年)に白山を開いた泰澄の功績との因縁をもって、澄(きよし)と名付けられ、中学時代に白山信仰の歴史を纏め、当時の4校(金沢大学)に無試験で入学していた。
 月山信仰を徹底破壊したのが明治政府。その明治政府はもうひとつの修験道の拠点、白山については新たに管理に入った。それが平泉家だった。宇宙と響き合う、地球、なかでも、日本列島、その拠点が白山だ、と遅まきながら気づいて、明治の国家(国体)が壊れないように、必死に祈っていたのが、平泉家だったかもしれない。
平泉澄は、秩父宮に会って何を話したのか? 
間違いなくこう言ったに違いない。「殿下が今、宮城に向かって、そのお姿を兵士の前にお示しになれば、決起軍は昭和に替わる「玉」が来たとして、陸軍全軍にクーデターをよびかけるでしょう。そうなれば、海軍との間で、この日本国の首都で大戦争が起きてしまうでしょう。」
問題は、このあとだが、そこで、何が話されたのか?

実は昨日8月15日NHK特集では、この二二六事件について海軍側の極秘記録が出てきた、と報道した。番組の中で、事件が起きてすぐ海軍の連合艦隊が東京湾に向かい、事変発生3日目には、国会に向けて、大砲を向けていた、と伝えた。その最後には、実は、海軍はこの陸軍決起軍の動きを、1週間も前から、傍聴して掴んでいた、との事実を公表した。
昭和天皇裕仁は事件が発生してすぐ海軍の伏見宮を呼び、決起軍と行動をともしないことを確約させ、「反乱軍を鎮圧せよ」の勅を出す。
裕仁の心中には、決起軍が秩父宮を担ぐのでないか、という冷静な読みがあったかもしれない。

で、ここからです。
私は、バチカンのピオ11世に注目してください、と書いた。そしたら翌日、このNHKの番組になり、二二六事件当時、海軍が艦隊で東京湾にいたことを伝えた。
秩父宮は、もしかしたら、決起軍の安藤からの要請で上京したのではないか?これはこれまでもよく指摘されたことだった。
その動きを海軍が傍受し、それを平泉に伝え、上野で秩父宮を足止めさせたが、このときに、(秩父宮を諦めさせるために)ある条件が出されたのではないか?
実は昭和天皇の実子と、秩父宮の実子は同年生まれで、前者は12月23日生まれ、後者は11月25日生まれだった。
事件直後、この東京湾の海軍の艦隊が、ある人物(まだ少年)をバチカンまで運んでいる。その人物は、バチカンに残されていた、ビザンチン帝国の亡命政権の最後のローマ皇帝になり、ヒトラーを第三帝国の総統に指名していた。その名前は、ツグノ宮和仁(カズヒト)。
私は、この話を、上智出身でバチカンで17年学んだ、中山法元氏から聞いた。
その人物はアインシュタインともにアメリカに亡命し、プリンストン大学で学び、その最後は、現上皇の明仁陛下が即位した翌年、平成二年にアメリカから帰国し、大宰府にいったあと大分で亡くなった。別の知人たちがいうには、比叡山の飯室不動山の酒井阿闍梨によって永代供養に処されたという。
裕仁を海軍は、圧倒的に支持していた。
それに対し、北一輝の「国家改造法案」に刺激され「昭和維新、尊皇斬奸」を叫び「天皇中心、天皇の親政による国家」を求めたのが、陸軍青年将校で、彼らにとっては昭和天皇は物足りない存在だったのだろう。
今回NHKはこれまでまったく報道されなかった、二二六事件の背後での海軍の動きを取り上げた。そして、番組の最後で「何が事実か、私たちは検証する必要がある」とまで言い切り、この戦後の、日本の言語空間が、自国の歴史理解まで完全に歪めてきたことを伝えた。

そうしたら、たった今、またNHKが、終戦から7年後の式典で話された『拝謁記』にある「昭和天皇の後悔」の内容について、当時の吉田茂がその肝心な部分を削っていたことを報道した。
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/
裕仁の反省の想い、それはどこからを指しているのか?特に、裕仁は、なぜシンガポール陥落後も、もっと攻めろといって日本軍全体を破滅の道に向かわせたのか、その真因をハッキリさせる日も近いのかもしれない。あのまま、英米と和平に入って中華民国に対し勝ち逃げしたら、満州はもちろん、中国の北京・上海・武漢・広州など主だった街はすべて日本軍が押さえたままだった。それを裕仁は嫌ったのではなかったか?
それは、一体、なぜか?
裕仁は一貫して(明の回復政体でもあった)中華民国の成立・発展を支援する立場の人間だった。その中華民国には満州も含まれていた。しかし、それを認めないのが陸軍だった。陸軍には1907年に孫文が桂太郎に何を話したか、その確約が残っていたのでしょう。また、裕仁自身に血の問題(父は睦仁。母は?)があり、また、彼の存在そのものが国際金融(米ドル基軸の世界経済秩序構築)において、特別な地位だったという事実がある。
令和時代は、こうした部分まで公開になるのでしょう。金融ワンワールドの最終章。人類史の総括でもありますね。これは、単に、地球人だけの次元の話ではないかもしれません。


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抜粋終わり

なかなかにすごい話です。

ようするに、昭和天皇は、前の敗戦で、日本列島以外のところを「斬り捨てる」ために、負けたと。

ある意味で、明治以降の侵略の尻拭いをしたと・・・。


があの敗戦かよ・・・

だが、少なくとも明治天皇は基本的には「アジア人同志殺しあわず」を戦略にしていたが「大臣たち」を抑えきれず、台湾・日清・日露・・・。

その継続を嫌がった大正天皇は、押し込めと暗殺・・・で、ならば逆張りで昭和天皇が亡国戦争をした・・・か。

明治維新で英米の傀儡国家になったことからの宿命だったってか・・

別の言い方をすると米英とも関係が悪くは無かった明の遺民系の傀儡の天皇だった明治以降の天皇。

参考に
天皇制と戦争~太平洋戦争は、天皇制と帝国主義を維持するが故の当然の帰結であった

上記文抜粋
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大正時代は日本でも中産階級が台頭した、いわゆる「大正デモクラシー」の時代でした。
しかしこれは支配階級、とくに天皇から見れば、専制君主という自らの存在そのものを脅かす、危機的な時代でもあったわけです。
実際、欧州や中国では革命の嵐が吹き荒れ、専制君主である国王や皇帝たちは次々と処刑されたり追放されたりしています。
こうした国際情勢を目の当たりにし強い危機感を抱き、それを原動力とした専制君主制強化、資産の温存、思想弾圧へと傾倒していったことは想像に難くありません。

今年の新天皇即位の際、天皇制についての様々な記事が社会を賑わしました。
その中に、天皇制が古代から受け継がれてきたという事実は、世界的にみても非常に稀な事例である事も報道されてきました。
これらの報道は、「歴史と伝統を守る国民性」という風に好意的に報じられてきました。
しかしその背後にはこうした専制君主制を維持するための様々な統制と弾圧がありました。
先の世界大戦もまた、天皇制と帝国主義を守る為の当然の帰結であった事を忘れてはならないと思います。


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抜粋終わり

天皇と陸軍、原爆 

上記文抜粋
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陸軍と広島の関係とは リンクより

  • 当時日本陸軍を東西に分け、東日本と西日本とにそれぞれ陸軍の管轄地域が分かれていました。この文にでてくる大屋中佐と畑元帥はその西日本の方で第2総軍(東日本の方が第1総軍)に所属していました。この第2総軍の司令部は広島の双葉山にありました。
  • >この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。八月六日朝8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。

天皇の陸軍潰しは徹底していた。
そう考えるといろんなことが整合してくる。

なぜ太平洋戦争の島々に陸軍が送り込まれたか?
そしてガタルカナルやインパールでの陸軍の、補給が絶たれたことによる無残な死。あるいは玉砕。結果から言えば皆殺し。これらは原爆と同じ、陸軍つぶしのために最初から仕組まれていたのではないか?
・・・・・天皇と闇勢力の真の姿・意図がここに見えてくる。

戦後もこの日本内部の戦いは続いている。

  • >こうして対共産主義防波堤として、日本に資金と技術を投下して日本の高度成長が始まりますが、旧帝国陸軍勢力と田中角栄+鄧小平による中国の原爆開発が推進されるに至って、アメリカは大方針を再度転換します。
  • その象徴的事件となったのが、1976年のロッキード事件による田中角栄の失脚、及び1985年の「 御巣鷹山事変 」と、その直後のプラザ合意です。リンク
日本による原爆開発、福島原発への攻撃と続いてきた。
・・・この戦いは今後どのような展開をもたらしていくか?


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抜粋終わり



少なくとも天皇がある限りに「日本がどこの傀儡なり従属国か」がきわめてわかりにくく、それなので、国民が正気を失う。


もう、辞めないと、こんなキチガイを。


闇の正体は 偽ユダヤ (グローバリズム)  より

上記文抜粋
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証拠があっても発狂して否定する天皇の軍隊  ベトナムの従軍慰安所



☆ 天皇は神だ。  そのことを 否定するような 歴史は 発狂する。

まさに 造られた 不自然な天皇制 ならではの 軍隊が ニツポンという国です。





〇 8.13   韓国メディア、フランスで発見された資料に基づき、



     日本軍占領下のベトナムにおける従軍慰安所について報道



韓国の複数のメディアが報じたところによると、韓国の国史編纂委員会は、

フランス国立海外文書館(ANOM)において、

日本軍が、当時占領していたベトナムの各地に慰安所を設置し、慰安婦を置いていたとする事実を示すフランス軍の文書を発見した。



韓国の新聞「東亜日報」と、通信社「聯合ニュース」のフランス語版は、


1940年10月7日のフランス軍の報告によると、


ベトナム北部の港町ハイフォンに進駐した日本の陸軍と海軍が、それぞれ慰安所を設置するという内容が含まれていた。



両者とも、資料の写真を掲載している。


https://cdn1.img.jp.sputniknews.com/images//657/96/6579610.jpg












発見されたフランス軍の文書。日本の陸軍と海軍が、それぞれ慰安所を設置すると記されている。



韓国メディアが報じているところによると、資料には、将校用、下士官用、兵士用という三種類の慰安所があり、

それぞれのランクに応じて資金調達がされていたと書かれている。


また、1941年に、身元不明の女性25人がハイフォン港に到着したと記録したフランス軍報告書も確認された。


当時ベトナムはフランスの植民地、「フランス領インドシナ」の一部であった。


フランス領インドシナ政府は、ナチス占領下のフランスのヴィシー政権によって設立。


枢軸国の一員たる日本政府と協力関係にあった。


そのため日本軍は1940年9月、北部ベトナムに進駐し、翌年には南部も占領した。



フランス軍が残した報告によると、



日本軍のベトナム占領ルートに沿って、慰安所が作られ、

それはバクニン、ハノイまで続いた。


文書館では慰安所の位置が表記された地図2点も発見された。


地図にはバクニンとハノイにおける慰安所の位置が示されている。



1993年8月に出された内閣官房外政審議室の文書によれば、慰安所が存在していた地域のひとつとしてフランス領インドシナを挙げているが、それ以上の詳しい情報は示されていなかった。



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抜粋終わり



天皇野蛮の典型の一つが、高校野球。

野球の記録で話をしたい。 より

上記文抜粋
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米の大学生が「甲子園レポート」を書けば?


※この夏、アメリカから日本に来た大学生が、野球についてレポートを書くとしたら、こんな感じになるのではないか。

日本でもアメリカと同じように野球は人気があるスポーツだ。アメリカでは若者はアメフトやバスケットに夢中だが、日本では若者の多くは野球が好きだ。
日本ではハイスクールの野球が恐ろしい人気になっている。アメリカではハイスクールの野球の大会は州のレベルまでしかないが、日本では全国大会があり「甲子園」という日本で最も伝統のあるスタジアムで行われる。
その人気は、ローズボウルに勝るとも劣らない。ハイスクールの選手はこのスタジアムで、春と夏の2回、トーナメント大会を戦う。




日本の夏は耐え難い暑さだ。暑さに加えてアメリカでは考えられない湿気があって不快だ。特に大都市圏では8月の気温は40度近くになる。
公共放送であるNHKは、テレビやラジオで「必要がない外出はやめるように」報道しているが、そのテロップが流れる同じ画面で、炎天下の甲子園での野球のゲームを中継している。不思議なことに、日本人はこのことを「おかしい」とは思わないようだ。

日本人にこのことを聞くと?
「彼らはこの大会のために鍛えているからね。それに彼らは“根性”があるからね」
と自慢げに言う。

“根性”は、Gutsのことのようだ。日本の若者は「野球のプレーでうまくなること」に加えて「猛暑の中でも野球ができる」ことができるように鍛錬しているようだ。

アメリカで、熱中症が出るような気候で野球をさせれば、その指導者は「虐待」の疑いで告訴されるだろう。しかし、日本では「暑さで倒れるのは“根性”が足りないからだ」とみなされ、倒れた選手やその親が指導者に詫びることもあるという。

世界中で、10代の子どもがスポーツを通じて負傷することを防ごうという動きがある中で、日本だけは投手が短い期間に何百球を投げるようなことが許されている。そういうことをすれば、その後の選手生活に深刻な影響を及ぼす恐れがあるが、日本では「甲子園で投げて故障するのは光栄だ。本望だ」という選手もいる。

70年以上昔、日本はアメリカと戦争をし、日本の若者は飛行機に乗ってアメリカの艦船に体当たりをした。そういう若者も「日本の勝利のために命を捨てるのは光栄だ、本望だ」と言ったというが、それからどこが変わったというのだろうか。

「甲子園」には、ハイスクールの生徒の健康を脅かすいろいろな問題が存在するが、新聞やテレビはこのことについて、はっきり書くことはしない。なぜなら、ほかならぬ新聞社が「甲子園」大会を考案し、1世紀以上続けてきた主催者だからだ。

日本の新聞は毎日のように若者や児童の虐待について報道しているが、同じ紙面で、猛暑の中で致命的な故障を負いかねない高校野球について絶賛する記事を掲載している。

日本は先進国の中で「報道の自由」や「人権の意識」では、最下位やそれに近いランクだが「甲子園」を見れば、それがリアルに理解できるだろう。



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抜粋終わり


お読みくださりありがとうございます。
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広島城の第二大本営が原爆で滅ぼされた!
  • from ローレライ :
  • 2019/08/17 (13:00) :
  • Edit :
  • Res
広島城の第二大本営が原爆で滅ぼされた話は余り報道され無いが中国大陸のソ連による解放を助けた効果がある攻撃だった!
Re:広島城の第二大本営が原爆で滅ぼされた!
2019/08/17 18:48
>広島城の第二大本営が原爆で滅ぼされた話は余り報道され無いが中国大陸のソ連による解放を助けた効果がある攻撃だった!

そうですよね。

瓢箪から駒みたいな・・・

あるいは天皇の失着か・・

書き込みありがとうございます。
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